憲法13条~~憲法基礎講座②~~

103条から成る憲法の条文の中で、あなたが最も重要だと考える条文は第何条でしょうか。もちろんこれに対する答えは人それぞれだろうし、憲法学者でも人によって答えは違うだろう。例えば、愛敬浩二氏は、公務員の憲法尊重擁護義務を定めた第99条を最も好きな条文として挙げている(『改憲問題』ちくま新書)。しかし、おそらく第13条を挙げる憲法学者が最も多いのではないだろうか。私の敬愛する憲法学者・樋口陽一氏はその代表と言っていいだろう。

第13条とは次のような条文である。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

樋口氏は次のように述べている。

<戦後、日本国憲法を手にした日本社会にとって、日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと、憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という、この短い一句に尽きています(『個人と国家――今なぜ立憲主義か』集英社新書)。>

しかし、なぜこの短い一文がそれほど重要な意味を持っているのかを理解するためには、最低限の憲法史・政治思想史の知識が必要であろう。近代国民国家を生み出した市民革命は、それ以前の身分制秩序を打ち壊すことで「個人」を析出し、この解放された自由かつ平等な個人が、一方では人権の享有主体になるとともに、他方では、その人権を保障するため、憲法を制定して国家を樹立し、その憲法によって国家権力を縛ることにしたのである。したがって、個人の権利=人権と国民国家と(憲法によって国家権力を縛るという)近代立憲主義は同時に成立した三位一体なのである(ただし、権力を制約するというより広い意味の立憲主義は中世以前にも存在した)。そのことを、樋口氏は次のように述べている。

<これは権力が勝手なことをしてはいけないという、中世以来の広い意味での立憲主義が、近代になって凝縮した到達点です。個人の生き方、可能性を自由に発揮できるような社会の基本構造、これを土台としてつくってくれるはずのものが、憲法の持つべき意味だということです(前掲書)。>

そして、このような「個人の尊重」、すなわち個人主義に立脚する第13条の意味について、憲法学者の佐藤幸治氏は次のように論じている。

<本条前段の「すべて国民は、個人として尊重される」とは、通常、「いわゆる個人主義原理・個人主義的国家原理の宣言である」(佐藤・註釈101頁)とか、「個人主義の原理を表明したもの」で、憲法24条2項の「個人の尊厳」と同じ意味に解していい(宮沢・コメ197頁)とか、「個人人格の尊厳を法価値の中心に据えている」もので、「個人主義の哲学」に立脚するものである(小林・(上)312頁)とか、いわれる。

それでは、そこにいう「個人主義」とは、いかなる意味のものとして捉えられているのか。代表的理解によれば、それは、「人間社会における価値の根元が個人にあるとし、なににもまさって個人を尊重しようとする原理」であり、「一方において、他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義に反対し、他方において、『全体』のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義を否定し、すべての人間を自主的な人格として平等に尊重しようとする」(宮沢・コメ197頁)ものであるとされる(樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注釈 日本国憲法 上巻』青林書院新社)。>

さて、このような憲法の核心的重要性を持つ第13条の持つ意義について、安倍首相は例によって、何もご存じないらしい。3月2日の参院予算委で、民主党の大塚耕平氏が自民党の改憲草案を取り上げ、現行憲法が「すべて国民は、個人として尊重される」としている第13条を、自民党改憲草案では「全て国民は、人として尊重される」と、「個人」を「人」に書き換えているのはどういう意味かと質問したのに対し、首相は、「さしたる意味はないという風に承知している」と答えたのである。

とんでもない発言である。個人を究極の価値の担い手とすることは、上で述べたように、立憲主義の核心的原理である。その立憲主義の核心を放棄しようとするのが自民党の改憲草案なのである。しかも自民党改憲草案は24条に、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という全く新たな条文を挿入しており、あたかも「家族」が「個人」以上に尊重されるべきであり、国家による社会保障の責務よりも家族による相互扶助義務が優先されるかのような規定になっている。これは戦前の家父長制度復活への布石と見なせよう。

私はこのニュースを4日付の朝日新聞の「天声人語」で知ったのだが、東京新聞の国会論戦抄録にはこの発言は掲載されていない。ネットで検索しても、この天声人語かそれを引用した記事くらいしか見当たらないので、マスコミ各社の政治部記者たちは、このニュースの重大性に気付かなかったのかもしれないが、そうだとすると、実に嘆かわしいことである。

しかし、人権を保障する現憲法を守り抜くためには、こうした改憲策動の狙いと本質を見極め、戦前社会の復活を企てる政府・自民党の企みを決して許してはならない。

 

憲法13条~~憲法基礎講座②~~」への2件のフィードバック

  1. 現憲法を尊重し擁護したい気持ちを刺激し、高揚させる核心の解説をしていただき、時宜に適した基礎講座と感謝しています。
    たまたま水野スウ著「わたしとあなたの・けんぽうBOOK」(「紅茶の時間」刊)の第2章「憲法第13条ーーあなたはほかの誰ともとりかえがきかない」を読んで感銘を受けていたところなので、ますます喜ばしく思われます。
    思い起こせばスマトラ島で敗戦の報を受け、横暴な軍人のいない新しい世がくると喜びに包まれたのも、幸福を追求する個人の権利を肯定したこの条文を予感していたのかもしれません。
    第13条がいよいよ磨かれ光かがやくことを願っています。

  2. 福田様

    いつもコメント、ありがとうございます。
    このところ多忙のため、返信が大変遅くなりました。

    最近、たまたま『制定の立場で省みる日本国憲法入門 第一集』という本を読んだのですが、その中に、憲法制定議会(第90回帝国議会)衆議院憲法改正特別委員会委員長を務めた芦田均が憲法公布に合わせて1946年11月3日刊行した『新憲法解釈』が収録されています。その中で、芦田は次のように述べています。

     (同年3月6日の帝国憲法改正草案発表に至った機縁が)「史上未曽有の大戦禍に源を発することもまた明白である。/新憲法の草案が論議せられた白亜の殿堂から、一たび眼を窓外に転ずれば、眼に映る光景は何であったか。それは今なお満目蕭条の焼け野原である。そこに横たわった数十万の屍体、灰燼の裡のバラックに朝夕乾く暇なき寡婦と孤児の涙、見る影もなく、焼け落ちた皇居と官庁の廃墟、その裡から新しき日本の憲章は産れ出ずべき必然の運命にあったのである。/……この人類の悲嘆と、社会の荒廃とをじっと見つめて、そこに人類共通の根本問題が横たわることは何人の眼にも明らかである。そしてかかる共通の熱望を煎じつめたものは、戦争の放棄と、より高き文化への欲求と、より良き生活への願望とである。それが期せずして憲法改正の衝動となったことは疑うべくもない。」
     「古来わが社会生活は、個人が集団の内に埋没して、人格の自主自由に基づく個性の独立という現象は極めて希薄であった。即ち主人に対する従者の没我的奉仕という点に特色をもつ社会制度が、明治開国以後にも国民性の内に喰い入って民主主義の発達を阻害したものである。」

    芦田均という人物は、ご承知のように、後年、憲法改正特別委員会小委員会において9条2項の冒頭に挿入された「前項の目的を達するため」という一句は、「侵略戦争を放棄するという目的のため」であり、したがって自衛戦争のための戦力保持や交戦権は否定されていないという解釈を可能にするためであったという説(いわゆる「芦田修正」。今日では古関彰一氏の詳細な研究により、これが虚偽であることはほぼ証明されている)を主張して物議を醸した人物ですが、このことは、芦田均の人格を疑わしめる根拠にはなりえても、『新憲法解釈』の中で述べて上記引用文の妥当性を掘り崩すものではないでしょう。むしろ、そのような時代迎合的な人物であったからこそ、上記引用文は、憲法制定当時の国民の気分を的確に表現しえたともいえるのではないかと思います。

    また、憲法学者の樋口陽一氏は、ナチズムの本質を「反個人主義」と述べていますが(『権力・個人・憲法学』)、自民党の改憲草案や安倍政権などファシスト的体質をもつ政治家たちが、「個人の尊厳」原理=個人主義を目の敵にしていることも、この条文の重要性を逆照射していると言えるでしょう。

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