親の自然権としての「子育て」

(弁護士 後藤富士子)

1 「ペアレンティング」という概念
 アメリカでは、そもそも日本の民法で定められている「親権」に相当する語はなく、いわば財産管理権を除く「監護権」=「custody」が法律用語となっている。したがって、日本で「共同親権」というのは、「joint-custody」と英訳されるのが一般的である。
 これに対し、社会学や教育学の文献あるいは大衆向けの書物では、「parentig」という語が使われている。この意味は、「子育て」「育児」「親業」である(ランダムハウス英和辞典参照)。
 ちなみに、『離婚後の共同子育て』(エリザベス・セイアー&ジェフリー・ツィンマーマン著・青木聡訳)の原題は「The Co-Parentig Survival Guide」である。また、『離婚と子ども』の著者である棚瀬一代教授(当時)も「ペアレンティング」という語を用いているし、離婚後の「共同子育て」に関し「パラレル・ペアレンティング」=「並行的親業」を提唱していた。
 ところで、「ペアレンティング」という概念は、専ら「親の作為」を意味しているところ、それは法律上の「権利」といえるのだろうか。日本の民法で定められている「親権」「監護権」が親の権利であることに鑑みれば、「ペアレンティング」が親の権利であることに疑いをはさむ余地はないと思われる。
 むしろ、「パラレル・ペアレンティング」が「共同子育て」の一形態とされることに照らせば、民法が定める「親権」「監護権」の内実が空洞化しているように思われてならない。その根本原因は、「子育て」という現実的・実際的な内実と乖離して、離婚により片親から親権を剥奪する単独親権制にある。さらに、それを埋め合わせるために、親権者とならなかった親が、「子育て」からは程遠い「面会交流」を家事事件手続により追求しても、結果は虚しい。

2 「親権」と「後見」の根本的差異
 近代法の親子関係の中核は、親が子を哺育・監護・教育する職分であり、民法はこれを「親権」として規定する。親と子は、血縁的関係者の中でも最も緊密なものであるから、両者の関係は親権に尽きない。習俗的・倫理的にそうであるだけでなく、法律の上にも現れる(例えば相続)。しかし、広い意味での親子の法律的関係のうちで、親権すなわち親の子を哺育・監護・教育する職分を中核として特別の取扱をすることが、近代法の特色である。
 ここで「職分」とされるのは、他人を排斥して子を哺育・監護・教育する任に当たりうる意味では権利であるにしても、その内容は、子の福祉をはかることであって、親の利益をはかることではなく、またその適当な行使は子および社会に対する義務だとされることである。この点で国家の監督が問題になるし、その意味では「親権」と呼ぶことがすでに不適当と考えられている。
 また、その「職分」の内容を包括的なものとせず、場合によっては分離しうるものとすることも考えられている。それは、親権の内容を包括的な単一のものとするときは、おのずから親権者の支配的色彩が強くなることを恐れ、内容を具体的な権利の集合とみようとするのである。しかし、子の健全な育成をはかるという職分の内容を具体的に列挙することは不可能である。
 そして、このような近代法の特色を前提とし、「親権」と「後見」の区別を認めず、すべて後見として、父母があるときは父母が後見人となるイギリスの制度が検討される。実際、日本でもこのような制度を採用すべしという主張があった(中川善之助)。これに対し、我妻栄は、「自然の愛情を基礎とし、それによってある程度の保障のある親権と、そうしたもののない後見とにおいて、その内容の区別(国家の監督の強弱)を認める必要がないかどうかが検討されなければならない。」としたうえで、「私はまだ差別の抹消に踏み切る確信をもてない。」と吐露している(有斐閣:法律学全集23『親族法』:平成6年8月30日初版第42刷発行/317頁)。
 このように、「親権」と「後見」の根本的差異は、親子であることによって生まれる「自然の愛情」を基礎とできるか否かにかかっている。このことは、親の「子育て」が、人為的な法制度よりも前に、原初的に形成されるものであることを認めている点で、「自然権」と呼ぶのに相応しいと思われる。

3 親の「子育て」と憲法
 ドイツ基本法6条2項は、「子の養育および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行に対しては、国家共同社会がこれを監視する。」と定めている。そして、1982年11月3日、連邦憲法裁判所は、離婚後の親の単独配慮(1979年、「親権」は「親の配慮」に改正)を定めたドイツ民法(BGB)1671条4項1文は、前記基本法に抵触するゆえ無効であるとする違憲判決を下している(日弁連法務研究財団『子どもの福祉と共同親権』所収/鈴木博人「ドイツⅠ」143頁参照)。このように、ドイツでは、子の養育および教育が「両親の自然の権利」と憲法で明記されている。
 一方、前項で検討したように、日本においても、親の「子育て」は「自然権」と考えられる。そして、「自然権」は基本的人権であるから、憲法に根拠があるはずである。
 まず、婚姻中の父母の共同親権を定めた民法818条3項は、日本国憲法24条に基づくものである。同条2項は、婚姻や離婚等家族に関する事項について、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」としている。そして、1項では、特に婚姻に限って「夫婦が同等の権利を有することを基本」とする旨を定めている。そうすると、婚姻中は父母の共同親権であることは、同条1項2項で重複して保障しているにすぎず、離婚後は単独親権を絶対的に強制する法律は、同条2項に抵触すると言わなければならない。
 しかるに、そのような議論-絶対的単独親権制違憲論-が日本の司法界で低調なのは、親の「子育て」についての権利性が理解・認識されていないからである。結局、戦後の民法改正レベルでは、「男女平等」という点で「家父長」制が否定されただけで、「個人の尊厳」という理念が顧みられず、「家」制度の廃止は不発に終わったのであろう。だから、民法の家族法全面改正から77年経過しようとも、「法律婚優遇」という国家権力による権威主義的政策によって「家」制度は生き延びている。

(2024年9月25日)

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