まず「平野文書」の成り立ちについてであるが、同文書は冒頭で、「私が幣原先生から憲法についてお話を伺ったのは、昭和26年2月下旬である。同年3月10日、先生が急逝される旬日(10日)ほど前のことであった。(……)時間は2時間ぐらいであった。(……)まとまったお話を承ったのは当日だけであり」、「その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである」と記している。しかし、「平野文書」の文字数は約2万6000字であり、仮に平野が幣原の話を残らずメモしていたとしても、到底2時間で聞ける内容ではない。この点は笠原も、「「平野文書」にいう2月下旬の2時間で聞ける内容ではない」とあっさり認め、「「平野文書」の問題点は、51(昭和26)年2月下旬に幣原邸をたずねて、戦争放棄条項や天皇の地位についてまとまった話を聞いたのはその日だけ、とあるのは事実でないことである。(……)衆議院議長時代の幣原の秘書役をつとめていた平野は、暇なときに(……)幣原邸を訪ねて、いろいろと憲法について話を聞いたのである。「平野文書」に書かれているような一日ではなかったことは明瞭である」と述べている。しかし、そうだすれば、そのように書けばよかったのである。文書の内容が真実であれば、嘘をつく必要はどこにもない。このような文書の基本的な性格について事実を述べていないのであれば、その内容についても疑惑が生じるのは当然であろう。
また、平野は、1964年4月号の『世界』に寄稿した「制憲の真実と思想――幣原首相と憲法第9条」の中では、「何分にも記録のないことであり、また古いことであるから、私の記憶もかなりずれたものではあるが、以下その日の話をまとめてみた」と記しており、これによるとメモ(記録)すら残していないようである。さらに、1993年に出版した『平和憲法の水源――昭和天皇の決断』(以下、『水源』と略す)の中では、憲法調査会の高柳賢三会長から、「幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われ、「たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料は何もない」ので「困った」と書き、「それは根拠薄弱なものではある」と自分で認めているのである。もっとも、そもそも平野の創作だとすれば、初めからメモなどないのは当然である。
さて、「平野文書」は第1部と第2部とからなっており、第1部は、平野が幣原に質問して幣原が答えるという一問一答形式になっており、第2部は、幣原の世界観を含めて戦争放棄条項が生れた事情を幣原が一人称で語るという形式になっている。第1部で、第9条はマッカーサーの命令によるものなのか、幣原独自の判断でできたものなのかという平野の問いに対して、幣原は次のように答えている。少し長くなるが引用する(ゴチック化は引用者。以下同様)。
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そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和20年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第9条のようなことを日本側から言いだすようなことを出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この2つは密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。
幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々のソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。
豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。
この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。(中略)
この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮りにも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うよう決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君(松本烝治。幣原内閣当時の憲法改正担当国務大臣)にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和21年の1月24日である。その日、僕は元帥と2人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。
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これは、事実とすれば驚くべき証言である。「天皇の人間化と戦争放棄」を「命令として出して貰う」よう「マッカーサーに進言」し、「憲法は押しつけられたという形をとった」というのである。つまり、憲法の「押しつけ」をマッカーサーに依頼した、というのである。こういう証言は「平野文書」その他の平野証言(以下、「平野証言」)以外にない。これまで幣原発案説の根拠とされてきたマッカーサーの証言や『回想記』、ホイットニーのマッカーサー伝はすべて、幣原が日本政府の準備している憲法草案に戦争放棄と軍備撤廃を書き込むことを提案し、マッカーサーが賛成した、というものであった。それに対して、平野証言は、幣原発案説は幣原発案説でも、幣原はマッカーサーに押しつけを依頼したという「発案・押しつけ依頼」説ともいうべき特異な説なのである。では、これは果たして事実なのだろうか。
「幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた」と「平野文書」は言うが、後半は事実ではない。当時、マッカーサーが受取っていた本国からの指令「SWNCC-228(日本の統治体制の改革)」には、「日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを、奨励支持しなければならない」と書かれてあり、米本国はこの時点ではまだ天皇制を存続させるかどうかを決定していない。また、前半は事実であるが、この時点(46年1月24日)で幣原はそのことを知らなかった。だからこそ、「羽室メモ」(後述)にあるように、幣原はこの日の会見の冒頭で、「どうしても天皇制を維持させてほしいと思うが協力してくれるか」と尋ねたのである。ましてや天皇が戦犯として裁かれない保証はこの時点では全くなく、木下道雄侍従次長や寺崎英成宮内省御用掛など天皇の側近が、東京裁判対策として、天皇の「潔白」を示すための「独白録」の作成にとりかかるのは、3月18日になってからであり、極東委員会が天皇の不起訴で合意(当時は非公表)したのは4月3日であった。
「平野文書」はまた、「ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた」と述べている。幣原は一体いつ、こうした事実を知ったのだろうか。実は、それは日本政府がGHQ草案を受け取った(46年2月13日)あと、初めて開いた閣議(2月19日)の2日後、すなわち2月21日のマッカーサーとの会見においてであった。2月19日の閣議では結論が出なかったため、幣原がマッカーサーに真意を聞きにいくことになったのである。そして21日の会見の内容については翌22日の閣議で報告されたが、その様子を幣原内閣で厚生大臣を務めていた芦田均は日記に次のように書き留めている。
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MacArthurは先づ例の如く演説を初めた。「吾輩は日本の為めに誠心誠意図つて居る。天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じてゐる。幣原男が国の為めに誠意を以て働いて居られることも了解してゐる。然しFar Eastern CommissionのWashingtonに於ける討議の内容は実に不愉快なものであつたとの報告に接してゐる。それは総理の想像に及ばない程日本にとつて不快なものだと聞いてゐる。…
ソ聯と濠洲とは日本の復讐戦を疑惧して極力之を防止せんことを努めてゐる。…」
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幣原は、「それは総理の想像に及ばない程日本にとつて不快なものだと聞いてゐる」とマッカーサーに言われたと、閣議で報告しているのである。その内容をもし幣原があらかじめ知っていたのであれば、「総理の想像に及ばない程」という言葉をそのまま報告したりはしないであろう。「私も知っているところだが」といった言葉を使うのではないだろうか。これらの内容を2月21日のマッカーサーとの会見で、幣原が初めて知ったことは、次に引用する、3月20日の枢密院報告でも確認できる。
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去る2月21日余はマ司令官と長時間に亘り会談し同司令官が日本国天皇に対し抱懐せる所見を聴くを得た。またその席上将来の日本国管理に関し豪洲及びソ連側の態度に関しても言及するところがあった。ともに日本に対し必ずしも友好的でなく殊に豪洲は日本に対し一種の恐日病的状態に陥って居る如く考えらるるのである。(中略)
極東委員会と云うのは極東問題処理に関しては其の方針政策を決定する一種の立法機関であって、其の第1回会議は2月26日ワシントンに開催され其の際日本憲法改正問題に関する論議があり、日本皇室を護持せんとするマ司令官の方針に対し容喙の形勢が見えたのではないかと想像せらる。マ司令官は之に先んじて既成の事実を作り上げんが為に急に憲法草案の発表を急ぐことになったものの如く、マ司令官は極めて秘密裡に此の草案の取り纏めが進行し全く外部に洩れることなく成案を発表し得るに至ったことを非常に喜んで居る旨を聞いた。此等の状勢を考えると今日此の如き草案が成立を見たことは日本の為に喜ぶべきことで、若し時期を失した場合には我が皇室の御安泰の上からも極めて懼るべきものがあったように思われ危機一髪とも云うべきものであったと思うのである。
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つまりこうした情勢を2月21日初めて知った幣原が、こうした状況を踏まえて、「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案すること」を思いつき、1月24日の会見でマッカーサーに提案した、ということは絶対にあり得ないのである。「平野文書」が平野による創作であると推定する根拠の一つである。(続く)
2023年8月26日 稲田恭明