「夫婦別姓」と「子の姓」――韓国の「父姓優先主義」廃止論

(弁護士 後藤富士子)

 「選択的夫婦別姓」論者は、「アイデンティティー」に拘るが、私にはそういう気持が全く湧かない。なぜか?と自問してみると、私の旧姓「松浦」だって、私の「父の姓」であり、拘る理由がない、というに尽きる。もっといえば、「富士子」という名だって、親が適当につけたもので、「アイデンティティー」などと大袈裟な感覚はない。どんな氏名であれ「私は私」というところか。
 ところで、5月14日赤旗の報道によれば、夫婦別姓の韓国で、子どもの姓をめぐる「父姓優先主義」の廃止が問題になっている。韓国法務省傘下の「包括的家族文化のための法制改善委員会」は、子どもが父親の姓を名乗る「父姓優先主義」を廃止するため、家族関係登録法などの関連法を迅速に改定するよう法務省に勧告したという。これに対し、法務省は「関連法制の改善案を用意し、女性や子どもの権利・利益の向上と、平等で包括的な家族文化の構築に向け努力する」と応じた。
 韓国では、2005年に男性が絶対的に優先されてきた戸主制が民法から削除された。その際、子どもの姓については父親の姓が優先されるのが原則で、例外として夫婦が結婚の際に合意すれば母の姓を名乗ることができるという但書が設けられた。今回の委員会勧告では、原則である「父姓優先主義」を廃止して、例外であった「夫婦の話合いで子どもの姓を決定する」ことを法定するものである。
 こうしてみると、法制度の改革というのは、「例外を認めさせる」というより、「原則を転換する」ことでしか実現しないことが理解できる。とはいえ日本の「夫婦同姓」制度をみればわかるように、父の姓か母の姓かという二者択一では、話合いで父母双方が真に納得する決定ができるか難しい。むしろ、父母両方の姓を複合する姓の選択肢を用意するのも一案ではなかろうか。いずれにせよ、「姓」を「家族文化」の問題として捉えるユニークさと、それがどのように推移していくのか、興味深く見守りたい。
 なお、夫婦別姓の韓国で2005年まで民法に「戸主制」があったことを思うと、日本国憲法24条に基づき「戸主制」が廃止された日本で未だに「夫婦別姓」が原則にならないのは、「棚ぼた憲法」の所以かもしれない。

〔2020・5・19〕