違憲の今市事件判決

違憲の今市事件判決

2005年の栃木県今市市(現日光市)小1女児殺人罪に問われた無職勝又拓哉被告(33歳)の裁判で、4月8日、宇都宮地裁は、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。

この裁判では、直接証拠はなく、取り調べの録音・録画が7時間以上にわたって法廷で再生された。松原里美裁判長の認定のほとんどは、別件の商標法違反での逮捕から約5カ月間拘束し、その「代用監獄」でとった自白調書を前提にしている。有罪にした根拠は、法廷で再生した録音・録画での心証だ。裁判官と裁判員が物証がないことを認めた上で、想像、推測で判示したのは憲法38条に違反している。

第38条①何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

②強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。

③何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

弁護人の一木明弁護士らは閉廷後、記者団に対し「自白で判決を書くのは危険だと言われているのに、自白を重視した判決を書かれたことが一番納得できない」と批判した。また、「「録画のないところで圧倒的な権力関係を利用して被告人を自白に追い込んだ。取り調べが全面的に録画されていればこのような判決にはならなかった」と語った。

弁護団(国選)によると、被告は控訴する意向を示している。

この3項目すべてに、この無期懲役判決は驚くほど違反している。

 

2016年5月16日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 福田 玲三

菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書、2016)

安倍政権は、単にイデオロギー的に右であるとか、強権的であるとかいうだけではなく、戦後史において極めて特異な、異形の政権である、ということは、すでに多くの人が気づいているだろう。憲法解釈も衆院解散(選挙)も税金も年金も内閣法制局や日銀やNHK経営委員の人事も、すべて自分の私利私欲のために私物化し、他人の批判には絶対に耳を貸さず、気に食わない意見は封殺し、自分の言いたいことだけを言い、平気でうそをつく。ここまで幼稚で横暴な首相は日本の歴史上前代未聞であろう。

しかし、なぜ、これほど異常な政権が誕生したのか、しかも第1次政権も含めると4年半も続いているのか。これは私にも長い間謎であった。日本社会全体が右傾化したからだ、という人もいるが、本書の著者、菅野完はそれを否定する。そうではなく、一部の人々の長期にわたる粘り強い努力の“成果”なのだ、というのである。「一部の人々」とは誰か? それを多くの人々に対するインタビューと膨大な文献の読み込みによって解き明かしたのが本書である。

本書の元になったのは、扶桑社の「ハーバー・ビジネス・オンライン」で2015年2月から1年にわたって連載された「シリーズ『草の根保守の蠢動』」である。私がこのシリーズに気が付いたのは今年の2月頃だから、連載も最終盤にさしかかる頃であったが、過去記事をすべて読み返し、その取材力・分析力に感嘆した。本書も発売前からアマゾンで予約注文し、発売(5月1日)と同時に入手してすぐに読んだのだが、この間仕事等で忙しく、感想を書くのが遅くなった。

安倍政権の閣僚の多くが日本会議国会議員懇談会のメンバーである、といったニュースは、東京新聞や朝日新聞なども時折取り上げてはいたが、その実態に関する報道は極めて表層的なものにとどまっていた。ところが、日本会議の関連団体ばかりでなく、その源流にまでさかのぼって検証したのが本書の画期的なところである。

日本会議そのものは、日本最大の右翼団体とはいっても、神道系、仏教系、キリスト教系、新派神道系など種々雑多な宗教団体の寄り合い所帯であるが、事務局を取り仕切っているのが日本青年協議会/日本協議会であり、その会長である椛島有三が同時に日本会議の事務総長なのである。

この椛島有三は今から半世紀前の1966年、長崎大学で起こった「学園正常化」運動で、「長崎大学学生協議会」を結成し、左翼学生から自治会を奪い返すことに成功し、一躍、民族派学生のヒーローとなり、この経験を全国の大学に広げるため、1969年、「全国学生自治連絡協議会(全国学協)」を結成した。この頃、大分大学で学生協議会を率いていたのが若き日の衛藤晟一・現首相補佐官である。なお、椛島ら全国学協の中心メンバーは生長の家の学生信徒たちであった。1970年、全国学協のOB組織として日本青年協議会が結成されるが、その後、路線対立から日本青年協議会が全国学協から除名されると、74年、日本青年協議会は自前の学生組織として「反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)」を結成した。「反憲法」とは、現行憲法を呪詛し続けた生長の家の創始者・谷口雅春の愛弟子を自称する彼らが「現憲法を徹底的に否定する」ために掲げたスローガンである。

日本会議の前身のひとつである「日本を守る会」は1974年に結成され、元号法制定運動に取り組んでいたが、事務局を取り仕切っていた村上正邦(後に「参院の法王」と呼ばれる存在となる)が、日本青年協議会の椛島有三に目をつけ、77年、同協議会が日本を守る会の事務局に入ると、椛島の戦略により、元号法制化のための「草の根運動」を展開し、各地の自治体で元号法制化決議を上げさせ、わずか2年間で元号法制化を実現した。

一方、日本会議のもうひとつの前身である「日本を守る国民会議」は、「元号法制化実現国民会議」を衣替えして1981年に誕生している(初代会長・石田和外・元最高裁長官)。

80年代に入り、谷口雅春・生長の家初代総裁が引退し、生長の家が政治活動から撤退すると、生長の家の元幹部の一人だった伊藤哲夫は84年、「日本政策研究センター」を立ち上げている。現在、安倍晋三の筆頭ブレーンとも、「安倍内閣の生みの親」とも言われる伊藤哲夫に安倍を引き合わせたのが衛藤晟一だと言われている。2004年8月15日、「チャンネル桜」の開局記念番組に当時自民党幹事長だった安倍晋三と伊藤哲夫が出演して対談しているが、そのタイトルは「改憲への精神が日本の活力源」というものだった。当時の安倍は、当選回数も少なく大臣経験もない「若造」議員にすぎなかったが、小選挙区制の下で公認権を独占していた小泉純一郎が「総幹分離」(総裁と幹事長を別派閥から選ぶこと)という自民党の長年の慣習を無視して幹事長に大抜擢したのであった。そのため、権力基盤も頭も脆弱な安倍は、「一群の人々」がその周囲に群がり、つけ込むのにうってつけだったのではないかと筆者は分析している。

伊藤率いる日本政策研究センターは昨年(2015年)8月2日、「第4回『明日への選択』首都圏セミナー」と題するセミナーを開催したが、その中で、「憲法改正のポイント」として、「1.緊急事態条項の追加」「2.家族保護条項の追加」「3.自衛隊の国軍化」の3点を挙げているが、これが現在の自民党の改憲戦略と軌を一にしている。なお、このセミナーで、質疑応答になった際、ある質問への回答で、日本政策研究センターは「もちろん、最終的な目標は明治憲法復元にある」と答えている。ここでも安倍政権の最終目標と一致しているように見える。

時間は前後するが、2001年には日本会議のフロント団体として「「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会」(通称・民間憲法臨調)が設立され、「憲法フォーラム」と題するパネルディスカッションを全国各地で展開しているが、現在、その副代表は、西修・駒沢大名誉教授、代表委員は長尾一紘・中大名誉教授、事務局長は百地章・日大教授である。この3人、昨年6月4日、衆院憲法審査会で3人の憲法学者が安保法制を「憲法違反」と明言し、安保法案「廃案」を求める憲法学者が200名を超えたという情勢を受けて、同月10日、衆院特別委員会で辻元清美議員から「合憲だという憲法学者の名前を挙げて下さい」と迫られた菅義偉官房長官が名前を挙げた3名の「学者」である。3名がそろいもそろって日本会議のフロント団体の役員という特殊な集団メンバーなのであるが、こういうところにしか人材供給源がない、というのが安倍政権の実態なのである。百地章にいたっては、1969年、全国学協のフロントサークル「全日本学生文化会議」結成大会実行委員長を務め、2002年には「生長の家原理主義」グループである「谷口雅春先生を学ぶ会」の機関紙「谷口雅春先生を学ぶ」の創刊号編集人を務めるなど、憲法学界では有名ではないが、その筋では“筋金入り”の人物なのであろう。

日本会議は2013年11月13日、全国代表者大会を開き、全国の地方議会で「憲法改正の早期実現を求める意見書」採択を促す運動方針を決定し、次々と成功させている。これはまさに、椛島有三率いる日本青年協議会が元号法制化運動で採用し、成功した方法である。さらに14年10月1日には、憲法改正のための別働団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の設立総会を開いているが、この事務局長も椛島有三である。つまり、椛島有三は日本協議会/日本青年協議会の会長であり、事務総長として日本会議を取り仕切り、事務局長として「美しい日本の憲法をつくる国民の会」も切り盛りしているのである。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は昨年11月、「今こそ憲法改正を!武道館一万人大会」を開催したが、その際、共同代表である櫻井よしこは改憲の具体的項目として「緊急事態条項」と「家族条項」の追加を挙げた。

「国民の会」が集めた改憲署名はすでに700万筆に達したとのことである。

生田暉雄『最高裁に「安保法」違憲判決を出させる方法』(三五館、2016年)

会員のKさんに頂いたので、一気読みしたが、大変面白かった。

本書は、日本の裁判所はなぜ、ほとんど違憲判決を出さないのか、特に行政訴訟や政府・行政が当事者となる訴訟においては、絶望的なまでに違憲判決が出づらく、仮に奇跡的に地裁で違憲判決が出たとしても、最高裁では100%棄却されるのはなぜなのか、その仕組みを、自らの体験に基づき、説得的に描き出している。

著者の生田氏は1970年から92年まで22年間裁判官を務めた後、弁護士に転身した人で、裁判官時代には、本書で痛烈に告発しているような、最高裁を頂点とする裁判所の根深い歪みには気づいておらず、弁護士になって、その歪みに気づいたという。

私はこれまで、渡辺洋三・江藤价泰・小田中聰樹『日本の裁判』(岩波書店)、井上薫『狂った裁判官』(幻冬舎新書)、新藤宗幸『司法官僚』(岩波書店)、秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』(岩波新書)といった本を読んでいたので、最高裁事務総局による人事権を通じた裁判官統制の仕組み(その結果として生まれる、出世のために“上”=最高裁事務総局=の意向ばかり気にする「ヒラメ裁判官」の存在)や判検交流の問題点など、現在の日本の司法を取り巻く問題点については、大まかなことは知っていたつもりだが、合議制の裁判においては、生田氏のように、自分の出世のことなど気にしない例外的な裁判官でさえ、同僚(先輩あるいは後輩)の将来を閉ざしてしまうことを恐れる気持ちから、自分の良心に反する判決を出してしまうという人間臭い話を聞き、なるほどなぁと考えさせられてしまった。

また、著者が手掛けたエクソンモービルを相手取った訴訟では、勝訴を確信した審理の終盤、あと1回で結審というときに、突然裁判官全員を替えられて敗訴した、という話にも、「最高裁はそこまでやるのか」とうならされた。これは、日米関係に重大な影響をもたらすことを恐れた最高裁が、何としても原告を敗訴させなければならないと決心して仕組んだ人事である(と著者は推測するが、もちろんこの推測は正しいだろう)。交替した裁判官には、原告敗訴の判決を出せなどと最高裁事務総局が指示する必要はない。このような不自然な交替があれば、交替した裁判官は、それまでの裁判記録を読んだうえで、当然その背後にある最高裁事務総局の意図を忖度し、おのずと自らに与えられた使命を理解し、その通りの判決を出す、というわけである。

このように最高裁事務総局が裁判官に圧倒的な影響力を及ぼし得るのは、裁判官の報酬と人事について、フリーハンドの裁量権が認められているからなのだ。最高裁に対して従順で協力的な裁判官は順調に出世できるが、違憲判決を出したり、再審決定をしたり、最高裁判例と異なる判決を出すなど、最高裁に「盾突いた」と見なされた裁判官は、報酬ランクにおいて3号(場合によっては4号)以上には上がらず、地方の地裁・簡裁・家裁などを「ドサ回り」させられることになる。最近では、高浜原発3・4号機の再稼働差止判決を出した福井地裁の樋口英明裁判長は、「大方の予想通り」名古屋家裁に左遷された。砂川事件の一審判決で駐留米軍を違憲と断じた東京地裁の伊達秋雄裁判長が、辞表を用意して法廷に上がったのは有名な話だが、2008年、自衛隊のイラク派遣違憲訴訟で、(傍論ながら)違憲判決を出した名古屋高裁の青山邦夫裁判長は、判決公判の直前に依願退職している。さらに、住基ネット訴訟で、原告勝訴の違憲判決を書いた大阪高裁の竹中省吾裁判長は、なんと判決の3日後に自宅で首を吊った状態で発見されたという。遺書はなく、首を吊った状態も不自然だったが、警察は自殺と断定した。この国では裁判官が違憲判決を書くのは命がけなのである。

しかし、著者の生田氏が本書で最も訴えたいことは、このような絶望的な裁判所の実態を知ったうえでなお、主権者である市民が主権を行使する手段として、積極的に裁判を利用すべきだということである。それこそが憲法12条にいう「国民の不断の努力によって」人権を保持するための最も有効な手段であり、そのためには、「あきらめないこと」「真実を知る努力をすること」「行動を起こすこと」が最も重要である、と生田氏は言う。本書のタイトルは、安保法をひっくり返す裏ワザを伝授するといったことではなく(そのようなものがあるはずもない)、一人一人の市民が主権者意識を持ち、おかしいことにはおかしいと声を上げ、自らの権利を守るためには裁判に訴えることを辞さない――そうした意識を持ち続けることが、長い目で見た時、裁判所を真に「憲法と人権の砦」に変えるための近道なのである、と説いているのである。

人権と民主主義~~憲法基礎講座③~~

護憲派を名乗る人の間でも、民主主義には人権尊重が含まれる、という根強い思い込みに捉われてしまっている人が少なからずいるようだ。その理由を尋ねると、第1に、広辞苑など一部の国語辞典にそのような説明があること、第2に、自分の周囲にも同じ考えの人が多いから、ということのようである。そこでは憲法学や政治学の知見は全く参照されていない。しかし、憲法学や政治哲学においては、「民主主義と人権原理は異なる思想であり、両者はときに矛盾・対立する」というのは、基礎の基礎、初歩の初歩に属する知識である。しかし、そうしたことを何の権威も地位もない私ごとき者がどれほど言葉を尽くして説明しても、何の説得力も持たないらしく、馬耳東風とばかりに聞き流されて終わりである。

そこで、憲法学の泰斗、樋口陽一・東大名誉教授にご登場願うことにしよう。

樋口先生が東大教授時代の1991年5月、「もういちど憲法を読む」と題する岩波市民セミナーで4回にわたって講演された記録をまとめた本が、同じタイトルで岩波書店から1992年に出版されている。その中の103頁から104頁を抜粋引用する。

 

  みんなで決めること、これは一番ふつうにいわれている意味での民主、ということになります。それに対して、しばしば、民主という言葉と関連はするのだけれども、ある局面によっては対立する意味合いをこめて、自由という言葉が使われることがあります。民主主義に対して自由主義。これは、みんなが自分たちで自分の運命を決めるといっても決めてはいけないことがある、という問題です。堅い言葉で簡明にいいあらわそうとすれば、第一の側面を自治、第二の側面を法治、といってもいいでしょう。

 

 人権と主権との緊張関係

憲法論の大きな、抽象的な次元で申しますと、一方は主権の問題でありますし、他方は人権の問題になるといってもよろしいでしょう。国民主権ならば、国民はなにを決めてもいいのか。いや、そうでない事柄があるはずだ、というのが人権の問題であります。

ここには、緊張関係があります。自己決定ということは場合によっては自己否定とか自己破滅の可能性をも含んでいるのだ、ということは、個人の生き方についても当てはまっています。それは危ないから、危ないところに近寄らせないようにしようというふうに、専らそのように考えてゆきますと、最近も問題になっております、なんでもいけないという校則を定めて、その仕切り線から外に出ないように出ないように、という教育ということになってまいります。

しかし、自己決定とは、少なくとも論理的に申しますと、当然、自己否定とか自己破滅という危険をも含んでいます。だからこそ、そこに自由の重みがあるのだという問題は、国家とか、大きなレベルでの政治についても当てはまるわけでして、国民全体について申しますと、国民が主権者だ、それなら国民が好めば人々の人権、少数者の自由というふうなものを否定しちゃっていいのか、という形で問題が出てまいります。もっとラディカルにいうならば、国民が主権者だ、そうであるならば、国民が望むのなら国民主権自体をやめちゃってもいいのかという、とどのつまりはそういう問題になります。

 

 ドイツと日本

これは、決して抽象的な論理の遊びではありませんで、現実にそれが大掛かりに起こりましたのが、ワイマール憲法下の事態でした。国民主権、民主主義のルールを定めた、この憲法のもとで、両大戦間期のドイツでは、まさに国民主権のルールに従った選挙によってヒトラーの率いるナチスが第一党の地位を獲得し、それを大きなきっかけとして議会政治そのものを否定するナチズムがドイツを制覇し、かつ世界を制覇しようとしたという教訓が、我々の身辺にあるわけであります。(以下略)

 

――樋口陽一『もういちど憲法を読む』岩波書店、1992年、103-104頁

 

市民向けセミナーなので、大変わかりやすい言葉で民主主義と自由主義の違いが述べられている。つまり、「民主主義・・・自治・・・国民主権」は同じ系譜の思想であり、それに対して、「自由主義・・・法治・・・人権」というもう一つの系譜の思想があることがこれでわかる。つまり、「国民主権」は民主主義の系譜に属する思想であるのに対し、「人権」はそれとは別系統の自由主義の系譜に属する思想である、ということが、疑問の余地なく明確に示されている。

それでは、最近(ここ数年)、にわかに流行語となった観のある「立憲主義」はどのように位置づけられるのだろうか。そこで、樋口先生の別の著書(『個人と国家――今なぜ立憲主義か』)から一部を抜粋引用してみよう。

 

  コンスティチューショナリズム(引用者注:立憲主義)は、要するに権力に勝手なことをさせないという、非常にわかりやすくいえばその一語に尽きると言っていい。

そういう意味で、「デモクラシーdemocracy」という言葉と対照してみるとわかりやすいでしょう。こちらはもともと言葉の語源としては、ギリシャ語のデモス(民衆)と、クラチア(支配)です。つまり民衆の支配です。実際は、民衆の名のもとにだれかの市は二なるわけです。「民主主義」という言葉は、対抗するものが立ちはだかっているときには、専らそれを否定するという意味で積極的な意味を持っていた。立ちはだかるのは民衆の反対の君主で、君主の背後には神様がいました。西洋流に言えば王権神授説です。神が君主に権力を授けた。だから、君主は神の権威でもって人民を支配するのは当然だということになります。そういう王権神授説的な君主の支配をひっくり返すことが、まさに「民主」だったわけです。

今では王権神授説的な言説は、ほとんど世界中、地球上で通用しない。ほとんどというのは、世界中に200ほどある統治単位、いわゆる国家の中には、必ずしもそうでない、例外的に伝統的な国家もあるからです。日本の場合には、指導的な政治家がときどき神様を思い出したりしていますが、これも世界の例外の一つでしょうか。

(中略)

大きくいって、今や民主の対抗物はなくなった。逆に現代の独裁政治、一党支配は決して民主を否定しなかった。スターリンは人民の名において人民の敵を粛清したわけですし、ヒトラーの率いるナチスは名前からして民族社会主義ドイツ労働者党ですから、やっぱり人民です。現実に彼は人民の選挙で第一党となって、ワイマール憲法を実質上ひっくり返してしまった。

(中略)

日常場面では「民主」という言葉は実は何事も語っていない。ごくわずから例外を除いて、あらゆる政治体制が民主の名において説明されているからです。そうなってくると民主を名乗る政治権力も制限されなければいけないという「立憲主義」が、一番のキーポイントになる

実はそのことが、少なくとも世界の先進国レベルで共通認識になったのは比較的最近なのです。というのは、かつては民主の旗によって世の中が進歩していくことへの幻想があった。だから、民主を推し進めれば進めるほどまっとうな世の中になっていくという期待があったのです。ところがいろいろな「民主」をやってみたけれども、しばしばそれは惨憺たる結果をもたらしてきた。

そこで「立憲主義」という言葉が思い出されてきた。なぜ「思い出されてきた」と言うのかというと、立憲主義という言葉は中世にさかのぼる古い歴史的過去を背負っているからです。

(中略)

繰り返しますけれども、帝国憲法をつくったころは天皇主権を前提としながらも――前提としていたからこそという面もありますが――権力は制限されていなくてはいけない、という「立憲主義」の大事さを政治家たちは認識していました。当時の政党の名前で「立憲」という言葉がよく出てきますが、偶然かどうか戦後はそういう政党名はない。

ところが「国民主権」になってくると、「民主」ですべていいのだ、とにかく選挙で選ばれた国会なのだ、それに裁判所はいちゃもんをつけてはいけない、という感覚の方が強いようです。しかしこの際、「民主主義」と「立憲主義」の関係をきちんと整理して議論のレールに乗せることが大事でしょう。憲法とか法律をやっている専門の狭いサークルでは常識化しているのですけれども、それをもっと政治の場面できちんと位置づけ直して議論を始めることが大切だと思うのです。

 

――樋口陽一『個人と国家――今なぜ立憲主義か』集英社新書、2000年、84-93頁

 

今度は、「立憲主義」が「民主主義」や「国民主権」と対照させられていることがわかる。ここでは立憲主義が権力を制限する思想として紹介されているが、(この文章では明示されていないが)その目的は人権を護るためであるから、結局、立憲主義とは「自由主義・・・人権」に連なる思想であることがわかる。つまり、「民主主義」=(その国家規模での表現としての)「国民主権」と、「自由主義」=「人権」=(それを保障する制度設計である)「立憲主義」とが、対比的に述べられているのである。

これは、「民主主義と人権原理は異なる思想であり、両者はときに矛盾・対立する」ということを説明する際、私が何度も繰り返し説明してきたところであるが、同じことが憲法学の権威である樋口陽一・東大名誉教授によって語られているのである。当たり前である。私は学生時代以来、樋口憲法学の圧倒的な影響を受けながら、その教えを学んできたのだから、同じことを私が述べたとしても、何の不思議もない。

民主主義には人権尊重が含まれる、という考えに固執している方々は、是非、この樋口先生の説明を理論的に論駁して頂きたい。

つまみぐい憲法論

つまみ食い憲法論

 

先ごろ、機会あって、野党の国会議員100人ほどの方に、当方パンフ「日本国憲法が求める国」をお渡した。そのとき痛感したのは、国会議員の方々でさえ一部の方をのぞいて、ほとんど現日本国憲法を理解されていないという現実だ。国会議員の方々さえそうなら、国民大衆はおして知るべし、ほとんど憲法に関心がないと悟るべきだ。それはまた何年かまえの無知だった私自身の姿にも重なる。事実、大半の議員は第9条(戦争の放棄)や第25条(生存権)など、個々の身近な条項を使われている――それは大事だけれども――に過ぎないように思われる。だが、現日本国憲法が、明治の帝国憲法や自民党の改憲案と根本的に異なる点は、国民主権と基本的人権の保障であり、ついでそれは平和主義、立憲主義におよぶ。この主眼を忘れて、いくつかの条文の利用にとどまるのであれば、それは日本国憲法のつまみ食いでしかない。そうなると、この憲法の理念が、それよりもはるかに崇高で、世界でも一番進んだものであることを、政治家に、さらには広範な国民大衆に知ってもらうことが、私たちの揺るがぬ使命になろう。この点で、日本に、多くの9条の会はあっても、完全護憲を提唱したのは私たちだけである。その誇りを内に秘め、前途の困難を覚悟しつつ、地道に、遠大なこの使命達成の道を進もうではないか。

普通の人の憲法観

私の詩の仲間、稲葉嘉和が「憲法」という詩を書いている。彼の詩誌「転々通信」189号、2015年9月に出ているこの詩を、ごく普通の人の憲法観として紹介させていただく。

 

憲法

 

俺の国にや 憲法というものがあるんだぜ

マンションの管理人の俺にもよ

 

いっておくけど

俺は それに世話になった事があるんだ

どうだビックリしただろう

俺が憲法と知り合い関係にあったってこと聞いてよ!

 

俺がもっと若えころ

急に会社からクビを言い渡されてさ

そんときゃ震えたネ

何が何だか分んなくなっちゃってさ

おもわず判を捺しちゃったネ

それでよくよく考えて

判を捺したのを取りかえした  けどネ

 

なんで急に首だなんて言われたのか

わからなかったけれど

咄嗟に思ったのは 大したこたあないけど

「俺にゃ憲法ってものが守ってくれている」

ってことさ

憲法には労働者を守る と書いてあったと思ってネ

それは当たらずとも遠からず

というところが在って

おれは それから4年も務めたたんだぜ

それからだ

俺と憲法と親戚づきあいをはじめたのは

その時はっきり分かったことだけど

仲間同士で しっかり守りたいよ

 

ほんとだよ

 

この作品には現憲法に対する労働者の親近感がにじんでいる。自民党の改憲案が通ればこうは行かない。現憲法のもつ徳だ。この徳を手放したくない。世の中をさらにギスギスさせたくない。現憲法は荒れた世相に残された真珠のようだ。

2016年4月14日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 福田 玲三

行政府の越権

「国会解散は首相の専権事項」の空語が常識化されて久しく、それによって、この夏の衆参同日選挙との噂が飛び交わない日はなく、これでは「国会は、国権の最高の機関」(憲法第41条)との条規は空文に等しい。一行政府の長の胸先三寸によって国会が揺すられ、脅かされるようなことは、まともには考えられなく、このままでは、第二次大戦の悲惨な経験から生まれた条文「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」(憲法前文)との強い警戒感は、藻屑になろう。

憲法の解釈について様々な学説はあるにせよ、「国会は、国権の最高の機関」の大綱を忘れて何の意味があろう。さらに「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令(判例)……は、その効力を有しない。」(第98条)と定められているのに。

行政府の越権をいつまで黙視するのか。「専権」に対しては誰も卑屈で、無気力で、冷淡で、従順であってはならない。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(第12条)と、明示されているのだから。憲法からの逸脱を重ねる安倍首相の専横を前に、国会議員、マスコミ当事者の自覚と奮起を促したい。

憲法13条~~憲法基礎講座②~~

103条から成る憲法の条文の中で、あなたが最も重要だと考える条文は第何条でしょうか。もちろんこれに対する答えは人それぞれだろうし、憲法学者でも人によって答えは違うだろう。例えば、愛敬浩二氏は、公務員の憲法尊重擁護義務を定めた第99条を最も好きな条文として挙げている(『改憲問題』ちくま新書)。しかし、おそらく第13条を挙げる憲法学者が最も多いのではないだろうか。私の敬愛する憲法学者・樋口陽一氏はその代表と言っていいだろう。

第13条とは次のような条文である。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

樋口氏は次のように述べている。

<戦後、日本国憲法を手にした日本社会にとって、日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと、憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という、この短い一句に尽きています(『個人と国家――今なぜ立憲主義か』集英社新書)。>

しかし、なぜこの短い一文がそれほど重要な意味を持っているのかを理解するためには、最低限の憲法史・政治思想史の知識が必要であろう。近代国民国家を生み出した市民革命は、それ以前の身分制秩序を打ち壊すことで「個人」を析出し、この解放された自由かつ平等な個人が、一方では人権の享有主体になるとともに、他方では、その人権を保障するため、憲法を制定して国家を樹立し、その憲法によって国家権力を縛ることにしたのである。したがって、個人の権利=人権と国民国家と(憲法によって国家権力を縛るという)近代立憲主義は同時に成立した三位一体なのである(ただし、権力を制約するというより広い意味の立憲主義は中世以前にも存在した)。そのことを、樋口氏は次のように述べている。

<これは権力が勝手なことをしてはいけないという、中世以来の広い意味での立憲主義が、近代になって凝縮した到達点です。個人の生き方、可能性を自由に発揮できるような社会の基本構造、これを土台としてつくってくれるはずのものが、憲法の持つべき意味だということです(前掲書)。>

そして、このような「個人の尊重」、すなわち個人主義に立脚する第13条の意味について、憲法学者の佐藤幸治氏は次のように論じている。

<本条前段の「すべて国民は、個人として尊重される」とは、通常、「いわゆる個人主義原理・個人主義的国家原理の宣言である」(佐藤・註釈101頁)とか、「個人主義の原理を表明したもの」で、憲法24条2項の「個人の尊厳」と同じ意味に解していい(宮沢・コメ197頁)とか、「個人人格の尊厳を法価値の中心に据えている」もので、「個人主義の哲学」に立脚するものである(小林・(上)312頁)とか、いわれる。

それでは、そこにいう「個人主義」とは、いかなる意味のものとして捉えられているのか。代表的理解によれば、それは、「人間社会における価値の根元が個人にあるとし、なににもまさって個人を尊重しようとする原理」であり、「一方において、他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義に反対し、他方において、『全体』のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義を否定し、すべての人間を自主的な人格として平等に尊重しようとする」(宮沢・コメ197頁)ものであるとされる(樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注釈 日本国憲法 上巻』青林書院新社)。>

さて、このような憲法の核心的重要性を持つ第13条の持つ意義について、安倍首相は例によって、何もご存じないらしい。3月2日の参院予算委で、民主党の大塚耕平氏が自民党の改憲草案を取り上げ、現行憲法が「すべて国民は、個人として尊重される」としている第13条を、自民党改憲草案では「全て国民は、人として尊重される」と、「個人」を「人」に書き換えているのはどういう意味かと質問したのに対し、首相は、「さしたる意味はないという風に承知している」と答えたのである。

とんでもない発言である。個人を究極の価値の担い手とすることは、上で述べたように、立憲主義の核心的原理である。その立憲主義の核心を放棄しようとするのが自民党の改憲草案なのである。しかも自民党改憲草案は24条に、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という全く新たな条文を挿入しており、あたかも「家族」が「個人」以上に尊重されるべきであり、国家による社会保障の責務よりも家族による相互扶助義務が優先されるかのような規定になっている。これは戦前の家父長制度復活への布石と見なせよう。

私はこのニュースを4日付の朝日新聞の「天声人語」で知ったのだが、東京新聞の国会論戦抄録にはこの発言は掲載されていない。ネットで検索しても、この天声人語かそれを引用した記事くらいしか見当たらないので、マスコミ各社の政治部記者たちは、このニュースの重大性に気付かなかったのかもしれないが、そうだとすると、実に嘆かわしいことである。

しかし、人権を保障する現憲法を守り抜くためには、こうした改憲策動の狙いと本質を見極め、戦前社会の復活を企てる政府・自民党の企みを決して許してはならない。

 

「表現の自由の優越的地位」とは何か~~憲法基礎講座①~~

<前置き>

安倍首相は2月15日、衆院予算委員会で、「表現の自由の優越的地位」の根拠を山尾志桜里議員(民主)から質問されて、全く答えられず、逆切れした挙句、憲法に対する無知を改めて暴露してしまいました。本来、憲法に基づいて政治を行わなければならない首相が、憲法改定を先頭に立って扇動していること自体、許されない憲法違反行為ですが(緊急警告009号参照)、そのような言動も憲法に対する無知に基づくものでしょう。有名なフランス人権宣言(1789年)はその前文で、「人権に対する無知・忘却または軽視が、万人の不幸と政府の腐敗の唯一の原因である」と宣言していますが、まさしく憲法と人権に対する無知・忘却・軽視が現政権の腐敗と国民の不幸を招いています。

そうであれば、私たち国民一人ひとりがもっと憲法をよく学び、安倍政権の憲法無視の政治を糾していかなければならないでしょう。そこで、随時このブログで「憲法基礎講座」と題して、憲法に関する基礎知識をまとめてみます。

第1回は、上記の「表現の自由の優越的地位」についてです。最低限の知識を得るためには■まで、もう少し詳しい知識を得るためには■■まで、さらに詳しい知識を得たい人は最後までお読み下さい。

 

<本文>

自由権は一般に精神的自由、経済的自由、人身の自由に分けられるが、このうち、精神的自由と経済的自由については、「表現の自由を典型とする精神的自由は経済的自由にくらべて優越的地位を占め、それを制限する立法の合憲性審査には、経済的自由の制約立法に一般に妥当する合理性の基準よりも厳格な審査基準が用いられるべきである」(長谷部2004:123-124頁)という二重の基準論が学説において広い支持を得ていると言われている。しかし一体なぜ、精神的自由は経済的自由よりも「優越的地位」を占めると言われるのであろうか。これには大別して、手続的・機能的理論と実体的価値論、および両者の併用論が考えられる。手続的・機能的理論とは、経済的自由の規制立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を是正することが可能であり適当でもあるから、裁判所は立法府の裁量を広く認めることが望ましいのに対して、精神的自由の制限または政治的に脆弱なマイノリティの権利侵害をもたらすような立法の場合は、それによって民主政過程そのものが傷つけられることになるから、政治過程による適切な是正を期待しがたく、それゆえ裁判所は厳格な基準に基づいて司法審査をすべきである、と説くものである(芦部1995:218)(1)。一方、実体的価値論とは、精神的自由は個人の人格的発展や自己実現にとって特別に重要な価値を持つものであり、精神的自由を保障することで得られる「思想の自由市場」は人々が(暫定的)真理や(暫定的)合意に接近するうえで不可欠なものであるので、特に優越的に保障さるべき地位を持つ、と主張する(奥平1993:160-163)。■

アメリカの判例から発展したこの理論は、日本においては、人権と「公共の福祉」をめぐる議論の中で、日本国憲法が個別の人権規定の中では、経済的自由を定めた22条と29条の中にのみ「公共の福祉」による制約を認めていることから、「公共の福祉」には、自由権の公平な保障のための最小限度の制約を根拠づける「自由国家的公共の福祉」と、社会権を保障するために必要な限度で経済的自由の制約を根拠づける「社会国家的公共の福祉」とが存在する、という、宮沢俊義によって展開された内在的制約説とも結びつきながら、広く受け入れられることになった(宮沢1971:218-239:芦部1995 :195-199;佐藤1997:403-405)(2)。日本の判例においては、二重の基準の基本理念自体はしばしば言及されているが、実際の適用場面においては、精神的自由を経済的自由よりも厳格な審査によって手厚く保護するという、この理論が本来的な意義を有する場面において適用されたケースは一度もなく、経済的自由に対する制約を広く認めるという文脈においてしばしば適用されてきた。■■

例えば、1972年の小売市場判決(最大判昭47.11.22刑集26巻9号586頁)において最高裁は、「憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なって、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定、かつ、許容するところ」であると述べて、二重の基準論に類似の考え方を示すとともに、「社会経済の分野においては、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、……どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない」ため、「裁判所は、立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲として、その効力を否定することができるものと解するのが相当である」(明白性の原則)として、通常、違憲判決の考えられないほど広範な立法裁量論を採用した。最高裁はさらに、1975年の薬事法距離制限違憲判決(最大判昭50.4.30民集29巻4号572頁)において、営業の自由に対する規制を、「社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のため」の規制と、「社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合」に分け、前者の積極目的規制の場合には司法審査においては緩やかな基準である合理性の基準が適用されるが、後者の消極目的規制の場合には中間審査の基準である厳格な合理性の基準が適用されるという二段階の審査基準を採用すべきことを明らかにし、薬事法の定める距離制限は国民の健康と安全を守ると言う消極目的規制であるから、その合憲性の審査は、「よりゆるやかな制限……によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要する」と述べて、狭い立法裁量論を採用し、不良医薬品の供給防止という立法目的を支えるだけの事実(立法事実)があるかどうかを調べた結果、右「目的のために必要かつ合理的な規制を定めたものということができないから、(薬事法の距離制限規定は)憲法22条1項に違反し、無効である」と判示した。この薬事法判決から小売市場判決を振り返れば、小売市場の許可規制は積極目的規制であるから明白性の原則と合理性の基準という緩やかな基準で合憲判決になったと考えられる。ところが最高裁はその後、共有森林につき持分価額2分の1以下の共有者に分割請求権(民法256条1項)を否定している森林法186条の憲法29条2項との適合性が争われた1987年の森林法共有林分割制限規定違憲判決(最大判昭62.4.22民集41巻3号408頁)においては、森林の細分化を防止して森林経営の安定化を図るという立法目的との関係で、規制の必要性と合理性が認められないから違憲、と判断した。しかし、森林経営の安定化を図るという目的による規制は積極目的規制であるから、薬事法判決で示された二段階審査基準によれば、立法府の裁量が広く認められ、合憲とされたはずであるが、最高裁は財産権の制約立法については積極目的規制と消極目的規制という二分論を採用せず、厳格な合理性の基準で審査した(樋口1992:238)。しかし、森林経営の安定化を図るという規制目的が積極目的であるとするならば、この判決の結論か、あるいはそもそも二段階審査基準のいずれか(もしくは双方)が誤っているということになる。また、公衆浴場法による距離制限(適正配置規制)に関する初期の判例では、最高裁は、その目的を浴場の乱立によって生じ得る浴場の衛生設備の低下など国民健康・衛生上の弊害防止(すなわち消極目的)と捉えながら、合憲とした(最大判1955.1.26刑集9巻1号89頁)。これは薬事法判決以前の判例であったが、二段階審査制の論理を当てはめれば、違憲となるはずのものであった。ところが、薬事法判決以後に現れた同種の事件において、最高裁は、公衆浴場法の規制目的を、今度は浴場業社の転廃業の防止と安定経営の確保という積極目的と捉え、合憲判決を下した(最判1989.3.7判タ694号84頁)。このことは、規制の目的を積極目的と消極目的とに二分する根拠の困難さや曖昧さ、ないしは恣意性を示していよう。

要するに、日本の最高裁は、精神的自由の規制立法の合憲性審査においてはリップサービスはともかく、実際には二重の基準論を採用しておらず、経済的自由の規制立法においてはしばしば二重の基準論に言及するだけでなく、積極目的規制と消極目的規制という立法目的によって審査基準を分けるという独自の二段階審査基準を採用したが、この基準も一貫して適用されているとは言い難い。このような判例の動向に対して、二重の基準論を支持する学説から厳しい批判が出されることは当然予想されるところである(芦部1990:110-122;芦部1995:243-245)。

 

【注】

(1) 表現の自由は他の自由よりも価値が高いからではなく、「他の自由よりもとりわけ不当な制限を受けやすい自由であり、だから、それに対する制限の合憲性は厳格に判断されなければならない」と主張する学説(浦部2008:148)も、この手続的・機能的理論に属すると言えよう。

(2) ただし今日では、宮沢の言う「社会国家的公共の福祉」は内在的制約というより政策的制約と捉えるべきだとの学説も根強い(例えば、芦部1995 :197;佐藤1997:404-405)。

 

【引用・参考文献】

・芦部信喜(1990)『憲法判例を読む』岩波書店

・芦部信喜(1995)『憲法学Ⅱ人権総論』有斐閣

・奥平康弘(1993)『憲法Ⅲ』有斐閣

・佐藤幸治(1997)『憲法〔第三版〕』青林書院

・長谷部恭男(2004)『憲法 第3版』新世社

・樋口陽一(1992)『憲法』創文社

・宮沢俊義(1971)『憲法Ⅱ(新版)』有斐閣

 

「押しつけ憲法論」の深層(3)憲法改正機会を握りつぶした日本政府

3.憲法改正機会を握りつぶした日本政府

このように、極東委員会(FEC)による干渉を嫌うマッカーサーと、天皇制の存続と自らの生き残りを図る日本の保守派政治家たちの利害の一致によって、日本人民自身の手による憲法制定のための十分な審議の時間的余裕を与えられないまま、日本国憲法が性急に制定された経過を見た。しかし、日本国民が憲法を自主的に再検討する機会がこれで完全になくなったわけではなかった。実は衆議院が憲法改正案を可決成立させた(10月7日)直後の1946年10月17日、FECは「憲法施行の1年後2年以内の期間」に、新憲法が「果たして日本国民の自由な意思の表明であるかどうかを決定するため、同憲法にたいする国民世論を確かめる目的をもって国民投票ないしその他の適当な措置を講ずること」を決定し、GHQに伝達したのである。

これに対してマッカーサーは、翌47年1月3日付の吉田首相宛ての書簡において、この決定を伝え、「もし日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう」と述べている。

しかしFECのこの決定を国民に公表することにはマッカーサーが難色を示したため、国民が新聞報道を通じてこれを知るのはようやく3月30日のことであった。しかし当時、日本国内では憲法普及会という官民一体の組織が国民に対する新憲法の啓蒙活動を本格化させていた時期だったため、この報道は一般的にはむしろ奇異な印象をもって受け止められたという(高見勝利「憲法改正」『法学教室』2013年6月号)。

しかし、FECの決定に対して積極的に反応し、憲法改正意見を取りまとめたグループが2つあった。丸山眞男・鵜飼信成・戒能通孝・辻清明・川島武宜らによって組織された公法研究会と、田中二郎・平野龍一・兼子一らによって組織された東大憲法研究会である。前者は1949年3月、憲法前文から第3章「国民の権利」に至る改正意見を取りまとめ、同年4月号の『法律時報』にその内容を公表した。後者は、憲法各章の改正点に関する意見を個人名で執筆し、「憲法改正の諸問題」という表題をつけて同年の『法学協会雑誌』(67巻1号)に公表している。公法研究会案は、前文および本文中の「国民」という言葉を「人民」という言葉に置き換えることにより、民主主義の原則を深化・発展させること、天皇制は廃止して共和制とするのが理想であるが、さしあたり実現可能な改正案としては、天皇制を承認したうえで、「象徴」という「神秘的要素」を持つ言葉を「儀章」に置き換えることなどを提案した。東大憲法研究会案においても、概ね日本国憲法の民主主義原理を深化させる方向での改正意見が提案された(高見前掲論文参照)。

これに対して、政府や国会側の動きは鈍かった。FECが憲法再検討の期間に指定した施行後1年を経た1948年6月20日、政府(芦田内閣)はようやく衆議院議長に「憲法改正の要否を審査してもらいたい」との申し入れを行い、それを受けて国会事務当局や法務庁は再検討を要する条項の見直しに入るが、国会の動きは極めて消極的で、結局、研究会の設置にも至らなかった。また、こうした憲法改正問題を伝える新聞が掲載する「社説」や「識者の談話」も極めて消極的なものであった。それは、「憲法の持っている客観的な原理、基本的な原理と考えられるものはもう不動のものであって、かりに憲法改正問題がまた起こったとしても、それは問題にならないだろう」という佐藤功の言葉に代表されるような気分が支配的であったからである。なお、この時期の憲法改正問題では天皇退位問題が大きな比重を占めていた(古関彰一『日本国憲法の誕生』366-368頁)。

FECは1949年1月13日、マッカーサーに対して、憲法再検討に役立つ情報と意見の提供を求めたが、これに対してマッカーサーは同月27日、「日本人は、憲法の再検討をするためには、もっと長い時間の経過した後でなければならないとの意見を固持して、この際、真面目に改正を考慮することに強い反対を示した」との回答を送っている

FECの定めた施行2年の期限が近付いた同年4月28日、吉田首相は衆議院外交委員会において、「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません」と答弁し、憲法改正問題を葬り去ったのである。この一連の史実を記した後、古関氏は前掲書の中で次のように述べている。

それにしても「押しつけ憲法」論が、なぜこれほどまでに戦後半世紀以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。与えられていたのである。その機会を自ら逃しておきながら、「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張されつづけてきたのである。とにかく最近の憲法「改正」史や現代史の研究書をみても、この点に全く触れていないのであるから無理からぬ事情があったにせよ、これは糺しておかなければならない。(前掲書375頁)

私は、当時の吉田内閣がFECの求めた憲法改正機会を見送ったこと自体は、それほど非難するつもりはない。当時の大方の国民意識に照らして、憲法改正の必要性が感じられていなかったのは事実であろう。だが、占領下においても、憲法を国民的に再検討する機会は与えられていた、それどころかむしろ求められてさえいたにも関わらず、それを政府の責任においてあえて封印した以上、「憲法は占領下で作られたから押し付けられたものだ」という主張が、いかに歴史的事実を無視した一面的なものであるか、ということはどんなに強調してもしすぎることはないであろう。

 

<参考文献>

小熊英二(2002)『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社

国立国会図書館「日本国憲法の誕生」(http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

古関彰一(2009)『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫

高見勝利(2013)「憲法改正」『法学教室』2013年6月号

豊下楢彦(2008)『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫

樋口陽一(1992)『憲法』創文社

吉田裕(1992)『昭和天皇の終戦史』岩波新書

 

2016年2月28日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 加東遊民