志位和夫『共産主義と自由』を読む  

合田寅彦(2024・9・6)

新聞広告を目にして講演録である上記の書を買い求めた。読み進めている途中、なぜだか北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の浮世絵が頭に浮かんでいた。どちらも、身分社会の厳しい言わば自由にほど遠いと思われがちな江戸時代にあって、平和な庶民の姿を描いている。そこに権力者の姿はどこにもない!そんなイメージが頭をかすめながら同時にマルクスの『資本論』を基に語る志位氏の「おとぎ話」に聞き入る民青諸君の素直な顔を活字の向こうに思い浮かべていた。九十を目前にしたさび付いた頭脳の私に良い刺激を与えてくれた本書に感謝しないわけにはいかない。

若き日のマルクスは「ヘーゲルの弁証法」と「フォイエルバッハの唯物論」を学ぶ中で彼独自の「資本制社会における人間疎外(労働疎外)」を深く認識し(「経済学哲学手稿」)、かの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ11」で「かつて哲学者は歴史をさまざま解釈してきたが、肝心なことは変革することである」(おぼろげな私の記憶)と言いきったのだ。

さて、志位氏の講演を聞いた民青諸君はそこから何を会得したのであろうか。自分たちの日頃の活動(共産主義社会実現に向けての)に自信なり可能性なりを感じ取れたとしたら、それは志位氏のどこのどのような言辞がそれにあたるのだろうか。彼の講演が「おとぎ話」でないとの認識に立つのであれば、だが。

19世紀中葉のヨーロッパ(イギリス)は10歳程度の子供が平気で12時間もの労働をさせられていた社会であった。マルクスはエンゲルスの力や当時の『児童労働調査委員会報告・証言』を借り受け、そのあたりのことを「資本論」(第一巻)で克明に記述している。「資本制社会の崩壊」がまさしく人間解放の実現そのものであったのだ。だからこそ労働者の国際的団結が必要であった。マルクスの第一インターナショナル、レーニンの第二インターナショナル、ルクセンブルグの第三インターナショナル、トロツキーの第四インターナショナルはそのような社会革命のイメージを、労働疎外に身を置く労働者の国際的連帯に描いたのだ。

現実には、日本ばかりか世界中の労働運動が壊滅的状況にある。ではそれに代わる市民運動はどうか。すでにべ平連のような市民運動もなければ、残念なことに「日米安保破棄!」の一大国民運動もない。日米軍事同盟批判を口にする政党は「共産党」と弱小「社会党」と「れいわ」しかない。

では志位氏は、「おとぎ話」としてではなく、どのような社会認識に立って望ましい「共産主義社会での自由」を現実社会と結び付けて民青諸君に語ろうとしているのか。私にはそれがまったく見えない!

「共産主義社会の自由」があたかもコロナウイルスのように個人の価値観とは関係なく資本制社会に蔓延するものであれば、そのウイルスを肯定的に扱えばすむことだが、そんな都合の良いことはあり得ない。そうであれば、仮に共産主義が実現したとして、「志位氏の語る自由」はそれまでに身に刷り込まれた庶民の「個人所有の価値観」とどこでどう折り合いをつけるというのか。かつてのロシアのように強権により弾圧するのであれば別だが。資本制社会が崩壊すれば必然的に解決するものではなかろう。文学者であらずとも、人間がそんな単純な存在でないことくらい志位氏であれば分かろうものを。講演の中でその部分を志位氏は全く触れていない。来るべき「共産主義社会」にあって「政治権力」は存在するのかどうか。旧来の彼ら個人所有者に対し(当然抵抗はあろう)、かつてのロシア革命の自営農民弾圧のようなことをしないとの前提にたてば、でのことだが。

私なりに共産主義社会実現のイメージを考えてみたい。かつてのように、革命的労働者による政権奪取はありえない。なにしろ労働組合がないのだから。力による実現は不可能だという認識の上に立って。

考えられることは、貧困家庭を抱え込んだ「大まかな生活協同体」(財産の共有にまでいけばなお良い)がそれこそ全国津々浦々に誕生し、よい結果を生んでいることが大多数の国民の目にしかと認識されたときであろう。共産党員であればこそ、自分たちの間だけでもそれに似た生活共同体があっていいと思うが、どこにもない。かの「ヤマギシ会」の生みの親・山岸巳代蔵にその考え(ヤマギシズム)があったらしいが。

志位氏は現実に共産党という革新政党の指導者であるにもかかわらず、彼の言辞からそうした「共産・共有」のイメージがどこにも感じられない。かつてのフランス革命の合言葉「自由・平等・友愛」の「友愛」がここで言う「共有」にあたる。その「共有」の観念抜きに「共産主義的自由」があたかもそれ自体独り歩きするなどとは、「幻想」に過ぎないではないか。つまり、志位氏の講演が「おとぎ話」であるということだ。

以下がもう一つの志位氏批判の核心だ。あるべき共産主義社会の「自由」を語る前に、その「共産」を頭に冠する日本共産党という政治組織に果たして「人間の思考の自由」はあるのか。

結党以来100余年の日本共産党がこれまでにどれだけの数の党員を「反党分子」として除名してきたか。「権力の回し者」が仮にその中にしたとしても・・・。

未来社会を築こうとしてきた党であってみれば、その未知の社会へのイメージが多様であることはむしろ「財産」であろうに、文学者をはじめ多くの思想家を異分子として排除してきたのではなかったか。己の組織に多様な思考の自由がなく、どうして「党がイメージする未来の人間社会」に「自由がある」と語ることができるのか。近 しい共産党員が数名いる。みなさん「善人の塊」のような人たちばかりだ。ただし党の任務に縛り付けられている見るからに可哀そうな「市会議員の
某」一人を除けばだが。傍観していて滑稽である。とはいえ、その地域共産党員皆さんの口にする言葉はすべて「コピーされたもの」との印象を抱くものばかりだ。「共産主義社会での人間の自由」を語る前に、「おのが党の言論の自由がどれほど狭められているか」をこそ党員各位は自覚すべきであろう。

Q&A 志位和夫『共産主義と自由』を読む  

合田寅彦(2024・9・6)

新聞広告を目にして講演録である上記の書を買い求めた。読み進めている途中、なぜだか北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の浮世絵が頭に浮かんでいた。どちらも、身分社会の厳しい言わば自由にほど遠いと思われがちな江戸時代にあって、平和な庶民の姿を描いている。そこに権力者の姿はどこにもない!そんなイメージが頭をかすめながら同時にマルクスの『資本論』を基に語る志位氏の「おとぎ話」に聞き入る民青諸君の素直な顔を活字の向こうに思い浮かべていた。九十を目前にしたさび付いた頭脳の私に良い刺激を与えてくれた本書に感謝しないわけにはいかない
若き日のマルクスは「ヘーゲルの弁証法」と「フォイエルバッハの唯物論」を学ぶ中で彼独自の「資本制社会における人間疎外(労働疎外)」を深く認識し(「経済学哲学手稿」)、かの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ11」で「かつて哲学者は歴史をさまざま解釈してきたが、肝心なことは変革することである」(おぼろげな私の記憶)と言いきったのだ。

さて、志位氏の講演を聞いた民青諸君はそこから何を会得したのであろうか。自分たちの日頃の活動(共産主義社会実現に向けての)に自信なり可能性なりを感じ取れたとしたら、それは志位氏のどこのどのような言辞がそれにあたるのだろうか。彼の講演が「おとぎ話」でないとの認識に立つのであれば、だが。
19世紀中葉のヨーロッパ(イギリス)は10歳程度の子供が平気で12時間もの労働をさせられていた社会であった。マルクスはエンゲルスの力や当時の『児童労働調査委員会報告・証言』を借り受け、そのあたりのことを「資本論」(第一巻)で克明に記述している。「資本制社会の崩壊」がまさしく人間解放の実現そのものであったのだ。だからこそ労働者の国際的団結が必要であった。マルクスの第一インターナショナル、レーニンの第二インターナショナル、ルクセンブルグの第三インターナショナル、トロツキーの第四インターナショナルはそのような社会革命のイメージを、労働疎外に身を置く労働者の国際的連帯に描いたのだ。
現実には、日本ばかりか世界中の労働運動が壊滅的状況にある。ではそれに代わる市民運動はどうか。すでにべ平連のような市民運動もなければ、残念なことに「日米安保破棄!」の一大国民運動もない。日米軍事同盟批判を口にする政党は「共産党」と弱小「社会党」と「れいわ」しかない。

では志位氏は、「おとぎ話」としてではなく、どのような社会認識に立って望ましい「共産主義社会での自由」を現実社会と結び付けて民青諸君に語ろうとしているのか。私にはそれがまったく見えない!
「共産主義社会の自由」があたかもコロナウイルスのように個人の価値観とは関係なく資本制社会に蔓延するものであれば、そのウイルスを肯定的に扱えばすむことだが、そんな都合の良いことはあり得ない。そうであれば、仮に共産主義が実現したとして、「志位氏の語る自由」はそれまでに身に刷り込まれた庶民の「個人所有の価値観」とどこでどう折り合いをつけるというのか。かつてのロシアのように強権により弾圧するのであれば別だが。資本制社会が崩壊すれば必然的に解決するものではなかろう。文学者であらずとも、人間がそんな単純な存在でないことくらい志位氏であれば分かろうものを。講演の中でその部分を志位氏は全く触れていない。来るべき「共産主義社会」にあって「政治権力」は存在するのかどうか。旧来の彼ら個人所有者に対し(当然抵抗はあろう)、かつてのロシア革命の自営農民弾圧のようなことをしないとの前提にたてば、でのことだが。

私なりに共産主義社会実現のイメージを考えてみたい。かつてのように、革命的労働者による政権奪取はありえない。なにしろ労働組合がないのだから。力による実現は不可能だという認識の上に立って。
考えられることは、貧困家庭を抱え込んだ「大まかな生活協同体」(財産の共有にまでいけばなお良い)がそれこそ全国津々浦々に誕生し、よい結果を生んでいることが大多数の国民の目にしかと認識されたときであろう。共産党員であればこそ、自分たちの間だけでもそれに似た生活共同体があっていいと思うが、どこにもない。かの「ヤマギシ会」の生みの親・山岸巳代蔵にその考え(ヤマギシズム)があったらしいが。
志位氏は現実に共産党という革新政党の指導者であるにもかかわらず、彼の言辞からそうした「共産・共有」のイメージがどこにも感じられない。かつてのフランス革命の合言葉「自由・平等・友愛」の「友愛」がここで言う「共有」にあたる。その「共有」の観念抜きに「共産主義的自由」があたかもそれ自体独り歩きするなどとは、「幻想」に過ぎないではないか。つまり、志位氏の講演が「おとぎ話」であるということだ。
以下がもう一つの志位氏批判の核心だ。あるべき共産主義社会の「自由」を語る前に、その「共産」を頭に冠する日本共産党という政治組織に果たして「人間の思考の自由」はあるのか。
結党以来100余年の日本共産党がこれまでにどれだけの数の党員を「反党分子」として除名してきたか。「権力の回し者」が仮にその中にしたとしても・・・。
未来社会を築こうとしてきた党であってみれば、その未知の社会へのイメージが多様であることはむしろ「財産」であろうに、文学者をはじめ多くの思想家を異分子として排除してきたのではなかったか。己の組織に多様な思考の自由がなく、どうして「党がイメージする未来の人間社会」に「自由がある」と語ることができるのか。近くは松竹某氏の除名があったではないか。笑止千万と言うに等しい。
私の地域にごく親しい共産党員が数名いる。みなさん「善人の塊」のような人たちばかりだ。ただし党の任務に縛り付けられている見るからに可哀そうな「市会議員の某」一人を除けばだが。傍観していて滑稽である。とはいえ、その地域共産党員皆さんの口にする言葉はすべて「コピーされたもの」との印象を抱くものばかりだ。「共産主義社会での人間の自由」を語る前に、「おのが党の言論の自由がどれほど狭められているか」をこそ党員各位は自覚すべきであろう。

『安倍政権の総括』について

                  高見正吾(千葉県我孫子市)

 完全護憲の会に入会させていただいた高見正吾です。よろしくお願いします。

 現在66歳なのですが――60歳直前に父が急死、以後、相続、入院・手術2回、母の介護、病気のリハビリが続き、今でも精神的な落ちこみが続き、健康に不安な毎日です。

 今年の7月半ばから8月末まで、夏バテ・精神的疲れでダウン、完全護憲の会他、郵送物まで気がまわりませんでした。

 11月は調子がよいので家の中のかたづけをしていました。郵送物の中から安倍政権の総括(完全護憲の会)を見つけ、今ごろになって読みはじめました。最近、もっともよい本であると思います。

 安倍政権は「安倍晋三と、そのお友だち」で総括するものではなく、日本の日清戦争からはじまる大陸支配にさかのぼり、長い歴史によって総括しなければわからないのではないかと思います。第2次世界大戦以前からの歴史をふりかえる必要があるのではないか?

 その中心が満州で、鉄道が重要です。そのため日本・国鉄に関係する論客が活躍することになります。

 私の母方の祖父は満州、鉄道勤務と聞いていたので、満州鉄道だと思っていたら、華中鉄道でした。駅の助役をしていました。中国の評判がよく、戦後も数年間中国に残り、鉄道指導担当だったそうです。日本にもどり、国鉄に入り、亀有の駅員だったという。下山事件の時だったかは不明です。華中鉄道は日本国内向けに蛍石(ほたるいし)を運んでいたらしい。当時、佐藤栄作が実権を持っていたのではないか?

 さて、安倍政権の本の感想なのですが、不勉強で、勉強しなければいけない部分が多いです。今のところは「通常のマスコミでは、得ることのできない重要な点をズバリと、まともに語っている」と評価できる良本になっているということです。

 しかし、安倍政権はそもそもまともではないので、まともな議論で、はたして対抗できるのか不安です。

 私は日本新党の選挙スタッフしていました。仲間と票読みをしました。調査、研究も。

 福田玲三さんの衆議院、参議院の総選挙の数字を元に分析すると――投票率50%として考えた場合、自民・公明の得票数は50%であるため、有権者の25%で与党300議席が可能であるという計算になります。

 公明は創価学会員であるため、自民は20%で衆議院280議席が可能――自民はその20%しか考えていないということになる。これが安倍晋三の選挙です。

 自民・安倍を勝利させた20%の票は、個人の財産を第一に考える人々です。個人の財産、すなわち株と金融です。安倍政権ははじめから実体経済などどうでもよく、国民などどうでもよく、資本家・投資をしている人だけを考えていました。

 そしてアジア大陸に進出して、再度満州帝国を志向する人々を応援する政策だったのではないか?当然、中国・ロシア・北朝鮮、そして日本に味方する韓国も属国にすることを考え、幸いアメリカは軍事目的のためにスポンサーになってくれる。安倍晋三のお友だちは自分の財産の拡大しか考えず、その数が有権者の20%になるため、自民党は280議席になっていたのではないか?

 自公の得票率は50%なので、半分、50%が野党にまわっている。だから野党が一つになれば、自公の議席数は野党と同じになります。しかし野党は共闘しない。そのため自公は50%で300議席ということになります。

 野党が共闘しないと議会制民主主義はなりたたないです。

 自民党・安倍政権が実体経済を無視して金融経済を重視するのも、国民などどうでもよく、資本家、投資をしている人を優先させるのも、自民党が衆議院280議席を取るため、有権者20%を抑えるためです。

 有権者の20%を確実にするために、株価をあげる。そのために外資を集めようとします。まともに安倍政権を批判しても、安倍政権が悪いものであっても、自分の財産をキープ・拡大したい有権者が20%いれば、自民党は280議席で常に勝利できます。

 これが安倍晋三を長期総理にしたてあげたシステムであると思います。

 国民が貧困になれば強い政権に対して闘うのではなく、助けてくれと従うようになる。闘う勢力に対しては、過激派・反日といって弾圧します。

 国民は反対・弾圧よりも株を買って稼ぐ方にまわり、もうかる情報を得るために従います。そして株で損をします。

 それでは、どうしたらよいのか? 一番現実的なのは選挙のシステムを変えること――野党共闘です。有権者の20%では政権をとれなくさせればいいのです。野党共闘のジャマをしているのが連合です。ゼンセンと電力総連がガンです。

 創価学会員が大量に平和と反原爆運動をやれば日本は変わります。(学会員に期待するのはそれしかない)

 戦争と原爆(核)がなかったら、アメリカ経済が崩壊します。日本の非正規社員は農業を復活させて自給自足の生活をすればよいと思います。(12月2日)

私の日本共産党論

合田寅彦

今や共産党と名がつく政党は資本主義世界ではわが国だけであろう。貴重な政党だ。その共産党の文書にしばしば「科学的社会主義」なる言葉が散見される。「人道的社会主義」ならば、かつてスターリンによってなされた農業の集団化に抵抗するロシアの自営農民への虐殺やシベリア追放の反省の上に立った用語として納得できるが、「科学的」とはこれ如何に?だ。
仮にいま「共産党はこの地球に万有引力が存在することを認めるものである」と言ったとしよう。そこにいささかの間違いがないとしても、世の物笑いになるだけだろう。だれもがニュートンの名を知っているからだ。
万有引力のニュートン、ラジウム発見のキュリー、資本主義の本質を論じたマルクス・・・。私たちはいずれも「最初にその本質を見抜いた人」の名前を冠してその業績をたたえている。科学的態度とは、真理にたいしてはあくまで謙虚であることだ。あとからもっともらしいことを言ってもだれも評価しない。
では共産党の「科学的社会主義」はどうか。果たして共産党は「科学的」を口にできるだけの政党なのか。
最新の『共産党綱領』を読んでみるとそれがよくわかる。そこでは旧ソ連が侵したハンガリーやチェコへの軍事介入を批判している。ではそう言う当時のおのれ自身はどうだったか。ソ連を支持していたのではなかったか。当時の文献を見ればそれは明白だ。「あったこと」も「なかった」ことにするのか。
一方、60年前(!)のそのころ既に軍事侵攻したソ連の社会主義(スターリニズム)批判をしていた人は何人もいた。その人たちに対して共産党は「トロツキスト」(現行「社会主義」を貶める悪役)と蔑称して左翼陣営から排除していたのだ。「科学的」と言うのであれば、まずソ連社会主義の本質を最初に暴いた共産党が言うところの「トロツキスト」に対して、自らの不明を恥じ首(こうべ)を垂れるべきではないか。それが科学的態度というものであろう。
1962年にモスクワで開かれた国際学生連盟総会に日本代表として全学連の3名が参加した。当時、日本の全学連を除くすべての国の学連代表はそれぞれ自国の共産党に倣ってソ連の水爆実験を支持していた。
そうした中で、全学連委員長の根本仁(北海道学芸大学学生、私と60年安保闘争を一緒に闘った仲)ほか2名がモスクワの「赤の広場」で「ソ連水爆実験反対」の横断幕を掲げてデモをしたのだ。当時のソ連だ。決死の覚悟を必要としたであろう。今から振り返れば当然の快挙なのだが、これを共産党は「跳ね上がり分子」として完全に無視したのである。つまり、「党綱領」を見る限り共産党は歴史認識に疎い「科学的」からいちばん遠い存在だということだ。
党員のみなさんに問いたい。みなさんがかつて常に口にしていた「平和勢力」なるものが果たしてこの世に存在していたのかどうか。

私の住む石岡の共産党員は、党専従の頭の堅い一人を除けばだれもが誠実で心の綺麗な人ばかりだ。そのひたむきな活動には頭がさがる。私にはとうてい真似ができない。
もし私が上記の問題を彼らに突きつけたとして、この人たちはどう応えればいいのか。
党中央はまじめに地域活動をしている無数の党員のことなど考えもせず、歴史を改ざんした「正当性」を彼らに押し付けているのである。外部からの批判に対して日ごろ党中央が「答弁する言葉」は統一教会や創価学会のそれと変わるところがない。組織の体質が同じだからであろう。
今の共産党は、自党の負の部分を常に「なかったもの」とする。将来、共産党が政治の中心を担ったときに、そんな体質のまま国民を操るのであろうか。そんな政府はゴメンだ。
今の共産党にあるそうしたぬぐい難い体質が変わらない限り、党員数や「赤旗」の発行部数はこれからもどんどん少なくなっていくであろう(4月の地方統一選挙での中央委員会総括では「私たちは4年前に比較して91%の党員、87%の日刊紙読者、85%の日曜版読者でたたかった」とある)。「4年前(?!)に比較して」である。
自民党と公明党に対抗できる唯一の政党は共産党しかいないのだから、「党内で議論が自由に巻き起こる開かれた政党」(しかも万人に公開された)として有意の若者を巻き込んでほしいものである。

(注)レオン・トロツキー(1870~1940)
ロシア革命のレーニンに次ぐ理論的および実践的指導者。赤軍の創設者。「永久革命論」を主張。「一国社会主義」を主張するスターリンのために国外追放。亡命先のメキシコでスターリンの手先により暗殺。著書「裏切られた革命」。トロツキーの暗殺者は1961年に「レーニン勲章」を受ける。

(2023・9・20)

安倍政権のメディア支配(3)

「私の答弁が信用できないんだったら、もう質問なさらないで」(3月15日参院)。
高市元総務相(現・経済安保担当相)の答弁がしどろもどろになってきたが、この問題は総務省文書の真実性を証明することが目的ではない。問題の核心が安倍政権のメディア支配・言論統制であることは連載第1回で述べたが、今回は、その根拠とされた放送法の解釈について説明しよう。

すでに述べたように、高市総務相(当時)は2015年5月12日、放送法第4条の定める「政治的公平」について、「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」という従来の解釈を変更し、「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」との答弁を行い、同年11月10日には「放送事業者が仮に放送法に違反した場合、総務大臣は……3か月以内の業務停止命令をできる」と発言し、翌2016年2月8日には、「政治的公平」を定めた放送法第4条に違反した場合には放送局に電波停止を命じる可能性にまで言及した。しかし、このような放送法の解釈は根本的な誤りである。その理由を説明する。
放送法第4条は次のように定めている。

第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
(2項以下省略)

今回問題となっているのは、高市総務相や自民党、安倍応援団の民間人(放送法遵守を求める視聴者の会)などが、放送法第4条1項2号の定める「政治的に公平であること」(「政治的公平性」)に放送事業者が違反した場合は、総務相が行政指導を行うことができるとの理解を前提に、「政治的公平性」の判断基準を「放送番組全体」から「一つの番組」へと変更したことだと思われがちである。しかし、この理解がすでに大きな間違いを犯している。「政治的公平性」の判断基準が「番組全体」であろうが「一つの番組」であろうが、「政治的公平性」など第4条の規定が公権力の番組への介入を正当化しうる根拠になりうるという解釈自体が根本的な間違いなのである。なぜなら、第4条は、放送事業者が番組内容を編集する際に自らを律する倫理規範であって、政府が放送内容に介入するための規制規範ではないからである。そのことは、放送法の第1条と第3条を見ればよりはっきりする。次のような規定である。

第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

第3条 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

第1条第2号は、「放送による表現の自由を確保」することを目的として、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障」するとされているが、この場合、放送の「不偏不党、真実及び自律」を保障すべき主体は政府であって、放送事業者ではない。このことは、「放送番組は……何人からも干渉され、又は規律されることがない」と規定して「放送の自由」を保障した第3条の規定によっても裏書されている。砂川浩慶も『安倍官邸とテレビ』の中で、第1条第2号前半の文章について、「主語が明示されていないので分かりにくいが、放送法は行政行為を規定するものだから、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障」する主体は行政(政府)だとするのが一般的な解釈である」と指摘している。

放送倫理・番組向上機構(BPO)の「放送倫理検証委員会」は2015年11月6日、NHK『クローズアップ現代』の“出家詐欺”報道に関する意見を公表したが、その「おわりに」において、自民党によるメディア支配の試みを批判しつつ、放送法第1条について、次のように述べている。

「しばしば誤解されるところであるが、ここに言う「放送の不偏不党」「真実」や「自律」は、放送事業者や番組制作者に課せられた「義務」ではない。これらの原則を守るよう求められているのは、政府などの公権力である。(中略)放送法第1条2号は、その時々の政府がその政治的な立場から放送に介入することを防ぐために「放送の不偏不党」を保障し、また時の政府などが「真実」を曲げるよう圧力をかけるのを封じるために「真実」を保障し、さらに、政府などによる放送内容への規制や干渉を排除するための「自律」を保障しているのである。これは、放送法第1条2号が、これらの手段を「保障することによって」、「放送による表現の自由を確保すること」という目的を達成するとしていることからも明らかである。」

BPOはさらに、第4条についても次のように述べている。

「「放送による表現の自由を確保する」ための「自律」が放送事業者に保障されているのであるから、放送法第4条第1項各号も、政府が放送内容について干渉する根拠となる法規範ではなく、あくまで放送事業者が自律的に番組内容を編集する際のあるべき基準、すなわち「倫理規範」なのである。逆に、これらの規定が番組内容を制限する法規範だとすると、それは表現内容を理由にする法規制であり、あまりにも広汎で漠然とした規定で表現の自由を制限するものとして、憲法21条違反のそしりを免れないことになろう。・・・
したがって、政府がこれらの放送法の規定に依拠して個別番組の内容に介入することは許されない。」

そのうえで、BPOは、自民党が2015年4月17日、NHKとテレビ朝日の幹部を党本部に呼びつけた事態について、次のように厳しく批判した。

「自民党が、放送局を呼び説明を求める根拠として放送法の規定をあげていることは、法の解釈を誤ったものと言うほかない。今回の事態は、放送の自由とこれを支える自律に対する政権党による圧力そのものであるから、厳しく非難されるべきである。」

以上で、放送法を番組介入の根拠にしようとすること自体が根本的な誤りであることをご理解いただけたであろう。この観点からすれば、「政治的公平性」を「放送番組全体」で判断するか、「一つの番組」で判断するかという論点は、問題の本質を見失ったものと言うほかない。いずれにせよ、「政治的公平性」の判断主体は一義的には放送事業者自身であり、最終的には視聴者であって、政府や公権力が判断しようとすること自体が「表現の自由」(憲法21条)に対する重大な脅威である。

問題の本質は、個々の番組や放送局が「政治的に公平」であるか否かではない。そうではなく、「政治的公平」という放送法の中の文言に勝手な解釈を加えて、政府が放送局に圧力をかけ、政府に対する批判的な言論を委縮させ、報道をコントロールしようとしたことである。「表現の自由」が民主主義と平和の基礎であることは過去の歴史が示している。民主主義と平和を守り抜く、あるいは取り戻すためにも、「表現の自由」に対する統制を見逃してはならない。

2023年3月16日 稲田恭明

安倍政権のメディア支配(2)

「安倍政権のメディア支配(1)」で述べたように、磯崎陽輔首相補佐官は2014年11月から半年近くをかけて放送法第1条「政治的公平」条項に関する総務省の従来の法解釈を変更させたわけであるが、磯崎補佐官ほどにも法律や法解釈に興味のない安倍総裁率いる自民党は、2015年5月12日の高市総務相の国会答弁による解釈変更を待つことなく、とんでもない言論弾圧に乗り出した。同年3月に『週刊文春』が報じた、前年5月放送のNHK「クローズアップ現代」の“出家詐欺”報道やらせ事件や、同年3月27日のテレビ朝日「報道ステーション」においてコメンテーターの古賀茂明氏が官邸からのバッシングを暴露して「I am not ABE」と書いた紙を提示した件を標的に、4月17日、自民党「情報通信戦略調査会」はNHKとテレビ朝日の幹部を党本部に呼びつけたのである。政権与党が個別番組の内容についてテレビ局幹部を党本部に呼びつけて事情聴取するという前代未聞の事件が起きたわけだが、これはまさに、放送法の解釈変更によって政治家が個別番組に介入できるようになるという、予想された恐れを先取りしたものであった。しかもこれは、『週刊文春』の告発記事を受けてNHKが調査委員会を立ち上げ、「中間報告」を公表した(4月9日)直後に起きた事件であった。さらに、NHK調査委員会が「最終報告書」を公表した4月28日には総務省がNHKに対して「厳重注意」を行い、5月21日には自民党が再度、NHKを呼びつけるという事態まで起きている。

さらに、同年6月25日、安倍首相に近い自民党の若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」が党本部で初会合を開催した際、同党の大西英男衆院議員は「マスコミを懲らしめるには、広告料収入をなくせばいい。文化人、あるいは民間の方々がマスコミに広告料を払うなんてとんでもないと経団連に働きかけてほしい」と発言し、井上貴博衆院議員は「テレビの提供スポンサーにならないということがマスコミには一番こたえるだろう」、長尾敬衆院議員は「沖縄の特殊なメディア構造をつくってしまったのは戦後保守の堕落だ。左翼勢力に乗っ取られている現状において、何とか知恵をいただきたい」などと放言を連発し、講師の百田尚樹は「沖縄の2つの新聞社は絶対に潰さなあかん」「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。基地の周りが商売になるということで、みんな住みだし、今や街の真ん中に基地がある。そこを選んで住んだのは誰やと言いたくなる。基地の地主たちは大金持ちなんですよ。彼らはもし基地が出て行ったりしたら、えらいことになる」「沖縄の米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪の方がはるかに率が高い」などと明らかな事実誤認を含む暴言・妄言を連発するという事件を起こしている。

ちなみに、百田氏は2012年の自民党総裁選で「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」発起人の一人であり、『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を安倍氏と共著で出版しているが、安倍首相は2013年11月、なんとこの百田氏をNHK経営委員に任命しているのである。このとき安倍首相が百田氏とともにNHK経営委員に送り込んだのが日本たばこ産業顧問であった本田勝彦氏であるが、本田氏は東大生時代、小学生だった安倍晋三の家庭教師を務めた経験があり、安倍氏の財界応援団として知られる「四季の会」の有力メンバーだった。

安倍首相はさらに、同年12月には埼玉大学名誉教授の長谷川三千子氏と海陽学園校長だった中島尚正氏をNHK経営委員に送り込んでいるが、長谷川氏も「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」の一人であり、海陽学園は「四季の会」幹事役の葛西敬之氏が創設した学校である。こうして安倍首相の息のかかった委員が多数を占めるNHK経営委員会は12月20日、籾井勝人氏を次期会長に任命した。籾井新会長は2014年1月25日の就任会見で、個人的見解と断りながら、「(従軍慰安婦問題は)今のモラルでは悪いことだが、戦争地域にはどこにもあった」、「国際放送で日本の立場を主張するのは当然。政府が『右』というものを『左』というわけにはいかない」などと発言し、大問題となった。

だが、問題発言はこれに留まらない。安倍首相に任命された新経営委員である長谷川三千子氏は、同年1月22日、「私は安倍首相の応援団です。私は安倍という政治家を信頼している」と発言し、百田氏は2月3日、都知事選での田母神俊雄候補の応援演説で、「田母神さん以外の候補は、私から見れば人間のクズみたいなもんです」、「日本はアジア諸国を侵略した、と。とんでもない、これは大嘘です」などと放言した。

同年2月、NHKの「クローズアップ現代」が前年秋に着任したキャロライン・ケネディ駐日米大使にインタビューを申し込んだが、大使側から拒否されたのは、こうした籾井会長の従軍慰安婦発言や百田直樹経営委員の南京虐殺でっち上げ発言などへの不信感が原因だったと言われている。

ほとんどの憲法学者が憲法違反と指摘する安保関連法案の審議が大詰めを迎えていた2015年9月16日、岸井成格キャスターはNEWS23で「メディアとして(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と発言したが、これが安倍官邸とその取り巻きを激怒させたようである。すぎやまこういち、小川榮太郎、渡部昇一、渡辺利夫といった安倍応援団の文化人が「放送法遵守を求める視聴者の会」というのを作り、同年11月14日と15日に、それぞれ産経新聞と読売新聞に「私達は、違法な報道を見逃しません。」というキャッチコピーの全面広告を掲載している。この中で同広告は、9月16日のNEWS23における岸井成格氏の発言について、「放送法第4条の規定に対する重大な違反行為だと私達は考えます」と述べ、岸井氏に対する個人攻撃を行っている。こうした放送法第4条の解釈に関する根本的な誤謬については、次回(第3回)取り上げることにする。

高市総務相は同年11月10日、国会答弁で、「放送事業者が仮に放送法に違反した場合、総務大臣は放送法第174条に基づき3ヶ月以内の業務停止命令できる旨、定められています」と発言しているが、放送法174条には「特定地上基幹放送事業者」、すなわち地上波テレビとラジオに対しては「業務停止命令」できないことが明文で規定されているので、虚偽答弁に近いものである。高市総務相はさらに、2016年2月8日、衆院予算委で「政治的公平」を定めた放送法第4条に違反した場合には放送局に電波停止を命じる可能性に言及したが、放送法4条にはそもそも罰則がなく、あくまで放送事業者が自主的に番組編集を行う際の「倫理規範」にすぎず、政府が介入する根拠となるような法規範でないことは、情報法の専門家の間では常識である。しかし、高市総務相の「電波停止」発言を批判した報道番組は「NEWS23」(TBS)と「報道ステーション」(テレビ朝日)だけだったと言われている。

その「NEWS23」と「報道ステーション」の看板キャスターだった岸井成格氏と古館伊知郎氏、さらには「クローズアップ現代」(NHK)の国谷裕子キャスターは2016年3月末、一斉に降板するという事態が起きている。その舞台裏の事情まではわからない。しかし「NEWS23」と「報道ステーション」が安倍官邸に睨まれていたことは周知の事実であり、クロ現の国谷キャスターも、2014年7月3日、政府が集団的自衛権の行使容認を閣議決定した2日後、番組に出演した菅官房長官を質問攻めにしたことにより、番組終了後、官邸サイドから制作現場に強烈な圧力がかけられたと言われている。こうして2016年春、政権の嫌うキャスターは、「そして誰もいなくなった」のである。
次回は「政治的公平性」を中心とする放送法の規定について解説する。(つづく)

2023年3月15日 稲田恭明

安倍政権のメディア支配(1)

放送法の解釈変更の経緯を記した総務省文書をめぐる報道が連日なされているが、日々の報道を追っているだけでは、問題の本質が見えてこない場合がある。この問題はまさにその一例ではないだろうか。

報道では、高市早苗経済安保担当相(問題の文書作成当時の総務相)が総務省の文書を「捏造」だと主張し、もし「捏造」でなければ閣僚も議員も辞職すると、故安倍首相ばりの啖呵を切ったかと思えば、形勢不利となるや一転、「閣僚や議員の辞職を迫るのなら文書が完全に正確だと相手も立証しなければならない」と、これまた安倍氏譲りの卑怯な逃げを打つ滑稽な姿が強調されている。しかし、問題の核心はそこではない。放送法の解釈変更というこの問題では、高市元総務省はあくまでも舞台で演じる役者にすぎず、台本を書いたのが磯崎陽輔元首相補佐官であることは、総務省文書がはっきり示している。

少し話が逸れるが、磯崎陽輔氏と言えば、2012年4月に自民党が公表した憲法改正草案が立憲主義違反であると批判を浴びていた頃、立憲主義について、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」とツイート(同年5月28日)して、多くの市民を驚愕と失笑の渦に巻き込んだ人物である。本人は東大法学部卒であることを自慢しているらしく、自民党の憲法改正草案起草委員会事務局長を務め、自民党内では「憲法博士」と呼ばれていたそうだが、その「憲法博士」の憲法知識が「立憲主義も聴いたことがない」というお粗末さ加減であるから、その人物が中心となって取りまとめられた自民党の改憲草案がお粗末極まりないのも当然である。ちなみに、言うまでもないことながら、立憲主義とは、民主主義や自由主義と同じく、政治思想・法思想史上の思想を表す言葉であって、「学説」などとは次元が異なることは論を俟たない。同年9月の自民党総裁選では安倍陣営の選対で参院事務局長を務めたことから、安倍氏の覚えめでたく、同年12月、第2次安倍内閣で首相補佐官に任じられたようである。

総務省文書に話を戻せば、問題は、なぜ磯崎氏が放送法解釈変更の台本を書いたか、である。結論から言えば、これは安倍政権のメディア支配・言論統制の一環であり、安倍政権でなければ起こり得なかった事件である。戦後史上、安倍政権ほどなりふり構わずメディア支配と言論統制に執着した政権はなかったが、今回の問題も、20141118日、安倍首相が衆院解散を表明した夜、TBSの「NEWS23」に出演した際に、アベノミクスに批判的な街頭インタビューを見た安倍首相が、「みなさん、人を選んでおられる。おかしいじゃないですか」とキレまくったことがすべての発端であった。この一件が自民党の役員連絡会で話題となり、自民党は11月20日、在京テレビ各局に、「選挙時期における選挙の公正中立ならびに公正の確保についてのお願い」と題する文書を送付している。そこには、出演者の発言回数や時間、ゲスト出演者の選定、テーマ選定、街頭インタビューに至るまで、一方的な意見に偏ることがないよう要求する、という異様な文書であった。これ以降、ワイドショーなどでの総選挙関連報道が激減し、キー局全体では前回(2012年)の総選挙に比して半分以下の42%にまで報道量が激減した。総選挙をテーマとしたテレビ朝日の「朝まで生テレビ!」は急遽、予定していた評論家や文化人の出演を取りやめ、政治家のみの出演に変更したという。

安倍首相が衆議院を解散した2日後の(2014年)11月23日、TBSのサンデーモーニングで出演者が政権に批判的な意見を述べると、磯崎首相補佐官はすかさずツイッターに「日曜日恒例の不公平番組」「仲間内だけで勝手なことを言い、反論を許さない報道番組には、法律上も疑問がある」などと投稿し、翌日も再びツイッターに「放送法上許されるはずがない。黙って見過ごすわけにはいかない」と投稿している。この日(11月24日)、テレビ朝日の「報道ステーション」が「アベノミクスによる株高ですごく儲かった人たちがたくさんいます」と放送すると、その2日後、自民党の報道局長が24日のテレビ朝日「報道ステーション」に対し、放送法4条の趣旨に悖るとして、公正中立な報道を求める文書を出している。そして、磯崎補佐官から総務省放送政策課に「政治的公平」の解釈や運用、違反事例について局長からレクチャーしてほしいと電話連絡があったのも、この同じ11月24日だったのである。これが、今回の放送法解釈変更の出発点である。

こうした一連の流れを見れば、すべての問題の発端が、安倍政権の政策や自民党に対して批判的な一切の報道を許容せず、それを「公平性」違反の名のもとに弾圧しようとする安倍首相の政治姿勢に発していることは明らかである。そして安倍首相の補佐官として、最も忠実に安倍氏の意向を忖度し、「法解釈変更」という形で実現しようと“奮闘”したのが、磯崎陽輔補佐官であったというのも頷けよう。このあと磯崎補佐官は同年11月28日から翌15年2月24日までの間に総務省の安藤友裕情報流通局長に9回にわたってレクチャーさせるという名目で自分の解釈を総務省に押し付けた上で、3月5日は自ら(今井尚哉首相秘書官、山田真貴子首相秘書官ととに)安倍首相にレクチャーを行い、国会で総務相から放送法の解釈変更に関わる答弁をしてもらうことで承認を得ている。このような一連の根回しを経た上で、同年5月12日には自民党の藤川政人議員が参議院総務委員会で高市総務相に放送法第4条の定める「政治的公平」について質問し、高市総務相から「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」との答弁を引き出し、それまでの「政治的公平は一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」という解釈からの変更を行ったのである。

それにしても、「虎の威を借る狐」は信じられないほど居丈高になりうることを、磯崎氏もまた見事に例証している。2月24日に行われた総務省から磯崎補佐官への9回目のレクチャーの際には、「総理にお話しされる前に官房長官にお話し頂くことも考えられるかと思いますが」との安藤情報流通行政局長の発言に対し、「何を言っているのかわかっているのか。これは高度に政治的な話。官房長官に話すかどうかは俺が決める話。局長ごときが言う話ではない。……この件は俺と総理が二人で決める話」、「俺の顔をつぶすようなことになれば、ただじゃあ済まないぞ。首が飛ぶぞ。もうここに来ることができないからな」などと恫喝しているのである。一体、自分を何様だと思っているのだろうか。ちなみに、磯崎氏は1982年に自治省に入省し、安藤氏は82年に郵政省に入省している。その後、2001年に自治省、郵政省、総務庁が統合して総務省ができたわけだから、いわば磯崎氏と安藤氏は同期入省組である。総務省出身者として、本来なら政治家へのレクチャーなど官僚の仕事の苦労もわかっていて当然の立場である。それがここまで傲慢無礼な態度に出られるも、安倍側近として「親分」の態度を見習ったせいなのだろうか。

今回公表された総務省文書でもう一つ興味深いのが、2015年2月18日に行われた山田真貴子首相秘書官へのレクチャーの際の、山田秘書官の発言である。山田秘書官は、「今回の整理は法制局に相談しているのか。今まで「番組全体で」としてきたものに、「個別の番組」の(政治的公平の)整理を行うのであれば、放送法の根幹にかかわる話ではないか。本来であれば審議会等をきちんと回した上で行うか、そうでなければ放送法改正となる話ではないのか」。「磯崎補佐官は官邸内で影響力はない。今回の話は変なヤクザに絡まれたって話ではないか」。「政府がこんなことしてどうするつもりなのか。磯崎補佐官はそれを狙っているんだろうが、どこのメディアも委縮するだろう。言論弾圧ではないか」。「総務省も恥をかくことになるのではないか」などと語っているが、極めて真っ当な発言であり、同じ総務省出身者でも磯崎氏とは好対照である。3月5日の安倍首相への説明の際も、山田秘書官は、「(磯崎補佐官の)説明のような整理をすると、総理単独の報道が委縮する。極端な事例以外は何でもよくなってしまう。メディアとの関係で官邸にプラスになる話ではない」、「一度整理をすれば個々の事例のあてはめが始まり、官邸と報道機関の関係にも影響が及ぶ」などと再考を促すが、安倍首相は、「政治的公平という観点からみて、現在の放送番組にはおかしいものもあり、こうした現状は正すべき」などと取り合わず、磯崎提案を受け入れたのである。これに気を良くした磯崎氏は翌日、安藤局長らへの連絡で、「山田秘書官は抵抗しすぎだったな」、「あんまり無駄な抵抗はするなよ」などと述べているのである。(つづく)

2023年3月14日 稲田恭明

国葬を憂う 2 時事短歌2首

                         曲木草文

憲法も法も無視した宰相を 「勇気の人」と讃えし国葬

元帥を夢見ていたか霊柩車 防衛省のみ回りしは

公文書改竄の国家賠償請求訴訟 国が全額支払いで真相解明から逃げる

森友事件での公文書改竄で自死した赤木俊夫さんの妻雅子さんが、事件の真相を知るために国と当時の理財局長を相手どり損害賠償を求めている裁判で、12月15日に国は突如、賠償金を全額支払うことを明らかにし、裁判が終わることになった。賠償請求金額は1億700万円。

国賠訴訟は、その90%が原告敗訴となるのが通例で、死刑冤罪事件でも裁判で認められないケースがほとんど。森友事件でも、財務省の公文書改竄に対して検察は不起訴としており、改竄に犯罪性を認めてはいないし、財務省も身内調査で解決済みとしているだけで、再調査には応じていない。1億700万円の原資は税金であり、国はそう簡単に全額認諾などという解決方法は出来ないはずであり、原告もお金を欲しているわけではない。にもかかわらず、全額支払いを認めて早く裁判を終結したいのは、真相を闇に葬りたいという政府の下心の表れであり、何とも納得しがたい態度である。

雅子さんは、こういった国の態度に「ふざけんなと思う」「夫がなぜ死んだのかを知りたい」「また国に殺された」と憤りをあらわにした。

かつて郵便不正事件で冤罪被害者の村木厚子氏が、同じく事件の真相を知るために国賠訴訟を提起したものの、議論を嫌った国が簡単に全額、3,770万円の支払いを認諾し、決着したこともあった。当時村木氏は、「簡単に認諾されないように、もっと請求金額を大きくして、真相を明らかにしたかった」と語っていた。

この例があったことから、雅子さんは1億円以上の請求をしたにもかかわらず、国の態度は村木氏の時と同じである。自分たちに都合の悪い国賠訴訟は簡単に認諾し、そうでないものはとことん裁判で争い、判例に沿って裁判所は原告敗訴の判決を下すというパターンがいかに多いことか。

雅子さんは、元理財局長の佐川宣寿氏にも550万円の損害賠償を求めており、こちらはまだ続くことになるが、少しでも真相が明らかになることを願いたい。

2021年12月15日 柳澤 修

安倍元首相の台湾有事発言は許されない

安倍晋三元首相は12月1日、台湾で開かれたシンポジウムに日本からオンライン参加し、緊張が高まる中台関係で、「台湾への武力侵攻は日本に対する重大な危険を引き起こす。台湾有事は日本の有事であり、日米同盟の有事でもある。この点の認識を習近平主席は断じて見誤るべきではない」と語った。(『朝日』11月2日)

これに対して中国外務省は「中国内政に粗暴に干渉するものであり、日本は歴史を反省し台湾独立勢力に誤ったシグナルを送ってはならない」と強く抗議した。

第2次世界大戦で日本が敗北し、1972年に田中角栄総理が中国を訪問して国交を回復した際の「日中共同声明」(1972年)の前文で、「日本側は、過去に日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と記し、その第3条には「台湾が中国の領土の不可分の一部であることを、日本は理解し、尊重する」旨、さらには「満州、台湾および澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還する」旨が述べられている。

1978年に結ばれた「日中平和友好条約」でも、この「共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるべきものであること」が明記されている。
安倍元首相には、この責任も反省のかけらもない。
かつて、ナチスの官僚、ゲーリングは「民衆などというものは、いつでも支配者の思いどおりになる。……攻撃されるぞと恐怖をあおり、平和主義者の奴等には愛国心がなく、国を危険に晒していると非難しておけばいい。このやり方は、どこの国でもうまくいく」と述べた。

わが国の例でも、第2次安倍政権下で自民党は「敵基地攻撃能力の検討」を提言してきたが、さる10月に行われた衆院総選挙ではこの能力の「保有」を公約としてかかげ、攻撃されるぞと絶えず恐怖をあおっている。

この一連の動きの中における安倍元首相の台湾有事発言も、恐怖をあおって国民を脅し、ゆくゆくは「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる」(憲法前文)ことにつながるものものであり、けっして許されるものではない。
私たちが願うのは不安ではなく安心、戦争ではなく平和だ。
福田玲三 (12月4日)