ハノイ(ベトナム)マラソン参加記

福田玲三

 ZKM(全国健称マラソン会)には数年前に入会した。ZKMの2024年度海外遠征はベトナムの首都であるハノイ・マラソンに決まり、私はこの遠征参加を予約していた。

去る11月1日から5日まで、このマラソン参加のため、娘とともに、日本を離れた。

11月1日16:30、成田空港発、22:30(現地時間20:30)ハノイ空港着。機内で持参の夕食。市内のホテルに22:30に到着。就寝24:30。

11月2日。ホテル11階で朝食。眼下に広い湖。食事は地元野菜、ポテトフライ、カリフラワー、ソーセージ、米飯など、果物はパイナップル。午前中の自由時間に湖まで行き、湖畔で世界各地からの観光客に交わる。正午、ロビー集合、バスでマラソン受付(5㎞コース)あわせて市内遊覧、コース下見。ベトナム独立戦争の英雄ホーチンミンの廟など見学。市内レストランで顔合わせ夕食会。このころ鼻血がでて一晩止まらず。

11月3日。5時起床、部屋でヨーグルトとパンを食べ、6時にロビー集合、バスでマラソンスタート地点に到着。8時に5㎞コーススタート、鼻血を止めるチリ紙を鼻孔に差したまま。1㎞地点で8:25 いつものように集団のビリと思っていたら、まだ後続がいて、私と娘をすたすた抜いてゆく人が何人かいる。2㎞地点で8:50 3㎞地点にかかる手前で車とオートバイの混み合う十字路を巡査と係員の誘導でペースを落とすことなく歩道から車道へ、また歩道へと渡る。3㎞地点。ここから公園で人の少ない道になるので、路傍の腰掛で7分の休憩。鼻孔のチリ紙を取り換えると案外出血が少ない。3㎞から4㎞、5㎞と最後の力を絞って10:04ゴール。

この間、100歳のランナーとして地元の新聞に報じられたのか、それとも平均寿命が低く、90歳代が稀なベトナムで、ポールを両手に歩く姿が珍しいためか、並走するランナーやメディアの記者から何度もカメラを向けられたが、無事ゴールするとすぐ椅子を提供され、最後尾の私たちにずっと付き添ってくれた巡査や、多くの仲間とともに記念撮影。鼻孔のチリ紙を抜くと、昨夜から続いた鼻血がピッタリ止まっていた。

11時ごろホテルに帰り、部屋で仲間にもらったサンドイッチの昼食、14時頃ホテル横の店でベトナム麺、18時やはり近くの店で蟹スープを摂る。部屋のTVでBCCニュースなど見て就寝。

11月4日。8時、11階の食堂で朝食、スパゲッテイ、コヒー、りんごジュース、ヨーグルトなど。9時ホテル発、バスで高速道路を走り、12時ハロン湾到着、遊覧船で世界自然遺産の見学、見上げるような奇岩乱立。旅の疲れを忘れる絶景。船上でアサリなど海鮮料理。2時間の遊覧の後、ハノイ市内に帰り、フランス料理レストランでお別れ会。

11月5日。4時起床、8:20ハノイ空港発、16:20(日本時間)成田着。昼食は機内でベトナムのスパゲッテイ。19時帰宅。疲労困憊。

翌朝は熟睡したのに起き上がれないほどの疲労。その翌日、疲れは左ひじに痛みとなって現れ、数日後、その痛みは左手首に移り、全身の疲労回復にほぼ10日、全快には20日間か。

実はハノイにはマラソンの他に今一つの魅力があった。それは社会主義国の首都と言うことだ。結果的に、底辺に歯止めがかかって貧しくとも豊かな国という甘い期待は外れた。新興国の現実は厳しい。現地で感じたことは:

第一に水道水は生で飲めない。飲めば必ず下痢する、と。下部構造の重大な欠陥だ。

第二に、車道の両側にある歩道、これが物置のようで、乗り捨てのオートバイや車がずらりと放置されている。本道にはバスや車に混じってオートバイがイナゴの大軍のように走っているが、その乗り捨てオートバイの山だ。その横に車も放置。飲食店前の歩道には粗末な机と椅子がおかれ、お客はそこで飲食している。歩行者はそれらの間をすり抜ける。歩道の敷石は壊れたまま補修されていない。ただ並木は素晴らしい。遠望すれば森のように生えている。ホテルに近い一本は夜になると電飾されていた。

第三に、現地のガイドに聞くと、家賃の急騰で若者は悲鳴を上げているという。土地は国有らしいが家屋は私有で住宅政策は見当たらない風。経済の実態は資本主義とのこと。保険により成年になるまでは医療費は無料で、そこは社会主義的のようだ。

第四に、民生を置いて、空港や高速道路は国際基準で建設されているが、ベトナムでは紙が厚くて、ティシュのような薄い紙がない。国際空港のトイレに入ると、トイレットペーパーも固くて詰まる恐れがあるので、尻を吹いた紙は便器に流さず、横に置かれた容器に入れる。ホテルのトイレの紙も同じ固い質だが、ここで用済みの紙は便器に流してよかった。ホテルの寝間着は暑い国なのに厚いごわごわの木綿で、湯殿のバスタオルも厚くてごわごわの木綿。ティシュや薄い織物をつくる軽工業が欠けているのだろうか。ホテルには冷房があった。旧宗主国のフランスには冷房がないが。

第五に、湖畔をめぐる世界各地からの観光客を見ていると、ベトナムは高級保養地ではないようだ。長い過酷な労働生活を終えた人々が選んだ治安の良い旅先のようだ。

暗い話ばかりのようだが希望の光もある。それはホーチミンが指導したベトナム独立運動の歴史だ。

戦前を引き継いだ第2次世界大戦後の独立運動でも、日本占領軍、フランス復帰軍との戦いを経て、1964年に米艦船が魚雷攻撃を受けたという偽造のトンキン湾事件以降、米軍の大規模な戦略爆撃に耐えて死闘を繰り返し、「象と蟻」の戦いと言われる劣勢を跳ね返し、10年後、ついにサイゴンに無血入城して民族解放を果たしたが、この間、北ベトナム軍の死者は90万人、南北ベトナムの民間人の死者100万人という膨大な犠牲者と荒廃した国土を代償にした独立だった。

米国は共産主義のドミノから民主主義を守るという大義を掲げ韓国、オーストラリアなどの援軍を得て戦ったが、枯葉剤散布によって無辜の現住民2世3世にまで後遺症をもたらしてまで守らなければならぬ民主主義とは一体何だろう。

死闘を戦い抜いたベトナム国民の首都ハノイにはベトナム共産党主席ホーチミンの壮大な廟があり、その隣に国会議事堂、その隣にベトナム共産党本部がある。ベトナム共産党の権威に比類がないのは当然で、これを権威主義と非難はできないだろう。願わくば、戦時から平時への切り替えを、成功裏に果たしてほしい。

ハノイの人は親切だった。旅行関係者の商売上だけでなく、ホテルに近い屋台で食事を終えて立ち上がろうとして二三度尻もちをつくと、見も知らぬ店の客がすぐに後ろから支えてくれた。そんなことが再度あった。無償の親切はベトナム人の国民性だろうか、それとも社会主義国の特性だろうか。後者であって欲しい。

それに帰国後教えられたがベトナムの購買力平価GDP成長率が今年は8・4%と高い見込みである由。中・ロ・インド・ブラジル・南アフリカなどの新興国会議BRICSが、今回、ベトナムをパートナー国候補にしたとも。ベトナムは隣国の中国に恐れを持っている旨、現地のガイドから聞いていたので、中べ関係の修復を喜びたい。

北のハノイ市から南のホーチミン市まで、高速鉄道建設計画の浮上したことを、これも帰国後聞いた。明るいニュースだ。

この年齢になっての6時間の機内は辛かった。次の機会にはビジネスクラスにしよう。

経費は団体旅行費18万円、雑費2万円、計一人20万円ほど。

ZKMからの参加者は41名。(内:フルコース9名、ハーフコース4名、10kmコース10名、5kmコース11名、応援7名。男性22名、女性19名。成田空港発13名、関西空港発28名。)

以上、まとまらぬ旅行記をお詫びしたい。

100歳の「護憲」歩みは続く 戦争を体験 福田玲三さんの訴え

戦後80年近くがたち、戦争を知る世代が減る中、護憲活動を続けている100歳の男性がいる。東京都品川区の福田玲三(れいぞう)さん。戦争体験から、9条を守るだけではない「完全護憲」を訴える。93歳でフルマラソンを完走し、遅咲きの高齢ランナーとしても知られ、今も毎日歩く。死ぬまで護憲。歩みは止まらない。 (宮本隆康)

◆「戦争犯罪を忘れない」

 「日本の戦争犯罪を忘れることが、新しい戦前の一番の兆候だと思う。忘れさせようとすることは戦争に向かっていること」。昨年12月、東京都文京区のホール。100歳を記念した講演で、緊張が高まるアジア情勢などに懸念を示した。
講演会を終え、会場を後にする福田玲三さん=東京都文京区で
 岡山県出身。大阪外国語学校(現大阪大外国語学部)でフランス語を学んでいたが、2年の時に学徒動員で徴兵された。南方戦線に送られたが、一緒に出航した船は魚雷で沈没。戦地では空襲に襲われるなどしながら命を永らえ、インドネシアで終戦を迎えた。「演習で1人や2人死んでも構わん」。上官の言葉が忘れられない。「『死は鴻毛(こうもう)よりも軽し』という軍人勅諭通り、命は本当に軽視されていた」。終戦の日は泣いたが、翌日には「軍が嫌いだったから、うれしくなった」という。
 「戦争で負けたことがないから、負けるということを分かっていなかった。自分は男兄弟3人で、1人が徴兵されれば近所に顔が立つという雰囲気。息子5人が戦死した女性が泣いていても、戦争が良くないという考えには至らない時代」
 現地で捕虜になり、帰国したのは終戦から2年後。国鉄労組に就職し、占領軍統治下で起こった国鉄をめぐる下山、三鷹、松川の三大事件に遭遇し、被告の支援にあたった。当時、憲法に思い入れはなかったが、1984年の退職後に関わった労働運動の雑誌編集で憲法擁護論者の元官僚と出会う。やがて、第2次安倍晋三内閣発足後の改憲の動きに危機感を感じる。
 憲法を守りたい。戦争体験者や志を同じくする人たちと2014年、「完全護憲の会」を立ち上げた。数人の仲間と月1回の勉強会を重ね、政治課題を憲法に照らして評論する冊子も年2回発行している。

◆「戦争準備進んでいる」

 憲法の多くの条項の大切さを説く。「戦前は天皇主権だったが国民主権。一兵卒の犠牲は軽かったが基本的人権を尊重。禁句だった平和を尊重した。厳重に統制していた言論の自由も認めた」と戦前と比較する。「9条だけ守ろうとしても外堀を埋められたら守り切れない」。だから「完全護憲」なのだという。
 最近の反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有や南西諸島の防衛力強化に懸念を抱いている。「戦争の準備がどんどん進んでいる。憲法の利点を生かして戦争に反対すべきだ」

◆93歳で「ホノルル」完走 今も現役ランナー

ホノルルマラソンのコース途上で=2016年12月、福田さん提供
 福田さんは50代半ばでマラソンを始め、今も現役ランナーとして大会に出場している。
 もともと休日に多摩川の岸辺などを軽く走っていたが、56歳の時に東京女子マラソンを見て「戦前はマラソンは特別な人がするものだったが、自分にも走れるのでは」と思い立った。2年後にフルマラソンを4時間18分で初完走した。
 これまで各地の大会で十数回のフルマラソン完走を果たした。93歳の時にはホノルルマラソンで完走。その後は、10キロや5キロの大会に出場を続けている。
 近年はつえを使うようになったが、雨や風が強い日も毎日1時間のウオーキングは欠かさない。
 「家に一日中いると、うつになる。歩けば気分がさわやかになるし、自信がつく。ご飯がおいしく、よく眠れる。たぶん犬の散歩と同じじゃないか。これをやっている限り長生きが続く気がする」と笑った。(東京新聞2024.2.8)

ホノルルマラソンの報告 2016年12月    

福田玲三

前々夜

  12月のホノルル・マラソンを控え、11月13日に多摩水道橋往復の練習をした。朝6:42に大田区(徳富)蘇峰公園前の集合住宅を出て、JR京浜線の線路に沿って南下、蒲田駅前7:48、タイヤ公園8:05、ここで娘婿の大野君と落ちあい、京浜線を離れて多摩川大橋に出て、川の都側の河川敷を約15キロさかのぼって、多摩水道橋を12:18に折り返し、神奈川県側の河川敷を、途中3度ほど小公園のベンチで息を抜きながら、多摩川大橋に到着17:06、タイヤ公園17:37、ここで大野君と別れ、そのあとは何度も小公園のベンチで休みながら19:36帰宅。45キロ足らず、ほぼ13時間近くかかった。10年前、80歳代の頃は、それでも12時間ほどだったのに。 続きを読む

サボテンの開花と肥料

saboten20150530-01自宅と会社にサボテンの鉢をおいている。同じ株の株分けしたものを会社に持って行ったものだ。

でも、違う品種かと思うくらい違い、会社のものは花もついていない。昨年は開花していた株なのにである。

このサボテンは、冬の間は完全に水を切らないと花が咲かない。そのため、両方とも、冬の間は完全に水を切り、体も赤くなり耐えていた。

3月頃から水を与え始めたがこの違いだ。

違う要素はたった一つ。自宅のものは水しか与えなかったが、会社のものは他の鉢植えとsaboten20150530-03同じように薄い液肥が入っていた。

おかげで元気になり、命の危険を感じないので花がつかないようだ。アロエなどもこの傾向が強く、新しい土に植え替えたりすると花が咲かなくなる。厳しい環境で生きる種類の特質かもしれない。

肥料分のない新しい鉢に植え替えなければ花を見ることだ出来ない。

植物は、肥料分が少なかったり、生育の条件が厳しいと花をつけ、実がなることが多いようだ。ようは、命の危険を感じたとき、種をつけ、子孫を残そうとするらしい。

お茶の木なども、手入れが悪いと花が咲くようになり、みっともなく、恥ずかしいことだと聞いたことがある。

梅雨の晴れ間に

アカヤマドリ

アカヤマドリ

梅雨の晴れ間に近くの自然林が残る公園を散策しました。

なんと、梅雨時に出てくるキノコたちがたくさん出ていました。中には美味しい大型キノコのアカヤマドリも。でも、多くは食べられるかどうか不明のキノコたちでしたが、それぞれ色合も姿かたちも素晴らしいものでした。まさに森の妖精というにふさわしいものでした。

みなさまもお近くの公園を散策した折には、是非、足元を観察してみてください。きっと新しい発見があると思います。

kinokosuki