「絶対的単独親権制」を撃つ―違憲判決を求めて

(弁護士 後藤富士子)

1 離婚後の「単独親権制」―手続の強制結合
 親の「子育て」は、父母各自に固有の自然権であるところ、憲法24条1項・2項により父母の平等が定められている。それに伴い、民法818条3項では、婚姻中は父母の共同親権とされている。
 一方、「夫婦」が「父母」であっても「離婚の自由」は保障されており、離婚の合意が得られない場合には、離婚に抵抗する配偶者に対し裁判所が離婚を強制できる(民法770条)。しかるに、離婚後は父母どちらか一方の「単独親権」とされている(民法819条)。しかも、離婚と単独親権者指定は同時決着させるべきとされ、同一の手続において処理されている。
 しかしながら、「子育て」の意欲も能力もある親であっても、「離婚」により親権を喪失するとなると、「離婚事件」でありながら、真の紛争は離婚ではなく、「子育て」ができなくなることを回避することに収斂していく。父母どちらも「子育て」の意欲も能力もある場合でも、どちらか一方が親権を喪失するのであり、それ自体が理不尽であるだけでなく、「離婚紛争」が長期化して「子育て」に悪影響を及ぼす。また、単独親権者を指定する家裁の実務では、調査官調査により、現に子の身柄を確保している親の監護が子の福祉に反するか否かを判断基準にするから、「現状維持」の結論になり、結果として子の福祉に反する親を親権者に指定することもある。
 このような有害無益な司法手続をやめるには、親子関係の問題は親子法の中で、婚姻関係の問題は婚姻法の中で解決する手続にすればよいのである。すなわち、手続の結合を外すことであり、そのためには単独親権制を止めれば足りる。そうすると、現行の民法766条は、婚姻法(離婚法)ではなく、親子法の条文になるはずである。

2 親の「子育て」と「親権」「監護」
 親の「子育て」は、人為的な法制度よりも前に、原初的に形成されるものであるから、「親権」「監護」を含みながらも、それよりも広範囲なものである。ちなみに、アメリカでは、まさに「子育て」を意味する「parentig」という語が使われている。この用語にすれば、社会学的実態に即した「同居親」と「別居親」という区別になり、「監護親」と「非監護親」、「親権者」と「非親権者」という父母間の差別的対立を排除できる。
 すなわち、「単独親権制」は、紛争を解決するためには有害な障壁になっている。「単独親権制」を止めるだけで、離婚後も父母のどちらも「子育て」することが前提となる。したがって、父母各自ができることをやるという「パラレル・ペアレンティング」(並行的親業)が家事事件手続のテーマになり、「二者択一の対決」から「二者共存の調整」の手続に変更される。これこそ家事司法の面目躍如というべきであり、「子の最善の利益」を実現する手続になる。

3 子の権利主体性
 「単独親権制」を前提とする手続は、「子の監護に関する事項」がテーマでありながら、当の子を手続の当事者とはせず、専ら大人が観念的な「子の福祉」を弄んでいる。
 すなわち、「子育て」について父母を「二者択一の闘争」に投げ込み、その狭間で子に著しいストレスを与える。このような家事司法制度と実務運用は、もはや児童虐待というべき域に及んでいる。それは、憲法24条2項で保障されるべき「個人の尊厳」を脅かすだけでなく、「児童の権利条約」の基本理念と相容れない。

4 結論
 離婚後の単独親権制を定める民法819条は、憲法24条2項で保障される「個人の尊厳」および「両性の本質的平等」に反するゆえに無効である。

(2024年10月4日)

2024年10月4日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子

志位和夫『共産主義と自由』を読む  

合田寅彦(2024・9・6)

新聞広告を目にして講演録である上記の書を買い求めた。読み進めている途中、なぜだか北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の浮世絵が頭に浮かんでいた。どちらも、身分社会の厳しい言わば自由にほど遠いと思われがちな江戸時代にあって、平和な庶民の姿を描いている。そこに権力者の姿はどこにもない!そんなイメージが頭をかすめながら同時にマルクスの『資本論』を基に語る志位氏の「おとぎ話」に聞き入る民青諸君の素直な顔を活字の向こうに思い浮かべていた。九十を目前にしたさび付いた頭脳の私に良い刺激を与えてくれた本書に感謝しないわけにはいかない。

若き日のマルクスは「ヘーゲルの弁証法」と「フォイエルバッハの唯物論」を学ぶ中で彼独自の「資本制社会における人間疎外(労働疎外)」を深く認識し(「経済学哲学手稿」)、かの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ11」で「かつて哲学者は歴史をさまざま解釈してきたが、肝心なことは変革することである」(おぼろげな私の記憶)と言いきったのだ。

さて、志位氏の講演を聞いた民青諸君はそこから何を会得したのであろうか。自分たちの日頃の活動(共産主義社会実現に向けての)に自信なり可能性なりを感じ取れたとしたら、それは志位氏のどこのどのような言辞がそれにあたるのだろうか。彼の講演が「おとぎ話」でないとの認識に立つのであれば、だが。

19世紀中葉のヨーロッパ(イギリス)は10歳程度の子供が平気で12時間もの労働をさせられていた社会であった。マルクスはエンゲルスの力や当時の『児童労働調査委員会報告・証言』を借り受け、そのあたりのことを「資本論」(第一巻)で克明に記述している。「資本制社会の崩壊」がまさしく人間解放の実現そのものであったのだ。だからこそ労働者の国際的団結が必要であった。マルクスの第一インターナショナル、レーニンの第二インターナショナル、ルクセンブルグの第三インターナショナル、トロツキーの第四インターナショナルはそのような社会革命のイメージを、労働疎外に身を置く労働者の国際的連帯に描いたのだ。

現実には、日本ばかりか世界中の労働運動が壊滅的状況にある。ではそれに代わる市民運動はどうか。すでにべ平連のような市民運動もなければ、残念なことに「日米安保破棄!」の一大国民運動もない。日米軍事同盟批判を口にする政党は「共産党」と弱小「社会党」と「れいわ」しかない。

では志位氏は、「おとぎ話」としてではなく、どのような社会認識に立って望ましい「共産主義社会での自由」を現実社会と結び付けて民青諸君に語ろうとしているのか。私にはそれがまったく見えない!

「共産主義社会の自由」があたかもコロナウイルスのように個人の価値観とは関係なく資本制社会に蔓延するものであれば、そのウイルスを肯定的に扱えばすむことだが、そんな都合の良いことはあり得ない。そうであれば、仮に共産主義が実現したとして、「志位氏の語る自由」はそれまでに身に刷り込まれた庶民の「個人所有の価値観」とどこでどう折り合いをつけるというのか。かつてのロシアのように強権により弾圧するのであれば別だが。資本制社会が崩壊すれば必然的に解決するものではなかろう。文学者であらずとも、人間がそんな単純な存在でないことくらい志位氏であれば分かろうものを。講演の中でその部分を志位氏は全く触れていない。来るべき「共産主義社会」にあって「政治権力」は存在するのかどうか。旧来の彼ら個人所有者に対し(当然抵抗はあろう)、かつてのロシア革命の自営農民弾圧のようなことをしないとの前提にたてば、でのことだが。

私なりに共産主義社会実現のイメージを考えてみたい。かつてのように、革命的労働者による政権奪取はありえない。なにしろ労働組合がないのだから。力による実現は不可能だという認識の上に立って。

考えられることは、貧困家庭を抱え込んだ「大まかな生活協同体」(財産の共有にまでいけばなお良い)がそれこそ全国津々浦々に誕生し、よい結果を生んでいることが大多数の国民の目にしかと認識されたときであろう。共産党員であればこそ、自分たちの間だけでもそれに似た生活共同体があっていいと思うが、どこにもない。かの「ヤマギシ会」の生みの親・山岸巳代蔵にその考え(ヤマギシズム)があったらしいが。

志位氏は現実に共産党という革新政党の指導者であるにもかかわらず、彼の言辞からそうした「共産・共有」のイメージがどこにも感じられない。かつてのフランス革命の合言葉「自由・平等・友愛」の「友愛」がここで言う「共有」にあたる。その「共有」の観念抜きに「共産主義的自由」があたかもそれ自体独り歩きするなどとは、「幻想」に過ぎないではないか。つまり、志位氏の講演が「おとぎ話」であるということだ。

以下がもう一つの志位氏批判の核心だ。あるべき共産主義社会の「自由」を語る前に、その「共産」を頭に冠する日本共産党という政治組織に果たして「人間の思考の自由」はあるのか。

結党以来100余年の日本共産党がこれまでにどれだけの数の党員を「反党分子」として除名してきたか。「権力の回し者」が仮にその中にしたとしても・・・。

未来社会を築こうとしてきた党であってみれば、その未知の社会へのイメージが多様であることはむしろ「財産」であろうに、文学者をはじめ多くの思想家を異分子として排除してきたのではなかったか。己の組織に多様な思考の自由がなく、どうして「党がイメージする未来の人間社会」に「自由がある」と語ることができるのか。近 しい共産党員が数名いる。みなさん「善人の塊」のような人たちばかりだ。ただし党の任務に縛り付けられている見るからに可哀そうな「市会議員の
某」一人を除けばだが。傍観していて滑稽である。とはいえ、その地域共産党員皆さんの口にする言葉はすべて「コピーされたもの」との印象を抱くものばかりだ。「共産主義社会での人間の自由」を語る前に、「おのが党の言論の自由がどれほど狭められているか」をこそ党員各位は自覚すべきであろう。

親の自然権としての「子育て」

(弁護士 後藤富士子)

1 「ペアレンティング」という概念
 アメリカでは、そもそも日本の民法で定められている「親権」に相当する語はなく、いわば財産管理権を除く「監護権」=「custody」が法律用語となっている。したがって、日本で「共同親権」というのは、「joint-custody」と英訳されるのが一般的である。
 これに対し、社会学や教育学の文献あるいは大衆向けの書物では、「parentig」という語が使われている。この意味は、「子育て」「育児」「親業」である(ランダムハウス英和辞典参照)。
 ちなみに、『離婚後の共同子育て』(エリザベス・セイアー&ジェフリー・ツィンマーマン著・青木聡訳)の原題は「The Co-Parentig Survival Guide」である。また、『離婚と子ども』の著者である棚瀬一代教授(当時)も「ペアレンティング」という語を用いているし、離婚後の「共同子育て」に関し「パラレル・ペアレンティング」=「並行的親業」を提唱していた。
 ところで、「ペアレンティング」という概念は、専ら「親の作為」を意味しているところ、それは法律上の「権利」といえるのだろうか。日本の民法で定められている「親権」「監護権」が親の権利であることに鑑みれば、「ペアレンティング」が親の権利であることに疑いをはさむ余地はないと思われる。
 むしろ、「パラレル・ペアレンティング」が「共同子育て」の一形態とされることに照らせば、民法が定める「親権」「監護権」の内実が空洞化しているように思われてならない。その根本原因は、「子育て」という現実的・実際的な内実と乖離して、離婚により片親から親権を剥奪する単独親権制にある。さらに、それを埋め合わせるために、親権者とならなかった親が、「子育て」からは程遠い「面会交流」を家事事件手続により追求しても、結果は虚しい。

2 「親権」と「後見」の根本的差異
 近代法の親子関係の中核は、親が子を哺育・監護・教育する職分であり、民法はこれを「親権」として規定する。親と子は、血縁的関係者の中でも最も緊密なものであるから、両者の関係は親権に尽きない。習俗的・倫理的にそうであるだけでなく、法律の上にも現れる(例えば相続)。しかし、広い意味での親子の法律的関係のうちで、親権すなわち親の子を哺育・監護・教育する職分を中核として特別の取扱をすることが、近代法の特色である。
 ここで「職分」とされるのは、他人を排斥して子を哺育・監護・教育する任に当たりうる意味では権利であるにしても、その内容は、子の福祉をはかることであって、親の利益をはかることではなく、またその適当な行使は子および社会に対する義務だとされることである。この点で国家の監督が問題になるし、その意味では「親権」と呼ぶことがすでに不適当と考えられている。
 また、その「職分」の内容を包括的なものとせず、場合によっては分離しうるものとすることも考えられている。それは、親権の内容を包括的な単一のものとするときは、おのずから親権者の支配的色彩が強くなることを恐れ、内容を具体的な権利の集合とみようとするのである。しかし、子の健全な育成をはかるという職分の内容を具体的に列挙することは不可能である。
 そして、このような近代法の特色を前提とし、「親権」と「後見」の区別を認めず、すべて後見として、父母があるときは父母が後見人となるイギリスの制度が検討される。実際、日本でもこのような制度を採用すべしという主張があった(中川善之助)。これに対し、我妻栄は、「自然の愛情を基礎とし、それによってある程度の保障のある親権と、そうしたもののない後見とにおいて、その内容の区別(国家の監督の強弱)を認める必要がないかどうかが検討されなければならない。」としたうえで、「私はまだ差別の抹消に踏み切る確信をもてない。」と吐露している(有斐閣:法律学全集23『親族法』:平成6年8月30日初版第42刷発行/317頁)。
 このように、「親権」と「後見」の根本的差異は、親子であることによって生まれる「自然の愛情」を基礎とできるか否かにかかっている。このことは、親の「子育て」が、人為的な法制度よりも前に、原初的に形成されるものであることを認めている点で、「自然権」と呼ぶのに相応しいと思われる。

3 親の「子育て」と憲法
 ドイツ基本法6条2項は、「子の養育および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行に対しては、国家共同社会がこれを監視する。」と定めている。そして、1982年11月3日、連邦憲法裁判所は、離婚後の親の単独配慮(1979年、「親権」は「親の配慮」に改正)を定めたドイツ民法(BGB)1671条4項1文は、前記基本法に抵触するゆえ無効であるとする違憲判決を下している(日弁連法務研究財団『子どもの福祉と共同親権』所収/鈴木博人「ドイツⅠ」143頁参照)。このように、ドイツでは、子の養育および教育が「両親の自然の権利」と憲法で明記されている。
 一方、前項で検討したように、日本においても、親の「子育て」は「自然権」と考えられる。そして、「自然権」は基本的人権であるから、憲法に根拠があるはずである。
 まず、婚姻中の父母の共同親権を定めた民法818条3項は、日本国憲法24条に基づくものである。同条2項は、婚姻や離婚等家族に関する事項について、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」としている。そして、1項では、特に婚姻に限って「夫婦が同等の権利を有することを基本」とする旨を定めている。そうすると、婚姻中は父母の共同親権であることは、同条1項2項で重複して保障しているにすぎず、離婚後は単独親権を絶対的に強制する法律は、同条2項に抵触すると言わなければならない。
 しかるに、そのような議論-絶対的単独親権制違憲論-が日本の司法界で低調なのは、親の「子育て」についての権利性が理解・認識されていないからである。結局、戦後の民法改正レベルでは、「男女平等」という点で「家父長」制が否定されただけで、「個人の尊厳」という理念が顧みられず、「家」制度の廃止は不発に終わったのであろう。だから、民法の家族法全面改正から77年経過しようとも、「法律婚優遇」という国家権力による権威主義的政策によって「家」制度は生き延びている。

(2024年9月25日)

2024年9月25日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子

Q&A 志位和夫『共産主義と自由』を読む  

合田寅彦(2024・9・6)

新聞広告を目にして講演録である上記の書を買い求めた。読み進めている途中、なぜだか北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の浮世絵が頭に浮かんでいた。どちらも、身分社会の厳しい言わば自由にほど遠いと思われがちな江戸時代にあって、平和な庶民の姿を描いている。そこに権力者の姿はどこにもない!そんなイメージが頭をかすめながら同時にマルクスの『資本論』を基に語る志位氏の「おとぎ話」に聞き入る民青諸君の素直な顔を活字の向こうに思い浮かべていた。九十を目前にしたさび付いた頭脳の私に良い刺激を与えてくれた本書に感謝しないわけにはいかない
若き日のマルクスは「ヘーゲルの弁証法」と「フォイエルバッハの唯物論」を学ぶ中で彼独自の「資本制社会における人間疎外(労働疎外)」を深く認識し(「経済学哲学手稿」)、かの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ11」で「かつて哲学者は歴史をさまざま解釈してきたが、肝心なことは変革することである」(おぼろげな私の記憶)と言いきったのだ。

さて、志位氏の講演を聞いた民青諸君はそこから何を会得したのであろうか。自分たちの日頃の活動(共産主義社会実現に向けての)に自信なり可能性なりを感じ取れたとしたら、それは志位氏のどこのどのような言辞がそれにあたるのだろうか。彼の講演が「おとぎ話」でないとの認識に立つのであれば、だが。
19世紀中葉のヨーロッパ(イギリス)は10歳程度の子供が平気で12時間もの労働をさせられていた社会であった。マルクスはエンゲルスの力や当時の『児童労働調査委員会報告・証言』を借り受け、そのあたりのことを「資本論」(第一巻)で克明に記述している。「資本制社会の崩壊」がまさしく人間解放の実現そのものであったのだ。だからこそ労働者の国際的団結が必要であった。マルクスの第一インターナショナル、レーニンの第二インターナショナル、ルクセンブルグの第三インターナショナル、トロツキーの第四インターナショナルはそのような社会革命のイメージを、労働疎外に身を置く労働者の国際的連帯に描いたのだ。
現実には、日本ばかりか世界中の労働運動が壊滅的状況にある。ではそれに代わる市民運動はどうか。すでにべ平連のような市民運動もなければ、残念なことに「日米安保破棄!」の一大国民運動もない。日米軍事同盟批判を口にする政党は「共産党」と弱小「社会党」と「れいわ」しかない。

では志位氏は、「おとぎ話」としてではなく、どのような社会認識に立って望ましい「共産主義社会での自由」を現実社会と結び付けて民青諸君に語ろうとしているのか。私にはそれがまったく見えない!
「共産主義社会の自由」があたかもコロナウイルスのように個人の価値観とは関係なく資本制社会に蔓延するものであれば、そのウイルスを肯定的に扱えばすむことだが、そんな都合の良いことはあり得ない。そうであれば、仮に共産主義が実現したとして、「志位氏の語る自由」はそれまでに身に刷り込まれた庶民の「個人所有の価値観」とどこでどう折り合いをつけるというのか。かつてのロシアのように強権により弾圧するのであれば別だが。資本制社会が崩壊すれば必然的に解決するものではなかろう。文学者であらずとも、人間がそんな単純な存在でないことくらい志位氏であれば分かろうものを。講演の中でその部分を志位氏は全く触れていない。来るべき「共産主義社会」にあって「政治権力」は存在するのかどうか。旧来の彼ら個人所有者に対し(当然抵抗はあろう)、かつてのロシア革命の自営農民弾圧のようなことをしないとの前提にたてば、でのことだが。

私なりに共産主義社会実現のイメージを考えてみたい。かつてのように、革命的労働者による政権奪取はありえない。なにしろ労働組合がないのだから。力による実現は不可能だという認識の上に立って。
考えられることは、貧困家庭を抱え込んだ「大まかな生活協同体」(財産の共有にまでいけばなお良い)がそれこそ全国津々浦々に誕生し、よい結果を生んでいることが大多数の国民の目にしかと認識されたときであろう。共産党員であればこそ、自分たちの間だけでもそれに似た生活共同体があっていいと思うが、どこにもない。かの「ヤマギシ会」の生みの親・山岸巳代蔵にその考え(ヤマギシズム)があったらしいが。
志位氏は現実に共産党という革新政党の指導者であるにもかかわらず、彼の言辞からそうした「共産・共有」のイメージがどこにも感じられない。かつてのフランス革命の合言葉「自由・平等・友愛」の「友愛」がここで言う「共有」にあたる。その「共有」の観念抜きに「共産主義的自由」があたかもそれ自体独り歩きするなどとは、「幻想」に過ぎないではないか。つまり、志位氏の講演が「おとぎ話」であるということだ。
以下がもう一つの志位氏批判の核心だ。あるべき共産主義社会の「自由」を語る前に、その「共産」を頭に冠する日本共産党という政治組織に果たして「人間の思考の自由」はあるのか。
結党以来100余年の日本共産党がこれまでにどれだけの数の党員を「反党分子」として除名してきたか。「権力の回し者」が仮にその中にしたとしても・・・。
未来社会を築こうとしてきた党であってみれば、その未知の社会へのイメージが多様であることはむしろ「財産」であろうに、文学者をはじめ多くの思想家を異分子として排除してきたのではなかったか。己の組織に多様な思考の自由がなく、どうして「党がイメージする未来の人間社会」に「自由がある」と語ることができるのか。近くは松竹某氏の除名があったではないか。笑止千万と言うに等しい。
私の地域にごく親しい共産党員が数名いる。みなさん「善人の塊」のような人たちばかりだ。ただし党の任務に縛り付けられている見るからに可哀そうな「市会議員の某」一人を除けばだが。傍観していて滑稽である。とはいえ、その地域共産党員皆さんの口にする言葉はすべて「コピーされたもの」との印象を抱くものばかりだ。「共産主義社会での人間の自由」を語る前に、「おのが党の言論の自由がどれほど狭められているか」をこそ党員各位は自覚すべきであろう。

Fazıl Say ~ Nâzım Oratoryosu Live「ナーズムオラトリオ」ライブ動画のご紹介

原爆で紙切れのように燃やされ灰になった7才の少女。10年経っても7才のまま。。。とあるから1955年にナーズム氏が書いた詩に(1963年に亡命先ロシアで死亡)、今のトルコ政府の依頼で、今人気のトルコ出身のピアニストであり作曲家のサイ氏が曲を書き、自らピアノを弾く。1時間半の大曲オラトリオには神の登場はなく、平和を願う人間の祈り、魂の叫びで原爆を投下したアメリカを糾弾するオラトリオらしいオラトリオになって、現代人の心を揺さぶる。演奏終了後の数千人の聴衆の拍手、歓声に唯一の被爆国日本もしっかりせねばと叱咤された。

ファジール・サイさんの演奏はYouTubeにたくさんアップされていますが、この曲はトルコ語(アルファベットだけで大丈夫です)で検索しないと見つかりません。

この動画には、YouTubeの自動翻訳で日本語字幕を表示させられますが、詩のコンピューター翻訳はダメですね。

古いものですが、ナームズ・ヒクメット氏の詩集はAmazonで手に入ります。

「共同親権」は日本国憲法とともに

                        (弁護士 後藤富士子)

1 「共同親権」は、日本国憲法とともにやって来た
 憲法24条の家族観は、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」を基本理念としている。そのため、昭和22年の民法改正で家族法が抜本的に見直されている(「第4編親族」全部改正)。「共同親権」制もその一つである。戦前は「単独親権」制であり、第一次的に「家ニ在ル父」、第二次的に「家ニ在ル母」が親権者とされていた。つまり「家父長」制である。
 しかし、戦後の民法改正では、「男女平等」という点で「家父長」制が否定されたにしても、「個人の尊厳」という点で「家」制度の廃止は不徹底であった。というより、「個人の尊厳」という理念は顧みられなかったのかもしれない。「夫婦同姓の強制」や未婚・離婚の「単独親権」強制は、その典型と思われる。その根底にあるのは「法律婚の優遇」であり、それによって「家」制度が温存されたように見える。

2 「婚姻関係」と「親子関係」の峻別
 現行民法で、「共同親権」は「父母の婚姻中」に限定されている。離婚後は、父母どちらかの「単独親権」とされている。憲法で父母は夫婦として「同等の権利を有する」とされているのに、離婚後は「単独親権」になるのは何故なのか?「夫婦」でなくなるからなのか?父母が合意できるならいいけれど、「親権者でなくなる」「親権を喪失する」ことをどちらも受容できない場合、「単独親権」を強制する法律は、憲法の平等原則にすら反するのではないか?
 考えてみると、同じ人物が「夫婦」か「父母」かで異なる扱いを受けるなんて、まるでトリックである。これは、「婚姻関係」と「親子関係」が法律上峻別されているせいであろう。
 ちなみに、民法では、婚姻法(第4編第2章)の中に親子関係を直接律する規定はなく、「離婚後の子の監護に関する事項の定め等」(766条)の1箇条があるのみである。一方、第4編第4章「親権」には、「子の監護に関する事項」についての規定がない。「親権」の概念が「子の監護・教育」とされているうえ(820条)、「監護権」だけを喪失・停止させることはできないとされている(834条、834条の2、835条参照)。
 それでは、離婚前の別居段階ではどうなるのか? 法律上は夫婦の共同親権である。しかるに、「親権」の枢要部分である「監護」について民法に規定がないため、766条が準用ないし類推適用されている。その内容は、「監護者指定」「面会交流その他の交流」「養育費」「その他の子の監護について必要な事項」と広範囲である。しかし、同条は、離婚後の単独親権を前提としているから、どこまでいっても矛盾を免れない。しかも、同条4項では「監護の範囲外では、父母の権利義務に変更を生じない」とされている。
 そうすると、離婚後について「親権と監護権の分属」は法律上の根拠があるのに対し、離婚前の「単独監護者指定」は脱法というほかない。また、妻が子どもを連れ去って夫の親権行使を妨げていることも、違法(821条居所指定、820条監護教育)というほかない。
 このような矛盾・違法を克服するには、父母の離婚によって親子関係が変動しない、つまり、離婚後も共同親権にすれば足りる。換言すると、離婚後の単独親権制は、法律上峻別された「婚姻関係」と「親子関係」を結合するものであった。だから、ドイツの民法改正では、この「結合」を外したのである。

3 「女性差別撤廃条約」と「子どもの権利条約」
 昭和60年に発効した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」16条1項(d)は、「子に関する事項についての親(婚姻をしているかいなかを問わない。)としての同一の権利及び責任」を確保することを求めている。この規定からすれば、未婚・離婚の「単独親権」制は撤廃されるべきはずである。
 また、平成6年に発効した「児童の権利に関する条約」18条は「父母の共同責任」として「児童の養育及び発達について父母が共同の責任を有するという原則についての認識を確保するために最善の努力を払う」ことを締約国に求めている。ここでも、「父母」の婚姻関係は問われない。ちなみに、ドイツの民法改正は、「子どもの権利条約」の批准に伴うものであった。
 日本は、いずれの条約も批准して発効しているのに、未婚・離婚を含む「父母の共同親権」を原則とする法改正はされなかった。去る3月8日、漸く、離婚後の「共同親権」を認める民法改正案が閣議決定され、国会で審議されるところへ漕ぎ着けた。日本国憲法施行から77年、「女性差別撤廃条約」発効から39年、「子どもの権利条約」発効から30年である。

4 「単独親権」制は、「DV防止法」「児童虐待防止法」の代替措置ではない
 離婚後も父母双方が親権をもつ「共同親権」の民法改正について、DVや児童虐待の被害者や支援者が懸念を表明している。離婚前のDVや虐待の「立証が困難」であり、法改正は「被害者を守る制度を先に確立し、確実に運用されてからだ」という。
 しかしながら、「DV防止法」や「児童虐待防止法」は、被害者を守るための法律ではないのか。また、婚姻中でさえ、親権喪失・停止の審判ができる。それらを活用せずに、離婚後の単独親権制にすべてを代替させるが如き議論こそ、日本国憲法や「女性差別撤廃条約」「子どもの権利条約」を無視してきた元凶ではないか。それは、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」という理念に希望をもたない人の思想である。でも、私は、熱烈に希望をもっている。

(2024年3月18日)

2024年3月18日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子

沖縄県主催シンポジウム「日米地位協定の改定に向けて」に参加しました。

沖縄県主催シンポジウム「日米地位協定の改定に向けて」に参加しました。参加者500人(主催者数字)、パネラーの顔が確認できない程遠い広い会場が満席でした。

先ず、玉城沖縄県知事による「他国地位協定調査」の報告。
数年かけて調査したもの(資料1欧州 資料2オーストラリア・フィリッピン 資料3韓国)を、限られた時間の中で、早口で一気に熱意を込めて報告されました。この上記資料1、2、3は沖縄県ホームページの地位協定ポータルサイトからダウンロードできます。項目別に比較でき、日本がどれほど酷い状況にある明白です。
次にzoomでレオナルド・トリカリコ氏のお話。
トリカリコ氏は元イタリア空軍参謀長、現NATO第5戦術空軍司令官で、伊米地位協定交渉のイタリア側担当者だった。「条文を変えたわけではなく、国民の怒りの声をバックに、少しずつ運用の改善を実現して来た。」ことを強調されていました。
最後は、パネルディスカッション。

玉城知事以外の登壇者が若い。最年長のフリージャーナリスト布施祐仁氏でも48才。平和問題というと高齢者ばかりという現実を見ているので、ここに惹かれてこのシンポジウムを申し込んでいます。

川名晋史教授(40代半ば)は「他の学問は外国の先例がある。このテーマ日本独自の問題。孤独になる。若い研究者もいる。このように多くの人が関心を持っていることは彼らの励みなる。」と。

沖縄出身の三宅千晶弁護士(30代)は、この若さで日米合同委員会担当官僚とやり合ってきた。開示請求拒否の理由がアメリカのノーだと言われ、ノーの文書を見せろ、文書ではないメールだった、メールを見せろ、メールもなし、で黒塗りがいっぱいあったけれど開示はされたそう。日本の官僚はアメリカの意向を確認せず、忖度なのかサボりなのかアメリカがダメだと言ってるからダメなんだと門前払いして来たのかもしれない。トリカリコ氏が言ったように国民が怒りの声を上げ続けなければ何も変わらないということだろう。

このシンポジウムを企画コーディネートを担当した猿田佐世氏も40代、新外交イニシアティブ(ND)の代表です。彼女の企画、コーディネートは宣伝、参加申込み受付、申込者への前日の確認メール、当日の現場設営、運営、マスコミ取材手配、終了後のアンケート回収(配布されたアンケート用紙のQRコードでスマホで答えてくれ、「手書きを入力するのが大変なんです」とアナウンスしていた)までの一切を請負っているよう。玉城知事は当日朝の飛行機で上京したそう。

知事は「沖縄の基地は今も増えている」と。日米安保条約は全土基地方式であり、つまり、米軍の占領状態であり、日本の許可なしに何時でも、何処にでも基地にできうる。今は宿舎需要ではあるか、不動産屋に基地用地求むという広告が出ており、地主がOKならすぐに米軍基地になると。

最後に、フィリッピンがアセアン加盟国であり、アセアン諸国と連携してフィリッピンに有利な地位協定に成功しているということから、沖縄はどう考えているかという質問に対し、知事は、アメリカが沖縄の基地能力の一部を移転する計画があるグアム、ハワイ、オーストラリア、サイパン、テニアン、北マリアナ諸島と連携していきたいと。

安保も地位協定も日米関係の問題なのに、沖縄だけに頑張らせているようで心が痛みます。政府が沖縄側に立ちアメリカと交渉する覚悟がありさせすれば、辺野古の裁判も違う結果になったはず。沖縄県外の国民が声を上げてこなかったのが原因ではないかと確認させられるセミナーでした。

終了後、猿田ND代表の声と思うが、今日の500人が10人に伝えてくれれば5,000人に、5人でも2,500人に届く。よろしくと言ってました。

ニュースの毎号に三鷹事件の再審状況を!

                    札幌 小久保和孝

 「ミスプリント」なのか、それとも当時の我が国の国家体制を反映するごく自然なことであったのか、深慮した上での意図的なことであったのか、我が国「日本国憲法」では、国語表記としては「つじつまの合わない」所が存在する。最も目立つのは、日本国憲法典の三権分立規定の表記である。

 日本国憲法第四章は“国会”、第五章は“内閣”となっているのに、何故か第六章は“司法”である。第六章を“司法”とするなら、第四章は“立法”、第五章は“行政”でなければ日本語としては「辻褄」が合わない。第四章が“国会”、第五章が“内閣”であるなら当然第六章は“裁判所”である。

 民主主義国家において国民のコントロールに最も遠いのが「司法権」である。その上、始末が悪いのがジャーナリズムが、司法に関することは、その「裏付取材」の困難性から、ニュースソースは「当局のリーク」に頼ることが多く、益々「国民視点」から遠のき、「司法権」をコントロール出来なくなるばかりか、“権力犯罪“の「お先棒」を担がされていることである。

 「証拠」主義が原則となっているにもかかわらず「冤罪」が絶えない。そればかりか、戦後「権力犯罪」の最も有効な手段となっているのが「司法権」である。

 その最たる例が「松川事件」「三鷹事件」である。“司法権を利用した権力犯罪“は阻止出来ず、「国民運動」にならない限り“正す”ことが出来ない。それが残念ながら我が国の“現状”である。

 我が「完全護憲の会」は小さく、今の所国民運動を巻き起こす「力」もない。しかし“護憲の灯火”である事は確かである。そこで提案!

 毎号のニュースに必ず、三鷹事件の再審運動や状況を登載していこうではいか。

「平野文書」は真実か?(第2回)

まず「平野文書」の成り立ちについてであるが、同文書は冒頭で、「私が幣原先生から憲法についてお話を伺ったのは、昭和26年2月下旬である。同年3月10日、先生が急逝される旬日(10日)ほど前のことであった。(……)時間は2時間ぐらいであった。(……)まとまったお話を承ったのは当日だけであり」、「その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである」と記している。しかし、「平野文書」の文字数は約2万6000字であり、仮に平野が幣原の話を残らずメモしていたとしても、到底2時間で聞ける内容ではない。この点は笠原も、「「平野文書」にいう2月下旬の2時間で聞ける内容ではない」とあっさり認め、「「平野文書」の問題点は、51(昭和26)年2月下旬に幣原邸をたずねて、戦争放棄条項や天皇の地位についてまとまった話を聞いたのはその日だけ、とあるのは事実でないことである。(……)衆議院議長時代の幣原の秘書役をつとめていた平野は、暇なときに(……)幣原邸を訪ねて、いろいろと憲法について話を聞いたのである。「平野文書」に書かれているような一日ではなかったことは明瞭である」と述べている。しかし、そうだすれば、そのように書けばよかったのである。文書の内容が真実であれば、嘘をつく必要はどこにもない。このような文書の基本的な性格について事実を述べていないのであれば、その内容についても疑惑が生じるのは当然であろう。

また、平野は、1964年4月号の『世界』に寄稿した「制憲の真実と思想――幣原首相と憲法第9条」の中では、「何分にも記録のないことであり、また古いことであるから、私の記憶もかなりずれたものではあるが、以下その日の話をまとめてみた」と記しており、これによるとメモ(記録)すら残していないようである。さらに、1993年に出版した『平和憲法の水源――昭和天皇の決断』(以下、『水源』と略す)の中では、憲法調査会の高柳賢三会長から、「幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われ、「たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料は何もない」ので「困った」と書き、「それは根拠薄弱なものではある」と自分で認めているのである。もっとも、そもそも平野の創作だとすれば、初めからメモなどないのは当然である。

さて、「平野文書」は第1部と第2部とからなっており、第1部は、平野が幣原に質問して幣原が答えるという一問一答形式になっており、第2部は、幣原の世界観を含めて戦争放棄条項が生れた事情を幣原が一人称で語るという形式になっている。第1部で、第9条はマッカーサーの命令によるものなのか、幣原独自の判断でできたものなのかという平野の問いに対して、幣原は次のように答えている。少し長くなるが引用する(ゴチック化は引用者。以下同様)。

=========<引用開始>==============

そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和20年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第9条のようなことを日本側から言いだすようなことを出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この2つは密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。

幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々のソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。

この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。

この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。(中略)

この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮りにも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった

そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うよう決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君(松本烝治。幣原内閣当時の憲法改正担当国務大臣)にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和21年の1月24日である。その日、僕は元帥と2人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

==========<引用終わり>============

これは、事実とすれば驚くべき証言である。「天皇の人間化と戦争放棄」を「命令として出して貰う」よう「マッカーサーに進言」し、「憲法は押しつけられたという形をとった」というのである。つまり、憲法の「押しつけ」をマッカーサーに依頼した、というのである。こういう証言は「平野文書」その他の平野証言(以下、「平野証言」)以外にない。これまで幣原発案説の根拠とされてきたマッカーサーの証言や『回想記』、ホイットニーのマッカーサー伝はすべて、幣原が日本政府の準備している憲法草案に戦争放棄と軍備撤廃を書き込むことを提案し、マッカーサーが賛成した、というものであった。それに対して、平野証言は、幣原発案説は幣原発案説でも、幣原はマッカーサーに押しつけを依頼したという「発案・押しつけ依頼」説ともいうべき特異な説なのである。では、これは果たして事実なのだろうか。

「幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた」と「平野文書」は言うが、後半は事実ではない。当時、マッカーサーが受取っていた本国からの指令「SWNCC-228(日本の統治体制の改革)」には、「日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを、奨励支持しなければならない」と書かれてあり、米本国はこの時点ではまだ天皇制を存続させるかどうかを決定していない。また、前半は事実であるが、この時点(46年1月24日)で幣原はそのことを知らなかった。だからこそ、「羽室メモ」(後述)にあるように、幣原はこの日の会見の冒頭で、「どうしても天皇制を維持させてほしいと思うが協力してくれるか」と尋ねたのである。ましてや天皇が戦犯として裁かれない保証はこの時点では全くなく、木下道雄侍従次長や寺崎英成宮内省御用掛など天皇の側近が、東京裁判対策として、天皇の「潔白」を示すための「独白録」の作成にとりかかるのは、3月18日になってからであり、極東委員会が天皇の不起訴で合意(当時は非公表)したのは4月3日であった。

「平野文書」はまた、「ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた」と述べている。幣原は一体いつ、こうした事実を知ったのだろうか。実は、それは日本政府がGHQ草案を受け取った(46年2月13日)あと、初めて開いた閣議(2月19日)の2日後、すなわち2月21日のマッカーサーとの会見においてであった。2月19日の閣議では結論が出なかったため、幣原がマッカーサーに真意を聞きにいくことになったのである。そして21日の会見の内容については翌22日の閣議で報告されたが、その様子を幣原内閣で厚生大臣を務めていた芦田均は日記に次のように書き留めている。

======<引用開始>==============

MacArthurは先づ例の如く演説を初めた。「吾輩は日本の為めに誠心誠意図つて居る。天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じてゐる。幣原男が国の為めに誠意を以て働いて居られることも了解してゐる。然しFar Eastern CommissionのWashingtonに於ける討議の内容は実に不愉快なものであつたとの報告に接してゐる。それは総理の想像に及ばない程日本にとつて不快なものだと聞いてゐる。…

ソ聯と濠洲とは日本の復讐戦を疑惧して極力之を防止せんことを努めてゐる。…」

==========<引用終わり>============

幣原は、「それは総理の想像に及ばない程日本にとつて不快なものだと聞いてゐる」とマッカーサーに言われたと、閣議で報告しているのである。その内容をもし幣原があらかじめ知っていたのであれば、「総理の想像に及ばない程」という言葉をそのまま報告したりはしないであろう。「私も知っているところだが」といった言葉を使うのではないだろうか。これらの内容を2月21日のマッカーサーとの会見で、幣原が初めて知ったことは、次に引用する、3月20日の枢密院報告でも確認できる。

=========<引用開始>==============

去る2月21日余はマ司令官と長時間に亘り会談し同司令官が日本国天皇に対し抱懐せる所見を聴くを得た。またその席上将来の日本国管理に関し豪洲及びソ連側の態度に関しても言及するところがあった。ともに日本に対し必ずしも友好的でなく殊に豪洲は日本に対し一種の恐日病的状態に陥って居る如く考えらるるのである。(中略)

極東委員会と云うのは極東問題処理に関しては其の方針政策を決定する一種の立法機関であって、其の第1回会議は2月26日ワシントンに開催され其の際日本憲法改正問題に関する論議があり、日本皇室を護持せんとするマ司令官の方針に対し容喙の形勢が見えたのではないかと想像せらる。マ司令官は之に先んじて既成の事実を作り上げんが為に急に憲法草案の発表を急ぐことになったものの如く、マ司令官は極めて秘密裡に此の草案の取り纏めが進行し全く外部に洩れることなく成案を発表し得るに至ったことを非常に喜んで居る旨を聞いた。此等の状勢を考えると今日此の如き草案が成立を見たことは日本の為に喜ぶべきことで、若し時期を失した場合には我が皇室の御安泰の上からも極めて懼るべきものがあったように思われ危機一髪とも云うべきものであったと思うのである。

==========<引用終わり>============

つまりこうした情勢を2月21日初めて知った幣原が、こうした状況を踏まえて、「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案すること」を思いつき、1月24日の会見でマッカーサーに提案した、ということは絶対にあり得ないのである。「平野文書」が平野による創作であると推定する根拠の一つである。(続く)

2023年8月26日 稲田恭明

2023年8月26日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 管理人

「平野文書」は真実か?(第1回)

いつもお世話になっております。

毎月お送り頂いております『完全護憲の会ニュース』はもちろん、その送信文にも、いつも無知な私の知らないニュースが満載で、大変勉強になり、楽しみにしております。

しかし、5月12日にお送り頂いた『ニュース13号』の送信文には驚きました。

そこには次のように書かれていました。

=========<引用開始>==============

平和憲法誕生の経緯を読み直してみてはいかがでしょう。

「押しつけ憲法論」は長年主流の仮説ですが、以下の「非押しつけ論」には、辻褄の合う証言や文献や状況証拠が豊富にあり、他説に比べて格段に信頼性が高いと思われます。

==========<引用終わり>=============

この文章に続けて、1946年1月下旬、当時の幣原喜重郎首相がマッカーサー最高司令官を訪問し、新憲法に戦争放棄を書き込むようマッカーサー元帥から提案してほしいと依頼し、密約が成立した、という話が紹介されていました。

これは「平野文書」の内容の要約ですね。

そしてそのあと、平野文書と笠原十九司氏の論考「憲法九条発案者をめぐる論争に「終止符」を」へのリンクが貼られていました。

私は思わず、「マジかっ」とつぶやきました。

私は以前、たまたま憲法制定過程を詳しく勉強したことがあったので、2016年に「平野文書」を一読して、これは嘘だと気づきました。

ところが今回、なんと、本物の歴史学者である笠原十九司氏が太鼓判を押しているではありませんか。これは一体どうしたことか!

リンク先の笠原氏の論考と、氏が今年出版された『憲法九条論争――幣原喜重郎発案の証明』(平凡社新書)を読んでみました。正直、唖然としました。あまりにも恣意的かつ強引な史料の引用と解釈がなされていたからです。

もし自分の知り合いが「南京大虐殺は幻だってよ」と言ったとしたら、それは違うと反論しなければならないと思います。同様に、平野説を解く人がいたら、それは信用してはいけないよと言わなければならないと思っています。

笠原氏は人民網の取材に対し、「嘘の歴史がまかり通るようになってはいけない。社会が事実をごまかした場合は、間違った道を歩むことになる。それは戦前の教訓だ」と述べていますが、私も全く同感です。そこで、「嘘の歴史」である「平野文書」がまかり通るようになってはいけないとの思いから、今回、数回に分けてブログに投稿させて頂くことになりました。その中で、笠原氏を批判することになるとは、私自身意外でもあり、残念でもありますが、仕方ありません。「嘘の歴史」である「平野文書」を「決定的史料」と持ち上げ、「嘘の歴史」を広めようとしているのですから。

本連載の目的は、第1に、「平野文書」の史料的価値を否定すること、第2に、「「平野文書」に依拠して「憲法9条幣原発案の証明」とした」と主張する笠原氏の『憲法九条論争』の誤りを指摘することです。

本論に入る前に、上で引用したニュース13号の送信文では、「押しつけ憲法論」と「非押しつけ論」とが対比されていますが、マッカーサー発案説と幣原発案説がこれに対応するわけではない、という点をまず指摘しておきたいと思います。現に、日本国憲法制定史研究の第一人者である古関彰一氏はマッカーサー発案説に立っていますが、「押しつけ憲法論」は支持していません。理由はいろいろあるのですが、一言でいうと、日本国民の多くはむしろ日本国憲法を全体として歓迎したわけですし、何よりも日本が独立を回復し、いつでも自由に憲法改正ができるようになってから70年以上もの間、一度も改正されなかったという事実が、「押しつけ憲法論」に対する明白な反証になっています。それに比べれば、当時の日本政府が「押しつけ」られたか否かというのは、とるに足りない問題です。GHQに強圧的な態度があったことは事実ですが、日本政府に拒否する自由がなかったわけではありません。ただ、日本政府が拒否した場合、マッカーサーが直接日本国民に草案を示すと言われ、それをされたら自分たちの政治家生命が終わると思って打算で受け入れたのです。それを「押しつけ」とみるかどうかは、国民の立場からすればどうでもいい問題です。

もう一点、本論に入る前の基礎知識として、「平野文書」についても説明しておきましょう。

「平野文書」とは、1949年から51年にかけて衆議院議長を務めた幣原氏の秘書のようなこと(正式な秘書官ではありません)をしていた衆議院議員の平野三郎氏が、幣原氏が亡くなる10日ほど前の1951年2月下旬、同氏から聞き取った話を文書にして、1964年ごろ憲法調査会に提出し、同調査会事務局が同年2月に「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について―平野三郎記」と題して印刷したものです。

この文書は当時は新聞でも取り上げられたりして、かなり話題になったようですが、その後、忘れられたようになっていたと思います。それが再び脚光を浴びたのは、2016年3月に鉄筆文庫より『日本国憲法 9条に込められた魂』の中の一編(というか中核文書)として出版されたことです。(もっともその前月にテレビ朝日の報道ステーションが「スクープ」として報じたそうなのですが、この報道は私は見ていません。)私もその本が出てすぐに読み、一読して嘘だと思ったことは先に述べました。

それでは、いよいよ次回から、「平野文書」の信憑性についてみていくことにしましょう(続く)(次回から文体は「である」調にします。)

2023年8月25日 稲田恭明

2023年8月26日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 管理人