(まえがき)
改憲論者の主張する「押しつけ憲法論」の真相と深層を解明するため、これから「「押しつけ憲法論」の深層」と題する記事を3回に分けて掲載する。第1回目は「日本国憲法の成立過程」、第2回は「マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか」、第3回は「憲法改正機会を握りつぶした日本政府」がテーマとなる。
(本論)
改憲論者の最大の根拠が「日本国憲法は占領下でGHQによって押しつけられたものだから」という「押しつけ憲法」論であることはよく知られている。日本国憲法の草案が1946年当時の日本政府に対して押しつけられたことは事実である。では、それはなぜ、どのようにして押しつけられたのか、日本国憲法の成立過程を改めて検証してみよう。
1.日本国憲法の成立過程
(1)ポツダム宣言受諾
日本政府は1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。米英中3国が7月26日に発表した同宣言は、「日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去」し、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」が確立されるべきこと(10項)を要求し、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立」されることを(12項)を求めていた。日本の敗戦が避けられない状況の中でなお、同宣言の公表から19日間もの間、日本の戦争指導者たちが同宣言の受諾を巡って逡巡し続けたのは、彼らにとっては「国体の護持」が可能かどうかだけが最大の争点だったからであるが、この間、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦、大阪大空襲などで、国民はさらなる惨禍を味わうことになる。政府は8月10日、「宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す」という申し入れをしたのに対し、連合国側の回答は、①「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国司令官の制限の下に置かるるものとす」、②「日本国の最終的政治形態は『ポツダム宣言』に遵い日本国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」(引用文は現代仮名遣いに改めた。以下同様)というものだった。
(2)憲法改正への序幕
ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本であったが、政府関係者の間では、それによって明治憲法の全面的改正、もしくは新憲法の制定が必要になるとの認識は希薄であった。むしろ終戦の詔書(8月15日)に「茲に国体を護持し得て」とあるところからも窺われるように、日本政府は敗戦という現実に直面してもなお明治憲法下の「国体」を維持できると楽観視していた。こうした認識は政府関係者ばかりではなかった。驚くべきことに、明治憲法下の代表的な立憲主義的憲法学者であった美濃部達吉や佐々木惣一、さらには美濃部門下の宮沢俊義がいずれも、明治憲法改正の必要性を認めていなかった(美濃部は10月20日―22日の朝日新聞で憲法改正不要論を唱えている)。
こうした状況を変えたのは、日本の占領統治に当たった連合国最高司令官マッカーサーである。マッカーサーは10月4日、東久邇内閣の近衛文麿国務相に対して憲法改正を示唆する。同日、GHQが発令した自由の指令によって、翌5日には東久邇内閣が総辞職するが、後を受けた幣原喜重郎内閣の下、近衛は佐々木惣一とともに内大臣府御用掛に任命され、佐々木とともに憲法改正作業に着手する。一方、マッカーサーは10月11日、幣原に対しても憲法の自由主義化を指示し、これを受けて幣原は松本烝治国務相を主任とする憲法問題調査委員会を同月25日に設置する。この委員会には顧問として美濃部達吉ら、委員には美濃部門下の宮沢俊義・清宮四郎らが含まれていた。つまりこの時点では、近衛ラインと幣原ラインという全く異なる2系統で、憲法改正作業が進行し始めていたことになる。ところがこの直後、米国の内外で近衛の戦争責任を問う声が高まったことを受けて、GHQは11月1日、突然、近衛との関係を否認するに至る。それでもなお、近衛と佐々木は同月22日と24日、それぞれ憲法改正要綱を天皇に奉答するが、GHQが12月6日、近衛らに戦犯容疑の逮捕指令を出すと、近衛は巣鴨刑務所に出頭予定の16日、服毒自殺を遂げ、彼らの憲法改正作業は何の意義も発揮せずに終了した。
憲法問題調査委員会(通称、松本委員会)は12月8日、①天皇が統治権を総攬するとの原則の維持、②議会の権限拡大、③大臣の対議会責任、④権利自由の拡大と救済手段の完備、という「憲法改正4原則」を衆議院で表明した。以後、松本委員会はこの方針に沿って検討を進め、1946年1月末までに、いわゆる松本私案、それを(主に宮沢が)要綱化した甲案、委員の意見をとりまとめた乙案の3案の成立を見た。しかし、これらの改正案が公表される前の2月1日、毎日新聞が松本委員会試案をスクープするに及び、その内容があまりにも守旧的・保守的であることを知ったマッカーサーは、GHQ自ら改正案を作成し、日本政府に「押し付ける」ことを決意した。その背景には、前年(1945年)12月27日に行われたモスクワ外相会議で、対日占領政策の最高意思決定機関として同年(1946年)2月26日に極東委員会が設置されることが決定しており、マッカーサーとしては、同委員会が活動を開始する前に憲法改正問題を決着させておく必要があったからである。すでに、日本における共産主義勢力の伸長を防ぐために天皇制の温存と天皇の戦争責任からの免責を決意していたマッカーサーにとって、極東委員会による天皇および天皇制への批判を回避するための重要な手段として、民主的な憲法を制定しておくことがどうしても不可欠だと感じられたのである。
(3)GHQ草案
マッカーサーは2月3日、GHQ民政局で憲法草案を作成するに当たり、①天皇は最高位にあるが、その職務と権能は人民の基本的意思に従う、②戦争の放棄、軍隊と交戦権の否認、③封建制の撤廃、貴族の特権の廃止――という3原則(マッカーサー3原則)を示した。民政局は翌4日から憲法草案起草作業に入り、10日に草案を脱稿、マッカーサーに提出後、微調整を続け、12日にGHQ草案が完成した。その間、日本政府は8日に憲法改正要綱をGHQに提出し、13日にGHQ側と協議を持つことを約した。そこで、日本政府代表(吉田茂外相、松本烝治国務相ら)は13日、憲法改正要綱(松本案)への回答を聞くつもりでGHQとの会談に臨んだところ、GHQ側から松本案の受け取りを拒否されたうえ、逆にGHQ草案を手交されたのである。日本政府にとってはまさに「青天の霹靂」であり、日本国憲法の「受胎告知」の瞬間でもあった(古関2009)。日本政府はその後もGHQ草案への抵抗を続けるが、GHQ側から、この草案に基づく憲法改正こそが天皇の安泰を保障するものであること、これに基づく憲法改正作業を始めないなら、GHQが自ら国民にこの草案を提示すると示唆されたことなどから、2月26日になってようやく、GHQ草案に基づく日本案の起草を決定した。まさに極東委員会がワシントンで第1回会議を始めた日であった。
(4)政府の改正案公表と帝国議会での審議
日本政府は3月2日にGHQ草案に基づく改正案をまとめ(3月2日案)、4日にGHQに提出した。そこで、佐藤達夫法制局部長はケーディス民政局行政課長らGHQ側と5日午後までかけて修正作業を行い、日本政府は閣議でこの修正案(3月5日案)の採択を決定した。翌6日、政府は「憲法改正草案要綱」発表し、マッカーサーはこれを承認する旨の声明を出した。その後、政府は同草案要綱を口語化したうえ条文の形式に整備し、4月17日、内閣憲法改正草案を発表した。同草案は枢密院の諮詢を経たのち、明治憲法73条所定の改正手続に則り、6月20日、勅書をもって帝国議会に付議された。帝国議会ではまず衆議院での審議でいくつかの修正(「至高」から「主権」への変更、第9条のいわゆる「芦田修正」など)ののち8月24日に可決され、その後貴族院でさらにいくつかの修正(普通選挙制、両院協議会、文民条項追加)を経て、10月6日可決され、10月7日、衆議院は貴族院からの回付案を可決し、憲法改正案が成立し、11月3日、新しい日本国憲法が公布され、半年後の1947年5月3日、新憲法は施行された。
(5)「押し付け憲法」論をどうみるか
では、以上のような、日本国憲法の制定過程において、GHQが主導的かつ決定的な役割を果たした事実をどう考えればよいだろうか。占領終了以後今日まで、9条「改正」を眼目とする憲法改正論者たちは、現憲法がGHQによる「押し付け憲法」であると繰り返し主張してきた。制定過程を見れば、GHQ草案がGHQによって日本政府に押し付けられたことは疑問の余地がない。しかし、世論調査等から判断すれば、国民の多数は毎日新聞のスクープした松本草案には批判的で、GHQ草案に基づいて(当時日本国民はその事実を知らされていなかったが)日本政府が起草した政府案要綱を圧倒的に支持していた。したがって、国民がGHQ草案を押し付けられたとは言えないだろう。しかし、本来、国民主権の憲法であれば当然そうあるべきであるように、国民自身が政府に押し付けた憲法でもなかった。もちろん、当時、国民主権の立場に立った民間の憲法草案もいくつか発表されてはいたが、連合国総司令部とその背景にあった国際世論の力がなければ、1946年という時点において、国民主権を明記した憲法が採択されることはなかっただろう(樋口1992:64)。その意味で、日本国憲法は国民主権の理念を高々と謳いながらも、その実際の成立過程はそれにふさわしいものではなかったという弱点を持っていたことは否定できないだろう。
押しつけ憲法論の真相(1,2,3)を拝読、その全経緯のご説明に感謝し、感嘆しています。
福田様
いつもご丁寧なコメント、ありがとうございます。