本の紹介 『私の孫たちへ――平和憲法を手離すな』

%e7%a7%81%e3%81%ae%e5%ad%ab%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%b82 最近、知人から紹介されて 『私の孫たちへ――平和憲法を手離すな』と題する冊子(A5判72ページ 2016年6月23日発行)を読んだ。著者は高村譲氏。1934年(昭和9年)生まれの82歳、元小学校教諭。
「私の孫たちへ」とのタイトルにもあるように、まさに次世代のために思いを込めて書かれた一文と言える。
著者は若いころ、政治的には「呑気学生」だったようだ。戦後の「逆コース」が始まって「再軍備反対」などの激しいデモなどに少しは興味を持ったが、それでもデモは「他人事」だったと言う。そして後になって、この時に自ら行動を起こさなかったことを「悔いとして」いると言う。
こうして自分史を語りながら戦後70年の政治史を振り返り、「戦後間もなくから、日本の政治は弧を描くように、戦時中、私が経験した時代に帰り始めていた」のに、これを「食い止めることができないできた私たち世代の不甲斐なさと責任」を感じていると言う。
自らの人生の反省も踏まえながらの、次世代の子や孫たちへの切なる訴えに共感を覚える。
自費出版とのことゆえ、残部があるかどうか不明だが、関心を持たれた方は、直接下記にお問い合わせください。(草野)

横浜市泉区和泉町中央南3-14-37
高村 譲

私と憲法

製錬所のある島
福田玲三

晴着の人を満載しただるま船は対岸の岡山県玉島に向かった。冬の陽はきらめき、海は手の切れるほど澄んでいた。

社宅の奥さんたちは、上方歌舞伎の玉島にくる今日を楽しみにしていた。テレビもラジオもない時代だ。製錬所の高い煙突から出る煙は、島の土をむき出しにし、工員たちは濡れ手拭いを鼻にあて、溶鉱炉の回りを走り回っていた。奥さんたちの出かけたあとの静かな社宅で、母はつくろいものをしていた。母は一度も芝居見物に行ったことがなかった。紅も白粉もつけず、油の代わりに水で髪を整えていた。
翌朝、夜の明けぬうちに、泣き止まぬ長女の鈴江をねんねこに背負い、母は暗い浜辺に出た。若死にした母の兄(私の伯父)の子供が、京都に出て苦労しているという。自分が家出して大阪で仕事を探しているとき、月々心遣いを送って励ましてくれた兄、そしていまは親のない子。
「親代わりに、できるだけのことをしてやろう。それが兄への恩返しだ」身を切る潮風にびんのほつれをなぶらせながら、その思いが身体を暖めるのだった。背中の子をあやしながら、海につき出た棧橋を踏んで行った。橋げたの間を流れる潮の音が、暗い海面から聞こえてくる。ひき返そうとしたとき、下駄が滑って片膝ついた母の背中のねんねこから、すっぽりと子が抜けて厳寒の空に飛んだ。間一髪、娘の着物のはしをつかんで引きよせ、しっかり抱いて、濡れた棧橋に膝をついたまま、母の動悸はしばらく収まらなかった。
海は、黒い無気味なうねりをくり返し、時に上がる飛沫は刺すようだった。わずかな風のためか、夜明けの青い星がまたたいていた。そして夜が白々と明けたころ、母はあやまちのなかった喜びに、大きな痣(あざ)のできた膝の痛みも忘れ、人の動きはじめた社宅にそっと帰ってきた。

数日後、何におびえたのか鰯の大軍が、浜辺におしよせ、世界大戦後の不況を予告するかのように、海は暗く染まった。母は社宅の奥さんたちと、砂浜で飛び跳ねる鰯を、バケツ一杯とってきた。これで何日か副食代が浮くはずだ。
その夜、親子三人の食事を取りながら、母は、きりつめておくった郵便小為替はもう着いているだろうかと、京都の暗い下宿の電燈の下で、淋しい食事をしている甥の姿を思い、ふと涙ぐんだ。「温かいうどんでも食べておくれ。郷里から都会に出ていったどれだけ多くの若者が結核に倒れて田舎に帰ってきたことだろう。お前も、しっかり気をつけておくれ」母は給仕に横を向いたときに涙をぬぐい、日曜日に、スケッチブックと4B鉛筆をもって写生に出かけることを楽しみにしている、この夫の給金を――スケッチブックには、島影に憩う舟や、空に舞う鳶、赤子を背負った子守りなど、森羅万象が画かれていた――勝手に自分の身内のために使っては、夫にも子供にも申し訳ないと、改めて心に誓うのだった。甥の暮しの足しを送るために、母は一切のわが身のおごりを慎んだ。

2016年8月23日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 福田 玲三

護憲派は天皇の「生前退位」問題に見解表明を

 8月3日付の当ブログで、大西さんが「天皇陛下の『生前退位』に賛同を」との意見を寄せられた。
 私はこの大西さんの提起に賛成である。大西さんも言われているように、護憲派は今回の「生前退位」問題に限らず、天皇制が直面する現実問題については積極的にかかわろうとせず、否定的傍観者として振る舞っているように思う。言わば自らを蚊帳の外に置いているかのようだ。
 その理由は、これも大西さんが言われているように、護憲派の多くが天皇制否定の立場に立っているからである。天皇制などという人間平等に反する、あってはならない制度をより良くするなどということは考えられない、ということなのであろう。
 しかし、「生前退位」問題とは憲法問題なのである。護憲を標榜する護憲派がきわめて重要な憲法問題に直面して傍観者的に振る舞っていいわけがない。そして「生前退位」問題とは「皇位継承」問題なのである。
 憲法第2条は「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」としている。その皇室典範はどうなっているか。
 皇室典範第1条は「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」となっている。あからさまな女性差別であり、憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により………差別されない」に違反しているのである。
 安倍政権はじめ右翼保守勢力にとっては、天皇を「元首」化するためにも「生前退位」など認めたくないであろうし、ましてや天皇神格化の根源となっている男系男子による継承(これ自体神話なのだが)が断ち切られ、女性天皇が誕生することなど絶対に認められないであろう。
 それゆえ、護憲派は、憲法違反の皇室典範改正に踏み込んで今回の「生前退位」問題を論じるべきであり、かつ、女性にも皇位継承権を与えるべきことを主張し展開すべきなのである。
 まさに今回の「生前退位」問題と「皇位継承」問題は、右翼保守派の弱点なのであり、彼らがいかに戦前回帰の反民主主義勢力であるかをあぶりだす好機なのである。現天皇の「生前退位」問題は国民の関心も高く、さまざまに議論が噴出するであろう。このような状況の中で、これまでのように護憲派が否定的に傍観者的に振る舞うようなことがあってはならないと思う。
 いまこそ護憲派は、「生前退位」賛成、女性にも皇位継承権を与える皇室典範改正を訴えるべき時である。

私と憲法

さる7月28日、神明いきいきプラザ(港区)で行われた長坂さん主催の憲法研究会での報告を転載させていただきます。

私と憲法

福田玲三

私は1923(大正12)年11月に瀬戸内海の水島で生まれた。この島にある古河系の銅製錬所に父が溶鉱主任として勤めていたためだ。
母は明治18年に岡山県を流れる吉井川中流の左岸、羽仁(はに)という集落に生まれ、ゆきという名前だった。7歳で小学校に入り毎期優秀な成績で4年後に卒業した。ほどなく、近くに住む叔父から、ゆくゆくはその養子の妻にするよう父が求められ、その話の進んでいるのを聞いた。大人同士の話に小娘が口を挟むことはできず、父母の元を離れて見知らぬ人に嫁ぐのが嫌で、一人悩んだ末に、夏のことだったので、吉井川に入って死のうと思い、息を詰めて水中にしゃがんだが死に切れず、その後、家出して大阪にいる叔母を訪ね、自活の道を探したが適わず、一日一食で我慢することもまれではなく、この前後から頭がおかしくなった、と母は言っていた。そのとき、すすった芋粥(いもかゆ)のおいしさが忘れられず、黄色い甘薯を浮べた白いお粥は母の終生の憧れだった。
行き詰ったときに、父(私の祖父)から帰国をうながす便りが届き、やむなく故郷に帰って悶々の日を送っているうち、友人の勧めで、看護婦を志した。1年あまり、川上3里、津山市内の植月という老先生に師事して数学など二、三の課目を学び、幸いに試験を受かって看護婦養成所に入所した。やっと育ててくれた父母に恩返しが出きると一心不乱に勉強し、明治39年に正看護婦になり、日給19銭で姫路野戦病院に勤務した。ここでは、再三職務勉励で表彰され、2年後に当局の要請をうけ内地を離れ、日露戦争後の南満州鉄道病院に月俸25円で勤めた。
母は女相撲に入ったらどうかと言われたほど大柄で力持ちだったが、器量の良くないことを自認していた。当時「男の目には糸を引け、女の目には鈴を張れ」が美男美女の通り相場だったが、頬骨が出て目のつぶれているのが母の顔だった。器量の良い看護婦が医師たちの間で好遇されるのを縁なきことと、ひたすら仕事に励み、難儀した包帯裂きが、やがてチリ紙を裂くのと同然になり、包帯で傷をまくのに、緩ければ傷口がこすれて痛み、きつければ血滞して回復が長引くので、重傷患者が運び込まれるといつでも、ゆきさん!と呼ばれるまでに重宝された。
大正2年に内地にかえり岡山県病院の外科看護婦長を日給50銭でしているとき従兄半に当たる父と結ばれることになった。大正12年11月に3男の私が生まれる2カ月前、関東大震災の煤煙は瀬戸内海のこの島まで届いたと言っていた。私が小学校に上がる前、たぶん世界大恐慌の余波を受けて水島の製錬所が閉鎖され、父母は5人の子どもを抱えて生まれ故郷に近い津山に移り、市内の東のはずれに借家を見つけたが、このときもらった退職金が3000円とか5000円とかで、以後は結局、この退職金を食い潰すだけの暮しになった。
前途を予測し、縁あってやや市中に近い田圃300坪を買って安普請の家をたて、家の回りを畑にして自給自足の態勢を整えた。母はいつも、望む学問だけはさせてやる、と豪語していた。そしてやり繰りして、5人の子供のうち男3人は専門学校と大学に、女2人は高等女学校を卒業させた。しかし、そのための節約はすさまじかった。母は着物、白粉、口紅はもちろん、髪油、クリームさえ買うことはなく、畑仕事と家事で冬は、ささくれた指に大きなひびが赤い口を開けていた。
母の唯一の娯楽は月に一度ほど活動写真を見に行くことだった。その日は、家族の夕食を早めに用意し、自分ひとりの楽しみ恥じ、隠れるようにして家をでた。入場料は3本立てで、たしか5銭くらいだった。活動館の桟敷に座ると日頃の家事の疲れでカタコトとフイルムの回る音を聞きながら母はうとうとと眠りこむ。だからいつも2回目を見る用意をして出た。母のいない家族の6人の夕食は火の消えたようにさびしかった。
冷たい北風の吹く山国の盆地で湯気のこもった理髪店で髪を刈ってもらうのは私の果たさぬ夢で、散髪はいつも家の庭で、父の切れないバリカンを使った虎刈りだった。中学生になって、運動の時間には、勤め人の子供の真っ白なランニングやパンツがうらやましく、洗い古した下着しか着たことがなかった。満州事変の始まったのが小学2年生のときで、国全体でも節約ムードで、衣類に継ぎの当たっているのは恥ではないという意識は広がっていた。
私が小学生のころ津山市にも水道が入った。これまでは家外の掘り抜き井戸で、雨が降れば黄色い水で水位が上がり、数日後に初めて水位が下がり、やっと水が澄んだ。使用料なしの井戸で済ますか、料金を払って水道を引くか、それがわが家の大問題だった。定額だった電気代にメートル制の選択が加わったのもそのころだった。悩みに悩んだ末に母はメートル制に切り替えた。切り替えた最初の検針にきた検針員はメーターを見て驚き盗電を疑った。それは8月だったが、暗くなるまで一切電気を付けず、無駄な電気はすぐに切って節電に努めた。

水島の製錬所に勤めている間、父は休日には画帳をもって海や船をスケッチしたり、俳句を作ったり、素人芝居の役者などもする趣味人だった。だが当時のこととて、父はお勤め専一、母はその勤めに障りを作らないこと一筋だった。結婚した時、母の給料は父のそれより高かったそうだが。
父の父は津山近隣の農家の出だが幕府による長州征伐に参加して下級士族になり、ご一新後は水車による精米の仕事を始め、借財を重ねて失敗し、ついには妻子を残して夜逃げし、東京に出て古物問屋をはじめ、幸いにこれが当たって、十数人の使用人をかかえるまでに成功し、妻子を東京に呼ぼうとしていた矢先、大火に会って無一物となり、その後、運は開けず、80余歳の高齢になって、妻に先立たれたあとの郷里に帰ってきた。
製錬所が廃止になって父母が郷里近くに帰った後、母は、義父が夜逃げした際、義母もいくらかの前借をしたまま村を離れ、義母がその不義理を苦にしながらこの世を去った話を、何かのついでに思いだし、代を異にする債権者に幾十年前の借金を返済して回り、義母の霊にその報告をした。
私が小学生だったある日、たまたまその日は、昼休みに走って家に帰り、昼食を食べて、また走って学校に帰ろうと思っていると、母が机に向かいなにやら書いては泣き、書いては泣いている。このまま学校に帰るには心配で堪らなかった。この頃父は一時的に、瀬戸内海の直島製錬所に単身赴任していた。その父に当てての手紙だった。思い切って私は母に聞いた。「お母ちゃん死ぬんじゃない?」。母はひしと私を抱きしめ、「お前たちのように可愛い子どもを残して、どうしてお母ちゃんが死のうにい」と涙にむせんだ。私は安心するとともに、恥ずかしくなり、母に見送られて学校に帰った。
母が苦しんだのは父が5人の子どものなかでえこひきすることだった。父は長女を可愛がり長男を疎んじる風だった。自分でも、「父親が息子よりも娘を可愛がるのは自然の摂理だ」と言っていた。それでも、その言葉ほどの差別ではなかった。だが母にはそれは認められなかった。というのは、母には器量よしの妹がいて、生みの母の愛を妹にとられた辛い経験があり、その辛さを子どもの誰にも味合せたくなかった。母はそのことで悩み抜いた。
しかし、もっと大きなことで母は悩んだわけではない。たとえば男の子が兵隊に取られることは国民の義務として疑わなかった。婦人雑誌で男の子は陛下の赤子としてやがて兵役につく身だから、寝ているとき、男の子の枕元を歩かぬようにと書かれていれば、それを真面目に実践した。日露戦争後の満州を経験している母にとっと、軍隊は男の子が一人前になるために必要な試練と思い定めていた。それでも近所の農家の小母さんとある夏、野菜を届けたついでにわが家の縁側で世間話をしていて、小母さんが7人育てた男の子を5人まで次々に戦死させ、「何で苦労して育てたんだか」と語ったとき、二人は抱き合って声をあげて泣いた。
子どもへの愛は戦争反対までには至らなかったが、他のことでは母は子どもに愛を注ぎ尽した。母は、父に教わって、晩年に詠んだ短歌で、「花よりもなおも愛でにし吾子なれば孫の可愛いさ何にたとえん」とあるが、ほんとうにわが子を花よりも愛していた。「五人の子五本の指になぞらえて母の願いは落ちなき幸ぞ」の歌もある。
何時かの初夏のことだった。訪れた乞食に、母は節約して残した何がしかのものを与え、「このあと何かのことで子どもがお世話になるかも知れません。そのときはよろしくお願いします」と頼んでいた。感謝しながら立ち去る乞食は西に向かい、その空に虹がかかっていた。
母の二人の兄は柵原鉱山の幹部をしていたが相次いでチビスなどの伝染病にかかって死んだ。二人の息子に先立たれた母の父(私の祖父)の嘆きを身近にみていた母にとって、この世で一番恐ろしいのは、仏法でいう逆縁だった。母はいつもわが子に先立たれる幻影に脅えていた。
子どもに対する父の偏愛のほかにも父と意見を異にすることが様々に母にはあった。だが戦前、明治憲法下、教育勅語のもとので、女性は「幼にしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」の三従の教えが鉄則だった。悩みに悩みながら、女には相談できる人、頼れる相手はいなかった。
冬の早朝、悩みをかかえた母は、わが家の宗派、日蓮宗のお題目を一心に唱えながら、家の前の小道を行き来し、夜が白々と空けるころ、ようやく解決の糸口を掴んで心の平穏を取り戻すが、やがて程なくまた行き詰り、母は苦しみ抜いた。母は父の親類縁者から嬶(かかあ)天下と見られるのを恐れた。三従の貞淑な嫁でありたいと願いながら、道理として納得できない、その自縄自縛のなかで母はもがき苦しんだ。それは、現憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)の起草に心血をそそいだベアテ・シロタ・ゴードンさんの眼に写っていた日本の女の姿だった。
ベアテさんの願った日本の女性の解放は、新憲法によって法制上実現した。三従の鉄鎖は粉砕され、両性の平等が成就した。日本の当事者は24条原案に激しく抵抗し、「日本の国情に合わない」を理由にした。米側の担当者が「通訳のベアテさんもこの案に賛成ですよ」と暗示すると、やっと折れたという。日本で少女時代を過ごした優れた通訳のベアテさんを日本側も尊敬していた。
今日、自民党の改憲支持者は男女をとわず、「先人を忘れるな。伝統を重んじよ」という。それが改憲派の唱える改憲理由だ。
人口の半分の性を蔑視し、女を男の従属物と考えるような社会に、人間の品位も尊厳も幸福も希望もない。私の現憲法にたいする尊敬と愛着の源泉はここにある。この憲法を作った人々にたいする忘恩の徒に私たちはなりたくない。
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ミュジシャン三宅洋平選挙フェス7月4日@立川駅

彼のスピーチは日々進化しています。

3日の渋谷の選挙フェスには行ってきましたが、立川では立川に相応しいスピーチです。こんな素晴らしい選挙演説ができる候補者が他にいるでしょうか。

品格があり、目がきれい。彼が代議士になり、彼のような議員が増えたら、選挙に行かなかった若い世代が選挙に行くようになるでしょう。都民でないのが残念!

違憲の今市事件判決

違憲の今市事件判決

2005年の栃木県今市市(現日光市)小1女児殺人罪に問われた無職勝又拓哉被告(33歳)の裁判で、4月8日、宇都宮地裁は、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。

この裁判では、直接証拠はなく、取り調べの録音・録画が7時間以上にわたって法廷で再生された。松原里美裁判長の認定のほとんどは、別件の商標法違反での逮捕から約5カ月間拘束し、その「代用監獄」でとった自白調書を前提にしている。有罪にした根拠は、法廷で再生した録音・録画での心証だ。裁判官と裁判員が物証がないことを認めた上で、想像、推測で判示したのは憲法38条に違反している。

第38条①何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

②強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。

③何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

弁護人の一木明弁護士らは閉廷後、記者団に対し「自白で判決を書くのは危険だと言われているのに、自白を重視した判決を書かれたことが一番納得できない」と批判した。また、「「録画のないところで圧倒的な権力関係を利用して被告人を自白に追い込んだ。取り調べが全面的に録画されていればこのような判決にはならなかった」と語った。

弁護団(国選)によると、被告は控訴する意向を示している。

この3項目すべてに、この無期懲役判決は驚くほど違反している。

 

2016年5月16日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 福田 玲三

人権と民主主義~~憲法基礎講座③~~

護憲派を名乗る人の間でも、民主主義には人権尊重が含まれる、という根強い思い込みに捉われてしまっている人が少なからずいるようだ。その理由を尋ねると、第1に、広辞苑など一部の国語辞典にそのような説明があること、第2に、自分の周囲にも同じ考えの人が多いから、ということのようである。そこでは憲法学や政治学の知見は全く参照されていない。しかし、憲法学や政治哲学においては、「民主主義と人権原理は異なる思想であり、両者はときに矛盾・対立する」というのは、基礎の基礎、初歩の初歩に属する知識である。しかし、そうしたことを何の権威も地位もない私ごとき者がどれほど言葉を尽くして説明しても、何の説得力も持たないらしく、馬耳東風とばかりに聞き流されて終わりである。

そこで、憲法学の泰斗、樋口陽一・東大名誉教授にご登場願うことにしよう。

樋口先生が東大教授時代の1991年5月、「もういちど憲法を読む」と題する岩波市民セミナーで4回にわたって講演された記録をまとめた本が、同じタイトルで岩波書店から1992年に出版されている。その中の103頁から104頁を抜粋引用する。

 

  みんなで決めること、これは一番ふつうにいわれている意味での民主、ということになります。それに対して、しばしば、民主という言葉と関連はするのだけれども、ある局面によっては対立する意味合いをこめて、自由という言葉が使われることがあります。民主主義に対して自由主義。これは、みんなが自分たちで自分の運命を決めるといっても決めてはいけないことがある、という問題です。堅い言葉で簡明にいいあらわそうとすれば、第一の側面を自治、第二の側面を法治、といってもいいでしょう。

 

 人権と主権との緊張関係

憲法論の大きな、抽象的な次元で申しますと、一方は主権の問題でありますし、他方は人権の問題になるといってもよろしいでしょう。国民主権ならば、国民はなにを決めてもいいのか。いや、そうでない事柄があるはずだ、というのが人権の問題であります。

ここには、緊張関係があります。自己決定ということは場合によっては自己否定とか自己破滅の可能性をも含んでいるのだ、ということは、個人の生き方についても当てはまっています。それは危ないから、危ないところに近寄らせないようにしようというふうに、専らそのように考えてゆきますと、最近も問題になっております、なんでもいけないという校則を定めて、その仕切り線から外に出ないように出ないように、という教育ということになってまいります。

しかし、自己決定とは、少なくとも論理的に申しますと、当然、自己否定とか自己破滅という危険をも含んでいます。だからこそ、そこに自由の重みがあるのだという問題は、国家とか、大きなレベルでの政治についても当てはまるわけでして、国民全体について申しますと、国民が主権者だ、それなら国民が好めば人々の人権、少数者の自由というふうなものを否定しちゃっていいのか、という形で問題が出てまいります。もっとラディカルにいうならば、国民が主権者だ、そうであるならば、国民が望むのなら国民主権自体をやめちゃってもいいのかという、とどのつまりはそういう問題になります。

 

 ドイツと日本

これは、決して抽象的な論理の遊びではありませんで、現実にそれが大掛かりに起こりましたのが、ワイマール憲法下の事態でした。国民主権、民主主義のルールを定めた、この憲法のもとで、両大戦間期のドイツでは、まさに国民主権のルールに従った選挙によってヒトラーの率いるナチスが第一党の地位を獲得し、それを大きなきっかけとして議会政治そのものを否定するナチズムがドイツを制覇し、かつ世界を制覇しようとしたという教訓が、我々の身辺にあるわけであります。(以下略)

 

――樋口陽一『もういちど憲法を読む』岩波書店、1992年、103-104頁

 

市民向けセミナーなので、大変わかりやすい言葉で民主主義と自由主義の違いが述べられている。つまり、「民主主義・・・自治・・・国民主権」は同じ系譜の思想であり、それに対して、「自由主義・・・法治・・・人権」というもう一つの系譜の思想があることがこれでわかる。つまり、「国民主権」は民主主義の系譜に属する思想であるのに対し、「人権」はそれとは別系統の自由主義の系譜に属する思想である、ということが、疑問の余地なく明確に示されている。

それでは、最近(ここ数年)、にわかに流行語となった観のある「立憲主義」はどのように位置づけられるのだろうか。そこで、樋口先生の別の著書(『個人と国家――今なぜ立憲主義か』)から一部を抜粋引用してみよう。

 

  コンスティチューショナリズム(引用者注:立憲主義)は、要するに権力に勝手なことをさせないという、非常にわかりやすくいえばその一語に尽きると言っていい。

そういう意味で、「デモクラシーdemocracy」という言葉と対照してみるとわかりやすいでしょう。こちらはもともと言葉の語源としては、ギリシャ語のデモス(民衆)と、クラチア(支配)です。つまり民衆の支配です。実際は、民衆の名のもとにだれかの市は二なるわけです。「民主主義」という言葉は、対抗するものが立ちはだかっているときには、専らそれを否定するという意味で積極的な意味を持っていた。立ちはだかるのは民衆の反対の君主で、君主の背後には神様がいました。西洋流に言えば王権神授説です。神が君主に権力を授けた。だから、君主は神の権威でもって人民を支配するのは当然だということになります。そういう王権神授説的な君主の支配をひっくり返すことが、まさに「民主」だったわけです。

今では王権神授説的な言説は、ほとんど世界中、地球上で通用しない。ほとんどというのは、世界中に200ほどある統治単位、いわゆる国家の中には、必ずしもそうでない、例外的に伝統的な国家もあるからです。日本の場合には、指導的な政治家がときどき神様を思い出したりしていますが、これも世界の例外の一つでしょうか。

(中略)

大きくいって、今や民主の対抗物はなくなった。逆に現代の独裁政治、一党支配は決して民主を否定しなかった。スターリンは人民の名において人民の敵を粛清したわけですし、ヒトラーの率いるナチスは名前からして民族社会主義ドイツ労働者党ですから、やっぱり人民です。現実に彼は人民の選挙で第一党となって、ワイマール憲法を実質上ひっくり返してしまった。

(中略)

日常場面では「民主」という言葉は実は何事も語っていない。ごくわずから例外を除いて、あらゆる政治体制が民主の名において説明されているからです。そうなってくると民主を名乗る政治権力も制限されなければいけないという「立憲主義」が、一番のキーポイントになる

実はそのことが、少なくとも世界の先進国レベルで共通認識になったのは比較的最近なのです。というのは、かつては民主の旗によって世の中が進歩していくことへの幻想があった。だから、民主を推し進めれば進めるほどまっとうな世の中になっていくという期待があったのです。ところがいろいろな「民主」をやってみたけれども、しばしばそれは惨憺たる結果をもたらしてきた。

そこで「立憲主義」という言葉が思い出されてきた。なぜ「思い出されてきた」と言うのかというと、立憲主義という言葉は中世にさかのぼる古い歴史的過去を背負っているからです。

(中略)

繰り返しますけれども、帝国憲法をつくったころは天皇主権を前提としながらも――前提としていたからこそという面もありますが――権力は制限されていなくてはいけない、という「立憲主義」の大事さを政治家たちは認識していました。当時の政党の名前で「立憲」という言葉がよく出てきますが、偶然かどうか戦後はそういう政党名はない。

ところが「国民主権」になってくると、「民主」ですべていいのだ、とにかく選挙で選ばれた国会なのだ、それに裁判所はいちゃもんをつけてはいけない、という感覚の方が強いようです。しかしこの際、「民主主義」と「立憲主義」の関係をきちんと整理して議論のレールに乗せることが大事でしょう。憲法とか法律をやっている専門の狭いサークルでは常識化しているのですけれども、それをもっと政治の場面できちんと位置づけ直して議論を始めることが大切だと思うのです。

 

――樋口陽一『個人と国家――今なぜ立憲主義か』集英社新書、2000年、84-93頁

 

今度は、「立憲主義」が「民主主義」や「国民主権」と対照させられていることがわかる。ここでは立憲主義が権力を制限する思想として紹介されているが、(この文章では明示されていないが)その目的は人権を護るためであるから、結局、立憲主義とは「自由主義・・・人権」に連なる思想であることがわかる。つまり、「民主主義」=(その国家規模での表現としての)「国民主権」と、「自由主義」=「人権」=(それを保障する制度設計である)「立憲主義」とが、対比的に述べられているのである。

これは、「民主主義と人権原理は異なる思想であり、両者はときに矛盾・対立する」ということを説明する際、私が何度も繰り返し説明してきたところであるが、同じことが憲法学の権威である樋口陽一・東大名誉教授によって語られているのである。当たり前である。私は学生時代以来、樋口憲法学の圧倒的な影響を受けながら、その教えを学んできたのだから、同じことを私が述べたとしても、何の不思議もない。

民主主義には人権尊重が含まれる、という考えに固執している方々は、是非、この樋口先生の説明を理論的に論駁して頂きたい。

つまみぐい憲法論

つまみ食い憲法論

 

先ごろ、機会あって、野党の国会議員100人ほどの方に、当方パンフ「日本国憲法が求める国」をお渡した。そのとき痛感したのは、国会議員の方々でさえ一部の方をのぞいて、ほとんど現日本国憲法を理解されていないという現実だ。国会議員の方々さえそうなら、国民大衆はおして知るべし、ほとんど憲法に関心がないと悟るべきだ。それはまた何年かまえの無知だった私自身の姿にも重なる。事実、大半の議員は第9条(戦争の放棄)や第25条(生存権)など、個々の身近な条項を使われている――それは大事だけれども――に過ぎないように思われる。だが、現日本国憲法が、明治の帝国憲法や自民党の改憲案と根本的に異なる点は、国民主権と基本的人権の保障であり、ついでそれは平和主義、立憲主義におよぶ。この主眼を忘れて、いくつかの条文の利用にとどまるのであれば、それは日本国憲法のつまみ食いでしかない。そうなると、この憲法の理念が、それよりもはるかに崇高で、世界でも一番進んだものであることを、政治家に、さらには広範な国民大衆に知ってもらうことが、私たちの揺るがぬ使命になろう。この点で、日本に、多くの9条の会はあっても、完全護憲を提唱したのは私たちだけである。その誇りを内に秘め、前途の困難を覚悟しつつ、地道に、遠大なこの使命達成の道を進もうではないか。