人権と民主主義~~憲法基礎講座③~~

護憲派を名乗る人の間でも、民主主義には人権尊重が含まれる、という根強い思い込みに捉われてしまっている人が少なからずいるようだ。その理由を尋ねると、第1に、広辞苑など一部の国語辞典にそのような説明があること、第2に、自分の周囲にも同じ考えの人が多いから、ということのようである。そこでは憲法学や政治学の知見は全く参照されていない。しかし、憲法学や政治哲学においては、「民主主義と人権原理は異なる思想であり、両者はときに矛盾・対立する」というのは、基礎の基礎、初歩の初歩に属する知識である。しかし、そうしたことを何の権威も地位もない私ごとき者がどれほど言葉を尽くして説明しても、何の説得力も持たないらしく、馬耳東風とばかりに聞き流されて終わりである。

そこで、憲法学の泰斗、樋口陽一・東大名誉教授にご登場願うことにしよう。

樋口先生が東大教授時代の1991年5月、「もういちど憲法を読む」と題する岩波市民セミナーで4回にわたって講演された記録をまとめた本が、同じタイトルで岩波書店から1992年に出版されている。その中の103頁から104頁を抜粋引用する。

 

  みんなで決めること、これは一番ふつうにいわれている意味での民主、ということになります。それに対して、しばしば、民主という言葉と関連はするのだけれども、ある局面によっては対立する意味合いをこめて、自由という言葉が使われることがあります。民主主義に対して自由主義。これは、みんなが自分たちで自分の運命を決めるといっても決めてはいけないことがある、という問題です。堅い言葉で簡明にいいあらわそうとすれば、第一の側面を自治、第二の側面を法治、といってもいいでしょう。

 

 人権と主権との緊張関係

憲法論の大きな、抽象的な次元で申しますと、一方は主権の問題でありますし、他方は人権の問題になるといってもよろしいでしょう。国民主権ならば、国民はなにを決めてもいいのか。いや、そうでない事柄があるはずだ、というのが人権の問題であります。

ここには、緊張関係があります。自己決定ということは場合によっては自己否定とか自己破滅の可能性をも含んでいるのだ、ということは、個人の生き方についても当てはまっています。それは危ないから、危ないところに近寄らせないようにしようというふうに、専らそのように考えてゆきますと、最近も問題になっております、なんでもいけないという校則を定めて、その仕切り線から外に出ないように出ないように、という教育ということになってまいります。

しかし、自己決定とは、少なくとも論理的に申しますと、当然、自己否定とか自己破滅という危険をも含んでいます。だからこそ、そこに自由の重みがあるのだという問題は、国家とか、大きなレベルでの政治についても当てはまるわけでして、国民全体について申しますと、国民が主権者だ、それなら国民が好めば人々の人権、少数者の自由というふうなものを否定しちゃっていいのか、という形で問題が出てまいります。もっとラディカルにいうならば、国民が主権者だ、そうであるならば、国民が望むのなら国民主権自体をやめちゃってもいいのかという、とどのつまりはそういう問題になります。

 

 ドイツと日本

これは、決して抽象的な論理の遊びではありませんで、現実にそれが大掛かりに起こりましたのが、ワイマール憲法下の事態でした。国民主権、民主主義のルールを定めた、この憲法のもとで、両大戦間期のドイツでは、まさに国民主権のルールに従った選挙によってヒトラーの率いるナチスが第一党の地位を獲得し、それを大きなきっかけとして議会政治そのものを否定するナチズムがドイツを制覇し、かつ世界を制覇しようとしたという教訓が、我々の身辺にあるわけであります。(以下略)

 

――樋口陽一『もういちど憲法を読む』岩波書店、1992年、103-104頁

 

市民向けセミナーなので、大変わかりやすい言葉で民主主義と自由主義の違いが述べられている。つまり、「民主主義・・・自治・・・国民主権」は同じ系譜の思想であり、それに対して、「自由主義・・・法治・・・人権」というもう一つの系譜の思想があることがこれでわかる。つまり、「国民主権」は民主主義の系譜に属する思想であるのに対し、「人権」はそれとは別系統の自由主義の系譜に属する思想である、ということが、疑問の余地なく明確に示されている。

それでは、最近(ここ数年)、にわかに流行語となった観のある「立憲主義」はどのように位置づけられるのだろうか。そこで、樋口先生の別の著書(『個人と国家――今なぜ立憲主義か』)から一部を抜粋引用してみよう。

 

  コンスティチューショナリズム(引用者注:立憲主義)は、要するに権力に勝手なことをさせないという、非常にわかりやすくいえばその一語に尽きると言っていい。

そういう意味で、「デモクラシーdemocracy」という言葉と対照してみるとわかりやすいでしょう。こちらはもともと言葉の語源としては、ギリシャ語のデモス(民衆)と、クラチア(支配)です。つまり民衆の支配です。実際は、民衆の名のもとにだれかの市は二なるわけです。「民主主義」という言葉は、対抗するものが立ちはだかっているときには、専らそれを否定するという意味で積極的な意味を持っていた。立ちはだかるのは民衆の反対の君主で、君主の背後には神様がいました。西洋流に言えば王権神授説です。神が君主に権力を授けた。だから、君主は神の権威でもって人民を支配するのは当然だということになります。そういう王権神授説的な君主の支配をひっくり返すことが、まさに「民主」だったわけです。

今では王権神授説的な言説は、ほとんど世界中、地球上で通用しない。ほとんどというのは、世界中に200ほどある統治単位、いわゆる国家の中には、必ずしもそうでない、例外的に伝統的な国家もあるからです。日本の場合には、指導的な政治家がときどき神様を思い出したりしていますが、これも世界の例外の一つでしょうか。

(中略)

大きくいって、今や民主の対抗物はなくなった。逆に現代の独裁政治、一党支配は決して民主を否定しなかった。スターリンは人民の名において人民の敵を粛清したわけですし、ヒトラーの率いるナチスは名前からして民族社会主義ドイツ労働者党ですから、やっぱり人民です。現実に彼は人民の選挙で第一党となって、ワイマール憲法を実質上ひっくり返してしまった。

(中略)

日常場面では「民主」という言葉は実は何事も語っていない。ごくわずから例外を除いて、あらゆる政治体制が民主の名において説明されているからです。そうなってくると民主を名乗る政治権力も制限されなければいけないという「立憲主義」が、一番のキーポイントになる

実はそのことが、少なくとも世界の先進国レベルで共通認識になったのは比較的最近なのです。というのは、かつては民主の旗によって世の中が進歩していくことへの幻想があった。だから、民主を推し進めれば進めるほどまっとうな世の中になっていくという期待があったのです。ところがいろいろな「民主」をやってみたけれども、しばしばそれは惨憺たる結果をもたらしてきた。

そこで「立憲主義」という言葉が思い出されてきた。なぜ「思い出されてきた」と言うのかというと、立憲主義という言葉は中世にさかのぼる古い歴史的過去を背負っているからです。

(中略)

繰り返しますけれども、帝国憲法をつくったころは天皇主権を前提としながらも――前提としていたからこそという面もありますが――権力は制限されていなくてはいけない、という「立憲主義」の大事さを政治家たちは認識していました。当時の政党の名前で「立憲」という言葉がよく出てきますが、偶然かどうか戦後はそういう政党名はない。

ところが「国民主権」になってくると、「民主」ですべていいのだ、とにかく選挙で選ばれた国会なのだ、それに裁判所はいちゃもんをつけてはいけない、という感覚の方が強いようです。しかしこの際、「民主主義」と「立憲主義」の関係をきちんと整理して議論のレールに乗せることが大事でしょう。憲法とか法律をやっている専門の狭いサークルでは常識化しているのですけれども、それをもっと政治の場面できちんと位置づけ直して議論を始めることが大切だと思うのです。

 

――樋口陽一『個人と国家――今なぜ立憲主義か』集英社新書、2000年、84-93頁

 

今度は、「立憲主義」が「民主主義」や「国民主権」と対照させられていることがわかる。ここでは立憲主義が権力を制限する思想として紹介されているが、(この文章では明示されていないが)その目的は人権を護るためであるから、結局、立憲主義とは「自由主義・・・人権」に連なる思想であることがわかる。つまり、「民主主義」=(その国家規模での表現としての)「国民主権」と、「自由主義」=「人権」=(それを保障する制度設計である)「立憲主義」とが、対比的に述べられているのである。

これは、「民主主義と人権原理は異なる思想であり、両者はときに矛盾・対立する」ということを説明する際、私が何度も繰り返し説明してきたところであるが、同じことが憲法学の権威である樋口陽一・東大名誉教授によって語られているのである。当たり前である。私は学生時代以来、樋口憲法学の圧倒的な影響を受けながら、その教えを学んできたのだから、同じことを私が述べたとしても、何の不思議もない。

民主主義には人権尊重が含まれる、という考えに固執している方々は、是非、この樋口先生の説明を理論的に論駁して頂きたい。

つまみぐい憲法論

つまみ食い憲法論

 

先ごろ、機会あって、野党の国会議員100人ほどの方に、当方パンフ「日本国憲法が求める国」をお渡した。そのとき痛感したのは、国会議員の方々でさえ一部の方をのぞいて、ほとんど現日本国憲法を理解されていないという現実だ。国会議員の方々さえそうなら、国民大衆はおして知るべし、ほとんど憲法に関心がないと悟るべきだ。それはまた何年かまえの無知だった私自身の姿にも重なる。事実、大半の議員は第9条(戦争の放棄)や第25条(生存権)など、個々の身近な条項を使われている――それは大事だけれども――に過ぎないように思われる。だが、現日本国憲法が、明治の帝国憲法や自民党の改憲案と根本的に異なる点は、国民主権と基本的人権の保障であり、ついでそれは平和主義、立憲主義におよぶ。この主眼を忘れて、いくつかの条文の利用にとどまるのであれば、それは日本国憲法のつまみ食いでしかない。そうなると、この憲法の理念が、それよりもはるかに崇高で、世界でも一番進んだものであることを、政治家に、さらには広範な国民大衆に知ってもらうことが、私たちの揺るがぬ使命になろう。この点で、日本に、多くの9条の会はあっても、完全護憲を提唱したのは私たちだけである。その誇りを内に秘め、前途の困難を覚悟しつつ、地道に、遠大なこの使命達成の道を進もうではないか。

普通の人の憲法観

私の詩の仲間、稲葉嘉和が「憲法」という詩を書いている。彼の詩誌「転々通信」189号、2015年9月に出ているこの詩を、ごく普通の人の憲法観として紹介させていただく。

 

憲法

 

俺の国にや 憲法というものがあるんだぜ

マンションの管理人の俺にもよ

 

いっておくけど

俺は それに世話になった事があるんだ

どうだビックリしただろう

俺が憲法と知り合い関係にあったってこと聞いてよ!

 

俺がもっと若えころ

急に会社からクビを言い渡されてさ

そんときゃ震えたネ

何が何だか分んなくなっちゃってさ

おもわず判を捺しちゃったネ

それでよくよく考えて

判を捺したのを取りかえした  けどネ

 

なんで急に首だなんて言われたのか

わからなかったけれど

咄嗟に思ったのは 大したこたあないけど

「俺にゃ憲法ってものが守ってくれている」

ってことさ

憲法には労働者を守る と書いてあったと思ってネ

それは当たらずとも遠からず

というところが在って

おれは それから4年も務めたたんだぜ

それからだ

俺と憲法と親戚づきあいをはじめたのは

その時はっきり分かったことだけど

仲間同士で しっかり守りたいよ

 

ほんとだよ

 

この作品には現憲法に対する労働者の親近感がにじんでいる。自民党の改憲案が通ればこうは行かない。現憲法のもつ徳だ。この徳を手放したくない。世の中をさらにギスギスさせたくない。現憲法は荒れた世相に残された真珠のようだ。

2016年4月14日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 福田 玲三

憲法13条~~憲法基礎講座②~~

103条から成る憲法の条文の中で、あなたが最も重要だと考える条文は第何条でしょうか。もちろんこれに対する答えは人それぞれだろうし、憲法学者でも人によって答えは違うだろう。例えば、愛敬浩二氏は、公務員の憲法尊重擁護義務を定めた第99条を最も好きな条文として挙げている(『改憲問題』ちくま新書)。しかし、おそらく第13条を挙げる憲法学者が最も多いのではないだろうか。私の敬愛する憲法学者・樋口陽一氏はその代表と言っていいだろう。

第13条とは次のような条文である。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

樋口氏は次のように述べている。

<戦後、日本国憲法を手にした日本社会にとって、日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと、憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という、この短い一句に尽きています(『個人と国家――今なぜ立憲主義か』集英社新書)。>

しかし、なぜこの短い一文がそれほど重要な意味を持っているのかを理解するためには、最低限の憲法史・政治思想史の知識が必要であろう。近代国民国家を生み出した市民革命は、それ以前の身分制秩序を打ち壊すことで「個人」を析出し、この解放された自由かつ平等な個人が、一方では人権の享有主体になるとともに、他方では、その人権を保障するため、憲法を制定して国家を樹立し、その憲法によって国家権力を縛ることにしたのである。したがって、個人の権利=人権と国民国家と(憲法によって国家権力を縛るという)近代立憲主義は同時に成立した三位一体なのである(ただし、権力を制約するというより広い意味の立憲主義は中世以前にも存在した)。そのことを、樋口氏は次のように述べている。

<これは権力が勝手なことをしてはいけないという、中世以来の広い意味での立憲主義が、近代になって凝縮した到達点です。個人の生き方、可能性を自由に発揮できるような社会の基本構造、これを土台としてつくってくれるはずのものが、憲法の持つべき意味だということです(前掲書)。>

そして、このような「個人の尊重」、すなわち個人主義に立脚する第13条の意味について、憲法学者の佐藤幸治氏は次のように論じている。

<本条前段の「すべて国民は、個人として尊重される」とは、通常、「いわゆる個人主義原理・個人主義的国家原理の宣言である」(佐藤・註釈101頁)とか、「個人主義の原理を表明したもの」で、憲法24条2項の「個人の尊厳」と同じ意味に解していい(宮沢・コメ197頁)とか、「個人人格の尊厳を法価値の中心に据えている」もので、「個人主義の哲学」に立脚するものである(小林・(上)312頁)とか、いわれる。

それでは、そこにいう「個人主義」とは、いかなる意味のものとして捉えられているのか。代表的理解によれば、それは、「人間社会における価値の根元が個人にあるとし、なににもまさって個人を尊重しようとする原理」であり、「一方において、他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義に反対し、他方において、『全体』のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義を否定し、すべての人間を自主的な人格として平等に尊重しようとする」(宮沢・コメ197頁)ものであるとされる(樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注釈 日本国憲法 上巻』青林書院新社)。>

さて、このような憲法の核心的重要性を持つ第13条の持つ意義について、安倍首相は例によって、何もご存じないらしい。3月2日の参院予算委で、民主党の大塚耕平氏が自民党の改憲草案を取り上げ、現行憲法が「すべて国民は、個人として尊重される」としている第13条を、自民党改憲草案では「全て国民は、人として尊重される」と、「個人」を「人」に書き換えているのはどういう意味かと質問したのに対し、首相は、「さしたる意味はないという風に承知している」と答えたのである。

とんでもない発言である。個人を究極の価値の担い手とすることは、上で述べたように、立憲主義の核心的原理である。その立憲主義の核心を放棄しようとするのが自民党の改憲草案なのである。しかも自民党改憲草案は24条に、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という全く新たな条文を挿入しており、あたかも「家族」が「個人」以上に尊重されるべきであり、国家による社会保障の責務よりも家族による相互扶助義務が優先されるかのような規定になっている。これは戦前の家父長制度復活への布石と見なせよう。

私はこのニュースを4日付の朝日新聞の「天声人語」で知ったのだが、東京新聞の国会論戦抄録にはこの発言は掲載されていない。ネットで検索しても、この天声人語かそれを引用した記事くらいしか見当たらないので、マスコミ各社の政治部記者たちは、このニュースの重大性に気付かなかったのかもしれないが、そうだとすると、実に嘆かわしいことである。

しかし、人権を保障する現憲法を守り抜くためには、こうした改憲策動の狙いと本質を見極め、戦前社会の復活を企てる政府・自民党の企みを決して許してはならない。

 

「表現の自由の優越的地位」とは何か~~憲法基礎講座①~~

<前置き>

安倍首相は2月15日、衆院予算委員会で、「表現の自由の優越的地位」の根拠を山尾志桜里議員(民主)から質問されて、全く答えられず、逆切れした挙句、憲法に対する無知を改めて暴露してしまいました。本来、憲法に基づいて政治を行わなければならない首相が、憲法改定を先頭に立って扇動していること自体、許されない憲法違反行為ですが(緊急警告009号参照)、そのような言動も憲法に対する無知に基づくものでしょう。有名なフランス人権宣言(1789年)はその前文で、「人権に対する無知・忘却または軽視が、万人の不幸と政府の腐敗の唯一の原因である」と宣言していますが、まさしく憲法と人権に対する無知・忘却・軽視が現政権の腐敗と国民の不幸を招いています。

そうであれば、私たち国民一人ひとりがもっと憲法をよく学び、安倍政権の憲法無視の政治を糾していかなければならないでしょう。そこで、随時このブログで「憲法基礎講座」と題して、憲法に関する基礎知識をまとめてみます。

第1回は、上記の「表現の自由の優越的地位」についてです。最低限の知識を得るためには■まで、もう少し詳しい知識を得るためには■■まで、さらに詳しい知識を得たい人は最後までお読み下さい。

 

<本文>

自由権は一般に精神的自由、経済的自由、人身の自由に分けられるが、このうち、精神的自由と経済的自由については、「表現の自由を典型とする精神的自由は経済的自由にくらべて優越的地位を占め、それを制限する立法の合憲性審査には、経済的自由の制約立法に一般に妥当する合理性の基準よりも厳格な審査基準が用いられるべきである」(長谷部2004:123-124頁)という二重の基準論が学説において広い支持を得ていると言われている。しかし一体なぜ、精神的自由は経済的自由よりも「優越的地位」を占めると言われるのであろうか。これには大別して、手続的・機能的理論と実体的価値論、および両者の併用論が考えられる。手続的・機能的理論とは、経済的自由の規制立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を是正することが可能であり適当でもあるから、裁判所は立法府の裁量を広く認めることが望ましいのに対して、精神的自由の制限または政治的に脆弱なマイノリティの権利侵害をもたらすような立法の場合は、それによって民主政過程そのものが傷つけられることになるから、政治過程による適切な是正を期待しがたく、それゆえ裁判所は厳格な基準に基づいて司法審査をすべきである、と説くものである(芦部1995:218)(1)。一方、実体的価値論とは、精神的自由は個人の人格的発展や自己実現にとって特別に重要な価値を持つものであり、精神的自由を保障することで得られる「思想の自由市場」は人々が(暫定的)真理や(暫定的)合意に接近するうえで不可欠なものであるので、特に優越的に保障さるべき地位を持つ、と主張する(奥平1993:160-163)。■

アメリカの判例から発展したこの理論は、日本においては、人権と「公共の福祉」をめぐる議論の中で、日本国憲法が個別の人権規定の中では、経済的自由を定めた22条と29条の中にのみ「公共の福祉」による制約を認めていることから、「公共の福祉」には、自由権の公平な保障のための最小限度の制約を根拠づける「自由国家的公共の福祉」と、社会権を保障するために必要な限度で経済的自由の制約を根拠づける「社会国家的公共の福祉」とが存在する、という、宮沢俊義によって展開された内在的制約説とも結びつきながら、広く受け入れられることになった(宮沢1971:218-239:芦部1995 :195-199;佐藤1997:403-405)(2)。日本の判例においては、二重の基準の基本理念自体はしばしば言及されているが、実際の適用場面においては、精神的自由を経済的自由よりも厳格な審査によって手厚く保護するという、この理論が本来的な意義を有する場面において適用されたケースは一度もなく、経済的自由に対する制約を広く認めるという文脈においてしばしば適用されてきた。■■

例えば、1972年の小売市場判決(最大判昭47.11.22刑集26巻9号586頁)において最高裁は、「憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なって、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定、かつ、許容するところ」であると述べて、二重の基準論に類似の考え方を示すとともに、「社会経済の分野においては、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、……どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない」ため、「裁判所は、立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲として、その効力を否定することができるものと解するのが相当である」(明白性の原則)として、通常、違憲判決の考えられないほど広範な立法裁量論を採用した。最高裁はさらに、1975年の薬事法距離制限違憲判決(最大判昭50.4.30民集29巻4号572頁)において、営業の自由に対する規制を、「社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のため」の規制と、「社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合」に分け、前者の積極目的規制の場合には司法審査においては緩やかな基準である合理性の基準が適用されるが、後者の消極目的規制の場合には中間審査の基準である厳格な合理性の基準が適用されるという二段階の審査基準を採用すべきことを明らかにし、薬事法の定める距離制限は国民の健康と安全を守ると言う消極目的規制であるから、その合憲性の審査は、「よりゆるやかな制限……によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要する」と述べて、狭い立法裁量論を採用し、不良医薬品の供給防止という立法目的を支えるだけの事実(立法事実)があるかどうかを調べた結果、右「目的のために必要かつ合理的な規制を定めたものということができないから、(薬事法の距離制限規定は)憲法22条1項に違反し、無効である」と判示した。この薬事法判決から小売市場判決を振り返れば、小売市場の許可規制は積極目的規制であるから明白性の原則と合理性の基準という緩やかな基準で合憲判決になったと考えられる。ところが最高裁はその後、共有森林につき持分価額2分の1以下の共有者に分割請求権(民法256条1項)を否定している森林法186条の憲法29条2項との適合性が争われた1987年の森林法共有林分割制限規定違憲判決(最大判昭62.4.22民集41巻3号408頁)においては、森林の細分化を防止して森林経営の安定化を図るという立法目的との関係で、規制の必要性と合理性が認められないから違憲、と判断した。しかし、森林経営の安定化を図るという目的による規制は積極目的規制であるから、薬事法判決で示された二段階審査基準によれば、立法府の裁量が広く認められ、合憲とされたはずであるが、最高裁は財産権の制約立法については積極目的規制と消極目的規制という二分論を採用せず、厳格な合理性の基準で審査した(樋口1992:238)。しかし、森林経営の安定化を図るという規制目的が積極目的であるとするならば、この判決の結論か、あるいはそもそも二段階審査基準のいずれか(もしくは双方)が誤っているということになる。また、公衆浴場法による距離制限(適正配置規制)に関する初期の判例では、最高裁は、その目的を浴場の乱立によって生じ得る浴場の衛生設備の低下など国民健康・衛生上の弊害防止(すなわち消極目的)と捉えながら、合憲とした(最大判1955.1.26刑集9巻1号89頁)。これは薬事法判決以前の判例であったが、二段階審査制の論理を当てはめれば、違憲となるはずのものであった。ところが、薬事法判決以後に現れた同種の事件において、最高裁は、公衆浴場法の規制目的を、今度は浴場業社の転廃業の防止と安定経営の確保という積極目的と捉え、合憲判決を下した(最判1989.3.7判タ694号84頁)。このことは、規制の目的を積極目的と消極目的とに二分する根拠の困難さや曖昧さ、ないしは恣意性を示していよう。

要するに、日本の最高裁は、精神的自由の規制立法の合憲性審査においてはリップサービスはともかく、実際には二重の基準論を採用しておらず、経済的自由の規制立法においてはしばしば二重の基準論に言及するだけでなく、積極目的規制と消極目的規制という立法目的によって審査基準を分けるという独自の二段階審査基準を採用したが、この基準も一貫して適用されているとは言い難い。このような判例の動向に対して、二重の基準論を支持する学説から厳しい批判が出されることは当然予想されるところである(芦部1990:110-122;芦部1995:243-245)。

 

【注】

(1) 表現の自由は他の自由よりも価値が高いからではなく、「他の自由よりもとりわけ不当な制限を受けやすい自由であり、だから、それに対する制限の合憲性は厳格に判断されなければならない」と主張する学説(浦部2008:148)も、この手続的・機能的理論に属すると言えよう。

(2) ただし今日では、宮沢の言う「社会国家的公共の福祉」は内在的制約というより政策的制約と捉えるべきだとの学説も根強い(例えば、芦部1995 :197;佐藤1997:404-405)。

 

【引用・参考文献】

・芦部信喜(1990)『憲法判例を読む』岩波書店

・芦部信喜(1995)『憲法学Ⅱ人権総論』有斐閣

・奥平康弘(1993)『憲法Ⅲ』有斐閣

・佐藤幸治(1997)『憲法〔第三版〕』青林書院

・長谷部恭男(2004)『憲法 第3版』新世社

・樋口陽一(1992)『憲法』創文社

・宮沢俊義(1971)『憲法Ⅱ(新版)』有斐閣

 

「押しつけ憲法論」の深層(3)憲法改正機会を握りつぶした日本政府

3.憲法改正機会を握りつぶした日本政府

このように、極東委員会(FEC)による干渉を嫌うマッカーサーと、天皇制の存続と自らの生き残りを図る日本の保守派政治家たちの利害の一致によって、日本人民自身の手による憲法制定のための十分な審議の時間的余裕を与えられないまま、日本国憲法が性急に制定された経過を見た。しかし、日本国民が憲法を自主的に再検討する機会がこれで完全になくなったわけではなかった。実は衆議院が憲法改正案を可決成立させた(10月7日)直後の1946年10月17日、FECは「憲法施行の1年後2年以内の期間」に、新憲法が「果たして日本国民の自由な意思の表明であるかどうかを決定するため、同憲法にたいする国民世論を確かめる目的をもって国民投票ないしその他の適当な措置を講ずること」を決定し、GHQに伝達したのである。

これに対してマッカーサーは、翌47年1月3日付の吉田首相宛ての書簡において、この決定を伝え、「もし日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう」と述べている。

しかしFECのこの決定を国民に公表することにはマッカーサーが難色を示したため、国民が新聞報道を通じてこれを知るのはようやく3月30日のことであった。しかし当時、日本国内では憲法普及会という官民一体の組織が国民に対する新憲法の啓蒙活動を本格化させていた時期だったため、この報道は一般的にはむしろ奇異な印象をもって受け止められたという(高見勝利「憲法改正」『法学教室』2013年6月号)。

しかし、FECの決定に対して積極的に反応し、憲法改正意見を取りまとめたグループが2つあった。丸山眞男・鵜飼信成・戒能通孝・辻清明・川島武宜らによって組織された公法研究会と、田中二郎・平野龍一・兼子一らによって組織された東大憲法研究会である。前者は1949年3月、憲法前文から第3章「国民の権利」に至る改正意見を取りまとめ、同年4月号の『法律時報』にその内容を公表した。後者は、憲法各章の改正点に関する意見を個人名で執筆し、「憲法改正の諸問題」という表題をつけて同年の『法学協会雑誌』(67巻1号)に公表している。公法研究会案は、前文および本文中の「国民」という言葉を「人民」という言葉に置き換えることにより、民主主義の原則を深化・発展させること、天皇制は廃止して共和制とするのが理想であるが、さしあたり実現可能な改正案としては、天皇制を承認したうえで、「象徴」という「神秘的要素」を持つ言葉を「儀章」に置き換えることなどを提案した。東大憲法研究会案においても、概ね日本国憲法の民主主義原理を深化させる方向での改正意見が提案された(高見前掲論文参照)。

これに対して、政府や国会側の動きは鈍かった。FECが憲法再検討の期間に指定した施行後1年を経た1948年6月20日、政府(芦田内閣)はようやく衆議院議長に「憲法改正の要否を審査してもらいたい」との申し入れを行い、それを受けて国会事務当局や法務庁は再検討を要する条項の見直しに入るが、国会の動きは極めて消極的で、結局、研究会の設置にも至らなかった。また、こうした憲法改正問題を伝える新聞が掲載する「社説」や「識者の談話」も極めて消極的なものであった。それは、「憲法の持っている客観的な原理、基本的な原理と考えられるものはもう不動のものであって、かりに憲法改正問題がまた起こったとしても、それは問題にならないだろう」という佐藤功の言葉に代表されるような気分が支配的であったからである。なお、この時期の憲法改正問題では天皇退位問題が大きな比重を占めていた(古関彰一『日本国憲法の誕生』366-368頁)。

FECは1949年1月13日、マッカーサーに対して、憲法再検討に役立つ情報と意見の提供を求めたが、これに対してマッカーサーは同月27日、「日本人は、憲法の再検討をするためには、もっと長い時間の経過した後でなければならないとの意見を固持して、この際、真面目に改正を考慮することに強い反対を示した」との回答を送っている

FECの定めた施行2年の期限が近付いた同年4月28日、吉田首相は衆議院外交委員会において、「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません」と答弁し、憲法改正問題を葬り去ったのである。この一連の史実を記した後、古関氏は前掲書の中で次のように述べている。

それにしても「押しつけ憲法」論が、なぜこれほどまでに戦後半世紀以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。与えられていたのである。その機会を自ら逃しておきながら、「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張されつづけてきたのである。とにかく最近の憲法「改正」史や現代史の研究書をみても、この点に全く触れていないのであるから無理からぬ事情があったにせよ、これは糺しておかなければならない。(前掲書375頁)

私は、当時の吉田内閣がFECの求めた憲法改正機会を見送ったこと自体は、それほど非難するつもりはない。当時の大方の国民意識に照らして、憲法改正の必要性が感じられていなかったのは事実であろう。だが、占領下においても、憲法を国民的に再検討する機会は与えられていた、それどころかむしろ求められてさえいたにも関わらず、それを政府の責任においてあえて封印した以上、「憲法は占領下で作られたから押し付けられたものだ」という主張が、いかに歴史的事実を無視した一面的なものであるか、ということはどんなに強調してもしすぎることはないであろう。

 

<参考文献>

小熊英二(2002)『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社

国立国会図書館「日本国憲法の誕生」(http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

古関彰一(2009)『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫

高見勝利(2013)「憲法改正」『法学教室』2013年6月号

豊下楢彦(2008)『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫

樋口陽一(1992)『憲法』創文社

吉田裕(1992)『昭和天皇の終戦史』岩波新書

 

2016年2月28日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : inada

「押しつけ憲法論」の深層(2)マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか

2.マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか

 

それではなぜ、マッカーサーはこれほど憲法の制定を急いだのか。それは、1945年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東諮問委員会(FEAC)に代えて極東委員会(FEC)を設置することが決まり、FECが対日占領政策の最終決定権を持つことが決まり、マッカーサーはFECの下に置かれ、その決定に従うこととなり、そのFECが46年2月26日から活動を開始することになったことが最大の要因である。FECには天皇の戦争責任や天皇制の存続に対して極めて厳しい態度を示しているソ連やオーストラリア、ニュージーランド、フィリピンのような委員もいたが、マッカーサーは天皇制を存置することが占領政策を円滑に進める上で必須の要素と見なしていたため、FECが活動を開始する前に、憲法改正の大綱を定め、既成事実を作ってしまうことが得策だと考えたのである。

そして、2月13日、日本政府側(吉田外務大臣、松本国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与、長谷川元吉外務省通訳官)と会談したGHQのホイットニー民政局長は、GHQ草案を手交した際、次のように語っている。

「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。(……)しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。」

さらにホイットニーは、「最高司令官は、この案に示された諸原則を国民に示すべきであると確信しており」、「あなた方がそうすることを望んでい」るが、「もしあなた方がそうされなければ、自分でそれを行うつもりでおります」と述べ、それが日本側にショックを与えたことが知られている。

日本政府はこの後、若干の抵抗を試みるが奏功せず、結局、2月22日、GHQ案を基に政府案をつくることを決定する。当時の日本政府の立場については、幣原首相が3月20日、枢密院において行った次の発言が参考になる。

「(現在の国際情勢を)考えると、今日このような草案が成立を見たことは、日本のためにまことに喜ぶべきことで、もし時期を失した場合にはわが皇室のご安泰のうえからもきわめて恐るべきものがあったように思われ、危機一発(ママ)ともいうべきものであったと思うのである。」

つまり、マッカーサーと日本政府とは天皇の安泰と天皇制の存続という点で利害が一致しており、それがマッカーサーがGHQ草案を作り、日本政府が受け入れた一番の理由であったしかし、GHQ草案の受け入れにはもうひとつの隠れた目的があった。それは、保守派政治家の生き残りの手段であった。実際、ホイットニーは2月13日の会談において、「マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の手段であると考えています」と述べているが、この頃、進歩党は前代議士274名中260名、自由党は45名中30名が第一公職追放令(46年1月4日)により追放されていた一方で、急速に勢力を伸ばした共産党は、社会党との人民戦線結成を模索していた。危機に陥った保守派政治家にとっては、思いきった改革案を提示する以外に、選択肢はなくなっていたのである。そして実際、GHQ草案を基にした政府の憲法改正草案が3月6日に発表されると、「改革の機運を先取した」保守政党は支持を集め、4月10日に行われた総選挙では、自由党が躍進し、政権を獲得した。したがって、GHQ草案は単に占領軍の圧力によって押し付けられたというよりも、保守派政治家の生き残り策として受容されたのである。さらに経済界も、政府の憲法草案について、日本社会の社会主義化を防ぎ、天皇制護持と資本主義存続という点で「大きな枠がはめられ、将来に対する一応の見透しがついた」として歓迎した(小熊英二『民主と愛国』160-161頁)。

日本政府は憲法改正草案を発表した4日後の3月10日には4月10日に新選挙法による衆議院議員総選挙を行うことを決定し、その選挙で選ばれた議会を事実上の憲法制定議会にすることを決定した。

このようなGHQと日本政府の合作による「上からの」性急な憲法制定の動きに対して、日本の人民からも、極東委員会(FEC)からも懸念と批判の声が上げられた。憲法研究会の主要メンバーであった高野岩三郎、鈴木安蔵は、社会党、共産党を中心に結成準備が進められていた統一戦線組織に対し、憲法制定議会をつくり、そこでじっくり憲法の審議をするよう申し入れた。3月10日には、山川均が呼びかけ人となって、社会党と共産党を連合させる民主人民戦線世話人会が発足し、3月15日には、憲法制定方法について、政府案のみを唯一の草案とせず、特別の憲法制定議会で草案を作成し、その後に国民投票にかけることを要求する国民運動を起こすことを提唱。4月3日の民主人民連盟結成準備大会でも「新憲法は人民自身の手で制定すべきこと」が確認された。4月7日には幣原内閣打倒人民大会が開催され、「民主憲法は人民の手で」をスローガンに掲げた

こうした考え方は、当時の世論においてもかなり有力であった。例えば、2月3日に公表された輿論調査研究所の調査結果によると、明治憲法73条により改正案を天皇が提出する方式を支持する者はわずか20%だったのに対して、憲法改正委員を公選して国民直接の代表者に改正案を公議する方式を支持する者は53%に上った。

一方、FECは3月20日、4月10日という早い時期の総選挙が「反動的諸政党に決定的に有利」になること、憲法草案について「日本国民が十分に考える時間がほとんどない」ことなどを挙げ、マッカーサーに対して、総選挙の延期を要請する書簡を発した。FECは総選挙の実施された4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためにGHQの係官を派遣するようマッカーサーに要求するが、マッカーサーはこれを拒否している。FECはさらに5月13日、新憲法採択の3原則として、「審議のための十分な時間と機会の確保」、「明治憲法との法的連続性」、「国民の自由意思を明確に表す方法による新憲法採択」を決定し、GHQに伝達した。ここでFECが「明治憲法との法的連続性」を挙げているのは、後になって日本国民の間から、新憲法が連合国の押し付けであるという意見が出るのを防ぐためであったと考えられている。

しかしマッカーサーと日本政府は、このような「審議のための十分な時間と機会を確保」し、「国民の自由意思を明確に表す方法」により「人民自身の手で」憲法を制定すべしという国内外の要求を無視し、帝国議会でできるだけはやく憲法を成立させるという点で利害を一致していたのであった。そして、衆議院で65日、貴族院で42日の審議を経て政府草案を修正のうえ、日本国憲法を可決成立させ、11月3日の公布に至るのである。

 

2016年2月28日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : inada

「押しつけ憲法論」の深層(1)日本国憲法の成立過程

(まえがき)

改憲論者の主張する「押しつけ憲法論」の真相と深層を解明するため、これから「「押しつけ憲法論」の深層」と題する記事を3回に分けて掲載する。第1回目は「日本国憲法の成立過程」、第2回は「マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか」、第3回は「憲法改正機会を握りつぶした日本政府」がテーマとなる。

 

(本論)

改憲論者の最大の根拠が「日本国憲法は占領下でGHQによって押しつけられたものだから」という「押しつけ憲法」論であることはよく知られている。日本国憲法の草案が1946年当時の日本政府に対して押しつけられたことは事実である。では、それはなぜ、どのようにして押しつけられたのか、日本国憲法の成立過程を改めて検証してみよう。

 

1.日本国憲法の成立過程

(1)ポツダム宣言受諾

日本政府は1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。米英中3国が7月26日に発表した同宣言は、「日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去」し、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」が確立されるべきこと(10項)を要求し、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立」されることを(12項)を求めていた。日本の敗戦が避けられない状況の中でなお、同宣言の公表から19日間もの間、日本の戦争指導者たちが同宣言の受諾を巡って逡巡し続けたのは、彼らにとっては「国体の護持」が可能かどうかだけが最大の争点だったからであるが、この間、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦、大阪大空襲などで、国民はさらなる惨禍を味わうことになる。政府は8月10日、「宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す」という申し入れをしたのに対し、連合国側の回答は、①「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国司令官の制限の下に置かるるものとす」、②「日本国の最終的政治形態は『ポツダム宣言』に遵い日本国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」(引用文は現代仮名遣いに改めた。以下同様)というものだった。

 

(2)憲法改正への序幕

ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本であったが、政府関係者の間では、それによって明治憲法の全面的改正、もしくは新憲法の制定が必要になるとの認識は希薄であった。むしろ終戦の詔書(8月15日)に「茲に国体を護持し得て」とあるところからも窺われるように、日本政府は敗戦という現実に直面してもなお明治憲法下の「国体」を維持できると楽観視していた。こうした認識は政府関係者ばかりではなかった。驚くべきことに、明治憲法下の代表的な立憲主義的憲法学者であった美濃部達吉や佐々木惣一、さらには美濃部門下の宮沢俊義がいずれも、明治憲法改正の必要性を認めていなかった(美濃部は10月20日―22日の朝日新聞で憲法改正不要論を唱えている)。

こうした状況を変えたのは、日本の占領統治に当たった連合国最高司令官マッカーサーである。マッカーサーは10月4日、東久邇内閣の近衛文麿国務相に対して憲法改正を示唆する。同日、GHQが発令した自由の指令によって、翌5日には東久邇内閣が総辞職するが、後を受けた幣原喜重郎内閣の下、近衛は佐々木惣一とともに内大臣府御用掛に任命され、佐々木とともに憲法改正作業に着手する。一方、マッカーサーは10月11日、幣原に対しても憲法の自由主義化を指示し、これを受けて幣原は松本烝治国務相を主任とする憲法問題調査委員会を同月25日に設置する。この委員会には顧問として美濃部達吉ら、委員には美濃部門下の宮沢俊義・清宮四郎らが含まれていた。つまりこの時点では、近衛ラインと幣原ラインという全く異なる2系統で、憲法改正作業が進行し始めていたことになる。ところがこの直後、米国の内外で近衛の戦争責任を問う声が高まったことを受けて、GHQは11月1日、突然、近衛との関係を否認するに至る。それでもなお、近衛と佐々木は同月22日と24日、それぞれ憲法改正要綱を天皇に奉答するが、GHQが12月6日、近衛らに戦犯容疑の逮捕指令を出すと、近衛は巣鴨刑務所に出頭予定の16日、服毒自殺を遂げ、彼らの憲法改正作業は何の意義も発揮せずに終了した。

憲法問題調査委員会(通称、松本委員会)は12月8日、①天皇が統治権を総攬するとの原則の維持、②議会の権限拡大、③大臣の対議会責任、④権利自由の拡大と救済手段の完備、という「憲法改正4原則」を衆議院で表明した。以後、松本委員会はこの方針に沿って検討を進め、1946年1月末までに、いわゆる松本私案、それを(主に宮沢が)要綱化した甲案、委員の意見をとりまとめた乙案の3案の成立を見た。しかし、これらの改正案が公表される前の2月1日、毎日新聞が松本委員会試案をスクープするに及び、その内容があまりにも守旧的・保守的であることを知ったマッカーサーは、GHQ自ら改正案を作成し、日本政府に「押し付ける」ことを決意した。その背景には、前年(1945年)12月27日に行われたモスクワ外相会議で、対日占領政策の最高意思決定機関として同年(1946年)2月26日に極東委員会が設置されることが決定しており、マッカーサーとしては、同委員会が活動を開始する前に憲法改正問題を決着させておく必要があったからである。すでに、日本における共産主義勢力の伸長を防ぐために天皇制の温存と天皇の戦争責任からの免責を決意していたマッカーサーにとって、極東委員会による天皇および天皇制への批判を回避するための重要な手段として、民主的な憲法を制定しておくことがどうしても不可欠だと感じられたのである

 

(3)GHQ草案

マッカーサーは2月3日、GHQ民政局で憲法草案を作成するに当たり、①天皇は最高位にあるが、その職務と権能は人民の基本的意思に従う、②戦争の放棄、軍隊と交戦権の否認、③封建制の撤廃、貴族の特権の廃止――という3原則(マッカーサー3原則)を示した。民政局は翌4日から憲法草案起草作業に入り、10日に草案を脱稿、マッカーサーに提出後、微調整を続け、12日にGHQ草案が完成した。その間、日本政府は8日に憲法改正要綱をGHQに提出し、13日にGHQ側と協議を持つことを約した。そこで、日本政府代表(吉田茂外相、松本烝治国務相ら)は13日、憲法改正要綱(松本案)への回答を聞くつもりでGHQとの会談に臨んだところ、GHQ側から松本案の受け取りを拒否されたうえ、逆にGHQ草案を手交されたのである。日本政府にとってはまさに「青天の霹靂」であり、日本国憲法の「受胎告知」の瞬間でもあった(古関2009)。日本政府はその後もGHQ草案への抵抗を続けるが、GHQ側から、この草案に基づく憲法改正こそが天皇の安泰を保障するものであること、これに基づく憲法改正作業を始めないなら、GHQが自ら国民にこの草案を提示すると示唆されたことなどから、2月26日になってようやく、GHQ草案に基づく日本案の起草を決定した。まさに極東委員会がワシントンで第1回会議を始めた日であった

 

(4)政府の改正案公表と帝国議会での審議

日本政府は3月2日にGHQ草案に基づく改正案をまとめ(3月2日案)、4日にGHQに提出した。そこで、佐藤達夫法制局部長はケーディス民政局行政課長らGHQ側と5日午後までかけて修正作業を行い、日本政府は閣議でこの修正案(3月5日案)の採択を決定した。翌6日、政府は「憲法改正草案要綱」発表し、マッカーサーはこれを承認する旨の声明を出した。その後、政府は同草案要綱を口語化したうえ条文の形式に整備し、4月17日、内閣憲法改正草案を発表した。同草案は枢密院の諮詢を経たのち、明治憲法73条所定の改正手続に則り、6月20日、勅書をもって帝国議会に付議された。帝国議会ではまず衆議院での審議でいくつかの修正(「至高」から「主権」への変更、第9条のいわゆる「芦田修正」など)ののち8月24日に可決され、その後貴族院でさらにいくつかの修正(普通選挙制、両院協議会、文民条項追加)を経て、10月6日可決され、10月7日、衆議院は貴族院からの回付案を可決し、憲法改正案が成立し、11月3日、新しい日本国憲法が公布され、半年後の1947年5月3日、新憲法は施行された。

 

(5)「押し付け憲法」論をどうみるか

では、以上のような、日本国憲法の制定過程において、GHQが主導的かつ決定的な役割を果たした事実をどう考えればよいだろうか。占領終了以後今日まで、9条「改正」を眼目とする憲法改正論者たちは、現憲法がGHQによる「押し付け憲法」であると繰り返し主張してきた。制定過程を見れば、GHQ草案がGHQによって日本政府に押し付けられたことは疑問の余地がない。しかし、世論調査等から判断すれば、国民の多数は毎日新聞のスクープした松本草案には批判的で、GHQ草案に基づいて(当時日本国民はその事実を知らされていなかったが)日本政府が起草した政府案要綱を圧倒的に支持していた。したがって、国民がGHQ草案を押し付けられたとは言えないだろう。しかし、本来、国民主権の憲法であれば当然そうあるべきであるように、国民自身が政府に押し付けた憲法でもなかった。もちろん、当時、国民主権の立場に立った民間の憲法草案もいくつか発表されてはいたが、連合国総司令部とその背景にあった国際世論の力がなければ、1946年という時点において、国民主権を明記した憲法が採択されることはなかっただろう(樋口1992:64)。その意味で、日本国憲法は国民主権の理念を高々と謳いながらも、その実際の成立過程はそれにふさわしいものではなかったという弱点を持っていたことは否定できないだろう。

「人類普遍の原理」とは何か

日本国憲法の前文には、「これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである」という一文があり、その後には、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という文が続く。後者の「これ」が「人類普遍の原理」を指していることはすぐにわかるが、前者の「これ」、すなわち「人類普遍の原理」とは一体、何のことだろうか。私はこの問題を調べるために、10冊以上の憲法学の教科書を紐解いたが、私が調べた範囲では、この言葉を解説したものは見当たらなかった。なぜだろうか。簡単すぎて、わざわざ説明するほどの事柄ではないからだろうか。そうではない、と私は思う。むしろ、多くの人がこの言葉の意味を誤解しているのではないか、と思い、この文章を書くことにした。 続きを読む

放送の自由を威嚇する高市総務相は辞任せよ

朝日新聞(2月10日)の報道によると、高市早苗総務相は9日、衆院予算委員会で、「憲法9条改正に反対する内容を相当時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるのか」との玉木雄一郎議員(民主)の質問に対し、「1回の番組では、まずありえない」が、「将来にわたってまで、……罰則規定を一切適用しないということまでは担保できない」と述べ、放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性に言及した。

重大な発言である。放送局が「憲法9条改正反対」、すなわち憲法の尊重を訴える番組を長時間放送すれば、総務大臣が放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性があると発言したのである。実際に電波を停止するまでもなく、この発言だけで、放送局に対する脅しであって、「表現の自由」(憲法21条)を脅威にさらすものである。しかも、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負う公務員である総務大臣が、憲法擁護を訴える番組を「政治的公平性を欠く」と見なし、それを理由に電波停止命令の可能性を示唆したものであり、憲法に定められた「憲法尊重擁護義務」に違反して「表現の自由」を侵害しようとしたものであって、二重の意味で憲法を蹂躙する重大な発言である。 続きを読む

2016年2月11日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : inada