曲木草文
安倍政権のメディア支配(3)
「私の答弁が信用できないんだったら、もう質問なさらないで」(3月15日参院)。
高市元総務相(現・経済安保担当相)の答弁がしどろもどろになってきたが、この問題は総務省文書の真実性を証明することが目的ではない。問題の核心が安倍政権のメディア支配・言論統制であることは連載第1回で述べたが、今回は、その根拠とされた放送法の解釈について説明しよう。
すでに述べたように、高市総務相(当時)は2015年5月12日、放送法第4条の定める「政治的公平」について、「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」という従来の解釈を変更し、「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」との答弁を行い、同年11月10日には「放送事業者が仮に放送法に違反した場合、総務大臣は……3か月以内の業務停止命令をできる」と発言し、翌2016年2月8日には、「政治的公平」を定めた放送法第4条に違反した場合には放送局に電波停止を命じる可能性にまで言及した。しかし、このような放送法の解釈は根本的な誤りである。その理由を説明する。
放送法第4条は次のように定めている。
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
(2項以下省略)
今回問題となっているのは、高市総務相や自民党、安倍応援団の民間人(放送法遵守を求める視聴者の会)などが、放送法第4条1項2号の定める「政治的に公平であること」(「政治的公平性」)に放送事業者が違反した場合は、総務相が行政指導を行うことができるとの理解を前提に、「政治的公平性」の判断基準を「放送番組全体」から「一つの番組」へと変更したことだと思われがちである。しかし、この理解がすでに大きな間違いを犯している。「政治的公平性」の判断基準が「番組全体」であろうが「一つの番組」であろうが、「政治的公平性」など第4条の規定が公権力の番組への介入を正当化しうる根拠になりうるという解釈自体が根本的な間違いなのである。なぜなら、第4条は、放送事業者が番組内容を編集する際に自らを律する倫理規範であって、政府が放送内容に介入するための規制規範ではないからである。そのことは、放送法の第1条と第3条を見ればよりはっきりする。次のような規定である。
第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
第3条 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。
第1条第2号は、「放送による表現の自由を確保」することを目的として、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障」するとされているが、この場合、放送の「不偏不党、真実及び自律」を保障すべき主体は政府であって、放送事業者ではない。このことは、「放送番組は……何人からも干渉され、又は規律されることがない」と規定して「放送の自由」を保障した第3条の規定によっても裏書されている。砂川浩慶も『安倍官邸とテレビ』の中で、第1条第2号前半の文章について、「主語が明示されていないので分かりにくいが、放送法は行政行為を規定するものだから、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障」する主体は行政(政府)だとするのが一般的な解釈である」と指摘している。
放送倫理・番組向上機構(BPO)の「放送倫理検証委員会」は2015年11月6日、NHK『クローズアップ現代』の“出家詐欺”報道に関する意見を公表したが、その「おわりに」において、自民党によるメディア支配の試みを批判しつつ、放送法第1条について、次のように述べている。
「しばしば誤解されるところであるが、ここに言う「放送の不偏不党」「真実」や「自律」は、放送事業者や番組制作者に課せられた「義務」ではない。これらの原則を守るよう求められているのは、政府などの公権力である。(中略)放送法第1条2号は、その時々の政府がその政治的な立場から放送に介入することを防ぐために「放送の不偏不党」を保障し、また時の政府などが「真実」を曲げるよう圧力をかけるのを封じるために「真実」を保障し、さらに、政府などによる放送内容への規制や干渉を排除するための「自律」を保障しているのである。これは、放送法第1条2号が、これらの手段を「保障することによって」、「放送による表現の自由を確保すること」という目的を達成するとしていることからも明らかである。」
BPOはさらに、第4条についても次のように述べている。
「「放送による表現の自由を確保する」ための「自律」が放送事業者に保障されているのであるから、放送法第4条第1項各号も、政府が放送内容について干渉する根拠となる法規範ではなく、あくまで放送事業者が自律的に番組内容を編集する際のあるべき基準、すなわち「倫理規範」なのである。逆に、これらの規定が番組内容を制限する法規範だとすると、それは表現内容を理由にする法規制であり、あまりにも広汎で漠然とした規定で表現の自由を制限するものとして、憲法21条違反のそしりを免れないことになろう。・・・
したがって、政府がこれらの放送法の規定に依拠して個別番組の内容に介入することは許されない。」
そのうえで、BPOは、自民党が2015年4月17日、NHKとテレビ朝日の幹部を党本部に呼びつけた事態について、次のように厳しく批判した。
「自民党が、放送局を呼び説明を求める根拠として放送法の規定をあげていることは、法の解釈を誤ったものと言うほかない。今回の事態は、放送の自由とこれを支える自律に対する政権党による圧力そのものであるから、厳しく非難されるべきである。」
以上で、放送法を番組介入の根拠にしようとすること自体が根本的な誤りであることをご理解いただけたであろう。この観点からすれば、「政治的公平性」を「放送番組全体」で判断するか、「一つの番組」で判断するかという論点は、問題の本質を見失ったものと言うほかない。いずれにせよ、「政治的公平性」の判断主体は一義的には放送事業者自身であり、最終的には視聴者であって、政府や公権力が判断しようとすること自体が「表現の自由」(憲法21条)に対する重大な脅威である。
問題の本質は、個々の番組や放送局が「政治的に公平」であるか否かではない。そうではなく、「政治的公平」という放送法の中の文言に勝手な解釈を加えて、政府が放送局に圧力をかけ、政府に対する批判的な言論を委縮させ、報道をコントロールしようとしたことである。「表現の自由」が民主主義と平和の基礎であることは過去の歴史が示している。民主主義と平和を守り抜く、あるいは取り戻すためにも、「表現の自由」に対する統制を見逃してはならない。
2023年3月16日 稲田恭明
安倍政権のメディア支配(2)
「安倍政権のメディア支配(1)」で述べたように、磯崎陽輔首相補佐官は2014年11月から半年近くをかけて放送法第1条「政治的公平」条項に関する総務省の従来の法解釈を変更させたわけであるが、磯崎補佐官ほどにも法律や法解釈に興味のない安倍総裁率いる自民党は、2015年5月12日の高市総務相の国会答弁による解釈変更を待つことなく、とんでもない言論弾圧に乗り出した。同年3月に『週刊文春』が報じた、前年5月放送のNHK「クローズアップ現代」の“出家詐欺”報道やらせ事件や、同年3月27日のテレビ朝日「報道ステーション」においてコメンテーターの古賀茂明氏が官邸からのバッシングを暴露して「I am not ABE」と書いた紙を提示した件を標的に、4月17日、自民党「情報通信戦略調査会」はNHKとテレビ朝日の幹部を党本部に呼びつけたのである。政権与党が個別番組の内容についてテレビ局幹部を党本部に呼びつけて事情聴取するという前代未聞の事件が起きたわけだが、これはまさに、放送法の解釈変更によって政治家が個別番組に介入できるようになるという、予想された恐れを先取りしたものであった。しかもこれは、『週刊文春』の告発記事を受けてNHKが調査委員会を立ち上げ、「中間報告」を公表した(4月9日)直後に起きた事件であった。さらに、NHK調査委員会が「最終報告書」を公表した4月28日には総務省がNHKに対して「厳重注意」を行い、5月21日には自民党が再度、NHKを呼びつけるという事態まで起きている。
さらに、同年6月25日、安倍首相に近い自民党の若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」が党本部で初会合を開催した際、同党の大西英男衆院議員は「マスコミを懲らしめるには、広告料収入をなくせばいい。文化人、あるいは民間の方々がマスコミに広告料を払うなんてとんでもないと経団連に働きかけてほしい」と発言し、井上貴博衆院議員は「テレビの提供スポンサーにならないということがマスコミには一番こたえるだろう」、長尾敬衆院議員は「沖縄の特殊なメディア構造をつくってしまったのは戦後保守の堕落だ。左翼勢力に乗っ取られている現状において、何とか知恵をいただきたい」などと放言を連発し、講師の百田尚樹は「沖縄の2つの新聞社は絶対に潰さなあかん」「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。基地の周りが商売になるということで、みんな住みだし、今や街の真ん中に基地がある。そこを選んで住んだのは誰やと言いたくなる。基地の地主たちは大金持ちなんですよ。彼らはもし基地が出て行ったりしたら、えらいことになる」「沖縄の米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪の方がはるかに率が高い」などと明らかな事実誤認を含む暴言・妄言を連発するという事件を起こしている。
ちなみに、百田氏は2012年の自民党総裁選で「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」発起人の一人であり、『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を安倍氏と共著で出版しているが、安倍首相は2013年11月、なんとこの百田氏をNHK経営委員に任命しているのである。このとき安倍首相が百田氏とともにNHK経営委員に送り込んだのが日本たばこ産業顧問であった本田勝彦氏であるが、本田氏は東大生時代、小学生だった安倍晋三の家庭教師を務めた経験があり、安倍氏の財界応援団として知られる「四季の会」の有力メンバーだった。
安倍首相はさらに、同年12月には埼玉大学名誉教授の長谷川三千子氏と海陽学園校長だった中島尚正氏をNHK経営委員に送り込んでいるが、長谷川氏も「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」の一人であり、海陽学園は「四季の会」幹事役の葛西敬之氏が創設した学校である。こうして安倍首相の息のかかった委員が多数を占めるNHK経営委員会は12月20日、籾井勝人氏を次期会長に任命した。籾井新会長は2014年1月25日の就任会見で、個人的見解と断りながら、「(従軍慰安婦問題は)今のモラルでは悪いことだが、戦争地域にはどこにもあった」、「国際放送で日本の立場を主張するのは当然。政府が『右』というものを『左』というわけにはいかない」などと発言し、大問題となった。
だが、問題発言はこれに留まらない。安倍首相に任命された新経営委員である長谷川三千子氏は、同年1月22日、「私は安倍首相の応援団です。私は安倍という政治家を信頼している」と発言し、百田氏は2月3日、都知事選での田母神俊雄候補の応援演説で、「田母神さん以外の候補は、私から見れば人間のクズみたいなもんです」、「日本はアジア諸国を侵略した、と。とんでもない、これは大嘘です」などと放言した。
同年2月、NHKの「クローズアップ現代」が前年秋に着任したキャロライン・ケネディ駐日米大使にインタビューを申し込んだが、大使側から拒否されたのは、こうした籾井会長の従軍慰安婦発言や百田直樹経営委員の南京虐殺でっち上げ発言などへの不信感が原因だったと言われている。
ほとんどの憲法学者が憲法違反と指摘する安保関連法案の審議が大詰めを迎えていた2015年9月16日、岸井成格キャスターはNEWS23で「メディアとして(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と発言したが、これが安倍官邸とその取り巻きを激怒させたようである。すぎやまこういち、小川榮太郎、渡部昇一、渡辺利夫といった安倍応援団の文化人が「放送法遵守を求める視聴者の会」というのを作り、同年11月14日と15日に、それぞれ産経新聞と読売新聞に「私達は、違法な報道を見逃しません。」というキャッチコピーの全面広告を掲載している。この中で同広告は、9月16日のNEWS23における岸井成格氏の発言について、「放送法第4条の規定に対する重大な違反行為だと私達は考えます」と述べ、岸井氏に対する個人攻撃を行っている。こうした放送法第4条の解釈に関する根本的な誤謬については、次回(第3回)取り上げることにする。
高市総務相は同年11月10日、国会答弁で、「放送事業者が仮に放送法に違反した場合、総務大臣は放送法第174条に基づき3ヶ月以内の業務停止命令できる旨、定められています」と発言しているが、放送法174条には「特定地上基幹放送事業者」、すなわち地上波テレビとラジオに対しては「業務停止命令」できないことが明文で規定されているので、虚偽答弁に近いものである。高市総務相はさらに、2016年2月8日、衆院予算委で「政治的公平」を定めた放送法第4条に違反した場合には放送局に電波停止を命じる可能性に言及したが、放送法4条にはそもそも罰則がなく、あくまで放送事業者が自主的に番組編集を行う際の「倫理規範」にすぎず、政府が介入する根拠となるような法規範でないことは、情報法の専門家の間では常識である。しかし、高市総務相の「電波停止」発言を批判した報道番組は「NEWS23」(TBS)と「報道ステーション」(テレビ朝日)だけだったと言われている。
その「NEWS23」と「報道ステーション」の看板キャスターだった岸井成格氏と古館伊知郎氏、さらには「クローズアップ現代」(NHK)の国谷裕子キャスターは2016年3月末、一斉に降板するという事態が起きている。その舞台裏の事情まではわからない。しかし「NEWS23」と「報道ステーション」が安倍官邸に睨まれていたことは周知の事実であり、クロ現の国谷キャスターも、2014年7月3日、政府が集団的自衛権の行使容認を閣議決定した2日後、番組に出演した菅官房長官を質問攻めにしたことにより、番組終了後、官邸サイドから制作現場に強烈な圧力がかけられたと言われている。こうして2016年春、政権の嫌うキャスターは、「そして誰もいなくなった」のである。
次回は「政治的公平性」を中心とする放送法の規定について解説する。(つづく)
2023年3月15日 稲田恭明
安倍政権のメディア支配(1)
放送法の解釈変更の経緯を記した総務省文書をめぐる報道が連日なされているが、日々の報道を追っているだけでは、問題の本質が見えてこない場合がある。この問題はまさにその一例ではないだろうか。
報道では、高市早苗経済安保担当相(問題の文書作成当時の総務相)が総務省の文書を「捏造」だと主張し、もし「捏造」でなければ閣僚も議員も辞職すると、故安倍首相ばりの啖呵を切ったかと思えば、形勢不利となるや一転、「閣僚や議員の辞職を迫るのなら文書が完全に正確だと相手も立証しなければならない」と、これまた安倍氏譲りの卑怯な逃げを打つ滑稽な姿が強調されている。しかし、問題の核心はそこではない。放送法の解釈変更というこの問題では、高市元総務省はあくまでも舞台で演じる役者にすぎず、台本を書いたのが磯崎陽輔元首相補佐官であることは、総務省文書がはっきり示している。
少し話が逸れるが、磯崎陽輔氏と言えば、2012年4月に自民党が公表した憲法改正草案が立憲主義違反であると批判を浴びていた頃、立憲主義について、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」とツイート(同年5月28日)して、多くの市民を驚愕と失笑の渦に巻き込んだ人物である。本人は東大法学部卒であることを自慢しているらしく、自民党の憲法改正草案起草委員会事務局長を務め、自民党内では「憲法博士」と呼ばれていたそうだが、その「憲法博士」の憲法知識が「立憲主義も聴いたことがない」というお粗末さ加減であるから、その人物が中心となって取りまとめられた自民党の改憲草案がお粗末極まりないのも当然である。ちなみに、言うまでもないことながら、立憲主義とは、民主主義や自由主義と同じく、政治思想・法思想史上の思想を表す言葉であって、「学説」などとは次元が異なることは論を俟たない。同年9月の自民党総裁選では安倍陣営の選対で参院事務局長を務めたことから、安倍氏の覚えめでたく、同年12月、第2次安倍内閣で首相補佐官に任じられたようである。
総務省文書に話を戻せば、問題は、なぜ磯崎氏が放送法解釈変更の台本を書いたか、である。結論から言えば、これは安倍政権のメディア支配・言論統制の一環であり、安倍政権でなければ起こり得なかった事件である。戦後史上、安倍政権ほどなりふり構わずメディア支配と言論統制に執着した政権はなかったが、今回の問題も、2014年11月18日、安倍首相が衆院解散を表明した夜、TBSの「NEWS23」に出演した際に、アベノミクスに批判的な街頭インタビューを見た安倍首相が、「みなさん、人を選んでおられる。おかしいじゃないですか」とキレまくったことがすべての発端であった。この一件が自民党の役員連絡会で話題となり、自民党は11月20日、在京テレビ各局に、「選挙時期における選挙の公正中立ならびに公正の確保についてのお願い」と題する文書を送付している。そこには、出演者の発言回数や時間、ゲスト出演者の選定、テーマ選定、街頭インタビューに至るまで、一方的な意見に偏ることがないよう要求する、という異様な文書であった。これ以降、ワイドショーなどでの総選挙関連報道が激減し、キー局全体では前回(2012年)の総選挙に比して半分以下の42%にまで報道量が激減した。総選挙をテーマとしたテレビ朝日の「朝まで生テレビ!」は急遽、予定していた評論家や文化人の出演を取りやめ、政治家のみの出演に変更したという。
安倍首相が衆議院を解散した2日後の(2014年)11月23日、TBSのサンデーモーニングで出演者が政権に批判的な意見を述べると、磯崎首相補佐官はすかさずツイッターに「日曜日恒例の不公平番組」「仲間内だけで勝手なことを言い、反論を許さない報道番組には、法律上も疑問がある」などと投稿し、翌日も再びツイッターに「放送法上許されるはずがない。黙って見過ごすわけにはいかない」と投稿している。この日(11月24日)、テレビ朝日の「報道ステーション」が「アベノミクスによる株高ですごく儲かった人たちがたくさんいます」と放送すると、その2日後、自民党の報道局長が24日のテレビ朝日「報道ステーション」に対し、放送法4条の趣旨に悖るとして、公正中立な報道を求める文書を出している。そして、磯崎補佐官から総務省放送政策課に「政治的公平」の解釈や運用、違反事例について局長からレクチャーしてほしいと電話連絡があったのも、この同じ11月24日だったのである。これが、今回の放送法解釈変更の出発点である。
こうした一連の流れを見れば、すべての問題の発端が、安倍政権の政策や自民党に対して批判的な一切の報道を許容せず、それを「公平性」違反の名のもとに弾圧しようとする安倍首相の政治姿勢に発していることは明らかである。そして安倍首相の補佐官として、最も忠実に安倍氏の意向を忖度し、「法解釈変更」という形で実現しようと“奮闘”したのが、磯崎陽輔補佐官であったというのも頷けよう。このあと磯崎補佐官は同年11月28日から翌15年2月24日までの間に総務省の安藤友裕情報流通局長に9回にわたってレクチャーさせるという名目で自分の解釈を総務省に押し付けた上で、3月5日は自ら(今井尚哉首相秘書官、山田真貴子首相秘書官ととに)安倍首相にレクチャーを行い、国会で総務相から放送法の解釈変更に関わる答弁をしてもらうことで承認を得ている。このような一連の根回しを経た上で、同年5月12日には自民党の藤川政人議員が参議院総務委員会で高市総務相に放送法第4条の定める「政治的公平」について質問し、高市総務相から「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」との答弁を引き出し、それまでの「政治的公平は一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」という解釈からの変更を行ったのである。
それにしても、「虎の威を借る狐」は信じられないほど居丈高になりうることを、磯崎氏もまた見事に例証している。2月24日に行われた総務省から磯崎補佐官への9回目のレクチャーの際には、「総理にお話しされる前に官房長官にお話し頂くことも考えられるかと思いますが」との安藤情報流通行政局長の発言に対し、「何を言っているのかわかっているのか。これは高度に政治的な話。官房長官に話すかどうかは俺が決める話。局長ごときが言う話ではない。……この件は俺と総理が二人で決める話」、「俺の顔をつぶすようなことになれば、ただじゃあ済まないぞ。首が飛ぶぞ。もうここに来ることができないからな」などと恫喝しているのである。一体、自分を何様だと思っているのだろうか。ちなみに、磯崎氏は1982年に自治省に入省し、安藤氏は82年に郵政省に入省している。その後、2001年に自治省、郵政省、総務庁が統合して総務省ができたわけだから、いわば磯崎氏と安藤氏は同期入省組である。総務省出身者として、本来なら政治家へのレクチャーなど官僚の仕事の苦労もわかっていて当然の立場である。それがここまで傲慢無礼な態度に出られるも、安倍側近として「親分」の態度を見習ったせいなのだろうか。
今回公表された総務省文書でもう一つ興味深いのが、2015年2月18日に行われた山田真貴子首相秘書官へのレクチャーの際の、山田秘書官の発言である。山田秘書官は、「今回の整理は法制局に相談しているのか。今まで「番組全体で」としてきたものに、「個別の番組」の(政治的公平の)整理を行うのであれば、放送法の根幹にかかわる話ではないか。本来であれば審議会等をきちんと回した上で行うか、そうでなければ放送法改正となる話ではないのか」。「磯崎補佐官は官邸内で影響力はない。今回の話は変なヤクザに絡まれたって話ではないか」。「政府がこんなことしてどうするつもりなのか。磯崎補佐官はそれを狙っているんだろうが、どこのメディアも委縮するだろう。言論弾圧ではないか」。「総務省も恥をかくことになるのではないか」などと語っているが、極めて真っ当な発言であり、同じ総務省出身者でも磯崎氏とは好対照である。3月5日の安倍首相への説明の際も、山田秘書官は、「(磯崎補佐官の)説明のような整理をすると、総理単独の報道が委縮する。極端な事例以外は何でもよくなってしまう。メディアとの関係で官邸にプラスになる話ではない」、「一度整理をすれば個々の事例のあてはめが始まり、官邸と報道機関の関係にも影響が及ぶ」などと再考を促すが、安倍首相は、「政治的公平という観点からみて、現在の放送番組にはおかしいものもあり、こうした現状は正すべき」などと取り合わず、磯崎提案を受け入れたのである。これに気を良くした磯崎氏は翌日、安藤局長らへの連絡で、「山田秘書官は抵抗しすぎだったな」、「あんまり無駄な抵抗はするなよ」などと述べているのである。(つづく)
2023年3月14日 稲田恭明
「制度のモデルチェンジ」なしに「ご利益」を得られるか? ―――「昭和」からの脱却
(弁護士 後藤富士子)
1 結婚や離婚で「姓」が変わらない制度―「夫婦別姓」原則
「選択的夫婦別姓」制度の導入が叫ばれて久しい。世論調査でも、「選択的夫婦別姓」制度の導入に賛成するのが多数派になっている。そして、この制度の導入が実現しないのは、自民党の保守派のせいだとされている。しかし、果たしてそうだろうか?
まず、現行民法では、結婚については夫婦のどちらかの姓を称することとされている(第750条)。離婚の場合は、結婚により改姓した者は旧姓に復するとされていたが(第767条1項)、離婚の日から3か月以内に届け出れば「離婚時の姓」を称することが可能になった(同条2項)。すなわち、離婚の際には、姓を変更しなくてもよくなったのである。それは「姓の変更」が、個人に様々な不利益を及ぼす現実が直視されたからである。そうであれば、結婚で姓が変わる場合の個人が被る不利益も同じことである。
私は、「選択的夫婦別姓」制度が実現しないのは、制度のモデルチェンジがされないからだと思う。「選択的夫婦別姓」論は、「夫婦同姓」を原則とする現行法を維持したうえで、個人の「ご利益」を求めるにすぎない。「夫婦同姓」制度のモデルチェンジがされないで、「夫婦別姓」を選択する個人の「ご利益」が得られるはずがないのではなかろうか?そして、「夫婦別姓」を原則とする制度改革についてこそ、保守派と闘うべきであろう。
日本国憲法が制定されてから76年経過していることを考えれば、日本には「ロイヤー」がいないのではないかと疑われる。
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