「法律婚」神話と「戸籍」の物神化

(弁護士 後藤富士子)

1 「選択的夫婦別姓」や「同性婚」の主張は、「事実婚」の不利益を甘受したくないとして、あくまで「法律婚」の待遇を求めている。それは、自己のアイデンティティーを国家の保護の下に置こうとする一方、「事実婚」差別を置き去りにする。まるで「名誉白人」になろうとするように。
そこで、「法律婚」と「事実婚」に共通する「婚姻」とは何か?を検討してみよう。
民法第739条1項は「婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる。」とし、第2項は「前項の届出は、当事者双方及び成年の証人2人以上が署名した書面で、又はこれらの者から口頭で、しなければならない。」と定め、第740条は「婚姻の届出は、第731条から第737条まで及び前条第2項の規定その他の法令の規定に違反しないことを認めた後でなければ、受理することができない。」としている。これが「法律婚」の成立に必要な要件である。但し、婚姻の「効力」として定められている「夫婦同姓の強制」(第750条)も「婚姻届出の受理」(その他の法令の規定に違反しないこと)というゲートの前に「要件」に転化する。考えてみれば、まことに奇怪な法律である。要件と効果がトートロジーで、まるで「山手線」ではないか。
一方、憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と定めている。 続きを読む

「単独親権制」は、なぜ廃止されないのか?

(弁護士 後藤富士子)

1 民法の「親権」についての条文の冒頭に「成年に達しない子は、父母の親権に服する。」と規定されている(第818条1項)。ところが、父母が未婚や離婚で「婚姻中」でない場合には「成年に達しない子は、父又は母の単独親権に服する。」と規定されている(第819条)。
 なぜ、父母が「婚姻中」でないと単独親権になるのか、合理的な理由が思い浮かばない。むしろ、憲法第14条が禁止する、「社会的身分」により「社会的関係」において差別するものではないか。また、憲法第24条2項に定められた、「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した」法律という点でも、明らかに反している。

2 「親権」は、戦前の民法にも規定があった。戦前は家父長的「家」制度であり、「戸主」(「家に在る父」または「家に在る母」)の単独親権であった。
 ところが、「家」制度は日本国憲法第24条に抵触するので、廃止された。「親権」についていえば、婚姻中は「父母の共同親権」となり、未婚や離婚の場合の単独親権についても「父母のどちらか」という点で、性に中立となった。問題は、単独親権者を決める方法である。まず、父母の協議によるが、協議がまとまらなければ、家庭裁判所が決めることになった。 続きを読む

2021年5月13日 | カテゴリー : ⑩ その他 | 投稿者 : 後藤富士子

「完全護憲の会」会員求める期待と願い

札幌市 小久保 和孝

 「完全護憲の会」を知ったのは2015年の秋頃であったろうか。「日本国憲法が求める国の形」のパンフレットを手にした時であった。

 読み終わった時、私の中に二つの大きな夢というか希望が沸き起こった。

 その一つはパンフレット55頁の「日本国憲法が求める国の形」作成の過程を見たときである。新しい憲法(昭和憲法)が制定された時、当時の文部省は国民学校(小学校)憲法の時間を持つことを奨励し、「新しい憲法のはなし」を出版した。この準教科書は小学生ばかりか広く国民各層に読まれ、新しい憲法発布時の“憲法の掲げる国の形と理念”に対する熱狂的な共感と支持が更に深まり拡がっていった。

 「平和主義、平和国家」、「主権在民」、「基本的人権」この三つの言葉は日常生活の合言葉にさえなっていった。そして未だ消えない血と餓と焼土の残る中で、国民の中に「文化国家建設」への夢と希望が膨らみ拡がっていった。

 この後、憲法について多くの学術書、一般図書が出版されたが、国民的話題となる憲法関係のみるべき一般人向けの図書はなかった。

 1950年6月、朝鮮戦争が起こった。そして「G・H・Q」のマッカーサーが発した一連の日本政府に対する書簡によって共産党機関紙「赤旗」が発行停止され、報道関係、一般企業さらに官公庁、学校まで共産主義者とその同調者とみられる一万数千人余が「レッド・パージ」として解雇、追放された。憲法の保障した法のもとでの平等・思想・良心の自由は占領法規の武力を背景とする超憲法的力により「新しい憲法」は事実上停止されてしまった。ここから現在に続く「逆コース」の時代が始まる。そればかりか、七万五千人の「警察予備隊」が創設され、再軍備の種が蒔かれた。

 1951年、それ迄国内で「全面講和」か「単独講和」か、で国民を二分した戦後“米よこせ”デモに続く国民的大闘争は、G・H・Qの後押しを得た時の総理大臣吉田茂は、全面講和を支持した南原東京大学総長を「曲学阿世の徒」であるとまで罵倒し、国会の多数派を背景にしてアメリカ中心の「片面講和」に押し切っていく。同年9月サンフランシスコで、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3か国を除くアメリカ主導の連合国48か国と日本とにより講和条約が調印された。同時に連合国側にさえ全く秘密裏に用意された「日米安全保障条約」が米国代表と別室で日本側は吉田首相ただ一人の調印で締結された。以降、日本には占領期間中の通称「ポツダム勅令」と呼ばれる超憲法法規は講和後表向きには撤廃されたが、その内実は「安保条約」に基づく「日米行政協定」を中心とする条約ならざる国家間約定と各種「特別法」として温存再生され、現在も続いている。そのため、我が国には「憲法体制」と「安保条約体制(行政協定)」との二つの法体系が並列して存在することになった。

 以降、益々日本の現実は、あるべき憲法体制から多数派国会議員を持つ権力政党の手による各種法令により次第に乖離していく。

 「集団的自衛権」の行使は「違憲」とする歴代法制局の見解を引き継いだ長官は更迭され、国会では「特定秘密保護法」に続き「共謀罪」法案が強行採決されてゆく

 「現行憲法」は占領下で占領軍に強制されたものであると主張する「改憲派諸勢力」は、公然と「憲法改正」を叫び、昭和憲法を卑しめ否定している。

 憲法学会では「逆コース」以降の危機的状況に、有志の学者達が憲法についての一般国民向けの各種書籍を出版するようになっていった。その中で憲法の理念と現実との乖離を直視しつつ憲法を解説した長谷川正安著「日本の憲法」は、この種の本としてはかなり多くの人々に読まれ、1953年発刊以降改訂を進めつつ第三版まで刊行が進んだ。この岩波書店新書版は、日本の現実が次第に憲法から離れ、「安保体制」の法体系寄りになりつつあることは解説されていても、「憲法のめざす国の形」を具体的に展望する目的は持っていないかに思える。私はパンフレット「日本国憲法が求める国の形」55頁をみて最初に浮かんだのは、この長谷川正安著「日本の憲法」であった。

 「日本国憲法が求める国の形」(追補・シリーズ1)このパンフレットは発刊後、会員と読者との声を反映しつつ、「憲法の求める国の形」を益々具体的に展望し、会の実践活動方針の役割を担ってゆき、版を重ねる毎にロマン豊かな刊行物になってゆくのだろうと思っていた。例えば16頁から20頁にわたるこのパンフレットの(第9条関係)“違憲自衛隊を合憲の国連軍に”の記述は、憲法前文の立場に立つ極めて壮大な展望に満ちた、国際性豊かな実戦活動方針になっている。

 ただ、このパンフレットは毎年改定されるのか、2~3年おきになるかは会の発展と力量によるのかなーと想像していた。

 これが一つの夢、希望であった。

 「完全護憲の会」設立趣意書の最後は「当面の活動」である。そこには“我々の使命と日本国憲法の理念を広く世間に普及する。憲法に違反する政治の実態を究明し、順次発表する”と締め括られている。

 二つ目の夢・希望はパンフレット76頁「完全護憲の会」設立趣意書の頁を再度読み進めるなかで、次から次へと色々の事が想起され、今後活動が目に浮かんで来た。

 先ず始めの「現状の認識」、「われわれの使命」そして「当面の活動」をみて、この会は新しい憲法(昭和憲法)下の“明確に政治団体”を宣言したものである。しかし「完全護憲の会」は一つの結社である。結社には多様な人々が集まってくるはずである。多様な人々が集まるのは力である。

 例えば本会の性格について、政治団体であるとしても実践活動の主要な姿を思い浮かべるその内容はまた多様である。ある人は「出版機関」と捉えるであろう。一方ある人は「学術団体」「研究会」「勉強会」と考えているかも知れない。また政治団体である以上、主要な活動の性格から「啓蒙団体」と捉える人もいるだろう。また社会の屏息状態からの護憲派の「サロン」でありたいと願う人もあろうかと思う。しかし、「完全護憲の会」設立趣意書は、これらいづれか一方にも陥らない事を“自戒”しているかに思えた。

 さて憲法と国家についてだが、文章になった憲法法典がなくともブリティッシュ・キングダム(大英帝国)の様に「成文憲法典」が存在するかの如く成り立っている国がある。その一方で近代国家で最も早く憲法典を持ち、結果として奴隷解放の南北戦争(シビル・ウォー)を体験し民主政治の原則とも云える「人民の、人民による、人民のための政治」を、とのリンカーンの演説を生み出した国アメリカもある。

 しかし、この国はその地域に三百万乃至六百万人も居住していたとされる先住民族(ネイティブ・アメリカン)を感染症の持ち込みも加わり、二十万余まで剿滅しつつ成立していく「移民国家」であった。そして、その先住民を不毛の「居留地」に押し込め、初期の「条約」を「タテ」に外国人扱いとしている。そればかりか、憲法理念に全く反する「白色人種至上主義者」の南部地域における暴力を許し、内戦の目的となった当のその黒色人種を、国の半分では久しく全く憲法の外にしてしまっていた。

 また、ソビエト社会主義共和国連邦は堂々たる成文憲法典を高々と掲げながら、全く異なった国になってしまった例もある。

 1919年、第一次世界大戦でドイツ連邦共和国が成立した。そしてワイマールで開かれた国民議会で制定した自由主義的民主主義共和国建設を目標とした憲法を制定、そこには「国民主権」普通選挙の承認に加え、「生存権の保障」三権分立基調など二十世紀「民主主義憲法」の典型とされた憲法であったが、そのめざした国とは違った方向に国を進めてしまい、「ホロコースト」まで起こしたナチス政権を作ってしまった。

 第二次世界大戦は、米、英、中、後にソ連も加わった「ポツダム宣言」を我が大日本帝国が受け入れて1945年8月15日に終わった。それは同時に「大日本帝国憲法(明治憲法)」の消滅を意味していた。

 そこで改めて「憲法」とは一体何なのか教科書的、一般的理解を、私自身が確認するためにと、手元の電子辞書を引いてみた。その辞書名は「カシオEX・word」である。

 ブリタニカ国際大百科事典「憲法の項目」を以下少し長くなるが、この小論に敢えて次に引用する。

 「憲法の話には、およそ法ないし掟の意味と国の根本秩序に関する法規範の意味と二義があり、聖徳太子の「十七条憲法」は前者の例であるが、今日は一般には後者の意味で用いられる。後者の意味での憲法はおよそ国家のある所に存在するが(実質憲法)、近代国家の登場とともにかかる法規範を一つの法典(憲法典)として制定することが一般的となり(形式憲法)、しかも、フランス人権宣言16条にうたわれているように、国民の権利を保障し、権力分立制を定める憲法のみを憲法とする観念が生まれた(近代的意味の憲法)。

(1)17世紀以降この近代的憲法原理の確立過程は政治闘争の歴史であった。憲法の制定、変革という重大な憲法現象が政治そのものである。比較的安定した憲法体制にあっても、社会諸勢力の違いや階級の対立は、重大な憲法解釈の対立とともに政治的、イデオロギー的対立を必然的に伴っている。したがって憲法は政治の基本的ルールを定めるものであるとともに、社会諸勢力の経済的、政治的、イデオロギー的闘争によって維持、発展、変革されてゆくという二重の構造を持っている。(2)憲法の改正が、通常の立法手続きでできるか否かにより、軟性憲法と硬性憲法との区別が生まれるが、今日ではほとんどが硬性憲法である。近代的意味での成文硬性憲法は、国の法規範創設の最終的源である(授権規範性)とともに、法規範創設を内容的に枠づける(制限規範性)という特性を持ち、かつ一国の法規範秩序の中で最高の形式的効力を持つ(最高法規制)。日本国憲法98条第1項は憲法の最高法規制を明記する。-中略-なお、下位規範による憲法規範の簒奪を防止し、憲法の最高法規制を確保することを、憲法の保障という。と出ている。

 以上が引用全文である。少し長くなったが、この後に憲法の変動、成文憲法、不文憲法の解説が続く。

 以上の辞書的知識をベースとして現行「日本国憲法」を捉えると、それ自体が社会諸勢力との経済的、政治的、イデオロギー的闘争そのものになる。そこで「完全護憲の会」に集う人々の日本国憲法観を文章で示したのがパンフレット「日本国憲法が求める国の形」「完全護憲の会」設立趣意書の76頁「日本国の憲法の理念」に集約されているとみられる。これは単に日本国憲法の理念を示したのみでなく、「完全護憲の会」の「実践的政治団体」としての「マニフェスト」であり行動指針でもある。私の第二の夢希望は大きく膨らんだ

 ひょっとするとこの会が未だ日本では例を見ない全く“新しい学習する政党”に発展していくのではないか?との夢・希望であった。

 ドイツでは「草の根住民活動」から始まった「環境保護運動」は政党「緑の党」を出現させた。

 第二次世界大戦後、多くの国で国民的争点での闘いは全有権者の1%内外の差が多く、

トランプが選挙人当選者数で勝利となるケースもある。

 1960年5月から6月に最高潮に達した「安保改定反対」の国民的大運動は、憲法の規定により改定条約は「自然成立」となる。しかし日本では今後国民の深層意識にかかわる二極大闘争は当面起こりそうもない、否、支配層がそれを避けている。

 もし起きるとすれば、それは事あるごとに強化、実体化されつつある「天皇制」をめぐるものであろう。あと一つは「米軍基地撤廃闘争」が、沖縄から本土に移り全国運動になる時である。現在は国民の深層意識の中では国家権力保持派は「勝っている」との思い込みから国民的争点にはしようとはしていない。しかし、現行の天皇制が守れそうもないと判断したとき、国民的争点として打って出てくる危険性が常に存在している。しかし我が国の「代議制民主主義」は議員と有権者意識とは益々乖離を深めていきそうである。無党派層の増大がその傾向を物語っている。そこで多分、我が国では国民の意識しない間に“国の形”がいつの間にか変わってしまっている、そんな時代になっているのではないかと推断出来そうである。否、現代は刻々その進行形の時代だと。

そこで「完全護憲の会」設立趣意書「会員資格」を見ると“会員たることを秘することを求め得る”とあるのは「青年法律家協会(青法協)」の轍を踏まないとの深重さの上に、更に会員が国家権力機関である自衛隊員、治安機関の警察、行政機関の職員まで拡大されることを予想しているかである。この項は会の壮大な展望を秘めている。

 次の「完全護憲の会」設立趣意書の「当面の活動」はすばらしい表現であるが、どこかにもう少し具体的指針を示すべきではなかったかと思う。例えば戦争体験の集積と継承(特に学徒出陣者の戦争体験及び空爆戦災被災者記録の発掘と継承)の様に。

 次に完全護憲の会「会則」であるが、(目的)の第3条はあまりにも月並みである。ここに仮称“会員実践当面の活動の指針とかの項”を掲げるのも一つの方法かと思う。(会員)に二種類の区分が存在することが第4条に出ているが、この表現ではイメージが湧かず判りづらい様に思う。“賛助会員”の後に( )して会報等読者などとの文言を追加しては如何かと思った。

 私は会員が学習活動閉じ籠ってしまわないためにも、会則等に掲げるのではなく、次の規範と義務を負うべきだと考える。

(1) 一年に一人は会員を拡大する。
(2) 一年に三人の賛助会員(刊行物・会報等読者)を拡大する。
(3) 常に身の回りに憲法問題を語り合える仲間を持つ努力をする。

 ところで次の「完全護憲の会」設立趣意書「会計」には入会金は一千円とする、としか記されていない。この後に“費用は会員で適宜、分担する”とあるが、内容がつかめない。会と名のつく会にはすべて月又は年会費が規定され、会費納入が会員規範となっている。しかし我が会則には会費規定がない。これは会費納入以上の「内なる規範」を課しているかに思えてならない。

 会の基本的運営資金は「完全護憲の会」設立趣意書「会計」に“会員で適宜分担する”とあるが、その内容は活動の中で得る、つまり会発刊のパンフレット等の普及販売等の活動によって得ることを想定しているからではなかろうか。

 「完全護憲の会は個人加盟」の全く新しい「学習する政治団体」である。その実践活動は結果として政治闘争であり、有権者の獲得競争でもある。

(2021.6.2 記)
(素原稿完成 2021.3.15)
(素原稿末尾改訂 2021.3.16)

2021年5月2日 | カテゴリー : ⑩ その他 | 投稿者 : 管理人

「夫婦別姓」と「子の氏」

(弁護士 後藤富士子)

1 離婚後は「選択的父母同姓」
 戸籍法第6条は「戸籍は、市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する。」と定めている。だから、夫婦と子は同じ「氏=姓」になる。これが「入籍」という現象である。そして、婚姻時に夫の氏を称するために96%の女性が改姓しているという。
 一方、離婚の場合にどうなるか。戸籍の問題では、まず改姓した妻が夫を筆頭者とする戸籍から出ることになり、自分を筆頭者とする単独の戸籍を編製するのが一般的である。氏は旧姓に戻ることもできるが、離婚時の氏を続称することもできる。民法改正前は、必ず復氏しなければならなかったが、離婚に際し子の親権者になるのは母が多く、必然的に子の氏も変更しなければならなくなる。子どもが小学校高学年以上になると、氏の変更は両親の離婚を世間に周知させるようなもので、そのために不登校になった子もいる。そこで、子の福祉に配慮して、「離婚の際に称していた氏を称する」ことができるようになったのである(民法第768条1項、2項)。すなわち、離婚の場合、原則は「父母別姓」であるが、選択的に「父母同姓」が民法で認められている。とはいえ、父の氏と母の氏が同じでも、戸籍の上では、子は「父の氏」から「母の氏」に変更することになり、「氏の変更」の家事審判が必要となる。
 なお、「親権」と「氏」の問題は、戸籍上は別個の問題である。改姓した母を親権者として母が旧姓に戻る場合でも、子を父の戸籍に残しておくことはできる。戸籍の子の欄に「親権者:母」と記載されるが、「氏」を同じくする父の戸籍に残るのである。
 ところで、離婚による絶対的単独親権制は、子を巡って離婚紛争を熾烈で消耗なものにしている。 続きを読む

2021年2月10日 | カテゴリー : ⑩ その他 | 投稿者 : 後藤富士子

「統一修習」を「法科大学院」に置き換える ――「司法試験」「判事補」の再定義

(弁護士 後藤富士子)

1 「検察事務官」から「検事正」が誕生
 検察事務官から出発した岡田博之氏(61歳)が、今年9月14日付で盛岡地検検事正に就任した。出身地旭川市の高校を卒業後、旭川地検の検察事務官に採用され、視野を広げようと旭川大学経済学部の夜間部に通った。内部試験により、1993年に副検事、2001年に検事となり、東京地検刑事部副部長や名古屋地検公安部長を経て、昨年11月から神戸地検姫路支部長を務めた(ニュース・弁護士ドットコム9月29日)。
 私は、「検事」になるには、〈司法試験 → 統一修習修了〉のルートしかないと思い込んでいたが、誤りである。検察庁法によれば、検察官の種類は、検事総長、次長検事、検事長、検事、副検事の5種であり(3条)、等級に1級と2級があり、副検事は2級である(15条2項)。そして、3年以上副検事の職にあって政令で定める考試を経た者は2級検事になれるし(18条3項)、2級検事になると、1級検察官(検事総長、次長検事、検事長)の任命資格として「司法修習生の修習を終えた者」とみなされる(19条3項)。すなわち、「統一修習」という障壁は、大昔から決壊していたのである。
 一方、 続きを読む

2020年11月2日 | カテゴリー : ⑩ その他 | 投稿者 : 後藤富士子

「法の理想」を指針として――「共同監護」を創造するために

(弁護士  後藤富士子)

1 「単独親権」から「共同親権」への法の進化
民法818条は「父母の共同親権」を定めている。家父長的「家」制度をとっていた戦前の民法が「家に在る父」(一次的)または「家に在る母」(二次的)の単独親権制を定めていたのと比較すると、革命的転換であった。その根拠になったのは、「個人の尊厳と両性の本質的平等」を謳った日本国憲法24条である。「個人の尊厳」という点から親権に服する子は未成年者に限定され、親権は未成熟子の監護教育を目的とする子のための制度であることが明らかにされた。また、「両性の本質的平等」という点で「父母の共同親権」とされている。すなわち、戦後の日本の出発点は、家父長的「家」制度を廃止し、「単独親権」から「父母の共同親権」へ進化したのである。換言すれば、「父母の共同親権」は、まさに「法の理想」であったのだ。 続きを読む

「社会は存在する」とジョンソン英首相

(弁護士 後藤富士子)

 朝日新聞5月9日の「多事奏論」によれば、ジョンソン英首相は、コロナに感染して自己隔離中の3月末、ビデオメッセージで「今回のコロナ危機で、すでに証明されたことがあると思う。社会というものは、本当に存在するのだ」と締めくくった。医療崩壊を避けるために退職した医師や薬剤師らに復職を呼びかけたところ、2万人が応じ、さらに75万人もの市民がボランティアに名乗りを上げてくれたことに感謝して。 続きを読む

「共同親権制の導入」か、「単独親権制の廃止」か?

(弁護士 後藤富士子)

1 民法は、父母が婚姻中のみ共同親権としており、父母が法律婚をしていない場合や離婚した場合、父母のどちらか片方の単独親権としている。婚姻中のみであっても父母の共同親権とされたのは、単に「両性の平等」というだけでなく、それが「子の福祉」に適うと考え 続きを読む

2019年4月8日 | カテゴリー : ⑩ その他 | 投稿者 : 後藤富士子

2015年 多摩川45キロウオーキング参加記

20151231多摩川45キロウォークこの年になると日々にわが身の老化が感じられる。腰がまがる、足元がふらつく。手すりなしには危なくて階段を下りることができない。<昨日できたこと明日できると思えば大間違いだ! >、だが他方で、<すべてが一度に変わることもない>。この矛盾した考えのなかで、10月17日(土)多摩川45kウオーキングを迎えた。

1週間まえに、マイクロバスの旅行に誘われ栃木の方に行ってきた。帰途、ながく座っていたためか右の股関節に違和感がうまれ、それが右膝頭の痛みになり、さらにそれが左膝に移ったのが、やっと消えた。

JR五反田駅のホームで5:00に娘と待合わせ、中央線快速をへて、青梅線の羽村駅で下り、小雨の駅前コンビニで明日の朝と昼のおむすびや稲荷、パン、お茶など2人分、1,480円を買い、予約していたプラザイン羽村で、個室@6、100円、2人で計12,200円を払った。このホテルのバイキングは@1,200円と大衆的で、トマト、胡瓜などの生野菜に、南瓜はフライ、蓮根は酢のもの、ポテトサラダ、ビーフン、さばの煮付け、鶏の唐揚げ、うずら金時、シュウマイ、餃子、春巻き……と、日頃自炊の定番と異なる小物がたくさんあるので、それを肴に、生ビールで乾杯し、なくなればまた皿にとり、仕上げは山菜ご飯とシジミの味噌汁、そしてコーヒー。2人で計3,780円だった。

21:50に消灯24:00に小用、そのあと目が冴えて眠れぬまま2:30に小用、恐怖に震えた。いつものインスタントではなく、レギュラーコーヒーを飲んだためか、3年前、千葉の土気で12時間耐久レースに参加したとき、前夜に一寝入りしたあと一睡もできないまま朝を迎えたことを思いだした。<神頼みをしても、羊の数を数えても、いつ眠りに入るかは誰にも分からない>と脅えながら、幸いにとろとろと眠り込み、4:40にカウンターからのベルで目覚めた。5:00にホテルの玄関を出るとき昨夜からの小雨のためにリュックの上からビニールのレインコートを被ったが、小糠雨にぬれたまま出て行くグループもあった。5:30のスタートに遅れないよう、まだ暗く人気のない街道の赤信号を渡っていると、後ろから「だめだよ!信号を無視しちゃあ」と怒鳴られた。ポリスかな、案内人かなと娘と話していると、後ろから追いついてきた男が「ウオーキングに参加するものがルールを守らなくてどうする!」とまた怒鳴って追い越していった。ただの参加者のようだった。悪い幕開けだ。

昨年は迷ってしまった夜道を、案内の看板をたよりに羽村取水堰玉川兄弟像にたどりつき、もう列をつくっている20人ほどの後に並ぶと、朝の弁当を食べる場所を目でさがし、東屋の庇のかげの腰掛けで、鮭の入ったむすびを1つ食べたところで列が動き出し、昆布の入ったむすびを食べながら、娘が順番をとっている列にもどった。

のろのろとした受付を終え、コースの地図と水をもらい、45kmコースと印刷されたゼッケンを安全ピンでリュックに付けたが、スタートの位置が分からない。「どこから出るの?」「赤いランプがあるでしょう」と係員が言うが、そのランプが見つからない。娘は係の人に何やら尋ねている風。やっと娘がよってきて「ランプはあそこよ」。スタートのラインを超えたのは5:40だった。小雨のせいか先をゆく人も、後の人もすくない。ポールをこのウオーキングで使うのは初めて。右側を流れる多摩川に朝靄が立っているようだが、それを確かめる余裕もない。レインコートに蒸されながら歩いていると、娘が「パパ1k、14分よ」。言われて愕然。「水をのむ?」「また後で」。

スタート5:30、ゴールは16:00。この10時間30分を45kで割ると1kちょうど14分。前半は1k12分以内が目安だ。この3月の伊豆大島マラソンで最初の5キロは55分だっことを思い、心が青ざめた。<やはり日々に老化している!>。

道は小さな公園に入り、舗道の水溜まりを避け、道の端の段差に足を掛けたり、ぬれた芝生を横切ったりしなければならず、両手のポールで慎重に転倒をふせぐ。急いだつもりなのに、この1kは13分、次の1kがやっと12分。見通しは暗い。雨が上がり、娘が後ろからレインコートを脱がせてくれ、彼女の手持ちのバッグに入れた。レインコートを脱ぐと身体と気分が晴れる。

また雨がふりはじめた。レインコートを歩きながら着せてもらい、思いは沈んだ。<加齢とともに速度が衰えるのは神の摂理だ。ウオーキングに挑戦できただけでも幸福と思わねばならない>。そう考えても心は晴れない。<先輩として若い人に大切にしてもらっているが、それもフルマラソン完走で重みが加わっている。このウオーキングでゴールできなければ、その重みも失われるだろう>。腰が曲がり、ひょろひょろ歩く情けない自分の姿を一瞬思い浮かべ、<命長ければ恥多し>、もう生きたくないような気になった。「最初の10分のロスは痛いね。まだスタートではないと思っていたの」と娘が悔む。速度を持続できれば10分のロスは取り返せるのだが。

雨が弱まり、中年で小柄な人としばらく並行した。<この人に付いて行こう>。昔のマラソンの記憶がよみがえった。スタートの号砲が鳴ると、みんな一斉に矢のように走りだし、その後に残されたランナーのなかで、ゆっくりと安定した速度の人を見つけて、その後につく。ここで離されればゴールは望めぬと、死に物狂いでついてゆく。5kごとのテーブルに、ランナーが立寄って水をのめば、それをチャンスに追い越して束の間のゆとりを楽しみ、やがてまた追いつかれる。

今は、黒いズボン、黒いジャンバー、灰色の帽子をかぶったその中年のランナーの足元を見つめ脇目もふらずについてゆく。五日市線の鉄橋下を通るとき、彼は橋を下からカメラで写していた、土木関係の人なのだろうか。そのとき彼を追い越し、助かった思いで歩き続ける。そのあとは1k12分が続いた。わずかに希望が湧いてきた。

少しでも気を緩めると、追いついた彼に間を空けられる。そこで彼のリズムに合せながら、やや大股にあるくと楽な気がした。しばく行くとまた離されたので小走りで後についた。すると歩くよりも、マラソンの小走りに慣れている気がした。

河川敷が行き詰って堤防にあがる階段では、両手のポールを支えに、一段ずつやっと上がらなければならない。堤防の上にあがると、後ろに参加者が三々五々に続いているのが見えたが、ここで先行者に離されたので、また追いすがる。

しばらくして今度は河川敷におりて、丈の高い草の間をぬけるコースに入った。多摩川緑地の30kコース・スタートの地点だ。先行者のかがとを見つめ、根をつめて歩いているうち、右膝頭に痛みがでた。右足を引きずる最悪の事態が脳裡をかすめる。<栃木の旅行の疲れがでたのか>。すると今度はその膝の力が抜けて空をふむ気がする。幸い大事にはならないようだが、気にすると、また痛む。30kスタート地点にはいると、去年は草地に寝転がって腰を伸ばしたが、今年は小雨が降っているので、それができず、立ち止まってポールを支えに腰をのばし、娘の出してくれたポカリスエットを4口5口飲み干して、彼を見ると、立ち止まりもせずに草地をぬけてゆく。あわてて娘とふたり、その後を追う。草地の一角にあつまっている人々は30kコース参加者のようだ。

30kコースのスタート地点となれば、すでに15k歩いている計算になる。ところが注意して見てきた路上の距離表はまだ15kになっていない。<どうせいい加減なんだから!>。昨年はこれで失敗した。ゴールの手前、最後の15kほどのところで、突然、旗をもったガイドに「48kコースの人はこの橋をわたって対岸に行き、次の橋でこちらの岸にもどり、その次の橋で対岸にゆき、その後こちらの岸にもどってください」といわれたのだ。これでがっくりきて意欲を失い、ついにタイムオーバー、失格となってしまった。

今年は去年より3k少ない45kコースに修正されているが、この後どうなるのか不安をかかえたまま、しばらくゆくと木の吊橋があった。去年はここで橋板のわずかな段差につまずき、他愛なく転倒、娘と鳥丸さんに手をとって起こしてもらった。警戒しながら橋をわたると、コースのなかでここだけ街中を通るせまい道で、タクシーをやっと避けられるほどだ。そこを抜けると多摩川の堤防にでる。

多摩川緑地で私たちを置き去りにした彼の姿はもう見つからない。雨はあがり明るくなりはじめコートを脱いだ。そこからが長い長い堤防上の道だ。30kコースのゼッケンをつけた若い男女に追い抜かれる。去年はこの道をサイクリストが猛烈なスピード走りぬけていた。今年は雨のせいか大学のランナーが一団となって駆け抜けるだけ。それでもぶつかると跳ねとばされかねない勢いがある。

腰が曲がっているため、はるか先のもやのなかの南武線鉄橋を上目に見て歩く。私はいつも朝食なしだが、腹がへっては歩けないので、早めの食事にした。娘が手提げからお稲荷さんを出し、関戸橋のトンネルに身をよせて食べると、ほのかな甘み、適度のしめり、さわやかな歯切れで、一つの稲荷を3口で食べた。この後は先で、と思っていたが、2度手間になるので、もう一つをついでに食べた。娘の出してくれるポカリスエットで口をゆすいだ。

元気をつけて歩いていると中年で大柄の太った男性がゆっくりと私たちに追いついてきた。しばらく並行して歩いているうち、この人の後につくことにした。彼のリュックには35kmコースのゼッケンが着いていたが、太っているので速度の上がる心配はないだろう。南武線の鉄橋を過ぎ、是政橋のたもとを過ぎ、稲城大橋を過ぎると、多摩川にそそぐ支流の橋にかかった。去年はこの橋の欄干で腰を伸ばしたものだが、今年はポールを使っているのでそのまま通り過ぎ、多摩川原橋の手前で河川敷におりると、ほどなく去年17kコースのスタート地点だった多摩川児童公園に入る(今年は17kmコースがなくなっていた)。去年はここで草地にすわって昼食を食べたが、今年はタイムオーバーを恐れて素通りすると、小石まじりで歩きにくい道になる。雨は上がり、陽が射してきた。コースは再び堤防に上がり、前方を見晴らすが、次の橋、いつもマラソン練習で親しんでいる多摩水道橋が見当たらない。多摩川が湾曲していているせいだ。

できるだけ早く多摩水道橋に着きたい。そしてゴール前の1~2kは余裕をもち、回りの景色を楽しみながら歩きたい。そのためには今のうちにできるだけ時間を稼がなければならない。2年前、あのときは50kmコースの設定だったが、多摩川大橋を折返してガス橋のゴールに向かったときは、娘と二人、河川敷の草を踏み、西に傾く陽にてらされながら、余裕をもって歩いた。三々五々、これから折り返しにむかう人たちとも行き合い、ゴールに入ったのはリミットの25分前だった。

堤防の並木の陰にいくつかのベンチがあり、そこに腰掛けている人々がいる。めざす多摩水道橋が見当たらず、疲れはてて立ち止まり、ポールを支えに一休みし、「お昼にしよう」娘を誘った。人のいないベンチを探し、いま出ていった人の後に腰を下ろし、足をのばす。

娘が手提げから出した赤飯のお結びと巻き寿司、お稲荷さんを食べると、よろよろしながら並木の陰で用をたし、すぐに出発する。あの先行者は私たちがやすむ前にどこかに寄り道して姿が見えなくなっていた。まえを歩いている中年の女性が、歩度を緩めながら、スタート地点でもらったコースマップを見ている。「多摩水道橋が見えませんね」と声をかけると「心配なんです」という。関門があって、そこを12:30までに通過しないと失格すると書いてあるという。それは初耳だ。そのマップをちらっと見て「もうずっと前に通過しましたよ」と言ってはみたものの、娘が手提げからマップを取り出して、関門の場所が良く分からないと言うのをきくと、つい不安になってしまった。時刻はまさに12:30になろうとしている。前方の三叉路に小旗をもった女性がいる。もしやあれが関門? 娘が小走りに駆けて行き、言葉を交わしていたが、こちらを見てにっこり笑った。もう関門は通過しているというのだ。40分ほどまえに通り過ぎた多摩川児童公園の近くにあったのだそうだが、通るときには何も気づかなかった。

三人で「良かった」と喜びながら歩いていると、ようやく見慣れた多摩水道橋が見えた。橋のたもとのトンネルをくぐり抜けたのは12:44。ここから二子橋まで5k、そこから丸子橋まで5k、さらにガス橋まで3kほど。ガス橋のどの辺りにゴールがあるか分からないが1k12分で行けばゴール時間の4時を30分前にクリアできそうだが、練習のとき、このコースは1kに16分かかっている。そのペースだと3時間28分かかり、28分のタイムオーバーになる。最後の1、2kmは余裕をもって景色を見ながら歩きたい、その思いは適いそうもない。

「どう?ゴールできそう?」娘が聞いた。「うーん、かつがつだ。この後は回り道を指示されても、もう二度と回らないよ!」と去年の悔しさが残っている。

コースは河川敷に下り、ほどなく狛江水辺の林のなかの土の道になると、主催者は気づかなかっただろうが、道は泥んこ、大きな水溜まりの縁を転ばぬように注意して行かねばならず、その先は犬1匹がやっと通りそうな小道で、濡れた草を踏み分ける。小道をでると警視庁のオートバイ練習場にそった運動場がひらける。「ちょっと寄るから先に行っといて」。簡易トイレを見つけて娘が近づくが扉に錠がかかっている。しばらく行って見つけたトイレにも錠。運動場をすぎると緑の原っぱで、先行者たちは野原の先の薮のなかに消えてしまった。薮のなかに小道を見つけ、高台になった河川敷に上り、そこを抜けるとラグビー場と2面の野球場がある。そこのトイレは開いていた。

娘のリュックと手提げをあずかり長椅子に腰掛けて束の間、足を休めた。用を足した娘とつれだってすすむと、サッカー場、テニスコート、5面の野球場をもつ世田谷区立の公園に入り、勝手を知ってる道なので大曲している参加者を横目に、芝生のなかを突っきり、やがて兵庫橋を渡って二子橋にでると14:11で、予定を大分オーバーした。新たに整地された多摩川台公園の道は歩みやすく、ここぞとばかり息をととのえ歩を速める。この先に「残り約5km!がんばろう」マップに書かれた地点があると娘がいう。公園を抜けると道は小石まじりで歩きにくい。去年、監視員に迫られてリタイヤした場所のあたりでは息が苦しく、<こんなに無理していいんだろうか>、と一瞬、恐怖に襲われた。「昨日まで元気そうだったのに急にポックリ逝くなんて!」。そんな噂が耳に聞こえた。思わず、立ち止まって息をつく。「ちょっと休憩しようか」。去年、座り込んだコンクリの台に身体をあずけ、娘のだしてくれたポカリスエットで喉をうるおす。大柄な夫婦が目のまえを行過ぎる。「みんな元気だなあ!」とつぶやいて後方をみると参加者がまだまだ散り散りに続いているが、気を許してはいられない。去年はリタイヤして、足を引きずりながら歩いた巨人多摩川練習場に沿った大きな曲がりを終えて、娘が小柄な監視員に後何キロかたずねた。これは半ば真面目に半ば気休めに聞くのだ。監視員に「あと5k」と言われてがっかりした。これはでたらめだ。今年初めてこの催しの協賛団体になった札付きの産経新聞のせいに思わずしてしまった。これまで経験した普通の新聞の共催するマラソン大会でこんないい加減なことはなかった。

調布取水堰に止められて水量豊かな岸に沿って新たにつくられた道をぬけ、丸子橋の下をくぐったところで娘が監視員に聞くと「あと3k」だった。「ここからゴール見えますか?」と問い直したが、歩きながらなので返事はなかった。

前方に白い横断幕があり、これかと思って近づくとどこかの学校の運動場の表示だった。丸子橋のたもとを過ぎたのが15:20、あとタイムリミットは40分ほどだ。私のせいで娘を失格させたくない。「あと10分したら、あなただけ先に行ってゴールして!」と娘に言うと、「うーん」と煮え切らない返事。

「パパ、速いよ1k12分できている」。

ゴールらしい天幕がようやく前方に見えてきた。タイムリミットまで15分になった。「かまわず先に行って」「一緒にゴールできるんじゃない」と娘。ここまできたらゴールしたい。ラストスパートで足を速めた。前を歩いていた黒のウエアを着たおっとりとした若者を抜いた。この若者も後続の人たちも、こんなにタイムリミットが迫っているのに、慌てたところがない。<タイムオーバーになったら後続の人たちと一緒に、完歩にせよと主催者に強訴しようか、雨降りを理由に>とは思ってみたものの、できれば自力で綺麗にゴールしたい。

あと5分になった。「先に行って!」。テープを張ったゴールが見えないので、娘は「どこがゴールなのか聞いてくる」、駆け出し監視員に近寄って言葉を交わし、こちらをむいて胸のあたりで手を横にふった。一瞬ぎくり、タイムオーバーの合図と思った。

「少し遅れても構わないんだって」。その監視員が神様に見えた。突き当たりを右におれ、また左に折れたところにゴールがあり、15時59分にすべりこんだ。タイムリミットの1分まえだ。最後の1- 2kmを余裕をもって歩くことはできなかったが、それでも自力で完歩できた。思えば、多くの人はこのように生涯の最後まで生活に追われているのだろう! スタート地点で確認印をおした案内葉書を提示して「45kmコース完歩証」をもらった。そこにはタイムも名前も入っていなかったが。

とりあえずゴールを去り、完歩者たちが座って休んでいる芝生で、空いたパイプの椅子に腰かけ、背をのばした。その間、後続の人たちが次々にゴールしている。これまで気づかなかったマラソンとの決定的な違いを、このとき知った。マラソンではテープ目前、10秒おくれても失格だ。(荒川マラソンで7時間制限を7:05:24でタイムオーバーになったが、スタート時点でのロスを減算して、ネットタイム6:59:08で完走、になったことがあった。2004年3月のこと。当時、私は80歳台で1k10分で走っていた。その後の10年間に1k12分になってしまった。)後続の人が慌てなかった意味が分かった。

タイムリミットの16:00から、関係者は片付けをはじめたが、その後、すくなくとも30分、後続の人たちがゴールしていた。これで、あれほど恐れていたタイムアウトに30分の余裕があることを確認した。来年の参加も可能という希望がわいた。一番嬉しかったのは、昨日までと同じ日々を、明日からもまた送れることだった。

電車を乗り継ぎ帰宅したのは7時ごろだった。夕食を済まし、10時半ごろに就寝、3時ごろ小用に立ち、7時に起床した。疲れが過ぎると掛け布団を夜中に重く感じることがあったが、この夜は案外安らかに眠り、疲労もとくに残らず、その次の日、両肩がやや凝ったような気がしたが、それも消えた。