連載の第2回でも触れたが、平野は1993年に出版した『平和憲法の水源――昭和天皇の決断』(以下、『水源』と略す)の中で、憲法調査会の高柳賢三会長から「幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と頼まれたという話を書いている。その時、高柳は、憲法調査会が1958年、高柳を団長とする渡米調査団を派遣した際、マッカーサーとホイットニーから会見を拒否されたことを、以下のように語ったとされている。
=========<引用開始>==============
「マッカーサーもたいした男です。彼は有力な大統領候補でした。そのためには日本の軍事協力が必要だから、日本の戦争放棄はマイナスです。にもかかわらず、彼でしかやれないことをやったのですから。またそれをやらした最後の鍵は天皇だったと思う。
私はアメリカへ行ってけんもほろろの扱いを受けた。ホイットニーにさえも相手にされなかった。そのとき私は気がつきました。天皇陛下だということです。
天皇は何度も元帥を訪問されている。恐らく二人の間には不思議な友情が芽生えていた。固いつながりができていた。天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。こんな機会はまたとない。今こそ日本をして歴史的使命を果たさせる秋ではないか。天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。いくら幣原さんでも、天皇をでくの坊にするといっただいそれたことが一存でできる訳はありませんよ。だから元帥は私から逃げたのです。うっかり話が真実にふれる恐れがある。私たちはそのためだけでアメリカまで行ったのですから。そうなると天皇に及ぶことになる。天皇は政治から超越するということになったのですから、元帥はその御立場を顧慮してのことでしょう。天皇とマッカーサーはそれほどまで深い同志的結合があった。私にはそう思われた。天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」
==========<引用終わり>============
なんと、高柳は、マッカーサーが会見を拒否した理由は、マッカーサーと天皇の間の秘密、すなわち、天皇が幣原を通じて、日本に戦争放棄をやらせてほしいと提言、むしろ懇請した、という「真実」が露呈することを恐れたからだ、と話したというのである。これは事実であろうか。また、天皇とマッカーサーとの間に、「不思議な友情が芽生えていた」とか、「固いつながりができていた」というのは本当だろうか。天皇はマッカーサーの連合国最高司令官在任中に11度会見しているが、46年1月24日の幣原=マッカーサー会談の時点では、まだ1度しか会っていない。腰に手を当ててリラックスした姿勢のマッカーサーの隣で、モーニング姿で直立不動の姿勢をとる天皇の写真が撮られた1945年9月27日の第1回会見である。「不思議な友情が芽生え」たり、「固いつながりができていた」り、「深い同志的結合があった」りするはずがないのである。
実は、高柳を団長とする憲法調査会渡米調査団がマッカーサーに会えなかった真相については、高柳自身が『日本国憲法制定の過程Ⅰ 原文と翻訳』の「序にかえて」の中で次のように述べている。
=========<引用開始>==============
駐米日本大使館では渡米調査団のために、ホイットニー准将と手紙を交換していたのであるが、迎えに来た大使館員からマッカーサー元帥との会見は拒否されたとの報告を受けて吃驚したのであった。何故われわれ渡米調査団に対しマッカーサーが会見を拒否したのであるか。私は大使館とホイットニーとの往復文書を仔細に検討した結果、その理由を知りえたのである。すなわち、前述のように、日本では、改憲論者によって、マッカーサー草案を日本政府に押しつけたということが改憲論の論拠の一つとしてしきりに主張されており、またウォード博士のこれを支持するような論文が、アメリカでも発表されていた。しかし、マッカーサー草案を日本に示したのは日本政府に対する命令ではなく、勧告であって、日本政府は説得によって、この勧告に従うことになったと考えていた司令部関係者は、マッカーサー草案押しつけ論は心外なことと感じていた。そして彼等は、憲法調査会が渡米調査団を送ってきたのは、この押しつけ論を実証的に裏付けるような証拠を集めにきたものと感じていたため、会見拒否という処置に出たのであることはほぼ明白となった。そこで私はこの誤解をときほぐすために、マッカーサー元帥とホイットニー准将の2人に手紙を送り、渡米調査団は何らそういう政治的意図できたのではなく、どこまでも客観的に、学問的に歴史的事実を究明するためにきたのであることを詳細に説明した。この手紙によって、マッカーサー元帥、ホイットニー准将の誤解がとけ、マッカーサー元帥も自分に知っていることは何でもお話しようという率直な態度に変化し、この2人の重要な証人もいろいろな質問に詳細に答えてくれた。(中略)それがため渡米調査の目的も大部分達成できたのである。
==========<引用終わり>============
つまりマッカーサーとホイットニーは、日本の改憲論者によって高唱されている「押しつけ憲法」論に利用されるのを恐れて会見を拒否したのであるが、誤解が解けてからは率直な態度で質問に答えてくれた、というのが真相である。天皇との秘密が漏れるのを恐れた、などという荒唐無稽な話ではないのである。これにより、高柳の発言に関する平野の記述が全くの作り話であることは明白となったと言えよう。ちなみに高柳は1967年に亡くなっているので、平野が93年に『水源』を書いた時には「死人に口なし」と思ったのであろうが、高柳が生前に書き残していた文章により、平野の嘘が露見することになったのである。いずれにせよ、平野は平気で作り話を書く人間であることが明らかになったと言えよう。高柳が語ったことにされている「天皇をでくの坊にする」という表現も、平野自身が1964年の『世界』の論文(?)で使っている表現である。
高柳はまた、『水源』の中で、以下のように語ったことにされている。
=========<引用開始>==============
「幣原さんとマッカーサーの話し合いは3時間に及んだそうですが、通訳抜きだから正味ですよね。(中略)とにかく第3次世界大戦は絶対にやってはならない。これは物理的に明らかです。やったら人間の歴史は一巻の終わりだ。理屈もへちまもない。これほどはっきりした現実はない。このことはみんなわかっている。わかってはいるが、さてどうしたらとなると誰もわからない。
その絶望の底から第9条は生まれた。直接には天皇を残すためのギリギリの限界状況の中で生じた発想でしょうが、とにかくこうなれば誰かが自発的に戦争をやめると言い出すしかない。それが突破口です。幣原さんは天皇を救い、同時に世界を救った。マッカーサーの命令という形でなかったら、あんなことはできる訳はありませんが、それをさせたのは幣原さんです」
==========<引用終わり>============
これは「平野文書」で、幣原が語ったことと概ね一致している。高柳のセリフが嘘であることはもはや明白であるが、仮に「平野文書」の幣原の話が事実だとしたなら、幣原が話した内容を今度はわざわざ高柳の口を通して語らせる必要も理由も全く考えられない。事実とフィクションをごちゃまぜにして、貴重な事実の価値を貶める理由などどこにもないからである。しかし、「平野文書」の話がフィクションだからこそ、平野はさらに別のフィクションを事実として語ることによって、「平野文書」の信憑性を高めようとしたのだろうが、かえって藪蛇であったといえよう。もちろん読者にとっては嘘を見破る根拠がまた一つ増えただけであるが。
ともあれ、『水源』にはフィクションが山のように含まれている。否、フィクションの合い間にところどころ事実が散りばめられているというのが実態であろう。『水源』には、1945年9月27日、昭和天皇が初めてマッカーサーとの会見に向かう場面の描写があるが、天皇の乗った車は、なんと途中で、「朕は鱈腹食ってるぞ。汝臣民飢えて死ね」というプラカードを掲げた食糧デモ隊と遭遇した、というのである。つまり8か月後の46年5月19日に起きた食糧メーデーのプラカード事件に遭遇したというのだから、天皇の乗った車はタイムマシーンでもあったらしい。さらに、マッカーサーとの会見を終えた天皇は、「今日は一つ大きな山を越えた……そうした心の安らぎがあった。(……)目まぐるしく走馬燈のように移り変わる数々の追想が、天皇の胸をよぎるのであった」と書いており、小説の登場人物の心理を作者が知っているのと同じように、平野には天皇の胸中までもが手に取るように読めたらしい。
もちろん、平野が胸中を読めるのは天皇だけではない。幣原が1月24日にマッカーサーと会見する前夜、「先生は、まんじりともせず沈思黙考を続けられた」として、その「沈思黙考」の内容が延々と24頁にわたって(幣原の1人称で)語られたあと、「気がつくと、ガラス戸の外には薄明りがぼっと射し込んできた。長い冬の夜も間もなく明ける。/「少し眠っておこう」/首相は、寝床にすべり込んだ」と結ばれる。さらに、翌日の幣原=マッカーサー会見の様子も、芝居の舞台のように、両者の会話が12頁にわたって詳細に展開されている。これらが、「平野文書」でいう51年2月下旬の一日、2時間ほどの間に幣原から聞いた内容ではなく、平野の創作であることは明白だと言えよう。先にも述べたように、以上の事実は、「平野文書」自体が事実ではない、すなわち、平野の創作であることを推測させるのに十分であろう。いずれにせよ、「平野文書」を歴史の事実などと考えてはならないことはこれでほぼ論証できたのではないだろうか。
2023年8月28日 稲田恭明