朝鮮人追悼碑の撤去に抗議する

                       福田玲三

 群馬県高崎市の県立公園にある朝鮮人の追悼碑は、戦時中に強制連行されて死亡した朝鮮人を悼むために、2004年に建てられた。

 碑の建立は県議会が全員一致で賛同し、場所を提供し、「宗教的・政治的な行事はしない」との条件がついた。設置許可は10年間で、14年に再度、県に許可を得る必要があった。

 碑文は戦後50年の村山首相談話(1995年)や日朝平壌宣言(02年)などを踏まえ、外務省や県と調整を重ねてきめた。当初案にあった「強制連行」との記述は「労務動員」に変えた。

 ところが、朝鮮人追悼を疑問視する「日本女性の会 そよ風」が12年ごろから「反日的だ」と主張し始めた。碑の前で行った追悼式で「強制連行の事実を訴え、正しい歴史認識を持てるようにしたい」などと発言した人がいたことを問題視した。

 14年に県は050612年の追悼式で「強制連行」などと発言したことが政治的発言に当たるとし、設置条件に反する行為があったと認定。碑の設置を不許可にした。

 「追悼碑を守る会」は14年、この処分を違法として提訴。前橋地裁は「政治的行事をしたからといって公園の効用を喪失したとはいえない」として「不許可は違法」としたが、東京高裁は「中立的な性格を失い前提を失った」として、処分を「適法」とした。

 この高裁判決が22年に最高裁で確定し、県は234月、撤去命令を出した。24年になって、県は129日から代執行で撤去を開始した。山本一太知事は、碑の目的は日韓・日朝友好だと認めたうえで、「碑を公園に置いて置くことは公益に反する」と説明している。

 いま、事の経緯を振り返ってみれば、12年末に第2次安倍晋三内閣が発足し、その後14年から20年まで安倍内閣が続き、この間、政府は加害責任の否認に努めた。群馬県議会が04年に全員一致で碑の建立に賛成し、20年後にその撤去に逆転した。この変化は正しく、「新しい戦前」を象徴している。

 戦時期、内地の労働力不足を補うための朝鮮人動員は70万人を超えており、それは「強制的」「拉致同然」だった。安倍政権は、北朝鮮による二十人前後の日本人拉致を前面に掲げ、その事実を隠した。日本人被害者家族にとって痛切なことは朝鮮人家族にとっても同じだ。日本人拉致被害者の救出は、まず数十万人の朝鮮人強制連行の非を詫びたうえで始めなければ軌道に乗らない。

 朝鮮人追悼碑を撤去する動きは、群馬県だけでなく、奈良県、長野県、福岡県でも起きており、これを煽るものは戦争挑発者といえる。

 憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに」し、そのためには、「不断の努力」が必要だと諭している。「表現の自由」も保障されねばならない。日本政府が犯した加害の歴史を抹殺してはならない。   (202424日)

 

アイヌ民族の人々と、我々「和人」との相互理解のために、 「北海道(アイヌモシリ)」アイヌ民族通史(小史)の“時代区分”について

北海道(アイヌモシリ)の“アイヌ文化”そして“アイヌ民族”を考えるとき、現在一般的には考古学的知見に基づき、(一)続縄文文化時代、次に(二)擦(さつ)擦(さつ)文(もん)文(もん)文化時代、そして(三)アイヌ文化時代が始まると理解されている。

最初の「続縄文文化時代」は、北海道における本州の弥生、古墳文化時代に並行する時代で、本州を北上した“土師器(はじき)土師器(はじき)土器”を伴う文化と接触したと推定される石器・骨格器が基本の狩猟・漁猟の鉄器時代である。

続く「擦文文化時代」は、奈良・平安時代頃より始まる網走地方の海岸に発達した“オホーツク文化”を吸収していったともされる本州東北地方北部にも及んだ文化で、鎌倉・室町時代に相当する時期である。

そして現在までの考古学上の知見では、この「擦文文化」から十三世紀以降に「アイヌ文化」が始まったと考えられるとしている。

しかし、それ以降の「アイヌ文化、アイヌ歴史」について、その時代別の特色や変遷等を概観したり、把握するための“時代区分”はない。

そこで「アイヌ文化」成立以降の「アイヌ歴史」を、次の様に三つの大区分で把握出来るのではないかとの仮説を提起したい。(これ等三つの大区分は、実証主義に基づく研究に裏付けされたものではなく、むしろ実証のための視点提起でもある。また、私はアイヌ歴史を専攻している学者でもない、あくまでも素人としての、否、素人だからこそ提起出来る“試見”である。)

この三段階の大区分とは「アイヌ問題」の“現代的課題“に答えてゆくためのアイヌ民族と、いわゆる「シャモ」との共通理解を進めてゆくための“アイヌ歴史”把握の一つの方途ではなかろうかと。そして、この仮説的三つの大区分の始めの第一段階(一)は“華(か)華(か)夷(い)夷(い)思想(しそう)思想(しそう)”に 基づく「アイヌ」「和人」概念の成立時代。第二段階(二)“人種論”及び「アイヌ同化政策」アイヌ周辺化の時代。そして第三段階(三)“消えゆくアイヌ”から「アイヌ民族の世紀」の時代である。

そして第一の区分“華(か)華(か)夷(い)夷(い)思想”に基づく「アイヌ」「和人」概念の始まりは、陸奥(むつの)陸奥(むつの)国(くに)国(くに)俘囚(ふしゅう)俘囚(ふしゅう)長安部貞任の子孫と伝えられる中世の北奥羽豪族安東氏が北条氏の被官となり、陸奥国代官を務めるとともに「蝦夷管領」の代官として蝦夷を支配した鎌倉後期からの時代である。より厳密には1432年、南部氏に追われた安東氏が最初に蝦夷地に逃れた以降であり、「コシャマイン」、「シャクシャイン」、「国後・目梨(東の端)の戦」の1789年頃を頂点とする時代である。

そしてこの第一の段階の大区分(一)の時代を、更にアイヌモシリにシャモの進出に従って道南から道西・道柬、そして道北にと時系列的には傾斜を持ちつつ進む、次の三つの小区分とし、その(1)は収奪交易(不当価値交換)の時代から、(2)資源収奪(直接漁猟)、武装抵抗の時代、そして(3)労働力収奪(場所請負制度)なかば半奴隸化の時代と、以上の三区分である。

そして次の第二段階(二)は“人種論”及び「アイヌ同化政策」アイヌ周辺化であり、小区分として(1)前期 江戸幕府下における「風俗和人化強行期」と(2)後期 明治政府による「皇民化推進」の二区分である。この時代はロシア帝国の極東進出に危機を感じた幕府が、松前藩領を直轄地として維新に続く 「アイヌ同化政策」とされるものを打ち出さざるを得なかった1807年より以降であり、“ダービニズム”が拡がった時期と重なり、大日本帝国敗戦の1945年までを区切りとする時代である。ここで特記すべきは、サガレン(樺太)・千島の帰属を巡る国境確定の議論において、ロマノフ王朝ロシア帝国との交渉の中で、双方ともに先住民族アイヌについて何ら言及が全くなかった。

そして第三段階大区分(三)は、“滅びゆくアイヌ”から「アイヌ民族」の世紀として戦後から現代に続く時代である。
以上の様に「アイヌの歴史」を把握してゆくのが、「和人」(シサム•シャモ)と「アイヌ民族」の歴史的事実の共有とその共通の認識により、更に相互の共通理解に達する一つの方途であると確信し、ここにこの“試案”を一つの仮説として提案した。

解題-アイヌ問題の現代的課題
「アイヌ問題」の「現代的課題」とは如何なるものであろうか? 一つの考察を示せば“アイヌ民族復興”の阻害要因の排除であろうか?その具体的第一の事項とは、日本社会の“アイヌ差別の解消”である。そしてこの根底にある“アイヌ差別観”の克服である。これは目視出来ないし意識化すら出来ない個人も多い。具体的対策としては、アイヌ民族のおかれている社会的格差の解消である。より着目すべき具体例を示せば「平均寿命・幼児死亡率・平均所得・住宅状況・生活保護世帯比・大学等の進学比率」などであろう。しかしこれらは一般国民にも云えることであるが、“歴史的経過”からよりよい手厚い対策が必要である。以上はアイヌ民族の人々の人間として生きるための最低必要条件である。そして、今アイヌ民族復興のため如何なる“新立法”が必要なのかが問われている。

“旧土人保護法”に代わる“アイヌ文化振興法”が1997年発効した。それには『アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及、及び啓発に関するアイヌの民族としての誇りを尊重し、アイヌ語、その音楽・舞踊・文学・工芸などの振興を図り、かつそれらについての調査研究、知識の普及を目的とする法律』であるとされている。しかし、これではアイヌ民族の人類社会の多様性への貢献を増進するほんの一側面の対策を示しているに過ぎない。(そればかりか、1993年、国連総会により「世界先住民の国際年」決議以降の世界先住民運動の一環を担う「アイヌ民族独自の活動」を政府権力下におこうとすることを秘めているのが”“みえみえ”と語る人もいる。)
今課題とすべきは、アイヌ民族のためのめざすべき“新しい立法”であり、それは昭和59年 5月27日(1984年)、北海道ウタリ協会総会において可決した「アイヌ民族に関する法律(案)」を基礎とすべきである。
小久保和孝(札幌市)(2021年 5月記)

「夫婦別姓」と「子の姓」――韓国の「父姓優先主義」廃止論

(弁護士 後藤富士子)

 「選択的夫婦別姓」論者は、「アイデンティティー」に拘るが、私にはそういう気持が全く湧かない。なぜか?と自問してみると、私の旧姓「松浦」だって、私の「父の姓」であり、拘る理由がない、というに尽きる。もっといえば、「富士子」という名だって、親が適当につけたもので、「アイデンティティー」などと大袈裟な感覚はない。どんな氏名であれ「私は私」というところか。 続きを読む

仏「黄色いベスト」運動が証しする「人民主権」

(弁護士 後藤富士子)

1 昨年11月17日の土曜日に開始された「黄色いベスト」運動は、フランス全土で展開された。行動の直接的な契機は燃料税の引き上げだった。SNSで拡散された彼らの主張(2018年11月29日発表・12月5日訂正)は、次のようなものである。 続きを読む

オーストラリアでも日本会議特集のテレビ報道

オーストラリアのテレビ報道「日本会議特集」に登場した人物
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櫻井よし子日本会議のマドンナwww

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すかり洗脳されている愚かな人物と警鐘をな鳴らす最高権威の憲法が学者

日本のマスコミでは考えられないことですが、web上では
フランス「ロブス」、「ル・モンド」
イギリス「エコノミスト」、「タイムズ」
ドイツ「ARTE」
アメリカ「ニューヨークタイムス」「ワシントンポスト」
など、続々と日本会議の特集を報道していることが紹介されいます。
今回、オーストラリアのテレビ(ABC, Australia)で7分枠という異例の長さで報道されれいます。
日本会議は、極右のカルト団体であり、第二次大戦の敗戦を拒否し、戦前の日本に戻そうとしている。
中国を仮想敵国化し、南京大虐殺などなかったことにしようとしている、
完全な歴史修正主義のカルト団体として危険視している。
内閣構成員の8割が日本会議のメンバーであり、この異常事態は、驚きを持って受け止められている。
上記はface bookからの転載です。
詳しくはこちら Source のテレビ放映された動画をご覧ください。

国連での翁長沖縄県知事のスピーチ

沖縄はかつては独立した国。
鹿児島藩の侵略で日本に組み入れられたとき、琉球王朝の王様は琉球国民に
「抵抗はするな。これからは日本国民として生きろ。」
と言いおいて東京に連れて行かれたそうです。
以来、日本国民として忠実に生き、沖縄戦では島民上げて悲惨な戦争を戦ってきた沖縄の人たちを同胞と思うなら、戦後70年、沖縄県民にだけ不幸な状況を押し付け、更にこれからも続けろということが許される道理はない。

日本語字幕が入った動画がです。

 

沖縄タイムスです。

20150922

 

平和な江戸時代がもたらしたもの①

300年近く続いた江戸時代は、国(藩)同士の争い(戦争)は幕府により堅く禁止され、領地内を豊に治めることが求められ、平和な時代が続いた。

そして、領内に揉め事があったり、百姓が逃げ出したりすると、領地没収(お家断絶)や小さな所に領地替え(改易)させられた。

そのため、各大名(領主)は如何に領民を豊にするかに気を遣った。そして、領内から特産品を売り出したり、治水・開墾を進めたり、富山の売薬などもその好例だと思う。

また、中国から来た「本草書」(植物や薬草図鑑)は漢文で書かれており、大名お抱えの学者しか読めなかったものを、日本の草木を加え、日本語による「大和本草」を庶民も読めるように出版したりした。水戸光圀なども、藩の学者に薬草や食べられる身のまわりの草などを書いた本を作らせ、領内に無料で配ったりしたそうだ。

このように、日本語で書かれた書物が出てくると、庶民も文字を覚えるようになり、「読み・書き・そろばん」が広く普及するようになり、幕末の頃の成人男子の識字率は70%を超えていたという。これは先進国と言っていたヨーロッパにもあり得ない現象だった。

識字率が上がってくると、「解体新書」に代表される、外国の文献が日本語に翻訳され出版されるようになり、最新の技術書なども母国語で簡単に読めるようになった。この翻訳するという文化は、現在も続き、欧米を除いて、母国語で最新の論文を読める国は他にはない。

明治になって、急速に西洋文化を取り入れ、発展してきたのも、敗戦後の焼け跡から奇跡の復活を遂げたのも、平和な江戸に培われた勉学の習慣に因るところが大きいと思う。

大 西

平和な江戸時代がもたらしたもの②

平和な江戸時代には、和算など学問を競い合うこともあったそうで、初級から上級まで、いろんな問題を競い合い、微分、積分までこなしていた。円周率に至っては20数桁まで計算し、当時の世界1位だったそうだ。

伊能忠敬が、50歳を過ぎて本業から隠居し、全国を測量して日本地図を作り上げたことは有名だ。この頃の欧米では大きな測量機器を使って少人数のエキスパートが測量していたが、日本には大きな測量機器はなく、小さい測量機器をたくさんの人数で使って測量していた。少人数なら学者級エキスパートが集まり全行程を測量できるけど、多人数が全行程を歩くことは出来ない。それで行く先々で数十人の人を集めるのだけど、その全員が初めての測量に係わるというのはそれなりの能力・理解力をもった人が必要だが、全国どこへ行っても集めることが出来たそうで、その能力・理解力を持った人がどこにもいたと言うことで、これはやはりすごいことだ。

当時の日本はまた金、銀、銅の世界1の生産国で、それを支えるためには、鉱山学、土木・掘削技術、製錬技術、加工、流通、町づくりに至る総合力が必要な事業でもあり、その面でも世界屈指だったと言える。そして、後の足尾鉱山に見る鉱害も出さない優しい精錬法だった事も特筆される。

学問や研究の出版は多岐のわたり、「農業全書」が出版されたり、「養蚕秘録」に至ってはフランスやイタリアで翻訳され、ヨーロッパの蚕の危機を救ったようだ。

花岡清州の全身麻酔はヨーロッパより50年早かったとか。

鎖国だったとはいえ、長崎を窓口に、ヨーロッパの情報は入ってきており、新しい情報に出会うと翻訳したりしてすぐに広め切磋琢磨して高めあい磨いてきた。これが現代の技術立国日本のDNAになっているのではないか。

大 西

平和な江戸時代がもたらしたもの③

もともと、天皇や貴族の荘園などを守る武装集団として誕生した武士は、自分たちの領地を持つようになると、領地拡大のため隣国に攻め入ったり、自国を守ったりして戦に明け暮れていたが、徳川幕府により統一され、平和な江戸時代は武士を変え、行政官として領地の経営に当たるようになった。

外国の場合、王制の役人(官僚)は、任期をつとめれば転勤し、以後責任はないが、武士は世襲であり、一生そこで生活し、生きていかなければならないので責任がつきまわり、自立した高度な地方分権・自治政治を行っていた。

百姓出身もいる武士は目の前の百姓の苦労をよく理解しており、王侯貴族と違い、ただ搾り取るのではなく、治水工事や農地開墾にも先頭に立って取り組んだり、新しい産業の育成にも力を注いだ。また私塾を作り、読み書きそろばんなども積極的に教えてきた。

武士は格式に縛られ大変な面もあったようだが、庶民は結構自由で幸せだったようだ。

武士が戦闘集団でなくなると、刀鍛冶などは需要が無くなり、やむなく民需品=包丁や鋤・鍬などを製造するようになった。今でも残る「関の刃物」等はその名残である。また、鉄砲鍛冶は銃の点火装置で今で言うライターのようなものを作ったりしていたようだ。

このような例の通り、平和な時代は、民需品の工夫にエネルギーが集まり、たとえば西洋からもたらされた「機械時計」を、農業国の日本に合うように「和時計」を作った。

機械式の西洋からの時計は現在のように昼も夜も同じ定時式だが、明け六ツ・暮れ六ツで時間が切り替わる日本では使えない。そこで重りを変えたり、時計の目盛り板を変えたり、いろんな工夫を凝らした「和時計」が全国に登場した。同じころ時計が来たであろう中国では王様や貴族の子供のおもちゃにしかならず、搾取階級の王侯貴族とその番犬の騎士群という一人を頂点とする王政と、武士社会と異なる。

ここが江戸時代という平和な武士社会のすばらしいところで、日本だけに見られることなのだ。領主のそばにいる学者や技術者を抱え組むのでなく、積極的に庶民のために使ったこと。それを各大名が競い合っていたようだ。先の「大和本草」等にもそれを見ることが出来る。

(西洋の「機械時計」は大航海時代に、星や太陽と今の正確な時刻が判らないと現在地が判らないので、定時式の正確な時計が必要だった。この辺りは上野の「国立科学博物館」の展示が面白い)

大 西

平和な江戸時代がもたらしたもの④

逝きし世の面影1学生の頃、江戸時代は封建制で、百姓は搾り取られ、暗黒の大変な時代だったと教わってきた。

でも、どうやら違うようだ。幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人がいろんな見聞を書き残しており、そこには貧しいけど信じられないほど明るい日本人があふれている(渡辺京二著『逝きし世の面影』)。

共同風呂に行けば男女が一緒に入っており、道ばたの垣根の陰で女性が行水をしているし、胸を出しても平気でいることに驚いたという記述がある。「東南アジアの未開地なら驚きもしないが、自分たちと同じハイレベルの日本人がどうして」と理解できなかったそうだ。

全体的に、礼儀正しいこと、親和的であること、陽気なこと、簡素であるが豊かさにあふれていることなど、現在日本人が尊敬の念で見られているほとんどの好ましいことがこの頃の人々から普通に見られたようだ。

また、江戸では庶民が普通に鉢植えや草花を育てているのも驚いたようだ。というのも、その頃のヨーロッパでは園芸などというものは王侯貴族の贅沢な遊びで、庶民のものではなかったらしい。

幕末の頃、駕篭に乗ろうと駕篭かきの集まっている方に行くと籤引きをしていて、引き当てたものが乗せてくれたという。外れたものたちも笑顔で送ってくれたそうだ。ところが20年ほどすると人力車夫が客を取り合いするようになったそうだ。西洋化した20年くらいで、人の心も随分荒んで来たというのだろうか。このような例は少なくなかったようだ。

本当の「美しい日本」とは、誰かの言う明治時代でなく、実は江戸時代にあったのではないか。明治以降の西洋化と富国強兵に突き進む中で剥ぎ取られてきたように思う。

大西