北海道(アイヌモシリ)の“アイヌ文化”そして“アイヌ民族”を考えるとき、現在一般的には考古学的知見に基づき、(一)続縄文文化時代、次に(二)擦(さつ)擦(さつ)文(もん)文(もん)文化時代、そして(三)アイヌ文化時代が始まると理解されている。
最初の「続縄文文化時代」は、北海道における本州の弥生、古墳文化時代に並行する時代で、本州を北上した“土師器(はじき)土師器(はじき)土器”を伴う文化と接触したと推定される石器・骨格器が基本の狩猟・漁猟の鉄器時代である。
続く「擦文文化時代」は、奈良・平安時代頃より始まる網走地方の海岸に発達した“オホーツク文化”を吸収していったともされる本州東北地方北部にも及んだ文化で、鎌倉・室町時代に相当する時期である。
そして現在までの考古学上の知見では、この「擦文文化」から十三世紀以降に「アイヌ文化」が始まったと考えられるとしている。
しかし、それ以降の「アイヌ文化、アイヌ歴史」について、その時代別の特色や変遷等を概観したり、把握するための“時代区分”はない。
そこで「アイヌ文化」成立以降の「アイヌ歴史」を、次の様に三つの大区分で把握出来るのではないかとの仮説を提起したい。(これ等三つの大区分は、実証主義に基づく研究に裏付けされたものではなく、むしろ実証のための視点提起でもある。また、私はアイヌ歴史を専攻している学者でもない、あくまでも素人としての、否、素人だからこそ提起出来る“試見”である。)
この三段階の大区分とは「アイヌ問題」の“現代的課題“に答えてゆくためのアイヌ民族と、いわゆる「シャモ」との共通理解を進めてゆくための“アイヌ歴史”把握の一つの方途ではなかろうかと。そして、この仮説的三つの大区分の始めの第一段階(一)は“華(か)華(か)夷(い)夷(い)思想(しそう)思想(しそう)”に 基づく「アイヌ」「和人」概念の成立時代。第二段階(二)“人種論”及び「アイヌ同化政策」アイヌ周辺化の時代。そして第三段階(三)“消えゆくアイヌ”から「アイヌ民族の世紀」の時代である。
そして第一の区分“華(か)華(か)夷(い)夷(い)思想”に基づく「アイヌ」「和人」概念の始まりは、陸奥(むつの)陸奥(むつの)国(くに)国(くに)俘囚(ふしゅう)俘囚(ふしゅう)長安部貞任の子孫と伝えられる中世の北奥羽豪族安東氏が北条氏の被官となり、陸奥国代官を務めるとともに「蝦夷管領」の代官として蝦夷を支配した鎌倉後期からの時代である。より厳密には1432年、南部氏に追われた安東氏が最初に蝦夷地に逃れた以降であり、「コシャマイン」、「シャクシャイン」、「国後・目梨(東の端)の戦」の1789年頃を頂点とする時代である。
そしてこの第一の段階の大区分(一)の時代を、更にアイヌモシリにシャモの進出に従って道南から道西・道柬、そして道北にと時系列的には傾斜を持ちつつ進む、次の三つの小区分とし、その(1)は収奪交易(不当価値交換)の時代から、(2)資源収奪(直接漁猟)、武装抵抗の時代、そして(3)労働力収奪(場所請負制度)なかば半奴隸化の時代と、以上の三区分である。
そして次の第二段階(二)は“人種論”及び「アイヌ同化政策」アイヌ周辺化であり、小区分として(1)前期 江戸幕府下における「風俗和人化強行期」と(2)後期 明治政府による「皇民化推進」の二区分である。この時代はロシア帝国の極東進出に危機を感じた幕府が、松前藩領を直轄地として維新に続く 「アイヌ同化政策」とされるものを打ち出さざるを得なかった1807年より以降であり、“ダービニズム”が拡がった時期と重なり、大日本帝国敗戦の1945年までを区切りとする時代である。ここで特記すべきは、サガレン(樺太)・千島の帰属を巡る国境確定の議論において、ロマノフ王朝ロシア帝国との交渉の中で、双方ともに先住民族アイヌについて何ら言及が全くなかった。
そして第三段階大区分(三)は、“滅びゆくアイヌ”から「アイヌ民族」の世紀として戦後から現代に続く時代である。
以上の様に「アイヌの歴史」を把握してゆくのが、「和人」(シサム•シャモ)と「アイヌ民族」の歴史的事実の共有とその共通の認識により、更に相互の共通理解に達する一つの方途であると確信し、ここにこの“試案”を一つの仮説として提案した。
解題-アイヌ問題の現代的課題
「アイヌ問題」の「現代的課題」とは如何なるものであろうか? 一つの考察を示せば“アイヌ民族復興”の阻害要因の排除であろうか?その具体的第一の事項とは、日本社会の“アイヌ差別の解消”である。そしてこの根底にある“アイヌ差別観”の克服である。これは目視出来ないし意識化すら出来ない個人も多い。具体的対策としては、アイヌ民族のおかれている社会的格差の解消である。より着目すべき具体例を示せば「平均寿命・幼児死亡率・平均所得・住宅状況・生活保護世帯比・大学等の進学比率」などであろう。しかしこれらは一般国民にも云えることであるが、“歴史的経過”からよりよい手厚い対策が必要である。以上はアイヌ民族の人々の人間として生きるための最低必要条件である。そして、今アイヌ民族復興のため如何なる“新立法”が必要なのかが問われている。
“旧土人保護法”に代わる“アイヌ文化振興法”が1997年発効した。それには『アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及、及び啓発に関するアイヌの民族としての誇りを尊重し、アイヌ語、その音楽・舞踊・文学・工芸などの振興を図り、かつそれらについての調査研究、知識の普及を目的とする法律』であるとされている。しかし、これではアイヌ民族の人類社会の多様性への貢献を増進するほんの一側面の対策を示しているに過ぎない。(そればかりか、1993年、国連総会により「世界先住民の国際年」決議以降の世界先住民運動の一環を担う「アイヌ民族独自の活動」を政府権力下におこうとすることを秘めているのが”“みえみえ”と語る人もいる。)
今課題とすべきは、アイヌ民族のためのめざすべき“新しい立法”であり、それは昭和59年 5月27日(1984年)、北海道ウタリ協会総会において可決した「アイヌ民族に関する法律(案)」を基礎とすべきである。
小久保和孝(札幌市)(2021年 5月記)