ホノルルマラソンの報告 2016年12月    

福田玲三

前々夜

  12月のホノルル・マラソンを控え、11月13日に多摩水道橋往復の練習をした。朝6:42に大田区(徳富)蘇峰公園前の集合住宅を出て、JR京浜線の線路に沿って南下、蒲田駅前7:48、タイヤ公園8:05、ここで娘婿の大野君と落ちあい、京浜線を離れて多摩川大橋に出て、川の都側の河川敷を約15キロさかのぼって、多摩水道橋を12:18に折り返し、神奈川県側の河川敷を、途中3度ほど小公園のベンチで息を抜きながら、多摩川大橋に到着17:06、タイヤ公園17:37、ここで大野君と別れ、そのあとは何度も小公園のベンチで休みながら19:36帰宅。45キロ足らず、ほぼ13時間近くかかった。10年前、80歳代の頃は、それでも12時間ほどだったのに。

往路、蒲田駅の手前、線路を離れて呑川にむかう角で、後ろから朝日に照らされたわが影の、前途の不安に震えた醜悪な姿に、思わず目をそらした。

タイヤ公園に8:00までには十分着く予定が5分遅れ、そこから同伴する大野君に遅れないよう、ポールの力を借りて、走り続けた。

行きに、多摩川大橋~多摩水道橋間4時間が、帰りは4時間50分ほどかかった。タイヤ公園に帰り、そこで大野君と別れてからの復路、釣瓶おとしの秋の日はとっぷりと暮れて、街灯に照らされたわが影が、疲れてはいても、フルマラソンを完走した自信で、軽々と喜びに躍っていた。

昨年は制限時間10時間の伊豆大島一周フルマラソンをポールを使って9:23で走破、その前々年は、自分の足だけで、9:27でゴールしたが、事情あって、10時間制限の伊豆大島マラソンが休止となり、国内にこれだけ長い時間のマラソン大会がないことから、時間無制限といわれるホノルルマラソンに目を向けないわけにはゆかなかった。

前夜

  12月11日のホノルルマラソンに向けて、12月8日21:30羽田発ハワイアン航空と決まった。旅行代理店HISの費用は、航空代、マラソン参加費、ホテル5泊(宿泊のみ、食事なし)、日米空港施設使用料などを含め、一人約25万円だった。

12月8日、自宅で簡単な夕食をおえ、ベランダの植木の受け皿に5日分の水を溜め、17:20に家を出、18:00に長女の麻里と大森駅の海側バス停で落ちあい、羽田空港行きバスに乗車。空港には大野君が待っていてくれた。都内に一人で住んでいるお母さんが心筋梗塞で倒れ、参加を予定していたマラソンを彼は急遽取りやめた。そして麻里と二人で、私が持参するポールをゴルフバッグに詰めてくれた。ポールだけだと別料金になる恐れがあり、ゴルフバックは携行荷物になるらしい。搭乗手続きが終わり、ゴルフバッグも無事に通過、私たちが待合室に姿を消すまえ、大野君と手を振って別れた。

12月の東京の夜は寒く、上下のスポーツウエアの上にコートを着て搭乗を待っている間、不安に包まれた。ノルディックポールの使用はホノルルマラソンでは禁じられているという。だが、4月に大野一家4人が、下調べを兼ねて行ったホノルルのハーフマラソンで得た感触では、多分大丈夫だろうという。禁止されている乳母車を押した夫婦のランナーも何組か見かけたからだ、という。

もう一つの心配は暑さだ。フルマラソンのコースに日陰はあまりないという。娘が経験者に聞いたところ、さほど暑くないという人もあれば、暑いという人もいたようだ。この歳になると直射日光が一番応える。

待ち時間の不安をまぎらわすために、出発便の時刻表示の下でスナップ写真を麻里がとってくれたが、気は晴れなかった。

搭乗が始まり、ビジネスクラスに乗り込むと、乗客は満員、一つのアパートメントの最後尾の右端2席の、窓際に私、その左が娘だった。席は窮屈で、膝がつかえた。何時間閉じ込められるのか、心配だった。機内食2回で、ワインとウイスキーは、お代わりできるとあったが、本当だろうか。バンドを締め、滑走路を走り、上昇して水平飛行をはじめてしばらく後に、夕食が配られた。

ウイスキーをお代わりして飲んだが、眠くならない。座席の網袋にあるハワイ紹介の雑誌すべてに目を通してしまったが、機は真夜中の天空を飛び続けている。窮屈な足を組みなおし目を閉じるが眠れない。

地球の自転と同じ方向に飛んでいるのだが、それでも夜明けは早い。朝食が配られ、肉団子のようなものは郷土料理だと娘が教えてくれた。それにサンドイッチ。アルコールはつかないのでコーヒーを飲んだ。朝食が終わるとすぐにバンドを締め、降下が始まった。ホノルル空港到着は同じ12月8日の9:30。実質滞空時間は5時間ほどのようだった。

長い廊下を過ぎ、長い列を作って入国審査。私だけ指紋は取られなかった。年齢のためらしい。携帯荷物の受取りは機械の故障で番線を変えて待ちなおし、やっと外に出ると街は雨後、日本の6月に似ている。待ち受けたスタッフにホテル向けの荷物を渡し、バスでマラソン準備会場に向かう。

この日は、ちょうど75年まえに日本海軍がハワイを空襲した当日。街を急ぐ人々の表情に恨みの跡を探したが、あるようにも、ないようにも、見えた。ヒルトンとかプリンスとかトランプとかの名前をつけた高層ビルに見ると、国際資本に乗りこまれた植民地のイメージが湧く。

バスをおりてコンベンションセンター3階、HISの待ち部屋に入ると、折り畳み椅子に30人ばかりのマラソン参加者。

やがてサポートコーチ陣からコースの説明が行われ、最後にヘッドコーチからの挨拶があった。

娘が4月にハーフマラソンに来たとき、このヘッドコーチに親切にしてもらったので、「ポールのこと聞いてみようか」「うん、そうして」。娘の側についているのも物欲しげなので、私は離れて待った。戻ってきた娘の報告では、「そうですね、後ろの方でランナーの邪魔にならければいいんじゃないですか」との頼りない返事。大会のルールでノルディックポールの使用禁止と明記されているのが重く、明快な回答にはならなかった。

ついで地階におりると、そこは体育館並みに広いゼッケンの引渡し場になっており、番号1000台の枠ごとに受付があり、私は23463のゼッケンをもらった。ゼッケンの裏には計測チップがついていて、これがスタート、ゴール、中間点の通過タイムを記録する。大会の主催者は日本航空で、この会場には米人の参加者も数多く見られた。会場の一角に舞台が設けられていて、数少ない聴衆を相手に日本語で時間つぶしの漫談がされていた。

センターを出てHIS会員には無料のトロリーに乗って街の中心にあるロイヤルハワイアンセンター2階のHISラウンジに向かった。HISの待合室は広く、受付は滞在者の相談にのり、一角に無料のコーヒーポットがあった。

一休みしたあと、宿泊のホテルが15:00以降なので、とりあえず今日の夕食の店をさがした。このセンターの同じ2階に洋風のステーキ・ハウスがあったが、3階に北京飯店をみつけ、そこに決め、娘が受付で予約した。

センターのすぐ南はワイキキ海岸のようで、海と反対側、徒歩数分で、ホテルのオハナ・ワイキキ・マリアがある。ホテルには15:00に投宿。宿泊だけで食事なしのせいか受付も事務的だった。6階の部屋に入ると寝巻なし、歯ブラシなし、バスと湯上げタオルはあった。

夕方までHISの冊子をめくると、マラソンコースの下見ツアーが2800円、ダイヤモンドヘッドの日の出ツアーが3900円とあった。だが、お金のかかるものは一切辞退。コース唯一の難所ダイヤモンドヘッドの高低差100メートルは、伊豆大島一周フルマラソンの高低差400メートルに比べると物の数ではない。

夕方、宿を出て、先ほどのロイヤルセンター3階北京飯店を訪ねると、もう幾つかの卓で食事が始まっていた。奥まったテーブルに案内されたが、おしぼりは出ない。様子がわからないので焼き飯とにら炒めを注文した。ビールは日本のキリンの瓶があった。にら炒め一人分は日本の4人分ほどあった。そのあと出た焼き飯も日本の2人分ほど。が、ご飯だけ、スープは別注。それでも堪能して、勘定は二人で70ドル、それに15%のサービス料が事前に明示されていて、合わせて80ドルだった。数年前、円高のときに用意していて今回持参した1000ドルが役立った。

ホノルルまで、滞空時間が短かったせいか、さほど時差を感じないまま、20:00頃ホテルに帰り、22:00頃消灯。

9日は8:00頃に起床。籐椅子に腰かけ、足の親指で深爪を切り、娘に消毒液を買ってきてもらった。10:00頃、すでにホノルルに到着しているはずの酒井健さんの携帯に娘に電話してもらうと、ツアーに出発するため、私たちのホテルのすぐ近くに来ている由。急いで1階に降りて会った。私たち二人、酒井さん夫妻、笑顔の再会。ツアーに遅らせてはならないので、あわただしく別れた。

孫娘2人が休暇をとって、朝の便でホノルルに着いているはず。携帯に電話して、ロイヤルセンター2階のハンバーグ店で会うことにした。4月に大野一家が来たとき美味しかったそうだ。定刻、店の前に2人は元気そうに待っていた。小さな店は満員で、席が空くのを待って中に入り、テーブルの間を抜けてバルコンに出て、座った。身の軽いボーイが先客の皿を片付け、ハンバーグを運んできた。私だけ軽いサンドイッチを頼んでおいだ。間に挟んだたくさんの具が美味しかった。パンのかけらを、バルコンの手すりに置くと、雀が飛んできてつまんだ。日本の晴れた5月の空気だった。

店を出て、センター内のHISラウンジに行き、無料のコーヒーを飲んだ。そのあとは海水浴をする約束で、私はその気だったが、あと3人はその日泳ぐつもりはないらしく、だが、私に付き合うという。持参した海水パンツをどこではくか? トイレを借りてという話もあったが、とりあえず、海岸へと連れ立って出た。大通りを東に300メートルほど歩き、小さな路地を右に曲り、家並の間を抜けると、砂浜があった。そこから海までは30メートルほどで、その狭い浜辺に、日本の夏と同じく、びっしり人が憩っていた。浜に置かれている空き小舟に手荷物をおき、その脇に陣取ることとし、とりあえず民家の庭の松の陰で3人に隠れて私は海水パンツに着かえた。

憩っている人々の間を抜け、目印として、海上監視員のピーチパラソルの脇を通って海に入ると、水はさほど冷たくはなかった。水が腹に届くほどになったところで、波に飛び込み、平泳ぎで数かき掻いて、立ち上がり、振り向くと、孫娘が手を振っていたので、それに応え、また向きをかえて沖にむかった。

この海岸は人工だということで100メートルほど先でも立って遊んでいる人がいる。海は日本の海水浴場のように泥水までにはなっていないが、ほんのり黄色に濁っている。30掻きを3回ほど重ね、その都度背が立つかどうか確かめ、今度は海岸に並行して泳ぎ、また逆の向きで泳いだが、この海の人はあまり泳がず、立ったまま歩いている。何回か海辺にそって泳いだ後、波に乗って浜に戻った。浅くなって、立ち上がると足がもつれた。孫娘2人が、裾の濡れるのも厭わず水に入り両側から私を支えた。貧弱な体を憩っている人に見られるのがはずかしく、身をすぼめて小舟のところまで帰り、体を拭いて、服に着替えた。寄せる波を思わず一口二口飲んでしまったと報告すると、孫たちは驚いていた。

海から大通りに出て、センターに戻るところで、ちょうど、ツアーを終えた酒井さんに会い奇遇をよろこんだ。

孫娘たちは同じホテルの隣の部屋なので一緒に帰り、バスで体を洗った後、夕食には前回馴染みのイタリアン・レストランに行くという。それは先の浜辺の近くで、ロイアルセンターから今度は歩かないでトロリーに乗り2停留場目で降りた。6時半に日ははや暮れて、灯りが照らす屋内も、屋外のテーブルも、人にあふれていた。カウンターをへだてて、イタリア人のコックたちが忙しく立ち働き、歓声と騒音に店は満ちていた。屋内と屋外の間のテーブルに就くと、若い女給仕が注文を取りにきた。ヨーロッパ系は注文を取るとき、相手の眼をみる。涼しい風が吹いていた。麻里が注文してくれたスパゲッティやパスタを口に運び、ビールを飲み、異国で甲斐甲斐しくはたらく店の人を眺めていると、その健気さに涙がでた。

ホノルルは保養地のようだった。わけても12月はクリスマス休暇を控えて、全米をはじめ世界から避寒の客がこの地になだれこむ。料理はおいしかった。勘定は4人で160ドルだった。

娘が食べ終わった皿の下にサービス料を挟んだ。入れ代わり立ち代わり料理を運ぶ人がいたので心配したが、娘たちは大丈夫、あの給仕に渡ると請け合った。

その日は23:00頃消灯。翌10日早朝、孫娘たちはこの島北部の原野探訪ツアーに出かけた。私と娘はゴムのスリッパで、娘は大きな浮袋を抱え、ホテルをでてHISのラウンジを訪ね、「朝日」と「日経」の写真版を通読、無料のコーヒーをのんだあと、明日のマラソン後の夕食をとる店を探しに出た。今日の夕食は4月にきたとき見つけたステーキ店とのことだった。

道を渡ってロイヤルセンターの別館を訪ね、1階の広場をうろうろしていると、レスラーのように容姿のきれいな東洋風の女性が近づき、日本語で何を探しているかを聞き、「中華料理なら」と手にしたパンフレットで二つの店を紹介してくれた。聞けば案内役に雇われた初日とのことだった。そのパンフレットをもらって彼女と別れ、カラカウワ大通りを昨日よりもっと東にむけて歩くと通りはワイキキの砂浜に接していた。ここに先住民の高い銅像があり、その前で記念写真を、白人の若い女性旅行グループにスマートフォンを渡して、撮ってもらった。そのあと日本人老夫婦を、ご夫婦のカメラで撮ってあげた。

砂浜にはやはり多くの人が憩っていた。その間を縫い、昨日とほぼ同じところで服を脱いだ。今日は海水パンツを下につけてきた。娘は大きな浮袋を抱えてきたのに、泳ぐつもりはなさそうだ。ささ濁りの海に入ると、案外、近場に、深いところのあるのを知った。泳いでいると海底に岩場があった。体を傷つけるほど尖ってはいなかった。古ぼけた水中眼鏡を見かねて、孫娘が昨日買ってくれた新しい眼鏡で見ると、白い砂地に黒い岩が見えた。明日の本番に備えて、こうして泳いでおくと、今夜はよく眠れるだろうと、海からあがった。

ところで、お午に彼女に教えてもらった中華料理店がこの近くらしいので、探してみた。二つの店のうちの彼女の一押しは、かなり離れているようなので、大通りのすぐ反対側に二押しの店を探すと、ビルの地下に「南海漁村」という店のあるのを見つけた。階段を下りて店の様子をうかがったあと、別の階段を上ると、出口にオバマ大統領やブッシュ(子)大統領の立ち寄った写真が誇らしげに飾られていた。こんな一流店では庶民の扱いは冷たいだろうと思いながら、ホテルに帰った。夕方までの暇つぶしに手元の雑誌に目をとおすと、すぐに眠気が襲う。本番をひかえた今夜の熟睡のために目を閉じないようにした。

孫娘たちと落ちあうことにした店に予定よりも早く行った。ステーキ店は簡素な階段を上った2階にあった。お客さんもまだいない。木の床、木の椅子、木のテーブルで待っていると、孫娘がツアーから直接戻ってきて、乗馬で原野を散策したことなど楽しげに報告した。ここは、4月に来たとき一度使った店だそうで、現地のボーイとも知り合いの感じだった。緑の野菜の大盛りに、ミディアムのステーキが運ばれ、久しぶりの塩焼き牛にかぶりついたが、少し固かった。陽がかげり、お客さんも増えてくるころ、私たちは勘定を済ませた。4人で90ドル、割安だった。

帰路、裏通りのお結び屋さんで、1個1.7ドルのお結びを10個買った。夕方、快便があった。明朝のスタートは夜明け前の5時、それに備えて20時に消灯した。

本番

  すぐに眠り込み、23時に目覚めて用を足した。ベッドに戻ったが今度は眠れない。24時半に再び小用。眠ろうと思うが、眠れない。これまでの経験を振り返る。あれは4年前、5月に千葉の日本エアロビクスセンターで行われた12時間耐久ランニングだった。前夜、牛肉のしゃぶしゃぶまで付いた贅沢なバイキングに満腹し、木造コテージに泊まったが、一寝入りして24:00過ぎに用を足した後、ついに一睡もできないで朝を迎えた。朝5:30のスタート、緑の芝生に映える初夏の日差しを正面から受けたあと、1周1200mの木の間のコースを回り続けた。そのコースの6割以上が日陰になっていたとはいえ、正面から陽を受けるグランドの箇所はきつかった。時間内の走行距離を競う催しだったから、今はただ落伍しないことを専一に、後半からは、コースの傍らの石に座ったり、ベンチで横になって休息し、その横をレーサーたちが駆け抜けていた。中年の男性で裸足のレーサーが近寄り、私の年を聞いた。そして「僕も、その年まで走れる、有難う!」と言い、手を固く握ってから、走っていった。こうして、なんとか12時間をしのいだが、今回は42キロ余のフルコースを完走しなければならない。

眠る方法を考えた。昔、父は「羊さんが1匹来た、羊さんが2匹来た」と唱え、100匹までのうちに眠れる、といったが、その効き目は怪しい。母は私が学徒出陣で、岡山の第48部隊に入営する日の朝、お寺の前の壮行会から少し外れた松の木陰に呼び、「いざというときにじたばたするんじゃないよ」といった。日露戦争後の満鉄病院に看護婦として勤めていた経験から、送還された日本人捕虜が受ける扱いを見て、息子に覚悟を促したのかもしれない。非国民と呼ばれれば生きていけない時代だった。そう諭しながら母は私の出征中、水垢離(みずごり)をとって無事を祈り続けてくれた。このときの母の教えは戦争が終わってからも、なんども、危機に遭遇するたびに思い出された。

眠れない夜の明け方に、とろとろと引き込まれるように眠ることもある。それを期待しても、眠れるか、眠れないかは、誰にも分らない。生涯を振り返って失敗ばかりしたことが思われた。姉のした失敗を思い出した。父母の世話をすることだけを楽しみに、独り身で生きてきた姉に、父母を失った後に生きる意味はなかった。大学に勤めている兄から送られる月3万円の扶養手当、あとは家の回りの畑で育てた野菜だけで、何の望みもなく、ただつつましく生きた。生まれつき正義感の強い気性だったので、近くで、仕事にあぶれ、くすぶっていた若い職人のグループに、思いついて、雨漏りのする母屋の屋根葺きを頼んだ。少年たちは二日かけてよく働き、姉は言い値で40万円を支払った。彼らは喜んで金を受取り、「もう大丈夫ですよ」、といって消えた。数日後の雨で詐欺と分かった。少年たちの偽善ぶりがありありと思い出された。計られた。馬鹿にされた。人に愚痴をこぼす姉ではなかったので、恨みはすべて自分に向かった。金を貯める趣味はなかったが、つつましく生きて自然にたまったお金を、自分の甲斐性のなさで霧散してしまったことで、自分を許せなかった。懊悩は日々に続いた。姉は悪いことをしたのではなかった。されたのだ。姉の失敗を責める気も笑う気も私になかった。

だが、それと同じような失敗を自分も繰り返したことを思った。そのまま一睡もできず、フロントに頼んでおいた2:30の起床ベルが鳴った。不安に震え、泣きながら起きた。地獄の2時間だったが、いまは、じたばたせずに覚悟を決めなければなればならない。3:00までにロイヤルセンター脇の停留場に行く手筈だ。そこからスタート地点へバスで運ばれる。夜明けの寒気の程度が分からない。Tシャツ、短パンの上に長袖・長ズボンのスポーツウエアを着用した。コートまでは要らないだろう。

ホテルを出て暗い歩道をロイヤルセンターまで行くと、集まったランナーを大型バスが次々に拾っている。車内で座れるように、1台遅らせて乗り込み、窓からまだ眠っている街を眺めた。20分ほどして降りたのは広いアラモアナ公園だった。ぞくぞくと運ばれるランナーもまばらに見えるほど暗くて広い公園だった。私たちは空いた一つのベンチに腰掛け、時間を待った。不安に満ちた時間は長かった。娘も、昨夜はほとんど眠れなかったと言っていた。スタートラインがどこにあるかも分からず、仮設のトイレには長い列ができていた。

トイレに並ぶのは嫌なので、少し離れた大樹の陰で用を足そうかと娘に相談したが、娘はうなづかず、孫娘2人が私に代わってトイレの列についてくれた。4:00に公園の一角でストレッチ体操が始まった。私たちも離れたとことで見よう見まねでそれに合わせた。白人系の若い女ランナー3人が公園の端の垣のところで、2人が見守り1人がしゃがんで用を足していた。

出発の時間が近づいたので、持参したお結びから梅干と鮭と昆布のはいった3つを次々

にたべ「腹が減っては戦はできぬ」と、大きなバナナも一本食べた。ここのバナナは味も香りもよかった。広場のランナーたちは、だんだんスタートラインに移り始めたようだった。スポーツウエアの上下をぬぎ、Tシャツ、短パンになったところで、孫娘の一人がトイレに近づいたと告げに来た。トイレの列は、男女別のように思っていたが、今は男女が入りまじり、3つのトイレごとに1列を作り、早く空いたトイレに入ることになっている。便器は腰掛式なので男女共用できる。

用を済ませて出てきたところで、「スタート5分前」とスピカーが告げた。トイレの前にまだ長い行列を作っている人たちを置き去りに、3万人前後のランナーがスタートラインに移動する。ランナーが並ぶ大通りと公園との間に腰ほどの高さのコンクリの垣がある。足をかけで越えようかと思っていると娘が、「階段があるわ」。小さな階段を越えたところで、出発合図の花火がドーンと上がった。ランナーの群れが動き始めた。自己申告7時間のグループが通過したところで、列に入った。しばらくのろのろと歩いたあと、孫娘は列を出てスタートラインに先回りした。娘がポールを隠すように持ち、私たち二人はランナーの波にもまれて進んだ。スタートラインをこえたのは5:18だった。少し進むと孫娘が道の端で手を振っていた。連続花火も終わり、チーフコーチの注意を守ってランナーの列の後尾あたりについていると、乳母車を押す若夫婦がいた。娘からポールをもらい、家並からもれる微光に照らされても、なお暗い、いくらかの凹凸の大通りを、転ばぬようにポールで支え、ランナーに交じって足を速めた。

コースはロイヤルセンターとは反対の西に向かい、3kほど行った地点で一転しセンターの方に戻る。「パパ、調子いいわよ、1kを13~14分台よ」。娘がスマホを見て言った。私たちの前を子供を挟んだ若い女性の2人がゆく。この後をつけることにした。3人の幅があれば私のポールにつまずく人もないだろう。6k地点を6:41、7kを6:54で通過したから、その差1kが13分。「パパ、調子いいじゃない」と娘。1k13分で、40kは8時間40分となり、ゴールが9時間10分となれば、私としては好調子だ。このままのピッチを維持したい。

「パパ、サプリメントを飲んでよ」と娘が言う。スポンサー提供のエネルギー補給用パッケージが幾つもある。スタート前にお結びを食べすぎて、もう何も欲しくない。前後を小錦か曙クラスの現地女性が何人も走っている。もう太るところがなくて、両ひざの後ろのくぼみに、それぞれピンポン玉のようなこぶが2つ出ている。これだけの重量で走るのは大変だろう。

コースはカラカウワ大通りに入り、陽が正面から昇りはじめた。暑さ対策として濡らして首に巻く布を娘が用意してくれたが、それをスタート前に孫娘に預けたスポーツウエアのポケットに入れたままと気づいた。孫娘は先行してロイヤルセンターのあたりにいるはず。早朝で、まばらな応援者のなかに孫娘がいた。娘が首巻をうけとると、持参のペットボトルの水で濡らし、私の首に巻いてくれた。孫娘は手を振って応援していたが、腰が曲がって、ポールを使い、よぼよぼ進む祖父をどんな気持ちで見ていただろう。

コースは10k地点を過ぎてから、ワイキキの浜を遠ざかり、陰のある並木通りに入った。後ろから三角帽子で全身を変装した若い日本女性が声をかけて励まし、追い抜いて行った。単調な道の先にコース唯一の上り坂、ダイヤモンドヘッドがあった。ゆるやかな登りが続き正面から朝日がさした。「パパ、頑張っている14分よ」。上り坂をそのピッチで過ぎ、頂上をこえ、ゆるやかな下りにうつり、15k地点を8:42に通過した。

姿の見えなかった子連れの3人組が、このとき私たちを追い抜いた。どこかで用を足していたのだろう。小走りで3人組の後をつけた。追いつくと気がゆるみ間隔がひろがる。また気を取り直して下り坂で追いつく。そのうちに3人組も気づいたのか、嫌がって、速度を上げて走り去った。もう追いつけない。

17k地点当たりでコースは海の方に大きく折れて複々線となり、山側の大通りには車がたくさん行き来している。海側の通りに日陰はほとんどなく強さを増した陽光がふりそそぐ。娘が私の首巻を何度も取り代えてくれた。コースの中間点20kすぎのあたりで、奇妙な脚長おじさんと並行することになった。それは竹馬ではなく、スチール製の3段ほどの梯子を脚にして、これをガチャガチャと音を立てながら歩いている。それで私の走行と同じスピードだから驚く。後で聞けば片足はもともと義足だそうだ。私のポールよりも、こちらの方がランナーには危険かもしれないが、ホノルルマラソンは何かにつけて鷹揚なのだろう。しばらく並行しているうち足長おじさんが立ち止まった。一人の若い女性がつきそい、地上で注文を受けているようだった。すこしゆくと沿道のボランチアが水道のホースで舗道に水をまいている。ときどきホースの穴を狭めて遠くまで散水している。近寄って合図し全身に霧の水をかけてもらった。21kの通過が10:16で、スタートから正味約5時間。このままなら10時間でゴールできる。

少し先に仮設のトイレがあった。いつもは木陰で用を足すのだが、思い返した。トイレが便座なので、つかの間足がやすまる。扉を開くと便器が汚れている。別の扉を開き、奇麗なのを選んで腰を下ろし、しばし脚をのばした。用を足したあと、外にでてサプリメントを飲んだ。

折り返したトップ・ランナーとはダイヤモンドヘッドの手前ではや行き合ったが、その後ぞくぞくと復路のランナーが増え、22k過ぎで、折り返した酒井さんと会った。お互いの健闘をたたえ、手のひらを合わせた。そのあと、ポールを使った老人のランナーが私たちに追いついた。一度、17kあたりで見かけたが、その後、姿が見えなくなっていた。しばらく並行し、娘と話していたが、やがてピッチをあげて追い抜いていった。ハワイ在住日本人だそうだ。彼のポールは細身で、私ほどポールに頼っていなかった。

25kの近くで往路は復路と別れて小さな入り江を周回するコースになる。疲れてお腹も空いたので、入り江を越える橋のたもとのベンチに娘と並んで腰を下ろし、結びを半分食べ、スポーツドリンクを飲んだ。この時刻で車両制限が解けたのか、コースに車が入ってくるようになった。前後のランナーとの間隔も開いてきた。

単調な周回を終えて往路と合体し、酒井さんと行き違った30k地点まで来ると、地点表示はもうなくなり、マラソンは片付けに入ったようだった。歩道のたもとベンチを見つけ、また腰をおろし、結びの残り半分食べ、水を飲んだ。そこから35kまでの復路は長い直線コースとなり、往路と違って幾分樹木と家並みの陰がある。

35k過ぎでコースは海側に曲がった。その角にエイドステーションがあり、そこにはまだ多くのボランチアが詰めていて、私たち落ちこぼれのランナーを拍手で迎えた。ここでは気恥ずかしくて水を飲まなかったが、それまで、沿道2.5kごとのエイドステーションで浴びるほど水を飲み、また濡れたスポンジを取って、それを頭上で絞った。角を曲がり切ると閑静な住宅街で、その一軒の庭のベンチに腰掛け、また結びを半分食べ、水を飲んだ。住宅街を抜け、右に曲がると、医療ステイションがあり、一人だけのスタッフが、ジャズの音楽に合わせて、道の真ん中でひとりで踊っていた。

その道はダイヤモンドヘッドにむかうゆるやかな登りに移った。前をゆく太った現地の女性、さまざまな男女のランナーの足がにぶった中を、私はポールを支えにすいすいと上っていった。人に抜かれるより、抜く方が気持ちがよかった。1年間のランニングの成果がこんなところに出ようとは思ってもいなかった。25k過ぎて1kが17分前後に落ちていたのが、このころ、やや復調したようだった。

ダイヤモンドヘッドを上り切ると左手に真っ青な光り輝く海が見下ろせた。登りにかかる手前では、海に行く人、海から帰ってくる人の姿を見かけたが、この人々はワイキキの黄色い海の浜辺に集う人々より一段と暮らしの良い人たちだろうか。

ヘッドの頂上で休んでいるランナーを横目に、ゆるやかな坂を下ると、そこからゴールまでの対応を考えた。無理をせず、調子をととのえ、無事にゴールしなければならない。

やがて、40kの表示があった。コースはカビオラニ公園に入ってカーブを描いたあとは、青い芝生の中の長い直線だった。「ゴールの白いテントが見える」と娘が言う。うつむき加減になっている首を起こすと、白い天幕が幾つか見えるが、どれがゴールのテントか分からない。娘はスマホで連絡をとり、二人の孫娘が芝生の中を走ってきてきた。「おじいちゃん、すごい」を連発。まるで完走できるとは予想しなかったかのようだ。

せめてゴールのときだけはと、ポールを孫娘に預けた。そして100mほどを自分の脚だけで駆けたが、ゴールを間近かにして疲れはすべて飛んだ。ゴール手前で、表示時計は16:19を指していたので足を止め、16:20になったところで、娘と一緒に万歳してテープを切ると、スタッフが貝殻で編んだレイを首に掛けてくれた。ゴールを外れると、大きな完走メダルとTシャツの入った袋が渡された。

公園に入り、空いたベンチに腰を下ろし息をついでいると、隣のベンチにいた中年の女性ランナーが声をかけた。仲間の一人がこのあとゴールするのを待っているとかで、ホノルル・マラソンには連続して参加しており、二、三年まえには嵐の中を完走したという。ほかにも貴重な情報を聞いたあと、公園を出ると、陽はまだ高く、風がさわやかだった。無料のトロリーでホテルに帰った。

事後

  部屋のバスで汗を流したあと、娘が「夕食は、ここにするね」と「南海漁村」に電話で予約した。着かえてホテルを出、ロイヤルセンターでトロリーに乗り、ワイキキの浜に沿い、2停留場目で下りた。大通りを渡り、地下の「南海漁村」に下りた。店ははや満員のなか、4人用のテーブルに案内された。

ビールは香港産しかないという。用心して、パンフレットに出ていた一番安い一式を注文した。前菜を口にすると、味が澄んでいて、深い気がした。注文は黒いお仕着せの若い給仕がうけたが、とこどき主任が回ってきた。主任は背が低く、横巾が広く、ロイドの眼鏡をかけていた。餃子、シュウマイを食べ、ビールのあとの紹興酒を聞いてみると、ないというので驚いた。お昼にお結びをたくさん食べたので、仕上げには湯麵を注文すると、これもないという。孫娘がメニュを見て「ワンタンメンがあるよ」というので、止むなくそうした。ワンタンメンのスープは澄んで、喉越しがよくて、美味しく、ワンタンそのものの味もよかった。最後に、それぞれ好みのデザートを注文した。チョコレート菓子を食べると、これまで食べたどこの中華料理店よりもおいしかった。いつも添え物の感じのある中華料理のデザートが、ここでは独立して、格別の甘さがあった。

娘が勘定を払いに立ち、私たちが卓にある接客や料理のアンケート用紙を見ていると、主任が威張って、胸を張り、つかつかとやって来て、「多過ぎる」と勘定の一部を返した。チップ代のことだろうか。結局、4人で90ドルと安かった。中国商人の正直さに一驚した。みんなで一枚づつ、アンケートの5項目のすべてに優秀と書き込んだ。

満員の客のさわやかなざわめきをあとに階段を上がるとき、米国の両大統領の写真は、この店の格式ではなく、店の独特の美味しさの証明だと気づいた。ホノルル到着の夜に訪ねた北京飯店の北方風のほかに、南方風の中華料理があることを初めて知った。

この日は18:00から完走交流パーティがあると冊子に出ていたが、料金が8,800円もするので敬遠した。

トロリーでホテルに帰り、21:30消灯、よく眠って翌朝、完走証がホノルルに到着直後に訪ねたコンベンションセンターで渡されるというので、孫娘に取りに行ってもらった。持って帰った完走証には、スタートのロス18分を引いた11:02:07とあった。一緒にもらった完走者リストの冊子を見ると、私たちのあとに200人ばかりがいて、最後のランナーは私たちより3時間遅い14:37:30だった。最後から2番目のランナーは14:14:46だった。最終ランナーはこの20分を隔てた孤独をどんな思いで走ったのだろう。

この日、11:00にホテルを出て、13:20に空港の待合室に入り、13:30に搭乗、14:10に離陸した。地球の自転に逆らって飛ぶためか、すぐに夜になった。往路よりも気楽で、ほどなく出された夕食で、またウイスキーを2杯飲み、そのあとは前や横の列の人が開いているテレビ画面を盗み見し、苦労して探し出した面白そうなのを楽しんだあと、飛行機が日本に接近する画面を見守っているうちにランチになり、食べ終わるとすぐに降下が始まり、羽田空港に着いたのは12月13日の18:55、すでに日は暮れていた。荷物を受取り、オーバーを着込みバスに乗り、帰宅は20:15だった。植木の受け皿の水は乾いていたが、草木は大丈夫のようだった。

それから10日後の12月24日、ホノルルマラソン名入り封筒で何かが送られてきた。開くとこぶし大の木箱で、裏に貼られた紙片に「年代別部門に入賞されましたので、記念品のBoxをお送りします(思い出の品などをいれてご利用ください)」とあり、箱の表には「90-94、男子第2位」と刻まれていた。

ホノルルへ出発前、TBSから、最高齢参加者として、マラソンとその前後を取材させてほしいとの電話があった。「いいですけど、ポールを使いますよ」と答えると、2~3日して取材取り消しの電話があった。

ホノルルで完走証をもらった後、どうかなと、一抹の思いはあったが、それっきり忘れていた。娘に賞品の到着を報告すると、入賞者のリストをパソコンで検索できるという。開いてみるとこの年代男子1位はTomiji Shiota(塩田富治)という北海道の人で、タイムは8:00:47と格段に優れた成績だった。この年代では私と二人だけで3位はなかった。塩田さんと私と、どちらが最高齢かはわからない。

マラソン直後、来年はどうするか迷っていたが、日がたつにつれてホノルル再訪の思いが強い。しかしそれも、日本に制限時間の長いマラソン大会がないからで、それがあれば多額の経費をかけて外国に行く必要はない。

  幸せは泣きつつ重ねる寒のラン(2017年3月15日 詠)