完全護憲の会・会員ブログ
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ガザの人道危機を憂う 時事短歌2首
曲木草文(まがき そうぶん)
パレスチナ絶望反撃テロと呼ぶ 西側世界の二重基準よ
日本国なんで肩持つイスラエル ガザの悲惨の元をただせよ
私の日本共産党論
合田寅彦
今や共産党と名がつく政党は資本主義世界ではわが国だけであろう
仮にいま「共産党はこの地球に万有引力が存在することを認めるも
万有引力のニュートン、ラジウム発見のキュリー、資本主義の本質
では共産党の「科学的社会主義」はどうか。果たして共産党は「科
最新の『共産党綱領』を読んでみるとそれがよくわかる。そこでは
一方、60年前(!)のそのころ既に軍事侵攻したソ連の社会主義
1962年にモスクワで開かれた国際学生連盟総会に日本代表とし
そうした中で、全学連委員長の根本仁(北海道学芸大学学生、私と
党員のみなさんに問いたい。みなさんがかつて常に口にしていた「
私の住む石岡の共産党員は、党専従の頭の堅い一人を除けばだれも
もし私が上記の問題を彼らに突きつけたとして、この人たちはどう
党中央はまじめに地域活動をしている無数の党員のことなど考えも
今の共産党は、自党の負の部分を常に「なかったもの」とする。将
今の共産党にあるそうしたぬぐい難い体質が変わらない限り、党員
自民党と公明党に対抗できる唯一の政党は共産党しかいないのだか
(注)レオン・トロツキー(1870~1940)
ロシア革命のレーニンに次ぐ理論的および実践的指導者。赤軍の創
(2023・9・20)
ニュースの毎号に三鷹事件の再審状況を!
札幌 小久保和孝
「ミスプリント」なのか、それとも当時の我が国の国家体制を反映するごく自然なことであったのか、深慮した上での意図的なことであったのか、我が国「日本国憲法」では、国語表記としては「つじつまの合わない」所が存在する。最も目立つのは、日本国憲法典の三権分立規定の表記である。
日本国憲法第四章は“国会”、第五章は“内閣”となっているのに、何故か第六章は“司法”である。第六章を“司法”とするなら、第四章は“立法”、第五章は“行政”でなければ日本語としては「辻褄」が合わない。第四章が“国会”、第五章が“内閣”であるなら当然第六章は“裁判所”である。
民主主義国家において国民のコントロールに最も遠いのが「司法権」である。その上、始末が悪いのがジャーナリズムが、司法に関することは、その「裏付取材」の困難性から、ニュースソースは「当局のリーク」に頼ることが多く、益々「国民視点」から遠のき、「司法権」をコントロール出来なくなるばかりか、“権力犯罪“の「お先棒」を担がされていることである。
「証拠」主義が原則となっているにもかかわらず「冤罪」が絶えない。そればかりか、戦後「権力犯罪」の最も有効な手段となっているのが「司法権」である。
その最たる例が「松川事件」「三鷹事件」である。“司法権を利用した権力犯罪“は阻止出来ず、「国民運動」にならない限り“正す”ことが出来ない。それが残念ながら我が国の“現状”である。
我が「完全護憲の会」は小さく、今の所国民運動を巻き起こす「力」もない。しかし“護憲の灯火”である事は確かである。そこで提案!
毎号のニュースに必ず、三鷹事件の再審運動や状況を登載していこうではいか。
核汚染水の海洋投棄を憂う 2 時事短歌3首
曲木 草文(まがき そうぶん)
理解とは漁協でなくて政府が判断 かくして約束守られた由(よし)
「処理水」と従順国民だませても 外国までもだませぬものよ
国家とは国民だますことありと しかと心得あとで愚痴るな
平野文書」は真実か?(第4回)
連載の第2回でも触れたが、平野は1993年に出版した『平和憲法の水源――昭和天皇の決断』(以下、『水源』と略す)の中で、憲法調査会の高柳賢三会長から「幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と頼まれたという話を書いている。その時、高柳は、憲法調査会が1958年、高柳を団長とする渡米調査団を派遣した際、マッカーサーとホイットニーから会見を拒否されたことを、以下のように語ったとされている。
=========<引用開始>==============
「マッカーサーもたいした男です。彼は有力な大統領候補でした。そのためには日本の軍事協力が必要だから、日本の戦争放棄はマイナスです。にもかかわらず、彼でしかやれないことをやったのですから。またそれをやらした最後の鍵は天皇だったと思う。
私はアメリカへ行ってけんもほろろの扱いを受けた。ホイットニーにさえも相手にされなかった。そのとき私は気がつきました。天皇陛下だということです。
天皇は何度も元帥を訪問されている。恐らく二人の間には不思議な友情が芽生えていた。固いつながりができていた。天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。こんな機会はまたとない。今こそ日本をして歴史的使命を果たさせる秋ではないか。天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。いくら幣原さんでも、天皇をでくの坊にするといっただいそれたことが一存でできる訳はありませんよ。だから元帥は私から逃げたのです。うっかり話が真実にふれる恐れがある。私たちはそのためだけでアメリカまで行ったのですから。そうなると天皇に及ぶことになる。天皇は政治から超越するということになったのですから、元帥はその御立場を顧慮してのことでしょう。天皇とマッカーサーはそれほどまで深い同志的結合があった。私にはそう思われた。天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」
==========<引用終わり>============
なんと、高柳は、マッカーサーが会見を拒否した理由は、マッカーサーと天皇の間の秘密、すなわち、天皇が幣原を通じて、日本に戦争放棄をやらせてほしいと提言、むしろ懇請した、という「真実」が露呈することを恐れたからだ、と話したというのである。これは事実であろうか。また、天皇とマッカーサーとの間に、「不思議な友情が芽生えていた」とか、「固いつながりができていた」というのは本当だろうか。天皇はマッカーサーの連合国最高司令官在任中に11度会見しているが、46年1月24日の幣原=マッカーサー会談の時点では、まだ1度しか会っていない。腰に手を当ててリラックスした姿勢のマッカーサーの隣で、モーニング姿で直立不動の姿勢をとる天皇の写真が撮られた1945年9月27日の第1回会見である。「不思議な友情が芽生え」たり、「固いつながりができていた」り、「深い同志的結合があった」りするはずがないのである。
実は、高柳を団長とする憲法調査会渡米調査団がマッカーサーに会えなかった真相については、高柳自身が『日本国憲法制定の過程Ⅰ 原文と翻訳』の「序にかえて」の中で次のように述べている。
=========<引用開始>==============
駐米日本大使館では渡米調査団のために、ホイットニー准将と手紙を交換していたのであるが、迎えに来た大使館員からマッカーサー元帥との会見は拒否されたとの報告を受けて吃驚したのであった。何故われわれ渡米調査団に対しマッカーサーが会見を拒否したのであるか。私は大使館とホイットニーとの往復文書を仔細に検討した結果、その理由を知りえたのである。すなわち、前述のように、日本では、改憲論者によって、マッカーサー草案を日本政府に押しつけたということが改憲論の論拠の一つとしてしきりに主張されており、またウォード博士のこれを支持するような論文が、アメリカでも発表されていた。しかし、マッカーサー草案を日本に示したのは日本政府に対する命令ではなく、勧告であって、日本政府は説得によって、この勧告に従うことになったと考えていた司令部関係者は、マッカーサー草案押しつけ論は心外なことと感じていた。そして彼等は、憲法調査会が渡米調査団を送ってきたのは、この押しつけ論を実証的に裏付けるような証拠を集めにきたものと感じていたため、会見拒否という処置に出たのであることはほぼ明白となった。そこで私はこの誤解をときほぐすために、マッカーサー元帥とホイットニー准将の2人に手紙を送り、渡米調査団は何らそういう政治的意図できたのではなく、どこまでも客観的に、学問的に歴史的事実を究明するためにきたのであることを詳細に説明した。この手紙によって、マッカーサー元帥、ホイットニー准将の誤解がとけ、マッカーサー元帥も自分に知っていることは何でもお話しようという率直な態度に変化し、この2人の重要な証人もいろいろな質問に詳細に答えてくれた。(中略)それがため渡米調査の目的も大部分達成できたのである。
==========<引用終わり>============
つまりマッカーサーとホイットニーは、日本の改憲論者によって高唱されている「押しつけ憲法」論に利用されるのを恐れて会見を拒否したのであるが、誤解が解けてからは率直な態度で質問に答えてくれた、というのが真相である。天皇との秘密が漏れるのを恐れた、などという荒唐無稽な話ではないのである。これにより、高柳の発言に関する平野の記述が全くの作り話であることは明白となったと言えよう。ちなみに高柳は1967年に亡くなっているので、平野が93年に『水源』を書いた時には「死人に口なし」と思ったのであろうが、高柳が生前に書き残していた文章により、平野の嘘が露見することになったのである。いずれにせよ、平野は平気で作り話を書く人間であることが明らかになったと言えよう。高柳が語ったことにされている「天皇をでくの坊にする」という表現も、平野自身が1964年の『世界』の論文(?)で使っている表現である。
高柳はまた、『水源』の中で、以下のように語ったことにされている。
=========<引用開始>==============
「幣原さんとマッカーサーの話し合いは3時間に及んだそうですが、通訳抜きだから正味ですよね。(中略)とにかく第3次世界大戦は絶対にやってはならない。これは物理的に明らかです。やったら人間の歴史は一巻の終わりだ。理屈もへちまもない。これほどはっきりした現実はない。このことはみんなわかっている。わかってはいるが、さてどうしたらとなると誰もわからない。
その絶望の底から第9条は生まれた。直接には天皇を残すためのギリギリの限界状況の中で生じた発想でしょうが、とにかくこうなれば誰かが自発的に戦争をやめると言い出すしかない。それが突破口です。幣原さんは天皇を救い、同時に世界を救った。マッカーサーの命令という形でなかったら、あんなことはできる訳はありませんが、それをさせたのは幣原さんです」
==========<引用終わり>============
これは「平野文書」で、幣原が語ったことと概ね一致している。高柳のセリフが嘘であることはもはや明白であるが、仮に「平野文書」の幣原の話が事実だとしたなら、幣原が話した内容を今度はわざわざ高柳の口を通して語らせる必要も理由も全く考えられない。事実とフィクションをごちゃまぜにして、貴重な事実の価値を貶める理由などどこにもないからである。しかし、「平野文書」の話がフィクションだからこそ、平野はさらに別のフィクションを事実として語ることによって、「平野文書」の信憑性を高めようとしたのだろうが、かえって藪蛇であったといえよう。もちろん読者にとっては嘘を見破る根拠がまた一つ増えただけであるが。
ともあれ、『水源』にはフィクションが山のように含まれている。否、フィクションの合い間にところどころ事実が散りばめられているというのが実態であろう。『水源』には、1945年9月27日、昭和天皇が初めてマッカーサーとの会見に向かう場面の描写があるが、天皇の乗った車は、なんと途中で、「朕は鱈腹食ってるぞ。汝臣民飢えて死ね」というプラカードを掲げた食糧デモ隊と遭遇した、というのである。つまり8か月後の46年5月19日に起きた食糧メーデーのプラカード事件に遭遇したというのだから、天皇の乗った車はタイムマシーンでもあったらしい。さらに、マッカーサーとの会見を終えた天皇は、「今日は一つ大きな山を越えた……そうした心の安らぎがあった。(……)目まぐるしく走馬燈のように移り変わる数々の追想が、天皇の胸をよぎるのであった」と書いており、小説の登場人物の心理を作者が知っているのと同じように、平野には天皇の胸中までもが手に取るように読めたらしい。
もちろん、平野が胸中を読めるのは天皇だけではない。幣原が1月24日にマッカーサーと会見する前夜、「先生は、まんじりともせず沈思黙考を続けられた」として、その「沈思黙考」の内容が延々と24頁にわたって(幣原の1人称で)語られたあと、「気がつくと、ガラス戸の外には薄明りがぼっと射し込んできた。長い冬の夜も間もなく明ける。/「少し眠っておこう」/首相は、寝床にすべり込んだ」と結ばれる。さらに、翌日の幣原=マッカーサー会見の様子も、芝居の舞台のように、両者の会話が12頁にわたって詳細に展開されている。これらが、「平野文書」でいう51年2月下旬の一日、2時間ほどの間に幣原から聞いた内容ではなく、平野の創作であることは明白だと言えよう。先にも述べたように、以上の事実は、「平野文書」自体が事実ではない、すなわち、平野の創作であることを推測させるのに十分であろう。いずれにせよ、「平野文書」を歴史の事実などと考えてはならないことはこれでほぼ論証できたのではないだろうか。
2023年8月28日 稲田恭明
「平野文書」は真実か?(第3回)
前回、「平野文書」が平野による創作であると推定する根拠を一つ取り上げた。しかし根拠はこれだけではない。「平野文書」によると、「天皇陛下は憲法についてどう考えておられるのですか」という平野の問いに対して、幣原は次のように答えたことになっている。
=========<引用開始>==============
僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときには吉田君にも立ち会って貰った。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。
==========<引用終わり>============
幣原が「マッカーサーの草案」(GHQ草案)を持って天皇に拝謁した日というと、『昭和天皇実録』から見て、46年2月22日以外にはあり得ない。幣原がマッカーサーと会見し、マッカーサーから天皇制を維持するためにはGHQ草案を受け入れるしかないと説得された翌日で、この日午前の閣議でその時の様子を報告した後、午後2時すぎから天皇に拝謁して「1時間以上にわたり」奏上を行っている。ここで幣原はGHQ草案を提出し、前日のマッカーサーとの会談内容を報告し、受諾が不可避の情勢となっていることを説明したはずである。天皇が言下に「徹底した改革案を作れ」などと言うはずがない。「徹底した改革案」はすでにGHQによって作られており、問題は日本政府がそれを受け入れるか否か、受け入れない場合は天皇制存続の保障がない、という状況なのである。ここにも平野の嘘が露呈している。なお、吉田はこの日の午後、松本とともにGHQに赴き、ホイットニーと面会しているので、吉田と一緒に拝謁したというのも誤りである。
「平野文書」第2部によれば、幣原は自由党、進歩党、社会党、共産党など憲法改正案に「全部目を通してみた」が、「満足できるものは一つもなかった」ので、「一体、戦争と平和とは何か、ということを色々考えてみた」結果、軍備全廃の考えに至った、ということを述べている。しかし、幣原が「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案すること」を考えついたという、45年暮れから46年正月にかけて「風邪をひいて寝込んだ」時期(遅くとも公務に復帰する1月16日以前)に憲法改正案を出していた政党はなく、自由党が「憲法改正要綱」を発表するのは46年1月21日、進歩党の「憲法改正案要綱」は2月14日、社会党の「憲法改正要綱」に至っては2月23日にようやく発表されている。共産党は「新憲法構想の骨子」こそ45年11月11日と早い時期に発表していたが、完全な草案の形で公表するのは46年6月28日のことである。もちろん、幣原が回想して平野に語った時期は51年2月下旬とされているから、幣原が前後関係を間違えて語った可能性が絶無ではないが、これは軍備全廃という画期的な提案を思いつくきっかけになる出来事であるから、きっかけと結果の前後関係を間違えるというのはおかしな話である。
幣原はまた、自分の提案を聞いたマッカーサーが、最後には「非常に理解して感激した面持ちで」握手を求めたが、最初は、「アメリカの戦略に対する将来の考慮」と「共産主義者に対する影響」の2点をめぐって躊躇した、と語ったと平野文書は言う。「日本が非武装となることは、アメリカの期待を裏切ることであり、アメリカを失望させることである」から、その点でマッカーサーはかなり躊躇した、とも幣原は語ったことになっている。しかし、アメリカの対日占領政策が日本の再軍備と経済復興に転換するのは東アジアにおける冷戦構造が明確化してくる1948年ごろからであって、初期の対日政策が非軍事化と民主化にあったことは間違いないところであり、1946年初頭の時点で、当時の現実そのものである日本の非武装がアメリカの期待を裏切るとか、マッカーサーを躊躇させるということはあり得ない。さらに、幣原は「日米親善は必ずしも軍事一体化ではない」とも語ったことになっているが、無条件降伏して占領軍の従属化にあった当時の日本の首相である幣原からこうした言葉が出てくるとは考え難い。
幣原はまた、「世界平和は正しい世界政府への道以外には考えられない」とし、「国際連盟は空中分解したが、やがて新しい何らかの国際的機関が生れるであろう。その機関が一種の世界同盟とでも言うべきものに発展し…」と、国連のさらなる発展に期待する発言をしたことになっている。しかし、先にも述べたように、幣原は『外交五十年』の中で、国際連盟はもちろん国際連合にも全く期待しておらず、非常に悲観的な見方を示している。その幣原が「新しい国際的機関」に期待するとは思われない。さらに、平野文書によれば、「若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依って脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう」と幣原が語ったことになっているが、これは、「遠方の、痛くも痒くもない他人のために血を流したり、財産を投げ出したりすることは、これは特殊の事情がない限り、人情として行われることではない」(『外交五十年』)という幣原自身の言葉と矛盾するように思われる。
2023年8月27日 稲田恭明
「平野文書」は真実か?(第2回)
まず「平野文書」の成り立ちについてであるが、同文書は冒頭で、「私が幣原先生から憲法についてお話を伺ったのは、昭和26年2月下旬である。同年3月10日、先生が急逝される旬日(10日)ほど前のことであった。(……)時間は2時間ぐらいであった。(……)まとまったお話を承ったのは当日だけであり」、「その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである」と記している。しかし、「平野文書」の文字数は約2万6000字であり、仮に平野が幣原の話を残らずメモしていたとしても、到底2時間で聞ける内容ではない。この点は笠原も、「「平野文書」にいう2月下旬の2時間で聞ける内容ではない」とあっさり認め、「「平野文書」の問題点は、51(昭和26)年2月下旬に幣原邸をたずねて、戦争放棄条項や天皇の地位についてまとまった話を聞いたのはその日だけ、とあるのは事実でないことである。(……)衆議院議長時代の幣原の秘書役をつとめていた平野は、暇なときに(……)幣原邸を訪ねて、いろいろと憲法について話を聞いたのである。「平野文書」に書かれているような一日ではなかったことは明瞭である」と述べている。しかし、そうだすれば、そのように書けばよかったのである。文書の内容が真実であれば、嘘をつく必要はどこにもない。このような文書の基本的な性格について事実を述べていないのであれば、その内容についても疑惑が生じるのは当然であろう。
また、平野は、1964年4月号の『世界』に寄稿した「制憲の真実と思想――幣原首相と憲法第9条」の中では、「何分にも記録のないことであり、また古いことであるから、私の記憶もかなりずれたものではあるが、以下その日の話をまとめてみた」と記しており、これによるとメモ(記録)すら残していないようである。さらに、1993年に出版した『平和憲法の水源――昭和天皇の決断』(以下、『水源』と略す)の中では、憲法調査会の高柳賢三会長から、「幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われ、「たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料は何もない」ので「困った」と書き、「それは根拠薄弱なものではある」と自分で認めているのである。もっとも、そもそも平野の創作だとすれば、初めからメモなどないのは当然である。
さて、「平野文書」は第1部と第2部とからなっており、第1部は、平野が幣原に質問して幣原が答えるという一問一答形式になっており、第2部は、幣原の世界観を含めて戦争放棄条項が生れた事情を幣原が一人称で語るという形式になっている。第1部で、第9条はマッカーサーの命令によるものなのか、幣原独自の判断でできたものなのかという平野の問いに対して、幣原は次のように答えている。少し長くなるが引用する(ゴチック化は引用者。以下同様)。
=========<引用開始>==============
そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和20年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第9条のようなことを日本側から言いだすようなことを出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この2つは密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。
幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々のソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。
豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。
この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。(中略)
この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮りにも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うよう決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君(松本烝治。幣原内閣当時の憲法改正担当国務大臣)にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和21年の1月24日である。その日、僕は元帥と2人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。
==========<引用終わり>============
これは、事実とすれば驚くべき証言である。「天皇の人間化と戦争放棄」を「命令として出して貰う」よう「マッカーサーに進言」し、「憲法は押しつけられたという形をとった」というのである。つまり、憲法の「押しつけ」をマッカーサーに依頼した、というのである。こういう証言は「平野文書」その他の平野証言(以下、「平野証言」)以外にない。これまで幣原発案説の根拠とされてきたマッカーサーの証言や『回想記』、ホイットニーのマッカーサー伝はすべて、幣原が日本政府の準備している憲法草案に戦争放棄と軍備撤廃を書き込むことを提案し、マッカーサーが賛成した、というものであった。それに対して、平野証言は、幣原発案説は幣原発案説でも、幣原はマッカーサーに押しつけを依頼したという「発案・押しつけ依頼」説ともいうべき特異な説なのである。では、これは果たして事実なのだろうか。
「幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた」と「平野文書」は言うが、後半は事実ではない。当時、マッカーサーが受取っていた本国からの指令「SWNCC-228(日本の統治体制の改革)」には、「日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを、奨励支持しなければならない」と書かれてあり、米本国はこの時点ではまだ天皇制を存続させるかどうかを決定していない。また、前半は事実であるが、この時点(46年1月24日)で幣原はそのことを知らなかった。だからこそ、「羽室メモ」(後述)にあるように、幣原はこの日の会見の冒頭で、「どうしても天皇制を維持させてほしいと思うが協力してくれるか」と尋ねたのである。ましてや天皇が戦犯として裁かれない保証はこの時点では全くなく、木下道雄侍従次長や寺崎英成宮内省御用掛など天皇の側近が、東京裁判対策として、天皇の「潔白」を示すための「独白録」の作成にとりかかるのは、3月18日になってからであり、極東委員会が天皇の不起訴で合意(当時は非公表)したのは4月3日であった。
「平野文書」はまた、「ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた」と述べている。幣原は一体いつ、こうした事実を知ったのだろうか。実は、それは日本政府がGHQ草案を受け取った(46年2月13日)あと、初めて開いた閣議(2月19日)の2日後、すなわち2月21日のマッカーサーとの会見においてであった。2月19日の閣議では結論が出なかったため、幣原がマッカーサーに真意を聞きにいくことになったのである。そして21日の会見の内容については翌22日の閣議で報告されたが、その様子を幣原内閣で厚生大臣を務めていた芦田均は日記に次のように書き留めている。
======<引用開始>==============
MacArthurは先づ例の如く演説を初めた。「吾輩は日本の為めに誠心誠意図つて居る。天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じてゐる。幣原男が国の為めに誠意を以て働いて居られることも了解してゐる。然しFar Eastern CommissionのWashingtonに於ける討議の内容は実に不愉快なものであつたとの報告に接してゐる。それは総理の想像に及ばない程日本にとつて不快なものだと聞いてゐる。…
ソ聯と濠洲とは日本の復讐戦を疑惧して極力之を防止せんことを努めてゐる。…」
==========<引用終わり>============
幣原は、「それは総理の想像に及ばない程日本にとつて不快なものだと聞いてゐる」とマッカーサーに言われたと、閣議で報告しているのである。その内容をもし幣原があらかじめ知っていたのであれば、「総理の想像に及ばない程」という言葉をそのまま報告したりはしないであろう。「私も知っているところだが」といった言葉を使うのではないだろうか。これらの内容を2月21日のマッカーサーとの会見で、幣原が初めて知ったことは、次に引用する、3月20日の枢密院報告でも確認できる。
=========<引用開始>==============
去る2月21日余はマ司令官と長時間に亘り会談し同司令官が日本国天皇に対し抱懐せる所見を聴くを得た。またその席上将来の日本国管理に関し豪洲及びソ連側の態度に関しても言及するところがあった。ともに日本に対し必ずしも友好的でなく殊に豪洲は日本に対し一種の恐日病的状態に陥って居る如く考えらるるのである。(中略)
極東委員会と云うのは極東問題処理に関しては其の方針政策を決定する一種の立法機関であって、其の第1回会議は2月26日ワシントンに開催され其の際日本憲法改正問題に関する論議があり、日本皇室を護持せんとするマ司令官の方針に対し容喙の形勢が見えたのではないかと想像せらる。マ司令官は之に先んじて既成の事実を作り上げんが為に急に憲法草案の発表を急ぐことになったものの如く、マ司令官は極めて秘密裡に此の草案の取り纏めが進行し全く外部に洩れることなく成案を発表し得るに至ったことを非常に喜んで居る旨を聞いた。此等の状勢を考えると今日此の如き草案が成立を見たことは日本の為に喜ぶべきことで、若し時期を失した場合には我が皇室の御安泰の上からも極めて懼るべきものがあったように思われ危機一髪とも云うべきものであったと思うのである。
==========<引用終わり>============
つまりこうした情勢を2月21日初めて知った幣原が、こうした状況を踏まえて、「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案すること」を思いつき、1月24日の会見でマッカーサーに提案した、ということは絶対にあり得ないのである。「平野文書」が平野による創作であると推定する根拠の一つである。(続く)
2023年8月26日 稲田恭明
「平野文書」は真実か?(第1回)
いつもお世話になっております。
毎月お送り頂いております『完全護憲の会ニュース』はもちろん、その送信文にも、いつも無知な私の知らないニュースが満載で、大変勉強になり、楽しみにしております。
しかし、5月12日にお送り頂いた『ニュース13号』の送信文には驚きました。
そこには次のように書かれていました。
=========<引用開始>==============
平和憲法誕生の経緯を読み直してみてはいかがでしょう。
「押しつけ憲法論」は長年主流の仮説ですが、以下の「非押しつけ論」には、辻褄の合う証言や文献や状況証拠が豊富にあり、他説に比べて格段に信頼性が高いと思われます。
==========<引用終わり>=============
この文章に続けて、1946年1月下旬、当時の幣原喜重郎首相がマッカーサー最高司令官を訪問し、新憲法に戦争放棄を書き込むようマッカーサー元帥から提案してほしいと依頼し、密約が成立した、という話が紹介されていました。
これは「平野文書」の内容の要約ですね。
そしてそのあと、平野文書と笠原十九司氏の論考「憲法九条発案者をめぐる論争に「終止符」を」へのリンクが貼られていました。
私は思わず、「マジかっ」とつぶやきました。
私は以前、たまたま憲法制定過程を詳しく勉強したことがあったので、2016年に「平野文書」を一読して、これは嘘だと気づきました。
ところが今回、なんと、本物の歴史学者である笠原十九司氏が太鼓判を押しているではありませんか。これは一体どうしたことか!
リンク先の笠原氏の論考と、氏が今年出版された『憲法九条論争――幣原喜重郎発案の証明』(平凡社新書)を読んでみました。正直、唖然としました。あまりにも恣意的かつ強引な史料の引用と解釈がなされていたからです。
もし自分の知り合いが「南京大虐殺は幻だってよ」と言ったとしたら、それは違うと反論しなければならないと思います。同様に、平野説を解く人がいたら、それは信用してはいけないよと言わなければならないと思っています。
笠原氏は人民網の取材に対し、「嘘の歴史がまかり通るようになってはいけない。社会が事実をごまかした場合は、間違った道を歩むことになる。それは戦前の教訓だ」と述べていますが、私も全く同感です。そこで、「嘘の歴史」である「平野文書」がまかり通るようになってはいけないとの思いから、今回、数回に分けてブログに投稿させて頂くことになりました。その中で、笠原氏を批判することになるとは、私自身意外でもあり、残念でもありますが、仕方ありません。「嘘の歴史」である「平野文書」を「決定的史料」と持ち上げ、「嘘の歴史」を広めようとしているのですから。
本連載の目的は、第1に、「平野文書」の史料的価値を否定すること、第2に、「「平野文書」に依拠して「憲法9条幣原発案の証明」とした」と主張する笠原氏の『憲法九条論争』の誤りを指摘することです。
本論に入る前に、上で引用したニュース13号の送信文では、「押しつけ憲法論」と「非押しつけ論」とが対比されていますが、マッカーサー発案説と幣原発案説がこれに対応するわけではない、という点をまず指摘しておきたいと思います。現に、日本国憲法制定史研究の第一人者である古関彰一氏はマッカーサー発案説に立っていますが、「押しつけ憲法論」は支持していません。理由はいろいろあるのですが、一言でいうと、日本国民の多くはむしろ日本国憲法を全体として歓迎したわけですし、何よりも日本が独立を回復し、いつでも自由に憲法改正ができるようになってから70年以上もの間、一度も改正されなかったという事実が、「押しつけ憲法論」に対する明白な反証になっています。それに比べれば、当時の日本政府が「押しつけ」られたか否かというのは、とるに足りない問題です。GHQに強圧的な態度があったことは事実ですが、日本政府に拒否する自由がなかったわけではありません。ただ、日本政府が拒否した場合、マッカーサーが直接日本国民に草案を示すと言われ、それをされたら自分たちの政治家生命が終わると思って打算で受け入れたのです。それを「押しつけ」とみるかどうかは、国民の立場からすればどうでもいい問題です。
もう一点、本論に入る前の基礎知識として、「平野文書」についても説明しておきましょう。
「平野文書」とは、1949年から51年にかけて衆議院議長を務めた幣原氏の秘書のようなこと(正式な秘書官ではありません)をしていた衆議院議員の平野三郎氏が、幣原氏が亡くなる10日ほど前の1951年2月下旬、同氏から聞き取った話を文書にして、1964年ごろ憲法調査会に提出し、同調査会事務局が同年2月に「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について―平野三郎記」と題して印刷したものです。
この文書は当時は新聞でも取り上げられたりして、かなり話題になったようですが、その後、忘れられたようになっていたと思います。それが再び脚光を浴びたのは、2016年3月に鉄筆文庫より『日本国憲法 9条に込められた魂』の中の一編(というか中核文書)として出版されたことです。(もっともその前月にテレビ朝日の報道ステーションが「スクープ」として報じたそうなのですが、この報道は私は見ていません。)私もその本が出てすぐに読み、一読して嘘だと思ったことは先に述べました。
それでは、いよいよ次回から、「平野文書」の信憑性についてみていくことにしましょう(続く)(次回から文体は「である」調にします。)
2023年8月25日 稲田恭明
核汚染水の海洋投棄を憂う 時事短歌4首
曲木草文
生きものの母なる海に捨てるとや 事故原発の核汚染水
メルトダウンせし原発の汚染水 「処理水」言うて海に流すとや
実害を「風評被害」と言いくるめ 原発汚染水「処理水」と
最初から守る気のない約束ぞ 「風評被害」は金で解決
疑問だらけの「単独親権」制
(弁護士 後藤富士子)
1 「離婚罰」?
現行の父母の「共同親権」制は、昭和22年の民法改正で導入された。民法818条は、第1項で「成年に達しない子は、父母の親権に服する。」とし、第3項で「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」としている。父母の一方が親権を行うことができないときには他の一方が行うが(818条3項但書)、やむを得ない事由があり自ら親権を辞退する場合でも家庭裁判所の許可が必要である(837条1項)。
また、親権喪失については、実体的にも手続的にも厳格な制限がある。①虐待、②悪意の遺棄、③親権行使が著しく困難または不適当であることにより子の利益を著しく害するときに、法定された請求者の請求により、家庭裁判所が親権喪失の審判をすることができる。この審判は、「しなければならない」のではないうえ、①~③の事由が2年以内に消滅する見込みがあるときにはできない(834条)。「子の福祉」の後見的役割を負う家庭裁判所でさえも、父母の親権を剥奪することには抑制的である。
ところが、父母が離婚する場合には、必ず父母のどちらか一方の単独親権になる(民法819条1~3項)。この「単独親権」制は絶対的であり、例外が認められていない。共同親権の例外が限定的であり、親権喪失審判も極めて抑制的であるのに比べると、「単独親権」制の絶対性は際立っている。法解釈論に引き直すと、「離婚」が法定の親権喪失事由になっている。
婚姻中に共同親権者であった父母の一方が、離婚によって親権を喪失するというのは、まるで離婚に対する制裁ではないか。これは、明らかに「離婚の自由」を侵害する。国家は、法律婚の解消を困難にして、国民を「法律婚」の枠内に閉じ込めようというのだろうか。
2 父母が単独親権を争うと「裁判官が決める」?
協議離婚の場合にも、単独親権者を決めなければ、離婚届が受理されない。父母の協議で決められないときに、父または母の請求によって家庭裁判所が協議に代わる審判をすることができる。 (さらに…)