「押しつけ憲法論」の深層(3)憲法改正機会を握りつぶした日本政府

3.憲法改正機会を握りつぶした日本政府

このように、極東委員会(FEC)による干渉を嫌うマッカーサーと、天皇制の存続と自らの生き残りを図る日本の保守派政治家たちの利害の一致によって、日本人民自身の手による憲法制定のための十分な審議の時間的余裕を与えられないまま、日本国憲法が性急に制定された経過を見た。しかし、日本国民が憲法を自主的に再検討する機会がこれで完全になくなったわけではなかった。実は衆議院が憲法改正案を可決成立させた(10月7日)直後の1946年10月17日、FECは「憲法施行の1年後2年以内の期間」に、新憲法が「果たして日本国民の自由な意思の表明であるかどうかを決定するため、同憲法にたいする国民世論を確かめる目的をもって国民投票ないしその他の適当な措置を講ずること」を決定し、GHQに伝達したのである。

これに対してマッカーサーは、翌47年1月3日付の吉田首相宛ての書簡において、この決定を伝え、「もし日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう」と述べている。

しかしFECのこの決定を国民に公表することにはマッカーサーが難色を示したため、国民が新聞報道を通じてこれを知るのはようやく3月30日のことであった。しかし当時、日本国内では憲法普及会という官民一体の組織が国民に対する新憲法の啓蒙活動を本格化させていた時期だったため、この報道は一般的にはむしろ奇異な印象をもって受け止められたという(高見勝利「憲法改正」『法学教室』2013年6月号)。

しかし、FECの決定に対して積極的に反応し、憲法改正意見を取りまとめたグループが2つあった。丸山眞男・鵜飼信成・戒能通孝・辻清明・川島武宜らによって組織された公法研究会と、田中二郎・平野龍一・兼子一らによって組織された東大憲法研究会である。前者は1949年3月、憲法前文から第3章「国民の権利」に至る改正意見を取りまとめ、同年4月号の『法律時報』にその内容を公表した。後者は、憲法各章の改正点に関する意見を個人名で執筆し、「憲法改正の諸問題」という表題をつけて同年の『法学協会雑誌』(67巻1号)に公表している。公法研究会案は、前文および本文中の「国民」という言葉を「人民」という言葉に置き換えることにより、民主主義の原則を深化・発展させること、天皇制は廃止して共和制とするのが理想であるが、さしあたり実現可能な改正案としては、天皇制を承認したうえで、「象徴」という「神秘的要素」を持つ言葉を「儀章」に置き換えることなどを提案した。東大憲法研究会案においても、概ね日本国憲法の民主主義原理を深化させる方向での改正意見が提案された(高見前掲論文参照)。

これに対して、政府や国会側の動きは鈍かった。FECが憲法再検討の期間に指定した施行後1年を経た1948年6月20日、政府(芦田内閣)はようやく衆議院議長に「憲法改正の要否を審査してもらいたい」との申し入れを行い、それを受けて国会事務当局や法務庁は再検討を要する条項の見直しに入るが、国会の動きは極めて消極的で、結局、研究会の設置にも至らなかった。また、こうした憲法改正問題を伝える新聞が掲載する「社説」や「識者の談話」も極めて消極的なものであった。それは、「憲法の持っている客観的な原理、基本的な原理と考えられるものはもう不動のものであって、かりに憲法改正問題がまた起こったとしても、それは問題にならないだろう」という佐藤功の言葉に代表されるような気分が支配的であったからである。なお、この時期の憲法改正問題では天皇退位問題が大きな比重を占めていた(古関彰一『日本国憲法の誕生』366-368頁)。

FECは1949年1月13日、マッカーサーに対して、憲法再検討に役立つ情報と意見の提供を求めたが、これに対してマッカーサーは同月27日、「日本人は、憲法の再検討をするためには、もっと長い時間の経過した後でなければならないとの意見を固持して、この際、真面目に改正を考慮することに強い反対を示した」との回答を送っている

FECの定めた施行2年の期限が近付いた同年4月28日、吉田首相は衆議院外交委員会において、「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません」と答弁し、憲法改正問題を葬り去ったのである。この一連の史実を記した後、古関氏は前掲書の中で次のように述べている。

それにしても「押しつけ憲法」論が、なぜこれほどまでに戦後半世紀以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。与えられていたのである。その機会を自ら逃しておきながら、「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張されつづけてきたのである。とにかく最近の憲法「改正」史や現代史の研究書をみても、この点に全く触れていないのであるから無理からぬ事情があったにせよ、これは糺しておかなければならない。(前掲書375頁)

私は、当時の吉田内閣がFECの求めた憲法改正機会を見送ったこと自体は、それほど非難するつもりはない。当時の大方の国民意識に照らして、憲法改正の必要性が感じられていなかったのは事実であろう。だが、占領下においても、憲法を国民的に再検討する機会は与えられていた、それどころかむしろ求められてさえいたにも関わらず、それを政府の責任においてあえて封印した以上、「憲法は占領下で作られたから押し付けられたものだ」という主張が、いかに歴史的事実を無視した一面的なものであるか、ということはどんなに強調してもしすぎることはないであろう。

 

<参考文献>

小熊英二(2002)『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社

国立国会図書館「日本国憲法の誕生」(http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

古関彰一(2009)『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫

高見勝利(2013)「憲法改正」『法学教室』2013年6月号

豊下楢彦(2008)『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫

樋口陽一(1992)『憲法』創文社

吉田裕(1992)『昭和天皇の終戦史』岩波新書

 

2016年2月28日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 加東遊民

「押しつけ憲法論」の深層(2)マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか

2.マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか

 

それではなぜ、マッカーサーはこれほど憲法の制定を急いだのか。それは、1945年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東諮問委員会(FEAC)に代えて極東委員会(FEC)を設置することが決まり、FECが対日占領政策の最終決定権を持つことが決まり、マッカーサーはFECの下に置かれ、その決定に従うこととなり、そのFECが46年2月26日から活動を開始することになったことが最大の要因である。FECには天皇の戦争責任や天皇制の存続に対して極めて厳しい態度を示しているソ連やオーストラリア、ニュージーランド、フィリピンのような委員もいたが、マッカーサーは天皇制を存置することが占領政策を円滑に進める上で必須の要素と見なしていたため、FECが活動を開始する前に、憲法改正の大綱を定め、既成事実を作ってしまうことが得策だと考えたのである。

そして、2月13日、日本政府側(吉田外務大臣、松本国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与、長谷川元吉外務省通訳官)と会談したGHQのホイットニー民政局長は、GHQ草案を手交した際、次のように語っている。

「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。(……)しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。」

さらにホイットニーは、「最高司令官は、この案に示された諸原則を国民に示すべきであると確信しており」、「あなた方がそうすることを望んでい」るが、「もしあなた方がそうされなければ、自分でそれを行うつもりでおります」と述べ、それが日本側にショックを与えたことが知られている。

日本政府はこの後、若干の抵抗を試みるが奏功せず、結局、2月22日、GHQ案を基に政府案をつくることを決定する。当時の日本政府の立場については、幣原首相が3月20日、枢密院において行った次の発言が参考になる。

「(現在の国際情勢を)考えると、今日このような草案が成立を見たことは、日本のためにまことに喜ぶべきことで、もし時期を失した場合にはわが皇室のご安泰のうえからもきわめて恐るべきものがあったように思われ、危機一発(ママ)ともいうべきものであったと思うのである。」

つまり、マッカーサーと日本政府とは天皇の安泰と天皇制の存続という点で利害が一致しており、それがマッカーサーがGHQ草案を作り、日本政府が受け入れた一番の理由であったしかし、GHQ草案の受け入れにはもうひとつの隠れた目的があった。それは、保守派政治家の生き残りの手段であった。実際、ホイットニーは2月13日の会談において、「マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の手段であると考えています」と述べているが、この頃、進歩党は前代議士274名中260名、自由党は45名中30名が第一公職追放令(46年1月4日)により追放されていた一方で、急速に勢力を伸ばした共産党は、社会党との人民戦線結成を模索していた。危機に陥った保守派政治家にとっては、思いきった改革案を提示する以外に、選択肢はなくなっていたのである。そして実際、GHQ草案を基にした政府の憲法改正草案が3月6日に発表されると、「改革の機運を先取した」保守政党は支持を集め、4月10日に行われた総選挙では、自由党が躍進し、政権を獲得した。したがって、GHQ草案は単に占領軍の圧力によって押し付けられたというよりも、保守派政治家の生き残り策として受容されたのである。さらに経済界も、政府の憲法草案について、日本社会の社会主義化を防ぎ、天皇制護持と資本主義存続という点で「大きな枠がはめられ、将来に対する一応の見透しがついた」として歓迎した(小熊英二『民主と愛国』160-161頁)。

日本政府は憲法改正草案を発表した4日後の3月10日には4月10日に新選挙法による衆議院議員総選挙を行うことを決定し、その選挙で選ばれた議会を事実上の憲法制定議会にすることを決定した。

このようなGHQと日本政府の合作による「上からの」性急な憲法制定の動きに対して、日本の人民からも、極東委員会(FEC)からも懸念と批判の声が上げられた。憲法研究会の主要メンバーであった高野岩三郎、鈴木安蔵は、社会党、共産党を中心に結成準備が進められていた統一戦線組織に対し、憲法制定議会をつくり、そこでじっくり憲法の審議をするよう申し入れた。3月10日には、山川均が呼びかけ人となって、社会党と共産党を連合させる民主人民戦線世話人会が発足し、3月15日には、憲法制定方法について、政府案のみを唯一の草案とせず、特別の憲法制定議会で草案を作成し、その後に国民投票にかけることを要求する国民運動を起こすことを提唱。4月3日の民主人民連盟結成準備大会でも「新憲法は人民自身の手で制定すべきこと」が確認された。4月7日には幣原内閣打倒人民大会が開催され、「民主憲法は人民の手で」をスローガンに掲げた

こうした考え方は、当時の世論においてもかなり有力であった。例えば、2月3日に公表された輿論調査研究所の調査結果によると、明治憲法73条により改正案を天皇が提出する方式を支持する者はわずか20%だったのに対して、憲法改正委員を公選して国民直接の代表者に改正案を公議する方式を支持する者は53%に上った。

一方、FECは3月20日、4月10日という早い時期の総選挙が「反動的諸政党に決定的に有利」になること、憲法草案について「日本国民が十分に考える時間がほとんどない」ことなどを挙げ、マッカーサーに対して、総選挙の延期を要請する書簡を発した。FECは総選挙の実施された4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためにGHQの係官を派遣するようマッカーサーに要求するが、マッカーサーはこれを拒否している。FECはさらに5月13日、新憲法採択の3原則として、「審議のための十分な時間と機会の確保」、「明治憲法との法的連続性」、「国民の自由意思を明確に表す方法による新憲法採択」を決定し、GHQに伝達した。ここでFECが「明治憲法との法的連続性」を挙げているのは、後になって日本国民の間から、新憲法が連合国の押し付けであるという意見が出るのを防ぐためであったと考えられている。

しかしマッカーサーと日本政府は、このような「審議のための十分な時間と機会を確保」し、「国民の自由意思を明確に表す方法」により「人民自身の手で」憲法を制定すべしという国内外の要求を無視し、帝国議会でできるだけはやく憲法を成立させるという点で利害を一致していたのであった。そして、衆議院で65日、貴族院で42日の審議を経て政府草案を修正のうえ、日本国憲法を可決成立させ、11月3日の公布に至るのである。

 

2016年2月28日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 加東遊民

「押しつけ憲法論」の深層(1)日本国憲法の成立過程

(まえがき)

改憲論者の主張する「押しつけ憲法論」の真相と深層を解明するため、これから「「押しつけ憲法論」の深層」と題する記事を3回に分けて掲載する。第1回目は「日本国憲法の成立過程」、第2回は「マッカーサーはなぜ憲法の制定を急いだか」、第3回は「憲法改正機会を握りつぶした日本政府」がテーマとなる。

 

(本論)

改憲論者の最大の根拠が「日本国憲法は占領下でGHQによって押しつけられたものだから」という「押しつけ憲法」論であることはよく知られている。日本国憲法の草案が1946年当時の日本政府に対して押しつけられたことは事実である。では、それはなぜ、どのようにして押しつけられたのか、日本国憲法の成立過程を改めて検証してみよう。

 

1.日本国憲法の成立過程

(1)ポツダム宣言受諾

日本政府は1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。米英中3国が7月26日に発表した同宣言は、「日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去」し、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」が確立されるべきこと(10項)を要求し、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立」されることを(12項)を求めていた。日本の敗戦が避けられない状況の中でなお、同宣言の公表から19日間もの間、日本の戦争指導者たちが同宣言の受諾を巡って逡巡し続けたのは、彼らにとっては「国体の護持」が可能かどうかだけが最大の争点だったからであるが、この間、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦、大阪大空襲などで、国民はさらなる惨禍を味わうことになる。政府は8月10日、「宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す」という申し入れをしたのに対し、連合国側の回答は、①「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国司令官の制限の下に置かるるものとす」、②「日本国の最終的政治形態は『ポツダム宣言』に遵い日本国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」(引用文は現代仮名遣いに改めた。以下同様)というものだった。

 

(2)憲法改正への序幕

ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本であったが、政府関係者の間では、それによって明治憲法の全面的改正、もしくは新憲法の制定が必要になるとの認識は希薄であった。むしろ終戦の詔書(8月15日)に「茲に国体を護持し得て」とあるところからも窺われるように、日本政府は敗戦という現実に直面してもなお明治憲法下の「国体」を維持できると楽観視していた。こうした認識は政府関係者ばかりではなかった。驚くべきことに、明治憲法下の代表的な立憲主義的憲法学者であった美濃部達吉や佐々木惣一、さらには美濃部門下の宮沢俊義がいずれも、明治憲法改正の必要性を認めていなかった(美濃部は10月20日―22日の朝日新聞で憲法改正不要論を唱えている)。

こうした状況を変えたのは、日本の占領統治に当たった連合国最高司令官マッカーサーである。マッカーサーは10月4日、東久邇内閣の近衛文麿国務相に対して憲法改正を示唆する。同日、GHQが発令した自由の指令によって、翌5日には東久邇内閣が総辞職するが、後を受けた幣原喜重郎内閣の下、近衛は佐々木惣一とともに内大臣府御用掛に任命され、佐々木とともに憲法改正作業に着手する。一方、マッカーサーは10月11日、幣原に対しても憲法の自由主義化を指示し、これを受けて幣原は松本烝治国務相を主任とする憲法問題調査委員会を同月25日に設置する。この委員会には顧問として美濃部達吉ら、委員には美濃部門下の宮沢俊義・清宮四郎らが含まれていた。つまりこの時点では、近衛ラインと幣原ラインという全く異なる2系統で、憲法改正作業が進行し始めていたことになる。ところがこの直後、米国の内外で近衛の戦争責任を問う声が高まったことを受けて、GHQは11月1日、突然、近衛との関係を否認するに至る。それでもなお、近衛と佐々木は同月22日と24日、それぞれ憲法改正要綱を天皇に奉答するが、GHQが12月6日、近衛らに戦犯容疑の逮捕指令を出すと、近衛は巣鴨刑務所に出頭予定の16日、服毒自殺を遂げ、彼らの憲法改正作業は何の意義も発揮せずに終了した。

憲法問題調査委員会(通称、松本委員会)は12月8日、①天皇が統治権を総攬するとの原則の維持、②議会の権限拡大、③大臣の対議会責任、④権利自由の拡大と救済手段の完備、という「憲法改正4原則」を衆議院で表明した。以後、松本委員会はこの方針に沿って検討を進め、1946年1月末までに、いわゆる松本私案、それを(主に宮沢が)要綱化した甲案、委員の意見をとりまとめた乙案の3案の成立を見た。しかし、これらの改正案が公表される前の2月1日、毎日新聞が松本委員会試案をスクープするに及び、その内容があまりにも守旧的・保守的であることを知ったマッカーサーは、GHQ自ら改正案を作成し、日本政府に「押し付ける」ことを決意した。その背景には、前年(1945年)12月27日に行われたモスクワ外相会議で、対日占領政策の最高意思決定機関として同年(1946年)2月26日に極東委員会が設置されることが決定しており、マッカーサーとしては、同委員会が活動を開始する前に憲法改正問題を決着させておく必要があったからである。すでに、日本における共産主義勢力の伸長を防ぐために天皇制の温存と天皇の戦争責任からの免責を決意していたマッカーサーにとって、極東委員会による天皇および天皇制への批判を回避するための重要な手段として、民主的な憲法を制定しておくことがどうしても不可欠だと感じられたのである

 

(3)GHQ草案

マッカーサーは2月3日、GHQ民政局で憲法草案を作成するに当たり、①天皇は最高位にあるが、その職務と権能は人民の基本的意思に従う、②戦争の放棄、軍隊と交戦権の否認、③封建制の撤廃、貴族の特権の廃止――という3原則(マッカーサー3原則)を示した。民政局は翌4日から憲法草案起草作業に入り、10日に草案を脱稿、マッカーサーに提出後、微調整を続け、12日にGHQ草案が完成した。その間、日本政府は8日に憲法改正要綱をGHQに提出し、13日にGHQ側と協議を持つことを約した。そこで、日本政府代表(吉田茂外相、松本烝治国務相ら)は13日、憲法改正要綱(松本案)への回答を聞くつもりでGHQとの会談に臨んだところ、GHQ側から松本案の受け取りを拒否されたうえ、逆にGHQ草案を手交されたのである。日本政府にとってはまさに「青天の霹靂」であり、日本国憲法の「受胎告知」の瞬間でもあった(古関2009)。日本政府はその後もGHQ草案への抵抗を続けるが、GHQ側から、この草案に基づく憲法改正こそが天皇の安泰を保障するものであること、これに基づく憲法改正作業を始めないなら、GHQが自ら国民にこの草案を提示すると示唆されたことなどから、2月26日になってようやく、GHQ草案に基づく日本案の起草を決定した。まさに極東委員会がワシントンで第1回会議を始めた日であった

 

(4)政府の改正案公表と帝国議会での審議

日本政府は3月2日にGHQ草案に基づく改正案をまとめ(3月2日案)、4日にGHQに提出した。そこで、佐藤達夫法制局部長はケーディス民政局行政課長らGHQ側と5日午後までかけて修正作業を行い、日本政府は閣議でこの修正案(3月5日案)の採択を決定した。翌6日、政府は「憲法改正草案要綱」発表し、マッカーサーはこれを承認する旨の声明を出した。その後、政府は同草案要綱を口語化したうえ条文の形式に整備し、4月17日、内閣憲法改正草案を発表した。同草案は枢密院の諮詢を経たのち、明治憲法73条所定の改正手続に則り、6月20日、勅書をもって帝国議会に付議された。帝国議会ではまず衆議院での審議でいくつかの修正(「至高」から「主権」への変更、第9条のいわゆる「芦田修正」など)ののち8月24日に可決され、その後貴族院でさらにいくつかの修正(普通選挙制、両院協議会、文民条項追加)を経て、10月6日可決され、10月7日、衆議院は貴族院からの回付案を可決し、憲法改正案が成立し、11月3日、新しい日本国憲法が公布され、半年後の1947年5月3日、新憲法は施行された。

 

(5)「押し付け憲法」論をどうみるか

では、以上のような、日本国憲法の制定過程において、GHQが主導的かつ決定的な役割を果たした事実をどう考えればよいだろうか。占領終了以後今日まで、9条「改正」を眼目とする憲法改正論者たちは、現憲法がGHQによる「押し付け憲法」であると繰り返し主張してきた。制定過程を見れば、GHQ草案がGHQによって日本政府に押し付けられたことは疑問の余地がない。しかし、世論調査等から判断すれば、国民の多数は毎日新聞のスクープした松本草案には批判的で、GHQ草案に基づいて(当時日本国民はその事実を知らされていなかったが)日本政府が起草した政府案要綱を圧倒的に支持していた。したがって、国民がGHQ草案を押し付けられたとは言えないだろう。しかし、本来、国民主権の憲法であれば当然そうあるべきであるように、国民自身が政府に押し付けた憲法でもなかった。もちろん、当時、国民主権の立場に立った民間の憲法草案もいくつか発表されてはいたが、連合国総司令部とその背景にあった国際世論の力がなければ、1946年という時点において、国民主権を明記した憲法が採択されることはなかっただろう(樋口1992:64)。その意味で、日本国憲法は国民主権の理念を高々と謳いながらも、その実際の成立過程はそれにふさわしいものではなかったという弱点を持っていたことは否定できないだろう。

米国への併合を夢見る丸山議員

先日(2月17日)、自民党の丸山和也参院議員は参院憲法審査会で、「米国は黒人が大統領になっている。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ。はっきり言って」と人種差別発言を行った。その際、私が目にした報道では、もっぱらこの「黒人大統領」という人種差別発言のみにスポットライトを当てた報道の仕方がなされており、もちろんこれが言語道断の発言であることは言うまでもないが、実はその前段階で、憲法問題に関わる重大発言も行っていた。

東京新聞(同18日)の発言要旨によれば、丸山議員は、「ややユートピア的かもしれないが、例えば、日本が米国の51番目の州になることに憲法上どのような問題があるのか」と述べたのである。

信じがたい発言である。日本が米国に併合されることを「ユートピア」と呼び、憲法上の問題がないと放言したのである。新憲法制定どころの話ではない。日本国憲法はもちろん、日本という国も日本国民という国民もなくなる、という話である。日本国憲法が全く想定していない事態である。言語も文化も歴史も全く違う国、しかも太平洋を挟んで遠く隔たった国に併合して欲しいという願望を吐露してしまったのである。

自民党の政策はアメリカへの「自発的隷従」と呼ぶに相応しいものだが、丸山議員の発言は、まさしく自民党の“奴隷根性”をあけすけに表明したものである。「正直さ」という点では、麻生副総裁の「ナチスの手口を見習え」発言と並んで“横綱級”であろう。

ついでに言うと、政治家ではなく官僚だが、かつて谷内正太郎・元外務事務次官は『中央公論』2010年9月で、アメリカと日本の関係を「騎士と馬」の関係に喩えたことがある。日本の外務省は米国務省の日本支部であるといわれるほど、アメリカのために働くことを使命としている役所であるが、この元外務事務次官は、日本はアメリカという騎士の言いなりに動く馬(!)だとまで発言したのである。ちなみに、谷内正太郎氏は、第1次安倍政権発足時、「我々は20年間このときを待っていた。絶好のチャンスだ」とも語っている。安倍政権を支える官僚たちがどのようなものか、これでわかるだろう。

「人類普遍の原理」とは何か

日本国憲法の前文には、「これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである」という一文があり、その後には、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という文が続く。後者の「これ」が「人類普遍の原理」を指していることはすぐにわかるが、前者の「これ」、すなわち「人類普遍の原理」とは一体、何のことだろうか。私はこの問題を調べるために、10冊以上の憲法学の教科書を紐解いたが、私が調べた範囲では、この言葉を解説したものは見当たらなかった。なぜだろうか。簡単すぎて、わざわざ説明するほどの事柄ではないからだろうか。そうではない、と私は思う。むしろ、多くの人がこの言葉の意味を誤解しているのではないか、と思い、この文章を書くことにした。 続きを読む

風とともに去ったのか立法府の優位

 このごろ衆院予算委員会のTV中継放映を見ていると立法府の行政府に対する卑屈さが感じられて仕方がない。「政府寄りでない」野党議員が首相に、「お願いします」とか、質問の締めくくりに「有難うございました」と礼を言っている。
 憲法前文第1項第1文の「正当に選挙された国会における代表者を通じて」国民が行動するのが、わが憲法の最高政治原則であり、これに対比して、政府には、その「行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」、国会は厳格に憲法を適用して政府を統御しなければならない。
 憲法によって、国会が国権の最高機関であって、内閣は国会によって、その職を与えられる下級機関でありながら、国会のひな壇に大臣が座り、議員は平場に座らせられている。アメリカでは国務長官ですら平場にあって、ひな壇にいる議員の質問に答えている。
 これらのことはパンフ『日本国憲法が求める国の形』作成の過程で、私が教わったことだが、アメリカの大統領制、日本の議院内閣制という政治制度の違いが、国会と政府の重み逆転の原因なのだろうか。どうしてもそうとは考えられない。
 日本の議員は自分で行政府の立法府に対する優位を日本の常識にしようとしているとしか見えない。だから2月10日の衆院予算委員会で「次の選挙前に議員定数削減を決めよ」と迫る野党議員に、首相は2021年以降に先送りすると答弁する過程で、「総理の国会解散権は何ら制約されるものではありませんが」との片言をぬけぬけと公言しても、会場になんの風波も立たないほど、行政権の立法権に対する優位が常識にまでなっている、と憤慨するのは、古風過ぎるのだろうか。
 憲法制定時にあったと思われる立法府の優位は風とともに去ったのだろうか。

2016年2月13日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 福田 玲三

放送の自由を威嚇する高市総務相は辞任せよ

朝日新聞(2月10日)の報道によると、高市早苗総務相は9日、衆院予算委員会で、「憲法9条改正に反対する内容を相当時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるのか」との玉木雄一郎議員(民主)の質問に対し、「1回の番組では、まずありえない」が、「将来にわたってまで、……罰則規定を一切適用しないということまでは担保できない」と述べ、放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性に言及した。

重大な発言である。放送局が「憲法9条改正反対」、すなわち憲法の尊重を訴える番組を長時間放送すれば、総務大臣が放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性があると発言したのである。実際に電波を停止するまでもなく、この発言だけで、放送局に対する脅しであって、「表現の自由」(憲法21条)を脅威にさらすものである。しかも、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負う公務員である総務大臣が、憲法擁護を訴える番組を「政治的公平性を欠く」と見なし、それを理由に電波停止命令の可能性を示唆したものであり、憲法に定められた「憲法尊重擁護義務」に違反して「表現の自由」を侵害しようとしたものであって、二重の意味で憲法を蹂躙する重大な発言である。 続きを読む

2016年2月11日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 加東遊民

安倍内閣の倒錯した「立憲主義」理解

安倍首相が年明け以降、改憲への欲望を前面に押し出しにしてきている。年頭記者会見(1月4日)に始まり、衆院予算委(同8日)、NHK番組(同10日)、施政方針演説(同22日)など、ことあるごとに、参院選での改憲の争点化を明言している。これまで安倍首相は、選挙前には改憲という本音の争点を隠し、選挙が終わると特定秘密保護法や集団的自衛権の閣議決定、安保関連法制など、念願の立憲主義破壊活動を着々と進めてきた。その安倍首相が、ここにきて、甘利辞任後も落ちない内閣支持率を見て、本音をむき出しにしてきたのである。国民はいよいよ、敗戦の焦土の中から勝ち得た自由と民主主義を、安倍政権とともにゴミ箱に投げ捨てるのか、それとも安倍政権から守り抜くのかの正念場に立たされたのである。

 

2月3日の衆院予算委では、「憲法学者の7割が違憲の疑いを持つ状況をなくすべきだという考え方もある」という暴言を吐いた。安倍首相の側近と言われる自民党の稲田朋美政調会長が、「現実に合わなくなっている9条2項をこのままにしておくことこそが立憲主義の空洞化だ」と述べたのに応じたものである。朝日新聞も6日の社説で「首相の改憲論、あまりの倒錯に驚く」と述べていたが、過去、ここまで憲法を無視し立憲主義を愚弄した政権はない。問題は、ここまで立憲主義を愚弄している安倍政権は、立憲主義の意味を理解したうえで、確信犯としてやっているのか、それとも、立憲主義の「り」の字(意味)も知らずにやっているのか、である。どちらが一層恐ろしいかについては、議論が分かれるかもしれないが、私は後者の方が圧倒的に恐ろしいと思う。前者であれば、「本当は権力者がやってはならないことをしている」という後ろめたさがどこかにあるはずだから、多少の心理的ブレーキがかかるものだが、後者であれば、そもそも罪の意識自体ないため、やりたい放題になる恐れが強いからである。そして、安倍政権が後者であることは、数々の証拠が示している。以下に、いくつかの証拠を挙げる。 続きを読む