※2019年5月に掲載したブログを再録します。
(弁護士 後藤富士子)
1 現在焦眉の急となっている「安倍9条改憲」案は、憲法9条1項2項には手を触れず、「9条の2」として次のような条文を加えるという。その1項は「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置を執ることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。」とし、第2項は「自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」である。すなわち、自衛隊は「自衛の措置をとるための実力組織」であって、9条2項が保持しないとしている「戦力」ではないから、「自衛隊を憲法に明記するだけで何も変わらない」と説明される。
これに対して、9条、とくに2項の制約が自衛隊に及ばなくなり、9条2項が死文化する、という批判がされる。法律論としては、そのとおりであるが、もっと重大な問題がある。9条は、日本国憲法第2章「戦争の放棄」に定められているのに対し、「安倍9条改憲」案は、第2章のタイトルを「安全保障」と書き換える。「戦争の永久放棄」から「安全保障」へタイトルが変わることは、「何も変わらない」どころではなく、「重大な変質」を思わざるを得ない。
2 ドイツの神学者であるディートリヒ・ボンヘッファー牧師は、1934年にデンマークのファーネで行った「教会と世界の諸民族」という講演の中で、「平和」と「安全」は違う、「安全」の道を通って「平和」に至る道は存在しない、と述べている。その1節を引用すると、
「いかにして平和は成るのか。政治的な条約の体系によってか。いろいろな国に国際資本を投資することによってか。すなわち、大銀行や金の力によってか。あるいは、平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってであるか。違う。これらすべてのことによっては平和は来ない。その理由の一つは、これらすべてを通して、平和と安全とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って〈平和〉に至る道は存在しない。なぜなら、平和は敢えてなされねばならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、〔相手に対する〕不信感を持っているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争をひきおこすのである。 続きを読む