崩壊する国民皆保険制度

渡辺眞知子(カンパーランド長老キリスト教会 海老名 シオンの丘教会員)

2023年6月マイナンバー法等の一部改正法案が可決、成立し、国民皆保険制度のもとで発行・交付が義務付けられている健康保険証は、任意取得のマイナンバーカード(以下マイナカード)と一体化されることになった。2024年12月2日からは現行保険証の新規発行が停止され、マイナカードを持たない被保険者には、資格確認書が発行される。資格確認書の有効期限は保険者によって1年から5年と異なるが、当面職権により交付される。

 

マイナカードの有効期限は10回目の誕生日(未成年者は5回目)までだが、カードに付いているICチップの電子証明書の有効期限は年齢を問わず5回目の誕生日までで、共に自治体に出向いての更新手続きが必須である。手続きを怠れば保険証としての利用ができず「無保険」状態になり、国民皆保険制度は脅かされ、国民の生存権(憲法25条)は棄損される。

 

マイナカードに保険証機能をひも付けたマイナ保険証の利用登録者は、2万ポイント付与のキャンペーン効果もあり2024年11月末で7,874万人、マイナカード保有者の82.6%となった。が、この間深刻なトラブルが続出し、ずさんな個人情報管理が明らかになったことにより、マイナ保険証の利用率は2024年11月時点で18.52%と低迷している。

 

今回の深刻なトラブルは単なる人為的ミスではなく、制度ごとに異なる個人を特定する仕組みを、そのまま強引にマイナカードに紐付けたことにより起こった。銀行口座の「氏名」は「カタカナ」表記で、マイナンバーに登録されている氏名は「漢字」のみ、戸籍は漢字表記で読み仮名がない。住民票を編成した住民基本台帳の氏名表記は自治体によって異なり、フリガナがあるとは限らない、等々である。

政府は急きょ戸籍法を改正し、これまで記載がなかった氏名の「読み仮名」を必須とした。改正戸籍法は2025年5月に施行され、全国民が施行後1年以内に、氏名の「読みカナ」を本籍地の市区町村に申請する必要がある。1年以内に届け出がなければ、読みカナは職権で記載される。山崎は「ヤマザキ」「ヤマサキ」、小山は「コヤマ」「オヤマ」の読みがあるように職権でどこまで正確に記載できるのか、作業は膨大であり正確さは担保されていない。

政府はトラブルの総点検をすると言うが、それぞれの仕組みを変更せず総点検をしたところで、トラブルは発生し続ける。発行数8千万を超えるマイナカードの29分野にわたる点検作業は自治体に過大な負担を強いている。

 

「マイナンバー」のルーツである「国民総背番号制」(1960年代後半~)は、1988年に頓挫し、2002年開始の住基ネットは、住民票コードを附番する市区町村が次々に離脱したため2015年に新規カード発行が停止されている。

 

国が個人番号を付番し、地方自治体の判断でシステムから離脱できないようにしたのがマイナンバー制度である。健康保険証とマイナカードの一体化により、任意取得のマイナカードは事実上義務化され、「デジタル改革関連法」(2021.5)が進める全国民の個人情報の一元管理と、個人データを政府が自由に利活用できる体制が整えられた。

 

マイナカードのような国民ID(身分証明書)と健康保険証を一体化している国は、先進7カ国(G7)の中では日本だけであり、世界では共通番号から分野別番号への移行が主流である。米国では社会保障番号(SSN:Social Security Number)でのなりすまし等の被害が深刻化し、国防総省は2012年に国家安全保障対策上のリスク回避のためSSNから離脱し、独自の分野別番号への一斉転換・利用に踏み切った。また独、仏では行政分野ごとに異なる番号を用いて行政事務が行われている[i]

 

マイナンバー制度を強力に推進してきたのは財界である。マイナカードには12桁のマイナンバー(個人番号)とは別に、カード裏面のICチップに搭載された電子証明書のシリアル番号が存在する。このシリアル番号はマイナンバーと同じように個人を特定できるが、マイナンバーのように厳しい利用制限はなく民間企業にも開放されている。大手メディアが保険証廃止について「いったん立ち止まれ」と報道する中、経済同友会代表幹事は当時の岸田首相に「健康保険証廃止の期日を守れ」と要求した。 医療ビッグデータの利活用は世界中で進められており、経産省の調査報告書[ii]によれば、デジタルヘルスケアにおける市場規模は2016年で約25兆円、2025年には約33兆円になると推計されている。

高齢者や障害を持つ人等マイナカードの取得や管理が難しい人への対処方法は、未だに示されていない。マイナ保険証の本人確認は、「暗証番号」又は「顔認証」で行われるが、視覚障害を持つ人は、顔認証はできず暗証番号の入力は困難である。施設で暮らす人の健康保険証は施設側で一元管理されることが多いが、マイナ保険証は情報漏洩等のリスクがあり施設側も二の足を踏んでいる。

 

また、1年以上保険料を未納した場合に発行される短期保険証は廃止され、保険料未納者が3カ月間だけ3割負担で医療を受けることはできなくなった。2023年度の短期保険証利用者は37.8万世帯で、今後これらの人々の医療へのアクセスは困難を極める。加えて健康保険証の代わりになる資格確認書がいつまで発行されるのかは不透明で、不安は払拭できていない。

 

昨年12月、政府は医療や金融等幅広い分野での個人情報の利用拡大を議論する「データ利活用制度・システム検討会」の初会合を開いた。EUの個人情報保護法(GDPR)のように、個人が特定されない権利を明記した個人情報保護制度のない日本では、個人情報が企業の儲けに使われる可能性は払拭できない。

強引なマイナ保険証推進政策により国民の健康と命が犠牲になることなく、世界に誇る国民皆保険制度が存続していくようにと、私は祈り続ける。

 

 

[i] 「諸外国における共通番号制度を活用した行政手続のワンスオンリーに関する取組等の調査研究」報告書(概要版)2022年5月 アクセンチュア株式会社

https://www.digital.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/f8a3c045-6c82-4abf-b0bf-cf18bdb79c38/bd85d67f/20220512_policies_mynumber_summary_01.pdf

 

[ii] 第1回新事業創出WG事務局説明資料 2021.1.29 (経済産業省 商務・サービスグループ ヘルスケア産業課)

https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/kenko_iryo/shin_jigyo/pdf/001_03_00.pdf

 

「絶対的単独親権制」を撃つ―違憲判決を求めて

(弁護士 後藤富士子)

1 離婚後の「単独親権制」―手続の強制結合
 親の「子育て」は、父母各自に固有の自然権であるところ、憲法24条1項・2項により父母の平等が定められている。それに伴い、民法818条3項では、婚姻中は父母の共同親権とされている。
 一方、「夫婦」が「父母」であっても「離婚の自由」は保障されており、離婚の合意が得られない場合には、離婚に抵抗する配偶者に対し裁判所が離婚を強制できる(民法770条)。しかるに、離婚後は父母どちらか一方の「単独親権」とされている(民法819条)。しかも、離婚と単独親権者指定は同時決着させるべきとされ、同一の手続において処理されている。
 しかしながら、「子育て」の意欲も能力もある親であっても、「離婚」により親権を喪失するとなると、「離婚事件」でありながら、真の紛争は離婚ではなく、「子育て」ができなくなることを回避することに収斂していく。父母どちらも「子育て」の意欲も能力もある場合でも、どちらか一方が親権を喪失するのであり、それ自体が理不尽であるだけでなく、「離婚紛争」が長期化して「子育て」に悪影響を及ぼす。また、単独親権者を指定する家裁の実務では、調査官調査により、現に子の身柄を確保している親の監護が子の福祉に反するか否かを判断基準にするから、「現状維持」の結論になり、結果として子の福祉に反する親を親権者に指定することもある。
 このような有害無益な司法手続をやめるには、親子関係の問題は親子法の中で、婚姻関係の問題は婚姻法の中で解決する手続にすればよいのである。すなわち、手続の結合を外すことであり、そのためには単独親権制を止めれば足りる。そうすると、現行の民法766条は、婚姻法(離婚法)ではなく、親子法の条文になるはずである。

2 親の「子育て」と「親権」「監護」
 親の「子育て」は、人為的な法制度よりも前に、原初的に形成されるものであるから、「親権」「監護」を含みながらも、それよりも広範囲なものである。ちなみに、アメリカでは、まさに「子育て」を意味する「parentig」という語が使われている。この用語にすれば、社会学的実態に即した「同居親」と「別居親」という区別になり、「監護親」と「非監護親」、「親権者」と「非親権者」という父母間の差別的対立を排除できる。
 すなわち、「単独親権制」は、紛争を解決するためには有害な障壁になっている。「単独親権制」を止めるだけで、離婚後も父母のどちらも「子育て」することが前提となる。したがって、父母各自ができることをやるという「パラレル・ペアレンティング」(並行的親業)が家事事件手続のテーマになり、「二者択一の対決」から「二者共存の調整」の手続に変更される。これこそ家事司法の面目躍如というべきであり、「子の最善の利益」を実現する手続になる。

3 子の権利主体性
 「単独親権制」を前提とする手続は、「子の監護に関する事項」がテーマでありながら、当の子を手続の当事者とはせず、専ら大人が観念的な「子の福祉」を弄んでいる。
 すなわち、「子育て」について父母を「二者択一の闘争」に投げ込み、その狭間で子に著しいストレスを与える。このような家事司法制度と実務運用は、もはや児童虐待というべき域に及んでいる。それは、憲法24条2項で保障されるべき「個人の尊厳」を脅かすだけでなく、「児童の権利条約」の基本理念と相容れない。

4 結論
 離婚後の単独親権制を定める民法819条は、憲法24条2項で保障される「個人の尊厳」および「両性の本質的平等」に反するゆえに無効である。

(2024年10月4日)

2024年10月4日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子

志位和夫『共産主義と自由』を読む  

合田寅彦(2024・9・6)

新聞広告を目にして講演録である上記の書を買い求めた。読み進めている途中、なぜだか北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の浮世絵が頭に浮かんでいた。どちらも、身分社会の厳しい言わば自由にほど遠いと思われがちな江戸時代にあって、平和な庶民の姿を描いている。そこに権力者の姿はどこにもない!そんなイメージが頭をかすめながら同時にマルクスの『資本論』を基に語る志位氏の「おとぎ話」に聞き入る民青諸君の素直な顔を活字の向こうに思い浮かべていた。九十を目前にしたさび付いた頭脳の私に良い刺激を与えてくれた本書に感謝しないわけにはいかない。

若き日のマルクスは「ヘーゲルの弁証法」と「フォイエルバッハの唯物論」を学ぶ中で彼独自の「資本制社会における人間疎外(労働疎外)」を深く認識し(「経済学哲学手稿」)、かの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ11」で「かつて哲学者は歴史をさまざま解釈してきたが、肝心なことは変革することである」(おぼろげな私の記憶)と言いきったのだ。

さて、志位氏の講演を聞いた民青諸君はそこから何を会得したのであろうか。自分たちの日頃の活動(共産主義社会実現に向けての)に自信なり可能性なりを感じ取れたとしたら、それは志位氏のどこのどのような言辞がそれにあたるのだろうか。彼の講演が「おとぎ話」でないとの認識に立つのであれば、だが。

19世紀中葉のヨーロッパ(イギリス)は10歳程度の子供が平気で12時間もの労働をさせられていた社会であった。マルクスはエンゲルスの力や当時の『児童労働調査委員会報告・証言』を借り受け、そのあたりのことを「資本論」(第一巻)で克明に記述している。「資本制社会の崩壊」がまさしく人間解放の実現そのものであったのだ。だからこそ労働者の国際的団結が必要であった。マルクスの第一インターナショナル、レーニンの第二インターナショナル、ルクセンブルグの第三インターナショナル、トロツキーの第四インターナショナルはそのような社会革命のイメージを、労働疎外に身を置く労働者の国際的連帯に描いたのだ。

現実には、日本ばかりか世界中の労働運動が壊滅的状況にある。ではそれに代わる市民運動はどうか。すでにべ平連のような市民運動もなければ、残念なことに「日米安保破棄!」の一大国民運動もない。日米軍事同盟批判を口にする政党は「共産党」と弱小「社会党」と「れいわ」しかない。

では志位氏は、「おとぎ話」としてではなく、どのような社会認識に立って望ましい「共産主義社会での自由」を現実社会と結び付けて民青諸君に語ろうとしているのか。私にはそれがまったく見えない!

「共産主義社会の自由」があたかもコロナウイルスのように個人の価値観とは関係なく資本制社会に蔓延するものであれば、そのウイルスを肯定的に扱えばすむことだが、そんな都合の良いことはあり得ない。そうであれば、仮に共産主義が実現したとして、「志位氏の語る自由」はそれまでに身に刷り込まれた庶民の「個人所有の価値観」とどこでどう折り合いをつけるというのか。かつてのロシアのように強権により弾圧するのであれば別だが。資本制社会が崩壊すれば必然的に解決するものではなかろう。文学者であらずとも、人間がそんな単純な存在でないことくらい志位氏であれば分かろうものを。講演の中でその部分を志位氏は全く触れていない。来るべき「共産主義社会」にあって「政治権力」は存在するのかどうか。旧来の彼ら個人所有者に対し(当然抵抗はあろう)、かつてのロシア革命の自営農民弾圧のようなことをしないとの前提にたてば、でのことだが。

私なりに共産主義社会実現のイメージを考えてみたい。かつてのように、革命的労働者による政権奪取はありえない。なにしろ労働組合がないのだから。力による実現は不可能だという認識の上に立って。

考えられることは、貧困家庭を抱え込んだ「大まかな生活協同体」(財産の共有にまでいけばなお良い)がそれこそ全国津々浦々に誕生し、よい結果を生んでいることが大多数の国民の目にしかと認識されたときであろう。共産党員であればこそ、自分たちの間だけでもそれに似た生活共同体があっていいと思うが、どこにもない。かの「ヤマギシ会」の生みの親・山岸巳代蔵にその考え(ヤマギシズム)があったらしいが。

志位氏は現実に共産党という革新政党の指導者であるにもかかわらず、彼の言辞からそうした「共産・共有」のイメージがどこにも感じられない。かつてのフランス革命の合言葉「自由・平等・友愛」の「友愛」がここで言う「共有」にあたる。その「共有」の観念抜きに「共産主義的自由」があたかもそれ自体独り歩きするなどとは、「幻想」に過ぎないではないか。つまり、志位氏の講演が「おとぎ話」であるということだ。

以下がもう一つの志位氏批判の核心だ。あるべき共産主義社会の「自由」を語る前に、その「共産」を頭に冠する日本共産党という政治組織に果たして「人間の思考の自由」はあるのか。

結党以来100余年の日本共産党がこれまでにどれだけの数の党員を「反党分子」として除名してきたか。「権力の回し者」が仮にその中にしたとしても・・・。

未来社会を築こうとしてきた党であってみれば、その未知の社会へのイメージが多様であることはむしろ「財産」であろうに、文学者をはじめ多くの思想家を異分子として排除してきたのではなかったか。己の組織に多様な思考の自由がなく、どうして「党がイメージする未来の人間社会」に「自由がある」と語ることができるのか。近 しい共産党員が数名いる。みなさん「善人の塊」のような人たちばかりだ。ただし党の任務に縛り付けられている見るからに可哀そうな「市会議員の
某」一人を除けばだが。傍観していて滑稽である。とはいえ、その地域共産党員皆さんの口にする言葉はすべて「コピーされたもの」との印象を抱くものばかりだ。「共産主義社会での人間の自由」を語る前に、「おのが党の言論の自由がどれほど狭められているか」をこそ党員各位は自覚すべきであろう。

親の自然権としての「子育て」

(弁護士 後藤富士子)

1 「ペアレンティング」という概念
 アメリカでは、そもそも日本の民法で定められている「親権」に相当する語はなく、いわば財産管理権を除く「監護権」=「custody」が法律用語となっている。したがって、日本で「共同親権」というのは、「joint-custody」と英訳されるのが一般的である。
 これに対し、社会学や教育学の文献あるいは大衆向けの書物では、「parentig」という語が使われている。この意味は、「子育て」「育児」「親業」である(ランダムハウス英和辞典参照)。
 ちなみに、『離婚後の共同子育て』(エリザベス・セイアー&ジェフリー・ツィンマーマン著・青木聡訳)の原題は「The Co-Parentig Survival Guide」である。また、『離婚と子ども』の著者である棚瀬一代教授(当時)も「ペアレンティング」という語を用いているし、離婚後の「共同子育て」に関し「パラレル・ペアレンティング」=「並行的親業」を提唱していた。
 ところで、「ペアレンティング」という概念は、専ら「親の作為」を意味しているところ、それは法律上の「権利」といえるのだろうか。日本の民法で定められている「親権」「監護権」が親の権利であることに鑑みれば、「ペアレンティング」が親の権利であることに疑いをはさむ余地はないと思われる。
 むしろ、「パラレル・ペアレンティング」が「共同子育て」の一形態とされることに照らせば、民法が定める「親権」「監護権」の内実が空洞化しているように思われてならない。その根本原因は、「子育て」という現実的・実際的な内実と乖離して、離婚により片親から親権を剥奪する単独親権制にある。さらに、それを埋め合わせるために、親権者とならなかった親が、「子育て」からは程遠い「面会交流」を家事事件手続により追求しても、結果は虚しい。

2 「親権」と「後見」の根本的差異
 近代法の親子関係の中核は、親が子を哺育・監護・教育する職分であり、民法はこれを「親権」として規定する。親と子は、血縁的関係者の中でも最も緊密なものであるから、両者の関係は親権に尽きない。習俗的・倫理的にそうであるだけでなく、法律の上にも現れる(例えば相続)。しかし、広い意味での親子の法律的関係のうちで、親権すなわち親の子を哺育・監護・教育する職分を中核として特別の取扱をすることが、近代法の特色である。
 ここで「職分」とされるのは、他人を排斥して子を哺育・監護・教育する任に当たりうる意味では権利であるにしても、その内容は、子の福祉をはかることであって、親の利益をはかることではなく、またその適当な行使は子および社会に対する義務だとされることである。この点で国家の監督が問題になるし、その意味では「親権」と呼ぶことがすでに不適当と考えられている。
 また、その「職分」の内容を包括的なものとせず、場合によっては分離しうるものとすることも考えられている。それは、親権の内容を包括的な単一のものとするときは、おのずから親権者の支配的色彩が強くなることを恐れ、内容を具体的な権利の集合とみようとするのである。しかし、子の健全な育成をはかるという職分の内容を具体的に列挙することは不可能である。
 そして、このような近代法の特色を前提とし、「親権」と「後見」の区別を認めず、すべて後見として、父母があるときは父母が後見人となるイギリスの制度が検討される。実際、日本でもこのような制度を採用すべしという主張があった(中川善之助)。これに対し、我妻栄は、「自然の愛情を基礎とし、それによってある程度の保障のある親権と、そうしたもののない後見とにおいて、その内容の区別(国家の監督の強弱)を認める必要がないかどうかが検討されなければならない。」としたうえで、「私はまだ差別の抹消に踏み切る確信をもてない。」と吐露している(有斐閣:法律学全集23『親族法』:平成6年8月30日初版第42刷発行/317頁)。
 このように、「親権」と「後見」の根本的差異は、親子であることによって生まれる「自然の愛情」を基礎とできるか否かにかかっている。このことは、親の「子育て」が、人為的な法制度よりも前に、原初的に形成されるものであることを認めている点で、「自然権」と呼ぶのに相応しいと思われる。

3 親の「子育て」と憲法
 ドイツ基本法6条2項は、「子の養育および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行に対しては、国家共同社会がこれを監視する。」と定めている。そして、1982年11月3日、連邦憲法裁判所は、離婚後の親の単独配慮(1979年、「親権」は「親の配慮」に改正)を定めたドイツ民法(BGB)1671条4項1文は、前記基本法に抵触するゆえ無効であるとする違憲判決を下している(日弁連法務研究財団『子どもの福祉と共同親権』所収/鈴木博人「ドイツⅠ」143頁参照)。このように、ドイツでは、子の養育および教育が「両親の自然の権利」と憲法で明記されている。
 一方、前項で検討したように、日本においても、親の「子育て」は「自然権」と考えられる。そして、「自然権」は基本的人権であるから、憲法に根拠があるはずである。
 まず、婚姻中の父母の共同親権を定めた民法818条3項は、日本国憲法24条に基づくものである。同条2項は、婚姻や離婚等家族に関する事項について、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」としている。そして、1項では、特に婚姻に限って「夫婦が同等の権利を有することを基本」とする旨を定めている。そうすると、婚姻中は父母の共同親権であることは、同条1項2項で重複して保障しているにすぎず、離婚後は単独親権を絶対的に強制する法律は、同条2項に抵触すると言わなければならない。
 しかるに、そのような議論-絶対的単独親権制違憲論-が日本の司法界で低調なのは、親の「子育て」についての権利性が理解・認識されていないからである。結局、戦後の民法改正レベルでは、「男女平等」という点で「家父長」制が否定されただけで、「個人の尊厳」という理念が顧みられず、「家」制度の廃止は不発に終わったのであろう。だから、民法の家族法全面改正から77年経過しようとも、「法律婚優遇」という国家権力による権威主義的政策によって「家」制度は生き延びている。

(2024年9月25日)

2024年9月25日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子

Q&A 志位和夫『共産主義と自由』を読む  

合田寅彦(2024・9・6)

新聞広告を目にして講演録である上記の書を買い求めた。読み進めている途中、なぜだか北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の浮世絵が頭に浮かんでいた。どちらも、身分社会の厳しい言わば自由にほど遠いと思われがちな江戸時代にあって、平和な庶民の姿を描いている。そこに権力者の姿はどこにもない!そんなイメージが頭をかすめながら同時にマルクスの『資本論』を基に語る志位氏の「おとぎ話」に聞き入る民青諸君の素直な顔を活字の向こうに思い浮かべていた。九十を目前にしたさび付いた頭脳の私に良い刺激を与えてくれた本書に感謝しないわけにはいかない
若き日のマルクスは「ヘーゲルの弁証法」と「フォイエルバッハの唯物論」を学ぶ中で彼独自の「資本制社会における人間疎外(労働疎外)」を深く認識し(「経済学哲学手稿」)、かの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ11」で「かつて哲学者は歴史をさまざま解釈してきたが、肝心なことは変革することである」(おぼろげな私の記憶)と言いきったのだ。

さて、志位氏の講演を聞いた民青諸君はそこから何を会得したのであろうか。自分たちの日頃の活動(共産主義社会実現に向けての)に自信なり可能性なりを感じ取れたとしたら、それは志位氏のどこのどのような言辞がそれにあたるのだろうか。彼の講演が「おとぎ話」でないとの認識に立つのであれば、だが。
19世紀中葉のヨーロッパ(イギリス)は10歳程度の子供が平気で12時間もの労働をさせられていた社会であった。マルクスはエンゲルスの力や当時の『児童労働調査委員会報告・証言』を借り受け、そのあたりのことを「資本論」(第一巻)で克明に記述している。「資本制社会の崩壊」がまさしく人間解放の実現そのものであったのだ。だからこそ労働者の国際的団結が必要であった。マルクスの第一インターナショナル、レーニンの第二インターナショナル、ルクセンブルグの第三インターナショナル、トロツキーの第四インターナショナルはそのような社会革命のイメージを、労働疎外に身を置く労働者の国際的連帯に描いたのだ。
現実には、日本ばかりか世界中の労働運動が壊滅的状況にある。ではそれに代わる市民運動はどうか。すでにべ平連のような市民運動もなければ、残念なことに「日米安保破棄!」の一大国民運動もない。日米軍事同盟批判を口にする政党は「共産党」と弱小「社会党」と「れいわ」しかない。

では志位氏は、「おとぎ話」としてではなく、どのような社会認識に立って望ましい「共産主義社会での自由」を現実社会と結び付けて民青諸君に語ろうとしているのか。私にはそれがまったく見えない!
「共産主義社会の自由」があたかもコロナウイルスのように個人の価値観とは関係なく資本制社会に蔓延するものであれば、そのウイルスを肯定的に扱えばすむことだが、そんな都合の良いことはあり得ない。そうであれば、仮に共産主義が実現したとして、「志位氏の語る自由」はそれまでに身に刷り込まれた庶民の「個人所有の価値観」とどこでどう折り合いをつけるというのか。かつてのロシアのように強権により弾圧するのであれば別だが。資本制社会が崩壊すれば必然的に解決するものではなかろう。文学者であらずとも、人間がそんな単純な存在でないことくらい志位氏であれば分かろうものを。講演の中でその部分を志位氏は全く触れていない。来るべき「共産主義社会」にあって「政治権力」は存在するのかどうか。旧来の彼ら個人所有者に対し(当然抵抗はあろう)、かつてのロシア革命の自営農民弾圧のようなことをしないとの前提にたてば、でのことだが。

私なりに共産主義社会実現のイメージを考えてみたい。かつてのように、革命的労働者による政権奪取はありえない。なにしろ労働組合がないのだから。力による実現は不可能だという認識の上に立って。
考えられることは、貧困家庭を抱え込んだ「大まかな生活協同体」(財産の共有にまでいけばなお良い)がそれこそ全国津々浦々に誕生し、よい結果を生んでいることが大多数の国民の目にしかと認識されたときであろう。共産党員であればこそ、自分たちの間だけでもそれに似た生活共同体があっていいと思うが、どこにもない。かの「ヤマギシ会」の生みの親・山岸巳代蔵にその考え(ヤマギシズム)があったらしいが。
志位氏は現実に共産党という革新政党の指導者であるにもかかわらず、彼の言辞からそうした「共産・共有」のイメージがどこにも感じられない。かつてのフランス革命の合言葉「自由・平等・友愛」の「友愛」がここで言う「共有」にあたる。その「共有」の観念抜きに「共産主義的自由」があたかもそれ自体独り歩きするなどとは、「幻想」に過ぎないではないか。つまり、志位氏の講演が「おとぎ話」であるということだ。
以下がもう一つの志位氏批判の核心だ。あるべき共産主義社会の「自由」を語る前に、その「共産」を頭に冠する日本共産党という政治組織に果たして「人間の思考の自由」はあるのか。
結党以来100余年の日本共産党がこれまでにどれだけの数の党員を「反党分子」として除名してきたか。「権力の回し者」が仮にその中にしたとしても・・・。
未来社会を築こうとしてきた党であってみれば、その未知の社会へのイメージが多様であることはむしろ「財産」であろうに、文学者をはじめ多くの思想家を異分子として排除してきたのではなかったか。己の組織に多様な思考の自由がなく、どうして「党がイメージする未来の人間社会」に「自由がある」と語ることができるのか。近くは松竹某氏の除名があったではないか。笑止千万と言うに等しい。
私の地域にごく親しい共産党員が数名いる。みなさん「善人の塊」のような人たちばかりだ。ただし党の任務に縛り付けられている見るからに可哀そうな「市会議員の某」一人を除けばだが。傍観していて滑稽である。とはいえ、その地域共産党員皆さんの口にする言葉はすべて「コピーされたもの」との印象を抱くものばかりだ。「共産主義社会での人間の自由」を語る前に、「おのが党の言論の自由がどれほど狭められているか」をこそ党員各位は自覚すべきであろう。

Fazıl Say ~ Nâzım Oratoryosu Live「ナーズムオラトリオ」ライブ動画のご紹介

原爆で紙切れのように燃やされ灰になった7才の少女。10年経っても7才のまま。。。とあるから1955年にナーズム氏が書いた詩に(1963年に亡命先ロシアで死亡)、今のトルコ政府の依頼で、今人気のトルコ出身のピアニストであり作曲家のサイ氏が曲を書き、自らピアノを弾く。1時間半の大曲オラトリオには神の登場はなく、平和を願う人間の祈り、魂の叫びで原爆を投下したアメリカを糾弾するオラトリオらしいオラトリオになって、現代人の心を揺さぶる。演奏終了後の数千人の聴衆の拍手、歓声に唯一の被爆国日本もしっかりせねばと叱咤された。

ファジール・サイさんの演奏はYouTubeにたくさんアップされていますが、この曲はトルコ語(アルファベットだけで大丈夫です)で検索しないと見つかりません。

この動画には、YouTubeの自動翻訳で日本語字幕を表示させられますが、詩のコンピューター翻訳はダメですね。

古いものですが、ナームズ・ヒクメット氏の詩集はAmazonで手に入ります。

自衛隊による靖国神社集団参拝の危うさ

柳澤 修

 今年1月9日、陸上自衛隊の小林弘樹・陸上幕僚副長(陸将)が東京・九段の靖国神社を陸自幹部らと集団で参拝したことが分かった。その後昨年5月17日に、海上自衛隊の練習艦隊司令官・今野泰樹海将補はじめ、一般幹部候補生課程を修了した初級幹部ら165人が集団参拝したことも判明した。

1974年の事務次官通達では「神祠(しんし)、仏堂、その他宗教上の礼拝所に対して部隊参拝すること」などを「厳に慎むべきである」としている。

しかし、防衛省は陸自の集団参拝について調査結果を発表し、「おのおのの自由意思に基づき私人として行った私的参拝」と認定。上記の次官通達に違反しないとした。同じく海自の集団参拝について酒井良海・海上幕僚長は、「研修の合間に個人が自由意思のもとで私的に参拝した」とし、「問題視することもなく、調査する方針もない」と会見で述べた。

 結果的に、陸自幹部が公用車を使って参拝したことが問題視され、参拝した幹部3人が訓戒の処分を受けたが、集団参拝自体は事務次官通達違反とはしていないのだ。

 最も強力な暴力装置としての自衛隊幹部の思考に恐ろしさを禁じ得ない。事務次官通達以前に、日本国憲法20条を何ら理解していないことに恐ろしさを感じる。

憲法20条

  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政 治上の権力を行使してはならない。

 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

防衛省や制服組幕僚幹部は、「私人」を強調するが、上意下達が最も徹底された組織である自衛隊にあって、上からの命令や計画は至上であり、自由意思が許される範囲は極めて少ない。現にいずれの集団参拝も厳密な計画があったのだ。それにも関わらず、正々堂々と「私人」だの「自由意思」だのと都合のいい言葉を持ち出して、参拝を正当化するのはもってのほかである。

こうした防衛省・自衛隊の傲慢さは、安倍政権以降の、集団的自衛権の容認や敵基地攻撃能力の保有など、憲法無視の政治が大いに影響を与えている。アメリカ一辺倒の外交・軍事政策により台湾有事などを盛んに煽り、「新しい戦前」に対処するには、軍国主義の精神的支柱として国民を戦争に動員する役割を果たした靖国神社がもってこいの存在なのだ。

 また、靖国神社と自衛隊の緊密な関係は、4月1日から第14代宮司に元海将であった大塚海夫氏が就任することからも証明された。

前記したように、自衛隊は現在の日本で最も強力な暴力装置である。「文民統制が徹底されているから心配ない」と考えるのは、もしかしたら甘い考えかもしれない。制服組の幹部がこうした憲法認識しか持っていない組織には、大いなる危険が存在するのではないか。

こんな考えが杞憂であってくれればそれに越したことはないのだが。

(2024年3月21日)

2024年3月21日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : o-yanagisawa

「共同親権」は日本国憲法とともに

                        (弁護士 後藤富士子)

1 「共同親権」は、日本国憲法とともにやって来た
 憲法24条の家族観は、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」を基本理念としている。そのため、昭和22年の民法改正で家族法が抜本的に見直されている(「第4編親族」全部改正)。「共同親権」制もその一つである。戦前は「単独親権」制であり、第一次的に「家ニ在ル父」、第二次的に「家ニ在ル母」が親権者とされていた。つまり「家父長」制である。
 しかし、戦後の民法改正では、「男女平等」という点で「家父長」制が否定されたにしても、「個人の尊厳」という点で「家」制度の廃止は不徹底であった。というより、「個人の尊厳」という理念は顧みられなかったのかもしれない。「夫婦同姓の強制」や未婚・離婚の「単独親権」強制は、その典型と思われる。その根底にあるのは「法律婚の優遇」であり、それによって「家」制度が温存されたように見える。

2 「婚姻関係」と「親子関係」の峻別
 現行民法で、「共同親権」は「父母の婚姻中」に限定されている。離婚後は、父母どちらかの「単独親権」とされている。憲法で父母は夫婦として「同等の権利を有する」とされているのに、離婚後は「単独親権」になるのは何故なのか?「夫婦」でなくなるからなのか?父母が合意できるならいいけれど、「親権者でなくなる」「親権を喪失する」ことをどちらも受容できない場合、「単独親権」を強制する法律は、憲法の平等原則にすら反するのではないか?
 考えてみると、同じ人物が「夫婦」か「父母」かで異なる扱いを受けるなんて、まるでトリックである。これは、「婚姻関係」と「親子関係」が法律上峻別されているせいであろう。
 ちなみに、民法では、婚姻法(第4編第2章)の中に親子関係を直接律する規定はなく、「離婚後の子の監護に関する事項の定め等」(766条)の1箇条があるのみである。一方、第4編第4章「親権」には、「子の監護に関する事項」についての規定がない。「親権」の概念が「子の監護・教育」とされているうえ(820条)、「監護権」だけを喪失・停止させることはできないとされている(834条、834条の2、835条参照)。
 それでは、離婚前の別居段階ではどうなるのか? 法律上は夫婦の共同親権である。しかるに、「親権」の枢要部分である「監護」について民法に規定がないため、766条が準用ないし類推適用されている。その内容は、「監護者指定」「面会交流その他の交流」「養育費」「その他の子の監護について必要な事項」と広範囲である。しかし、同条は、離婚後の単独親権を前提としているから、どこまでいっても矛盾を免れない。しかも、同条4項では「監護の範囲外では、父母の権利義務に変更を生じない」とされている。
 そうすると、離婚後について「親権と監護権の分属」は法律上の根拠があるのに対し、離婚前の「単独監護者指定」は脱法というほかない。また、妻が子どもを連れ去って夫の親権行使を妨げていることも、違法(821条居所指定、820条監護教育)というほかない。
 このような矛盾・違法を克服するには、父母の離婚によって親子関係が変動しない、つまり、離婚後も共同親権にすれば足りる。換言すると、離婚後の単独親権制は、法律上峻別された「婚姻関係」と「親子関係」を結合するものであった。だから、ドイツの民法改正では、この「結合」を外したのである。

3 「女性差別撤廃条約」と「子どもの権利条約」
 昭和60年に発効した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」16条1項(d)は、「子に関する事項についての親(婚姻をしているかいなかを問わない。)としての同一の権利及び責任」を確保することを求めている。この規定からすれば、未婚・離婚の「単独親権」制は撤廃されるべきはずである。
 また、平成6年に発効した「児童の権利に関する条約」18条は「父母の共同責任」として「児童の養育及び発達について父母が共同の責任を有するという原則についての認識を確保するために最善の努力を払う」ことを締約国に求めている。ここでも、「父母」の婚姻関係は問われない。ちなみに、ドイツの民法改正は、「子どもの権利条約」の批准に伴うものであった。
 日本は、いずれの条約も批准して発効しているのに、未婚・離婚を含む「父母の共同親権」を原則とする法改正はされなかった。去る3月8日、漸く、離婚後の「共同親権」を認める民法改正案が閣議決定され、国会で審議されるところへ漕ぎ着けた。日本国憲法施行から77年、「女性差別撤廃条約」発効から39年、「子どもの権利条約」発効から30年である。

4 「単独親権」制は、「DV防止法」「児童虐待防止法」の代替措置ではない
 離婚後も父母双方が親権をもつ「共同親権」の民法改正について、DVや児童虐待の被害者や支援者が懸念を表明している。離婚前のDVや虐待の「立証が困難」であり、法改正は「被害者を守る制度を先に確立し、確実に運用されてからだ」という。
 しかしながら、「DV防止法」や「児童虐待防止法」は、被害者を守るための法律ではないのか。また、婚姻中でさえ、親権喪失・停止の審判ができる。それらを活用せずに、離婚後の単独親権制にすべてを代替させるが如き議論こそ、日本国憲法や「女性差別撤廃条約」「子どもの権利条約」を無視してきた元凶ではないか。それは、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」という理念に希望をもたない人の思想である。でも、私は、熱烈に希望をもっている。

(2024年3月18日)

2024年3月18日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子

沖縄県主催シンポジウム「日米地位協定の改定に向けて」に参加しました。

沖縄県主催シンポジウム「日米地位協定の改定に向けて」に参加しました。参加者500人(主催者数字)、パネラーの顔が確認できない程遠い広い会場が満席でした。

先ず、玉城沖縄県知事による「他国地位協定調査」の報告。
数年かけて調査したもの(資料1欧州 資料2オーストラリア・フィリッピン 資料3韓国)を、限られた時間の中で、早口で一気に熱意を込めて報告されました。この上記資料1、2、3は沖縄県ホームページの地位協定ポータルサイトからダウンロードできます。項目別に比較でき、日本がどれほど酷い状況にある明白です。
次にzoomでレオナルド・トリカリコ氏のお話。
トリカリコ氏は元イタリア空軍参謀長、現NATO第5戦術空軍司令官で、伊米地位協定交渉のイタリア側担当者だった。「条文を変えたわけではなく、国民の怒りの声をバックに、少しずつ運用の改善を実現して来た。」ことを強調されていました。
最後は、パネルディスカッション。

玉城知事以外の登壇者が若い。最年長のフリージャーナリスト布施祐仁氏でも48才。平和問題というと高齢者ばかりという現実を見ているので、ここに惹かれてこのシンポジウムを申し込んでいます。

川名晋史教授(40代半ば)は「他の学問は外国の先例がある。このテーマ日本独自の問題。孤独になる。若い研究者もいる。このように多くの人が関心を持っていることは彼らの励みなる。」と。

沖縄出身の三宅千晶弁護士(30代)は、この若さで日米合同委員会担当官僚とやり合ってきた。開示請求拒否の理由がアメリカのノーだと言われ、ノーの文書を見せろ、文書ではないメールだった、メールを見せろ、メールもなし、で黒塗りがいっぱいあったけれど開示はされたそう。日本の官僚はアメリカの意向を確認せず、忖度なのかサボりなのかアメリカがダメだと言ってるからダメなんだと門前払いして来たのかもしれない。トリカリコ氏が言ったように国民が怒りの声を上げ続けなければ何も変わらないということだろう。

このシンポジウムを企画コーディネートを担当した猿田佐世氏も40代、新外交イニシアティブ(ND)の代表です。彼女の企画、コーディネートは宣伝、参加申込み受付、申込者への前日の確認メール、当日の現場設営、運営、マスコミ取材手配、終了後のアンケート回収(配布されたアンケート用紙のQRコードでスマホで答えてくれ、「手書きを入力するのが大変なんです」とアナウンスしていた)までの一切を請負っているよう。玉城知事は当日朝の飛行機で上京したそう。

知事は「沖縄の基地は今も増えている」と。日米安保条約は全土基地方式であり、つまり、米軍の占領状態であり、日本の許可なしに何時でも、何処にでも基地にできうる。今は宿舎需要ではあるか、不動産屋に基地用地求むという広告が出ており、地主がOKならすぐに米軍基地になると。

最後に、フィリッピンがアセアン加盟国であり、アセアン諸国と連携してフィリッピンに有利な地位協定に成功しているということから、沖縄はどう考えているかという質問に対し、知事は、アメリカが沖縄の基地能力の一部を移転する計画があるグアム、ハワイ、オーストラリア、サイパン、テニアン、北マリアナ諸島と連携していきたいと。

安保も地位協定も日米関係の問題なのに、沖縄だけに頑張らせているようで心が痛みます。政府が沖縄側に立ちアメリカと交渉する覚悟がありさせすれば、辺野古の裁判も違う結果になったはず。沖縄県外の国民が声を上げてこなかったのが原因ではないかと確認させられるセミナーでした。

終了後、猿田ND代表の声と思うが、今日の500人が10人に伝えてくれれば5,000人に、5人でも2,500人に届く。よろしくと言ってました。

ニュースの毎号に三鷹事件の再審状況を!

                    札幌 小久保和孝

 「ミスプリント」なのか、それとも当時の我が国の国家体制を反映するごく自然なことであったのか、深慮した上での意図的なことであったのか、我が国「日本国憲法」では、国語表記としては「つじつまの合わない」所が存在する。最も目立つのは、日本国憲法典の三権分立規定の表記である。

 日本国憲法第四章は“国会”、第五章は“内閣”となっているのに、何故か第六章は“司法”である。第六章を“司法”とするなら、第四章は“立法”、第五章は“行政”でなければ日本語としては「辻褄」が合わない。第四章が“国会”、第五章が“内閣”であるなら当然第六章は“裁判所”である。

 民主主義国家において国民のコントロールに最も遠いのが「司法権」である。その上、始末が悪いのがジャーナリズムが、司法に関することは、その「裏付取材」の困難性から、ニュースソースは「当局のリーク」に頼ることが多く、益々「国民視点」から遠のき、「司法権」をコントロール出来なくなるばかりか、“権力犯罪“の「お先棒」を担がされていることである。

 「証拠」主義が原則となっているにもかかわらず「冤罪」が絶えない。そればかりか、戦後「権力犯罪」の最も有効な手段となっているのが「司法権」である。

 その最たる例が「松川事件」「三鷹事件」である。“司法権を利用した権力犯罪“は阻止出来ず、「国民運動」にならない限り“正す”ことが出来ない。それが残念ながら我が国の“現状”である。

 我が「完全護憲の会」は小さく、今の所国民運動を巻き起こす「力」もない。しかし“護憲の灯火”である事は確かである。そこで提案!

 毎号のニュースに必ず、三鷹事件の再審運動や状況を登載していこうではいか。