「死ぬ、死ね、死んだ」
「死の五段活用」とはすごい指摘だ。
これは9/7の東京新聞で見つけた記事によるもので、河北新報「声の交差点」から、仙台の83才の方の投稿。
戦争中にヒットした軍歌「露営の歌」は1番から5番まで「死ぬ、死ね、死んだ」とまるで「死の五段活用」だと述べられ、こうしてまで死を当然視させたものは何だったのだろうと疑問を呈している。
非常に興味深いお話。至る所に死が蔓延している。生を軽んじ、後ろめたいものとしている。こんな社会は異常、というより、もはや社会ではあり得ない、と思う。でもあり得たんだから恐ろしい。
少し前のこちらのブログ (「米食い虫」的差別は違憲 )に言及された、麻生氏の発言(「90才になって老後が心配とか、わけのわかんないこと言っている人がこないだテレビに出ていた。『オイ、いつまで生きているつもりだよ』と思いながら見ていました」)も、同根の発想か。
これとは対照的な、むのたけじ、101才の力強い演説(戦争をなくさなければ現代の人類は死ぬ資格がない)には感動した。
まだまだ私たちは、こうした方々の言動に導かれている。まさに生き字引。沢山の話が聞きたい。想像し、思考し、心して生きたい。
死ではなく、生きること。
破壊ではなく、作り出し大切にすること。
それを実現しようとするのが、社会とか国とかの役割なのではないか。
国が、社会が、人々に死を奨励し、人々もそれを当然と思うなんて正気の沙汰ではない。
でももし、生きるのが辛く、死に対する抵抗感が薄らぐような人の増加を許容するような社会が存在するならどうなるか。そのような人々にとっては平和などという言葉にはどれほどの意味があるのだろうか。
平和があるからこそ生きていられる、これは残虐な体験に基づけば絶対的な真実。けれども逆に、生きられないのならば平和なんて意味がない、というのも無視できない主張ではないか。
生を粗末にする社会は戦争に都合が良い。
河北新報への投稿者83才は「残る人生において、かけがえのない人命や戦後に獲得した基本的人権、戦争放棄の宣言を絶対に守り続けるよう努めたい。」と結ぶ。
社会の色んなところに目を向けていかなくては、と改めて思った。
この投稿には私も心を揺さぶられました。戦前みんなが愛唱していたのです、このたびは特に第5番、「東洋平和のためならば なんの命が惜しかろう」にです。この1行にどれだけの若者が苦しみ抜いたでしょう。わけても特攻隊員です。私が今見ている海上特攻にされた戦艦大和の死地に赴く乗組員です。
「東洋平和」それが実質だったらまだ数われたでしょう。それは侵略を隠す美辞だったのです。
いま安倍首相の言う平和のための安保法制と同じです。