(弁護士 後藤富士子)
1 結婚や離婚で「姓」が変わらない制度―「夫婦別姓」原則
「選択的夫婦別姓」制度の導入が叫ばれて久しい。世論調査でも、「選択的夫婦別姓」制度の導入に賛成するのが多数派になっている。そして、この制度の導入が実現しないのは、自民党の保守派のせいだとされている。しかし、果たしてそうだろうか?
まず、現行民法では、結婚については夫婦のどちらかの姓を称することとされている(第750条)。離婚の場合は、結婚により改姓した者は旧姓に復するとされていたが(第767条1項)、離婚の日から3か月以内に届け出れば「離婚時の姓」を称することが可能になった(同条2項)。すなわち、離婚の際には、姓を変更しなくてもよくなったのである。それは「姓の変更」が、個人に様々な不利益を及ぼす現実が直視されたからである。そうであれば、結婚で姓が変わる場合の個人が被る不利益も同じことである。
私は、「選択的夫婦別姓」制度が実現しないのは、制度のモデルチェンジがされないからだと思う。「選択的夫婦別姓」論は、「夫婦同姓」を原則とする現行法を維持したうえで、個人の「ご利益」を求めるにすぎない。「夫婦同姓」制度のモデルチェンジがされないで、「夫婦別姓」を選択する個人の「ご利益」が得られるはずがないのではなかろうか?そして、「夫婦別姓」を原則とする制度改革についてこそ、保守派と闘うべきであろう。
日本国憲法が制定されてから76年経過していることを考えれば、日本には「ロイヤー」がいないのではないかと疑われる。
2 「婚姻」の多様化―「事実婚」差別の解消
「同性婚」についても、それを「法律婚に格上げする」ことが主張されている。また、そうすることが「差別解消」になるというようである。
しかし、現行民法の「法律婚」なんて、解体した方がよい代物ではないか。第一、憲法第24条1項は、当事者の「合意のみ」に基づいて婚姻が成立するとしている。
したがって、「法律婚に格上げする」ことによって「差別」を解消できるという発想は、「事実婚」についての「制度的差別」を温存したまま、個人的に「差別」から免れようとするにすぎない。いわば「名誉白人」の思想であり、「差別される側」から「差別する側」へ転換することを求めている。
私は、こういう倫理のない主張に対して嫌悪感を覚える。「同性婚」の合法化は、「事実婚差別」を解消する方向でしか実現され得ないし、それこそが「婚姻の多様化」を帰結する。ここでも「ロイヤー」の不在を痛感させられる。
3 「在野法曹」の「在朝法曹」への身分的格上げ―「統一修習」制度の害毒
戦後の「給費制統一修習」制度は、戦前の「司法官試補」制度に弁護士になろうとする者を加えた法曹養成制度である。すなわち、弁護士が判検事と同じ資格を得るための修習制度であり、いわば「法曹資格」について「在野」の「在朝」への格上げである。
しかしながら、「存在は意識を規定する」というように、戦後の弁護士の意識が「在朝法曹」のそれのようになったに過ぎないのではないか。そのことは、官僚司法制度をモデルチェンジする主体としての「在野法曹」がいなくなったことを意味している。それを如実に示すのは、弁護士が「給費制統一修習」制度にしがみついている点である。
日本国憲法の司法は、官僚裁判官制度を排斥している。しかし、「統一修習」制度を維持していたら、裁判官のキャリアシステムを廃止することはできない。翻ってみれば、戦後改革で目指すべきだったのは、「在朝法曹」の「在野法曹」への「身分的格下げ」だったのだ。「統一修習」制度は、「在野法曹」のコンプレックスの裏返しだからこそ成立したのであろう。
市民を「上から目線」で見る「護民官」はいらない。「国民の僕」という目線の「ロイヤー」が待ち望まれる。
(2023年3月15日)