300年近く続いた江戸時代は、国(藩)同士の争い(戦争)は幕府により堅く禁止され、領地内を豊に治めることが求められ、平和な時代が続いた。
そして、領内に揉め事があったり、百姓が逃げ出したりすると、領地没収(お家断絶)や小さな所に領地替え(改易)させられた。
そのため、各大名(領主)は如何に領民を豊にするかに気を遣った。そして、領内から特産品を売り出したり、治水・開墾を進めたり、富山の売薬などもその好例だと思う。
また、中国から来た「本草書」(植物や薬草図鑑)は漢文で書かれており、大名お抱えの学者しか読めなかったものを、日本の草木を加え、日本語による「大和本草」を庶民も読めるように出版したりした。水戸光圀なども、藩の学者に薬草や食べられる身のまわりの草などを書いた本を作らせ、領内に無料で配ったりしたそうだ。
このように、日本語で書かれた書物が出てくると、庶民も文字を覚えるようになり、「読み・書き・そろばん」が広く普及するようになり、幕末の頃の成人男子の識字率は70%を超えていたという。これは先進国と言っていたヨーロッパにもあり得ない現象だった。
識字率が上がってくると、「解体新書」に代表される、外国の文献が日本語に翻訳され出版されるようになり、最新の技術書なども母国語で簡単に読めるようになった。この翻訳するという文化は、現在も続き、欧米を除いて、母国語で最新の論文を読める国は他にはない。
明治になって、急速に西洋文化を取り入れ、発展してきたのも、敗戦後の焼け跡から奇跡の復活を遂げたのも、平和な江戸に培われた勉学の習慣に因るところが大きいと思う。
大 西