2.マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか
それではなぜ、マッカーサーはこれほど憲法の制定を急いだのか。それは、1945年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東諮問委員会(FEAC)に代えて極東委員会(FEC)を設置することが決まり、FECが対日占領政策の最終決定権を持つことが決まり、マッカーサーはFECの下に置かれ、その決定に従うこととなり、そのFECが46年2月26日から活動を開始することになったことが最大の要因である。FECには天皇の戦争責任や天皇制の存続に対して極めて厳しい態度を示しているソ連やオーストラリア、ニュージーランド、フィリピンのような委員もいたが、マッカーサーは天皇制を存置することが占領政策を円滑に進める上で必須の要素と見なしていたため、FECが活動を開始する前に、憲法改正の大綱を定め、既成事実を作ってしまうことが得策だと考えたのである。
そして、2月13日、日本政府側(吉田外務大臣、松本国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与、長谷川元吉外務省通訳官)と会談したGHQのホイットニー民政局長は、GHQ草案を手交した際、次のように語っている。
「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。(……)しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。」
さらにホイットニーは、「最高司令官は、この案に示された諸原則を国民に示すべきであると確信しており」、「あなた方がそうすることを望んでい」るが、「もしあなた方がそうされなければ、自分でそれを行うつもりでおります」と述べ、それが日本側にショックを与えたことが知られている。
日本政府はこの後、若干の抵抗を試みるが奏功せず、結局、2月22日、GHQ案を基に政府案をつくることを決定する。当時の日本政府の立場については、幣原首相が3月20日、枢密院において行った次の発言が参考になる。
「(現在の国際情勢を)考えると、今日このような草案が成立を見たことは、日本のためにまことに喜ぶべきことで、もし時期を失した場合にはわが皇室のご安泰のうえからもきわめて恐るべきものがあったように思われ、危機一発(ママ)ともいうべきものであったと思うのである。」
つまり、マッカーサーと日本政府とは天皇の安泰と天皇制の存続という点で利害が一致しており、それがマッカーサーがGHQ草案を作り、日本政府が受け入れた一番の理由であった。しかし、GHQ草案の受け入れにはもうひとつの隠れた目的があった。それは、保守派政治家の生き残りの手段であった。実際、ホイットニーは2月13日の会談において、「マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の手段であると考えています」と述べているが、この頃、進歩党は前代議士274名中260名、自由党は45名中30名が第一公職追放令(46年1月4日)により追放されていた一方で、急速に勢力を伸ばした共産党は、社会党との人民戦線結成を模索していた。危機に陥った保守派政治家にとっては、思いきった改革案を提示する以外に、選択肢はなくなっていたのである。そして実際、GHQ草案を基にした政府の憲法改正草案が3月6日に発表されると、「改革の機運を先取した」保守政党は支持を集め、4月10日に行われた総選挙では、自由党が躍進し、政権を獲得した。したがって、GHQ草案は単に占領軍の圧力によって押し付けられたというよりも、保守派政治家の生き残り策として受容されたのである。さらに経済界も、政府の憲法草案について、日本社会の社会主義化を防ぎ、天皇制護持と資本主義存続という点で「大きな枠がはめられ、将来に対する一応の見透しがついた」として歓迎した(小熊英二『民主と愛国』160-161頁)。
日本政府は憲法改正草案を発表した4日後の3月10日には4月10日に新選挙法による衆議院議員総選挙を行うことを決定し、その選挙で選ばれた議会を事実上の憲法制定議会にすることを決定した。
このようなGHQと日本政府の合作による「上からの」性急な憲法制定の動きに対して、日本の人民からも、極東委員会(FEC)からも懸念と批判の声が上げられた。憲法研究会の主要メンバーであった高野岩三郎、鈴木安蔵は、社会党、共産党を中心に結成準備が進められていた統一戦線組織に対し、憲法制定議会をつくり、そこでじっくり憲法の審議をするよう申し入れた。3月10日には、山川均が呼びかけ人となって、社会党と共産党を連合させる民主人民戦線世話人会が発足し、3月15日には、憲法制定方法について、政府案のみを唯一の草案とせず、特別の憲法制定議会で草案を作成し、その後に国民投票にかけることを要求する国民運動を起こすことを提唱。4月3日の民主人民連盟結成準備大会でも「新憲法は人民自身の手で制定すべきこと」が確認された。4月7日には幣原内閣打倒人民大会が開催され、「民主憲法は人民の手で」をスローガンに掲げた。
こうした考え方は、当時の世論においてもかなり有力であった。例えば、2月3日に公表された輿論調査研究所の調査結果によると、明治憲法73条により改正案を天皇が提出する方式を支持する者はわずか20%だったのに対して、憲法改正委員を公選して国民直接の代表者に改正案を公議する方式を支持する者は53%に上った。
一方、FECは3月20日、4月10日という早い時期の総選挙が「反動的諸政党に決定的に有利」になること、憲法草案について「日本国民が十分に考える時間がほとんどない」ことなどを挙げ、マッカーサーに対して、総選挙の延期を要請する書簡を発した。FECは総選挙の実施された4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためにGHQの係官を派遣するようマッカーサーに要求するが、マッカーサーはこれを拒否している。FECはさらに5月13日、新憲法採択の3原則として、「審議のための十分な時間と機会の確保」、「明治憲法との法的連続性」、「国民の自由意思を明確に表す方法による新憲法採択」を決定し、GHQに伝達した。ここでFECが「明治憲法との法的連続性」を挙げているのは、後になって日本国民の間から、新憲法が連合国の押し付けであるという意見が出るのを防ぐためであったと考えられている。
しかしマッカーサーと日本政府は、このような「審議のための十分な時間と機会を確保」し、「国民の自由意思を明確に表す方法」により「人民自身の手で」憲法を制定すべしという国内外の要求を無視し、帝国議会でできるだけはやく憲法を成立させるという点で利害を一致していたのであった。そして、衆議院で65日、貴族院で42日の審議を経て政府草案を修正のうえ、日本国憲法を可決成立させ、11月3日の公布に至るのである。