「押しつけ憲法論」の深層(2)マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか

2.マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか

 

それではなぜ、マッカーサーはこれほど憲法の制定を急いだのか。それは、1945年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東諮問委員会(FEAC)に代えて極東委員会(FEC)を設置することが決まり、FECが対日占領政策の最終決定権を持つことが決まり、マッカーサーはFECの下に置かれ、その決定に従うこととなり、そのFECが46年2月26日から活動を開始することになったことが最大の要因である。FECには天皇の戦争責任や天皇制の存続に対して極めて厳しい態度を示しているソ連やオーストラリア、ニュージーランド、フィリピンのような委員もいたが、マッカーサーは天皇制を存置することが占領政策を円滑に進める上で必須の要素と見なしていたため、FECが活動を開始する前に、憲法改正の大綱を定め、既成事実を作ってしまうことが得策だと考えたのである。

そして、2月13日、日本政府側(吉田外務大臣、松本国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与、長谷川元吉外務省通訳官)と会談したGHQのホイットニー民政局長は、GHQ草案を手交した際、次のように語っている。

「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。(……)しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。」

さらにホイットニーは、「最高司令官は、この案に示された諸原則を国民に示すべきであると確信しており」、「あなた方がそうすることを望んでい」るが、「もしあなた方がそうされなければ、自分でそれを行うつもりでおります」と述べ、それが日本側にショックを与えたことが知られている。

日本政府はこの後、若干の抵抗を試みるが奏功せず、結局、2月22日、GHQ案を基に政府案をつくることを決定する。当時の日本政府の立場については、幣原首相が3月20日、枢密院において行った次の発言が参考になる。

「(現在の国際情勢を)考えると、今日このような草案が成立を見たことは、日本のためにまことに喜ぶべきことで、もし時期を失した場合にはわが皇室のご安泰のうえからもきわめて恐るべきものがあったように思われ、危機一発(ママ)ともいうべきものであったと思うのである。」

つまり、マッカーサーと日本政府とは天皇の安泰と天皇制の存続という点で利害が一致しており、それがマッカーサーがGHQ草案を作り、日本政府が受け入れた一番の理由であったしかし、GHQ草案の受け入れにはもうひとつの隠れた目的があった。それは、保守派政治家の生き残りの手段であった。実際、ホイットニーは2月13日の会談において、「マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の手段であると考えています」と述べているが、この頃、進歩党は前代議士274名中260名、自由党は45名中30名が第一公職追放令(46年1月4日)により追放されていた一方で、急速に勢力を伸ばした共産党は、社会党との人民戦線結成を模索していた。危機に陥った保守派政治家にとっては、思いきった改革案を提示する以外に、選択肢はなくなっていたのである。そして実際、GHQ草案を基にした政府の憲法改正草案が3月6日に発表されると、「改革の機運を先取した」保守政党は支持を集め、4月10日に行われた総選挙では、自由党が躍進し、政権を獲得した。したがって、GHQ草案は単に占領軍の圧力によって押し付けられたというよりも、保守派政治家の生き残り策として受容されたのである。さらに経済界も、政府の憲法草案について、日本社会の社会主義化を防ぎ、天皇制護持と資本主義存続という点で「大きな枠がはめられ、将来に対する一応の見透しがついた」として歓迎した(小熊英二『民主と愛国』160-161頁)。

日本政府は憲法改正草案を発表した4日後の3月10日には4月10日に新選挙法による衆議院議員総選挙を行うことを決定し、その選挙で選ばれた議会を事実上の憲法制定議会にすることを決定した。

このようなGHQと日本政府の合作による「上からの」性急な憲法制定の動きに対して、日本の人民からも、極東委員会(FEC)からも懸念と批判の声が上げられた。憲法研究会の主要メンバーであった高野岩三郎、鈴木安蔵は、社会党、共産党を中心に結成準備が進められていた統一戦線組織に対し、憲法制定議会をつくり、そこでじっくり憲法の審議をするよう申し入れた。3月10日には、山川均が呼びかけ人となって、社会党と共産党を連合させる民主人民戦線世話人会が発足し、3月15日には、憲法制定方法について、政府案のみを唯一の草案とせず、特別の憲法制定議会で草案を作成し、その後に国民投票にかけることを要求する国民運動を起こすことを提唱。4月3日の民主人民連盟結成準備大会でも「新憲法は人民自身の手で制定すべきこと」が確認された。4月7日には幣原内閣打倒人民大会が開催され、「民主憲法は人民の手で」をスローガンに掲げた

こうした考え方は、当時の世論においてもかなり有力であった。例えば、2月3日に公表された輿論調査研究所の調査結果によると、明治憲法73条により改正案を天皇が提出する方式を支持する者はわずか20%だったのに対して、憲法改正委員を公選して国民直接の代表者に改正案を公議する方式を支持する者は53%に上った。

一方、FECは3月20日、4月10日という早い時期の総選挙が「反動的諸政党に決定的に有利」になること、憲法草案について「日本国民が十分に考える時間がほとんどない」ことなどを挙げ、マッカーサーに対して、総選挙の延期を要請する書簡を発した。FECは総選挙の実施された4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためにGHQの係官を派遣するようマッカーサーに要求するが、マッカーサーはこれを拒否している。FECはさらに5月13日、新憲法採択の3原則として、「審議のための十分な時間と機会の確保」、「明治憲法との法的連続性」、「国民の自由意思を明確に表す方法による新憲法採択」を決定し、GHQに伝達した。ここでFECが「明治憲法との法的連続性」を挙げているのは、後になって日本国民の間から、新憲法が連合国の押し付けであるという意見が出るのを防ぐためであったと考えられている。

しかしマッカーサーと日本政府は、このような「審議のための十分な時間と機会を確保」し、「国民の自由意思を明確に表す方法」により「人民自身の手で」憲法を制定すべしという国内外の要求を無視し、帝国議会でできるだけはやく憲法を成立させるという点で利害を一致していたのであった。そして、衆議院で65日、貴族院で42日の審議を経て政府草案を修正のうえ、日本国憲法を可決成立させ、11月3日の公布に至るのである。

 

2016年2月28日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : inada

「押しつけ憲法論」の深層(1)日本国憲法の成立過程

(まえがき)

改憲論者の主張する「押しつけ憲法論」の真相と深層を解明するため、これから「「押しつけ憲法論」の深層」と題する記事を3回に分けて掲載する。第1回目は「日本国憲法の成立過程」、第2回は「マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか」、第3回は「憲法改正機会を握りつぶした日本政府」がテーマとなる。

 

(本論)

改憲論者の最大の根拠が「日本国憲法は占領下でGHQによって押しつけられたものだから」という「押しつけ憲法」論であることはよく知られている。日本国憲法の草案が1946年当時の日本政府に対して押しつけられたことは事実である。では、それはなぜ、どのようにして押しつけられたのか、日本国憲法の成立過程を改めて検証してみよう。

 

1.日本国憲法の成立過程

(1)ポツダム宣言受諾

日本政府は1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。米英中3国が7月26日に発表した同宣言は、「日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去」し、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」が確立されるべきこと(10項)を要求し、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立」されることを(12項)を求めていた。日本の敗戦が避けられない状況の中でなお、同宣言の公表から19日間もの間、日本の戦争指導者たちが同宣言の受諾を巡って逡巡し続けたのは、彼らにとっては「国体の護持」が可能かどうかだけが最大の争点だったからであるが、この間、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦、大阪大空襲などで、国民はさらなる惨禍を味わうことになる。政府は8月10日、「宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す」という申し入れをしたのに対し、連合国側の回答は、①「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国司令官の制限の下に置かるるものとす」、②「日本国の最終的政治形態は『ポツダム宣言』に遵い日本国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」(引用文は現代仮名遣いに改めた。以下同様)というものだった。

 

(2)憲法改正への序幕

ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本であったが、政府関係者の間では、それによって明治憲法の全面的改正、もしくは新憲法の制定が必要になるとの認識は希薄であった。むしろ終戦の詔書(8月15日)に「茲に国体を護持し得て」とあるところからも窺われるように、日本政府は敗戦という現実に直面してもなお明治憲法下の「国体」を維持できると楽観視していた。こうした認識は政府関係者ばかりではなかった。驚くべきことに、明治憲法下の代表的な立憲主義的憲法学者であった美濃部達吉や佐々木惣一、さらには美濃部門下の宮沢俊義がいずれも、明治憲法改正の必要性を認めていなかった(美濃部は10月20日―22日の朝日新聞で憲法改正不要論を唱えている)。

こうした状況を変えたのは、日本の占領統治に当たった連合国最高司令官マッカーサーである。マッカーサーは10月4日、東久邇内閣の近衛文麿国務相に対して憲法改正を示唆する。同日、GHQが発令した自由の指令によって、翌5日には東久邇内閣が総辞職するが、後を受けた幣原喜重郎内閣の下、近衛は佐々木惣一とともに内大臣府御用掛に任命され、佐々木とともに憲法改正作業に着手する。一方、マッカーサーは10月11日、幣原に対しても憲法の自由主義化を指示し、これを受けて幣原は松本烝治国務相を主任とする憲法問題調査委員会を同月25日に設置する。この委員会には顧問として美濃部達吉ら、委員には美濃部門下の宮沢俊義・清宮四郎らが含まれていた。つまりこの時点では、近衛ラインと幣原ラインという全く異なる2系統で、憲法改正作業が進行し始めていたことになる。ところがこの直後、米国の内外で近衛の戦争責任を問う声が高まったことを受けて、GHQは11月1日、突然、近衛との関係を否認するに至る。それでもなお、近衛と佐々木は同月22日と24日、それぞれ憲法改正要綱を天皇に奉答するが、GHQが12月6日、近衛らに戦犯容疑の逮捕指令を出すと、近衛は巣鴨刑務所に出頭予定の16日、服毒自殺を遂げ、彼らの憲法改正作業は何の意義も発揮せずに終了した。

憲法問題調査委員会(通称、松本委員会)は12月8日、①天皇が統治権を総攬するとの原則の維持、②議会の権限拡大、③大臣の対議会責任、④権利自由の拡大と救済手段の完備、という「憲法改正4原則」を衆議院で表明した。以後、松本委員会はこの方針に沿って検討を進め、1946年1月末までに、いわゆる松本私案、それを(主に宮沢が)要綱化した甲案、委員の意見をとりまとめた乙案の3案の成立を見た。しかし、これらの改正案が公表される前の2月1日、毎日新聞が松本委員会試案をスクープするに及び、その内容があまりにも守旧的・保守的であることを知ったマッカーサーは、GHQ自ら改正案を作成し、日本政府に「押し付ける」ことを決意した。その背景には、前年(1945年)12月27日に行われたモスクワ外相会議で、対日占領政策の最高意思決定機関として同年(1946年)2月26日に極東委員会が設置されることが決定しており、マッカーサーとしては、同委員会が活動を開始する前に憲法改正問題を決着させておく必要があったからである。すでに、日本における共産主義勢力の伸長を防ぐために天皇制の温存と天皇の戦争責任からの免責を決意していたマッカーサーにとって、極東委員会による天皇および天皇制への批判を回避するための重要な手段として、民主的な憲法を制定しておくことがどうしても不可欠だと感じられたのである

 

(3)GHQ草案

マッカーサーは2月3日、GHQ民政局で憲法草案を作成するに当たり、①天皇は最高位にあるが、その職務と権能は人民の基本的意思に従う、②戦争の放棄、軍隊と交戦権の否認、③封建制の撤廃、貴族の特権の廃止――という3原則(マッカーサー3原則)を示した。民政局は翌4日から憲法草案起草作業に入り、10日に草案を脱稿、マッカーサーに提出後、微調整を続け、12日にGHQ草案が完成した。その間、日本政府は8日に憲法改正要綱をGHQに提出し、13日にGHQ側と協議を持つことを約した。そこで、日本政府代表(吉田茂外相、松本烝治国務相ら)は13日、憲法改正要綱(松本案)への回答を聞くつもりでGHQとの会談に臨んだところ、GHQ側から松本案の受け取りを拒否されたうえ、逆にGHQ草案を手交されたのである。日本政府にとってはまさに「青天の霹靂」であり、日本国憲法の「受胎告知」の瞬間でもあった(古関2009)。日本政府はその後もGHQ草案への抵抗を続けるが、GHQ側から、この草案に基づく憲法改正こそが天皇の安泰を保障するものであること、これに基づく憲法改正作業を始めないなら、GHQが自ら国民にこの草案を提示すると示唆されたことなどから、2月26日になってようやく、GHQ草案に基づく日本案の起草を決定した。まさに極東委員会がワシントンで第1回会議を始めた日であった

 

(4)政府の改正案公表と帝国議会での審議

日本政府は3月2日にGHQ草案に基づく改正案をまとめ(3月2日案)、4日にGHQに提出した。そこで、佐藤達夫法制局部長はケーディス民政局行政課長らGHQ側と5日午後までかけて修正作業を行い、日本政府は閣議でこの修正案(3月5日案)の採択を決定した。翌6日、政府は「憲法改正草案要綱」発表し、マッカーサーはこれを承認する旨の声明を出した。その後、政府は同草案要綱を口語化したうえ条文の形式に整備し、4月17日、内閣憲法改正草案を発表した。同草案は枢密院の諮詢を経たのち、明治憲法73条所定の改正手続に則り、6月20日、勅書をもって帝国議会に付議された。帝国議会ではまず衆議院での審議でいくつかの修正(「至高」から「主権」への変更、第9条のいわゆる「芦田修正」など)ののち8月24日に可決され、その後貴族院でさらにいくつかの修正(普通選挙制、両院協議会、文民条項追加)を経て、10月6日可決され、10月7日、衆議院は貴族院からの回付案を可決し、憲法改正案が成立し、11月3日、新しい日本国憲法が公布され、半年後の1947年5月3日、新憲法は施行された。

 

(5)「押し付け憲法」論をどうみるか

では、以上のような、日本国憲法の制定過程において、GHQが主導的かつ決定的な役割を果たした事実をどう考えればよいだろうか。占領終了以後今日まで、9条「改正」を眼目とする憲法改正論者たちは、現憲法がGHQによる「押し付け憲法」であると繰り返し主張してきた。制定過程を見れば、GHQ草案がGHQによって日本政府に押し付けられたことは疑問の余地がない。しかし、世論調査等から判断すれば、国民の多数は毎日新聞のスクープした松本草案には批判的で、GHQ草案に基づいて(当時日本国民はその事実を知らされていなかったが)日本政府が起草した政府案要綱を圧倒的に支持していた。したがって、国民がGHQ草案を押し付けられたとは言えないだろう。しかし、本来、国民主権の憲法であれば当然そうあるべきであるように、国民自身が政府に押し付けた憲法でもなかった。もちろん、当時、国民主権の立場に立った民間の憲法草案もいくつか発表されてはいたが、連合国総司令部とその背景にあった国際世論の力がなければ、1946年という時点において、国民主権を明記した憲法が採択されることはなかっただろう(樋口1992:64)。その意味で、日本国憲法は国民主権の理念を高々と謳いながらも、その実際の成立過程はそれにふさわしいものではなかったという弱点を持っていたことは否定できないだろう。

米国への併合を夢見る丸山議員

先日(2月17日)、自民党の丸山和也参院議員は参院憲法審査会で、「米国は黒人が大統領になっている。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ。はっきり言って」と人種差別発言を行った。その際、私が目にした報道では、もっぱらこの「黒人大統領」という人種差別発言のみにスポットライトを当てた報道の仕方がなされており、もちろんこれが言語道断の発言であることは言うまでもないが、実はその前段階で、憲法問題に関わる重大発言も行っていた。

東京新聞(同18日)の発言要旨によれば、丸山議員は、「ややユートピア的かもしれないが、例えば、日本が米国の51番目の州になることに憲法上どのような問題があるのか」と述べたのである。

信じがたい発言である。日本が米国に併合されることを「ユートピア」と呼び、憲法上の問題がないと放言したのである。新憲法制定どころの話ではない。日本国憲法はもちろん、日本という国も日本国民という国民もなくなる、という話である。日本国憲法が全く想定していない事態である。言語も文化も歴史も全く違う国、しかも太平洋を挟んで遠く隔たった国に併合して欲しいという願望を吐露してしまったのである。

自民党の政策はアメリカへの「自発的隷従」と呼ぶに相応しいものだが、丸山議員の発言は、まさしく自民党の“奴隷根性”をあけすけに表明したものである。「正直さ」という点では、麻生副総裁の「ナチスの手口を見習え」発言と並んで“横綱級”であろう。

ついでに言うと、政治家ではなく官僚だが、かつて谷内正太郎・元外務事務次官は『中央公論』2010年9月で、アメリカと日本の関係を「騎士と馬」の関係に喩えたことがある。日本の外務省は米国務省の日本支部であるといわれるほど、アメリカのために働くことを使命としている役所であるが、この元外務事務次官は、日本はアメリカという騎士の言いなりに動く馬(!)だとまで発言したのである。ちなみに、谷内正太郎氏は、第1次安倍政権発足時、「我々は20年間このときを待っていた。絶好のチャンスだ」とも語っている。安倍政権を支える官僚たちがどのようなものか、これでわかるだろう。

「人類普遍の原理」とは何か

日本国憲法の前文には、「これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである」という一文があり、その後には、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という文が続く。後者の「これ」が「人類普遍の原理」を指していることはすぐにわかるが、前者の「これ」、すなわち「人類普遍の原理」とは一体、何のことだろうか。私はこの問題を調べるために、10冊以上の憲法学の教科書を紐解いたが、私が調べた範囲では、この言葉を解説したものは見当たらなかった。なぜだろうか。簡単すぎて、わざわざ説明するほどの事柄ではないからだろうか。そうではない、と私は思う。むしろ、多くの人がこの言葉の意味を誤解しているのではないか、と思い、この文章を書くことにした。 続きを読む

風とともに去ったのか立法府の優位

 このごろ衆院予算委員会のTV中継放映を見ていると立法府の行政府に対する卑屈さが感じられて仕方がない。「政府寄りでない」野党議員が首相に、「お願いします」とか、質問の締めくくりに「有難うございました」と礼を言っている。
 憲法前文第1項第1文の「正当に選挙された国会における代表者を通じて」国民が行動するのが、わが憲法の最高政治原則であり、これに対比して、政府には、その「行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」、国会は厳格に憲法を適用して政府を統御しなければならない。
 憲法によって、国会が国権の最高機関であって、内閣は国会によって、その職を与えられる下級機関でありながら、国会のひな壇に大臣が座り、議員は平場に座らせられている。アメリカでは国務長官ですら平場にあって、ひな壇にいる議員の質問に答えている。
 これらのことはパンフ『日本国憲法が求める国の形』作成の過程で、私が教わったことだが、アメリカの大統領制、日本の議院内閣制という政治制度の違いが、国会と政府の重み逆転の原因なのだろうか。どうしてもそうとは考えられない。
 日本の議員は自分で行政府の立法府に対する優位を日本の常識にしようとしているとしか見えない。だから2月10日の衆院予算委員会で「次の選挙前に議員定数削減を決めよ」と迫る野党議員に、首相は2021年以降に先送りすると答弁する過程で、「総理の国会解散権は何ら制約されるものではありませんが」との片言をぬけぬけと公言しても、会場になんの風波も立たないほど、行政権の立法権に対する優位が常識にまでなっている、と憤慨するのは、古風過ぎるのだろうか。
 憲法制定時にあったと思われる立法府の優位は風とともに去ったのだろうか。

2016年2月13日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 福田 玲三

放送の自由を威嚇する高市総務相は辞任せよ

朝日新聞(2月10日)の報道によると、高市早苗総務相は9日、衆院予算委員会で、「憲法9条改正に反対する内容を相当時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるのか」との玉木雄一郎議員(民主)の質問に対し、「1回の番組では、まずありえない」が、「将来にわたってまで、……罰則規定を一切適用しないということまでは担保できない」と述べ、放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性に言及した。

重大な発言である。放送局が「憲法9条改正反対」、すなわち憲法の尊重を訴える番組を長時間放送すれば、総務大臣が放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性があると発言したのである。実際に電波を停止するまでもなく、この発言だけで、放送局に対する脅しであって、「表現の自由」(憲法21条)を脅威にさらすものである。しかも、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負う公務員である総務大臣が、憲法擁護を訴える番組を「政治的公平性を欠く」と見なし、それを理由に電波停止命令の可能性を示唆したものであり、憲法に定められた「憲法尊重擁護義務」に違反して「表現の自由」を侵害しようとしたものであって、二重の意味で憲法を蹂躙する重大な発言である。 続きを読む

2016年2月11日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : inada

安倍内閣の倒錯した「立憲主義」理解

安倍首相が年明け以降、改憲への欲望を前面に押し出しにしてきている。年頭記者会見(1月4日)に始まり、衆院予算委(同8日)、NHK番組(同10日)、施政方針演説(同22日)など、ことあるごとに、参院選での改憲の争点化を明言している。これまで安倍首相は、選挙前には改憲という本音の争点を隠し、選挙が終わると特定秘密保護法や集団的自衛権の閣議決定、安保関連法制など、念願の立憲主義破壊活動を着々と進めてきた。その安倍首相が、ここにきて、甘利辞任後も落ちない内閣支持率を見て、本音をむき出しにしてきたのである。国民はいよいよ、敗戦の焦土の中から勝ち得た自由と民主主義を、安倍政権とともにゴミ箱に投げ捨てるのか、それとも安倍政権から守り抜くのかの正念場に立たされたのである。

 

2月3日の衆院予算委では、「憲法学者の7割が違憲の疑いを持つ状況をなくすべきだという考え方もある」という暴言を吐いた。安倍首相の側近と言われる自民党の稲田朋美政調会長が、「現実に合わなくなっている9条2項をこのままにしておくことこそが立憲主義の空洞化だ」と述べたのに応じたものである。朝日新聞も6日の社説で「首相の改憲論、あまりの倒錯に驚く」と述べていたが、過去、ここまで憲法を無視し立憲主義を愚弄した政権はない。問題は、ここまで立憲主義を愚弄している安倍政権は、立憲主義の意味を理解したうえで、確信犯としてやっているのか、それとも、立憲主義の「り」の字(意味)も知らずにやっているのか、である。どちらが一層恐ろしいかについては、議論が分かれるかもしれないが、私は後者の方が圧倒的に恐ろしいと思う。前者であれば、「本当は権力者がやってはならないことをしている」という後ろめたさがどこかにあるはずだから、多少の心理的ブレーキがかかるものだが、後者であれば、そもそも罪の意識自体ないため、やりたい放題になる恐れが強いからである。そして、安倍政権が後者であることは、数々の証拠が示している。以下に、いくつかの証拠を挙げる。 続きを読む

2015年 多摩川45キロウオーキング参加記

20151231多摩川45キロウォークこの年になると日々にわが身の老化が感じられる。腰がまがる、足元がふらつく。手すりなしには危なくて階段を下りることができない。<昨日できたこと明日できると思えば大間違いだ! >、だが他方で、<すべてが一度に変わることもない>。この矛盾した考えのなかで、10月17日(土)多摩川45kウオーキングを迎えた。

1週間まえに、マイクロバスの旅行に誘われ栃木の方に行ってきた。帰途、ながく座っていたためか右の股関節に違和感がうまれ、それが右膝頭の痛みになり、さらにそれが左膝に移ったのが、やっと消えた。

JR五反田駅のホームで5:00に娘と待合わせ、中央線快速をへて、青梅線の羽村駅で下り、小雨の駅前コンビニで明日の朝と昼のおむすびや稲荷、パン、お茶など2人分、1,480円を買い、予約していたプラザイン羽村で、個室@6、100円、2人で計12,200円を払った。このホテルのバイキングは@1,200円と大衆的で、トマト、胡瓜などの生野菜に、南瓜はフライ、蓮根は酢のもの、ポテトサラダ、ビーフン、さばの煮付け、鶏の唐揚げ、うずら金時、シュウマイ、餃子、春巻き……と、日頃自炊の定番と異なる小物がたくさんあるので、それを肴に、生ビールで乾杯し、なくなればまた皿にとり、仕上げは山菜ご飯とシジミの味噌汁、そしてコーヒー。2人で計3,780円だった。

21:50に消灯24:00に小用、そのあと目が冴えて眠れぬまま2:30に小用、恐怖に震えた。いつものインスタントではなく、レギュラーコーヒーを飲んだためか、3年前、千葉の土気で12時間耐久レースに参加したとき、前夜に一寝入りしたあと一睡もできないまま朝を迎えたことを思いだした。<神頼みをしても、羊の数を数えても、いつ眠りに入るかは誰にも分からない>と脅えながら、幸いにとろとろと眠り込み、4:40にカウンターからのベルで目覚めた。5:00にホテルの玄関を出るとき昨夜からの小雨のためにリュックの上からビニールのレインコートを被ったが、小糠雨にぬれたまま出て行くグループもあった。5:30のスタートに遅れないよう、まだ暗く人気のない街道の赤信号を渡っていると、後ろから「だめだよ!信号を無視しちゃあ」と怒鳴られた。ポリスかな、案内人かなと娘と話していると、後ろから追いついてきた男が「ウオーキングに参加するものがルールを守らなくてどうする!」とまた怒鳴って追い越していった。ただの参加者のようだった。悪い幕開けだ。

昨年は迷ってしまった夜道を、案内の看板をたよりに羽村取水堰玉川兄弟像にたどりつき、もう列をつくっている20人ほどの後に並ぶと、朝の弁当を食べる場所を目でさがし、東屋の庇のかげの腰掛けで、鮭の入ったむすびを1つ食べたところで列が動き出し、昆布の入ったむすびを食べながら、娘が順番をとっている列にもどった。

のろのろとした受付を終え、コースの地図と水をもらい、45kmコースと印刷されたゼッケンを安全ピンでリュックに付けたが、スタートの位置が分からない。「どこから出るの?」「赤いランプがあるでしょう」と係員が言うが、そのランプが見つからない。娘は係の人に何やら尋ねている風。やっと娘がよってきて「ランプはあそこよ」。スタートのラインを超えたのは5:40だった。小雨のせいか先をゆく人も、後の人もすくない。ポールをこのウオーキングで使うのは初めて。右側を流れる多摩川に朝靄が立っているようだが、それを確かめる余裕もない。レインコートに蒸されながら歩いていると、娘が「パパ1k、14分よ」。言われて愕然。「水をのむ?」「また後で」。

スタート5:30、ゴールは16:00。この10時間30分を45kで割ると1kちょうど14分。前半は1k12分以内が目安だ。この3月の伊豆大島マラソンで最初の5キロは55分だっことを思い、心が青ざめた。<やはり日々に老化している!>。

道は小さな公園に入り、舗道の水溜まりを避け、道の端の段差に足を掛けたり、ぬれた芝生を横切ったりしなければならず、両手のポールで慎重に転倒をふせぐ。急いだつもりなのに、この1kは13分、次の1kがやっと12分。見通しは暗い。雨が上がり、娘が後ろからレインコートを脱がせてくれ、彼女の手持ちのバッグに入れた。レインコートを脱ぐと身体と気分が晴れる。

また雨がふりはじめた。レインコートを歩きながら着せてもらい、思いは沈んだ。<加齢とともに速度が衰えるのは神の摂理だ。ウオーキングに挑戦できただけでも幸福と思わねばならない>。そう考えても心は晴れない。<先輩として若い人に大切にしてもらっているが、それもフルマラソン完走で重みが加わっている。このウオーキングでゴールできなければ、その重みも失われるだろう>。腰が曲がり、ひょろひょろ歩く情けない自分の姿を一瞬思い浮かべ、<命長ければ恥多し>、もう生きたくないような気になった。「最初の10分のロスは痛いね。まだスタートではないと思っていたの」と娘が悔む。速度を持続できれば10分のロスは取り返せるのだが。

雨が弱まり、中年で小柄な人としばらく並行した。<この人に付いて行こう>。昔のマラソンの記憶がよみがえった。スタートの号砲が鳴ると、みんな一斉に矢のように走りだし、その後に残されたランナーのなかで、ゆっくりと安定した速度の人を見つけて、その後につく。ここで離されればゴールは望めぬと、死に物狂いでついてゆく。5kごとのテーブルに、ランナーが立寄って水をのめば、それをチャンスに追い越して束の間のゆとりを楽しみ、やがてまた追いつかれる。

今は、黒いズボン、黒いジャンバー、灰色の帽子をかぶったその中年のランナーの足元を見つめ脇目もふらずについてゆく。五日市線の鉄橋下を通るとき、彼は橋を下からカメラで写していた、土木関係の人なのだろうか。そのとき彼を追い越し、助かった思いで歩き続ける。そのあとは1k12分が続いた。わずかに希望が湧いてきた。

少しでも気を緩めると、追いついた彼に間を空けられる。そこで彼のリズムに合せながら、やや大股にあるくと楽な気がした。しばく行くとまた離されたので小走りで後についた。すると歩くよりも、マラソンの小走りに慣れている気がした。

河川敷が行き詰って堤防にあがる階段では、両手のポールを支えに、一段ずつやっと上がらなければならない。堤防の上にあがると、後ろに参加者が三々五々に続いているのが見えたが、ここで先行者に離されたので、また追いすがる。

しばらくして今度は河川敷におりて、丈の高い草の間をぬけるコースに入った。多摩川緑地の30kコース・スタートの地点だ。先行者のかがとを見つめ、根をつめて歩いているうち、右膝頭に痛みがでた。右足を引きずる最悪の事態が脳裡をかすめる。<栃木の旅行の疲れがでたのか>。すると今度はその膝の力が抜けて空をふむ気がする。幸い大事にはならないようだが、気にすると、また痛む。30kスタート地点にはいると、去年は草地に寝転がって腰を伸ばしたが、今年は小雨が降っているので、それができず、立ち止まってポールを支えに腰をのばし、娘の出してくれたポカリスエットを4口5口飲み干して、彼を見ると、立ち止まりもせずに草地をぬけてゆく。あわてて娘とふたり、その後を追う。草地の一角にあつまっている人々は30kコース参加者のようだ。

30kコースのスタート地点となれば、すでに15k歩いている計算になる。ところが注意して見てきた路上の距離表はまだ15kになっていない。<どうせいい加減なんだから!>。昨年はこれで失敗した。ゴールの手前、最後の15kほどのところで、突然、旗をもったガイドに「48kコースの人はこの橋をわたって対岸に行き、次の橋でこちらの岸にもどり、その次の橋で対岸にゆき、その後こちらの岸にもどってください」といわれたのだ。これでがっくりきて意欲を失い、ついにタイムオーバー、失格となってしまった。

今年は去年より3k少ない45kコースに修正されているが、この後どうなるのか不安をかかえたまま、しばらくゆくと木の吊橋があった。去年はここで橋板のわずかな段差につまずき、他愛なく転倒、娘と鳥丸さんに手をとって起こしてもらった。警戒しながら橋をわたると、コースのなかでここだけ街中を通るせまい道で、タクシーをやっと避けられるほどだ。そこを抜けると多摩川の堤防にでる。

多摩川緑地で私たちを置き去りにした彼の姿はもう見つからない。雨はあがり明るくなりはじめコートを脱いだ。そこからが長い長い堤防上の道だ。30kコースのゼッケンをつけた若い男女に追い抜かれる。去年はこの道をサイクリストが猛烈なスピード走りぬけていた。今年は雨のせいか大学のランナーが一団となって駆け抜けるだけ。それでもぶつかると跳ねとばされかねない勢いがある。

腰が曲がっているため、はるか先のもやのなかの南武線鉄橋を上目に見て歩く。私はいつも朝食なしだが、腹がへっては歩けないので、早めの食事にした。娘が手提げからお稲荷さんを出し、関戸橋のトンネルに身をよせて食べると、ほのかな甘み、適度のしめり、さわやかな歯切れで、一つの稲荷を3口で食べた。この後は先で、と思っていたが、2度手間になるので、もう一つをついでに食べた。娘の出してくれるポカリスエットで口をゆすいだ。

元気をつけて歩いていると中年で大柄の太った男性がゆっくりと私たちに追いついてきた。しばらく並行して歩いているうち、この人の後につくことにした。彼のリュックには35kmコースのゼッケンが着いていたが、太っているので速度の上がる心配はないだろう。南武線の鉄橋を過ぎ、是政橋のたもとを過ぎ、稲城大橋を過ぎると、多摩川にそそぐ支流の橋にかかった。去年はこの橋の欄干で腰を伸ばしたものだが、今年はポールを使っているのでそのまま通り過ぎ、多摩川原橋の手前で河川敷におりると、ほどなく去年17kコースのスタート地点だった多摩川児童公園に入る(今年は17kmコースがなくなっていた)。去年はここで草地にすわって昼食を食べたが、今年はタイムオーバーを恐れて素通りすると、小石まじりで歩きにくい道になる。雨は上がり、陽が射してきた。コースは再び堤防に上がり、前方を見晴らすが、次の橋、いつもマラソン練習で親しんでいる多摩水道橋が見当たらない。多摩川が湾曲していているせいだ。

できるだけ早く多摩水道橋に着きたい。そしてゴール前の1~2kは余裕をもち、回りの景色を楽しみながら歩きたい。そのためには今のうちにできるだけ時間を稼がなければならない。2年前、あのときは50kmコースの設定だったが、多摩川大橋を折返してガス橋のゴールに向かったときは、娘と二人、河川敷の草を踏み、西に傾く陽にてらされながら、余裕をもって歩いた。三々五々、これから折り返しにむかう人たちとも行き合い、ゴールに入ったのはリミットの25分前だった。

堤防の並木の陰にいくつかのベンチがあり、そこに腰掛けている人々がいる。めざす多摩水道橋が見当たらず、疲れはてて立ち止まり、ポールを支えに一休みし、「お昼にしよう」娘を誘った。人のいないベンチを探し、いま出ていった人の後に腰を下ろし、足をのばす。

娘が手提げから出した赤飯のお結びと巻き寿司、お稲荷さんを食べると、よろよろしながら並木の陰で用をたし、すぐに出発する。あの先行者は私たちがやすむ前にどこかに寄り道して姿が見えなくなっていた。まえを歩いている中年の女性が、歩度を緩めながら、スタート地点でもらったコースマップを見ている。「多摩水道橋が見えませんね」と声をかけると「心配なんです」という。関門があって、そこを12:30までに通過しないと失格すると書いてあるという。それは初耳だ。そのマップをちらっと見て「もうずっと前に通過しましたよ」と言ってはみたものの、娘が手提げからマップを取り出して、関門の場所が良く分からないと言うのをきくと、つい不安になってしまった。時刻はまさに12:30になろうとしている。前方の三叉路に小旗をもった女性がいる。もしやあれが関門? 娘が小走りに駆けて行き、言葉を交わしていたが、こちらを見てにっこり笑った。もう関門は通過しているというのだ。40分ほどまえに通り過ぎた多摩川児童公園の近くにあったのだそうだが、通るときには何も気づかなかった。

三人で「良かった」と喜びながら歩いていると、ようやく見慣れた多摩水道橋が見えた。橋のたもとのトンネルをくぐり抜けたのは12:44。ここから二子橋まで5k、そこから丸子橋まで5k、さらにガス橋まで3kほど。ガス橋のどの辺りにゴールがあるか分からないが1k12分で行けばゴール時間の4時を30分前にクリアできそうだが、練習のとき、このコースは1kに16分かかっている。そのペースだと3時間28分かかり、28分のタイムオーバーになる。最後の1、2kmは余裕をもって景色を見ながら歩きたい、その思いは適いそうもない。

「どう?ゴールできそう?」娘が聞いた。「うーん、かつがつだ。この後は回り道を指示されても、もう二度と回らないよ!」と去年の悔しさが残っている。

コースは河川敷に下り、ほどなく狛江水辺の林のなかの土の道になると、主催者は気づかなかっただろうが、道は泥んこ、大きな水溜まりの縁を転ばぬように注意して行かねばならず、その先は犬1匹がやっと通りそうな小道で、濡れた草を踏み分ける。小道をでると警視庁のオートバイ練習場にそった運動場がひらける。「ちょっと寄るから先に行っといて」。簡易トイレを見つけて娘が近づくが扉に錠がかかっている。しばらく行って見つけたトイレにも錠。運動場をすぎると緑の原っぱで、先行者たちは野原の先の薮のなかに消えてしまった。薮のなかに小道を見つけ、高台になった河川敷に上り、そこを抜けるとラグビー場と2面の野球場がある。そこのトイレは開いていた。

娘のリュックと手提げをあずかり長椅子に腰掛けて束の間、足を休めた。用を足した娘とつれだってすすむと、サッカー場、テニスコート、5面の野球場をもつ世田谷区立の公園に入り、勝手を知ってる道なので大曲している参加者を横目に、芝生のなかを突っきり、やがて兵庫橋を渡って二子橋にでると14:11で、予定を大分オーバーした。新たに整地された多摩川台公園の道は歩みやすく、ここぞとばかり息をととのえ歩を速める。この先に「残り約5km!がんばろう」マップに書かれた地点があると娘がいう。公園を抜けると道は小石まじりで歩きにくい。去年、監視員に迫られてリタイヤした場所のあたりでは息が苦しく、<こんなに無理していいんだろうか>、と一瞬、恐怖に襲われた。「昨日まで元気そうだったのに急にポックリ逝くなんて!」。そんな噂が耳に聞こえた。思わず、立ち止まって息をつく。「ちょっと休憩しようか」。去年、座り込んだコンクリの台に身体をあずけ、娘のだしてくれたポカリスエットで喉をうるおす。大柄な夫婦が目のまえを行過ぎる。「みんな元気だなあ!」とつぶやいて後方をみると参加者がまだまだ散り散りに続いているが、気を許してはいられない。去年はリタイヤして、足を引きずりながら歩いた巨人多摩川練習場に沿った大きな曲がりを終えて、娘が小柄な監視員に後何キロかたずねた。これは半ば真面目に半ば気休めに聞くのだ。監視員に「あと5k」と言われてがっかりした。これはでたらめだ。今年初めてこの催しの協賛団体になった札付きの産経新聞のせいに思わずしてしまった。これまで経験した普通の新聞の共催するマラソン大会でこんないい加減なことはなかった。

調布取水堰に止められて水量豊かな岸に沿って新たにつくられた道をぬけ、丸子橋の下をくぐったところで娘が監視員に聞くと「あと3k」だった。「ここからゴール見えますか?」と問い直したが、歩きながらなので返事はなかった。

前方に白い横断幕があり、これかと思って近づくとどこかの学校の運動場の表示だった。丸子橋のたもとを過ぎたのが15:20、あとタイムリミットは40分ほどだ。私のせいで娘を失格させたくない。「あと10分したら、あなただけ先に行ってゴールして!」と娘に言うと、「うーん」と煮え切らない返事。

「パパ、速いよ1k12分できている」。

ゴールらしい天幕がようやく前方に見えてきた。タイムリミットまで15分になった。「かまわず先に行って」「一緒にゴールできるんじゃない」と娘。ここまできたらゴールしたい。ラストスパートで足を速めた。前を歩いていた黒のウエアを着たおっとりとした若者を抜いた。この若者も後続の人たちも、こんなにタイムリミットが迫っているのに、慌てたところがない。<タイムオーバーになったら後続の人たちと一緒に、完歩にせよと主催者に強訴しようか、雨降りを理由に>とは思ってみたものの、できれば自力で綺麗にゴールしたい。

あと5分になった。「先に行って!」。テープを張ったゴールが見えないので、娘は「どこがゴールなのか聞いてくる」、駆け出し監視員に近寄って言葉を交わし、こちらをむいて胸のあたりで手を横にふった。一瞬ぎくり、タイムオーバーの合図と思った。

「少し遅れても構わないんだって」。その監視員が神様に見えた。突き当たりを右におれ、また左に折れたところにゴールがあり、15時59分にすべりこんだ。タイムリミットの1分まえだ。最後の1- 2kmを余裕をもって歩くことはできなかったが、それでも自力で完歩できた。思えば、多くの人はこのように生涯の最後まで生活に追われているのだろう! スタート地点で確認印をおした案内葉書を提示して「45kmコース完歩証」をもらった。そこにはタイムも名前も入っていなかったが。

とりあえずゴールを去り、完歩者たちが座って休んでいる芝生で、空いたパイプの椅子に腰かけ、背をのばした。その間、後続の人たちが次々にゴールしている。これまで気づかなかったマラソンとの決定的な違いを、このとき知った。マラソンではテープ目前、10秒おくれても失格だ。(荒川マラソンで7時間制限を7:05:24でタイムオーバーになったが、スタート時点でのロスを減算して、ネットタイム6:59:08で完走、になったことがあった。2004年3月のこと。当時、私は80歳台で1k10分で走っていた。その後の10年間に1k12分になってしまった。)後続の人が慌てなかった意味が分かった。

タイムリミットの16:00から、関係者は片付けをはじめたが、その後、すくなくとも30分、後続の人たちがゴールしていた。これで、あれほど恐れていたタイムアウトに30分の余裕があることを確認した。来年の参加も可能という希望がわいた。一番嬉しかったのは、昨日までと同じ日々を、明日からもまた送れることだった。

電車を乗り継ぎ帰宅したのは7時ごろだった。夕食を済まし、10時半ごろに就寝、3時ごろ小用に立ち、7時に起床した。疲れが過ぎると掛け布団を夜中に重く感じることがあったが、この夜は案外安らかに眠り、疲労もとくに残らず、その次の日、両肩がやや凝ったような気がしたが、それも消えた。

新年1月の「安倍政治を許さない」集会

安倍政治と日本社会を憂えるみなさま
新しい年の1月予定表に以下をメモしてください!

1月3日(日)
朝から 「安倍政治を許さない」ポスターの一斉掲示
13:00~ アベ政治を許さないアクション(国会前)

1月4日(月)
12:00~戦争法廃止!安倍内閣退陣1・4国会開会日
総がかり行動(衆議院第2議員会館前)
有志は11:30・日比谷図書館玄関集合。

以上、1年間たいへんお疲れ様でした。来る2016年も意気強くまいりましょう!

憲法は断末魔を生きている

安保法案が通って、憲法9条はなくなったなどの話があふれているらしい。またまた騙されて、安倍の思い通りになるんじゃない。憲法も、9条もの生きているのだ。
依然として、自衛隊は専守防衛。つまり、先に銃を撃ってはならない。通常の軍隊ではありえない。敵を見たら即殺すのが軍隊なのだから。これは9条の縛りだ。
憲法76条第2項に「特別裁判所はこれを設置することができない」とある。明確に軍法会議を禁止している。
戦地に行って、脱走する兵士がいても、今の法律でしかさばけない。軍は普通に「軍法会議」という「軍裁判所」を持っている。これがなければ、脱走兵や敵前逃亡に速効的・効果的な裁判が出来ない。いまの自衛隊は一般の裁判にかけるしかないのだ。
憲法が死んだと思って捨てるか、生きているところを最大限活用するかに今後がかかっている。憲法は断末魔を生きている。負けてはならない。

2015年12月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 大西