志位和夫『共産主義と自由』を読む  

合田寅彦(2024・9・6)

新聞広告を目にして講演録である上記の書を買い求めた。読み進めている途中、なぜだか北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の浮世絵が頭に浮かんでいた。どちらも、身分社会の厳しい言わば自由にほど遠いと思われがちな江戸時代にあって、平和な庶民の姿を描いている。そこに権力者の姿はどこにもない!そんなイメージが頭をかすめながら同時にマルクスの『資本論』を基に語る志位氏の「おとぎ話」に聞き入る民青諸君の素直な顔を活字の向こうに思い浮かべていた。九十を目前にしたさび付いた頭脳の私に良い刺激を与えてくれた本書に感謝しないわけにはいかない。

若き日のマルクスは「ヘーゲルの弁証法」と「フォイエルバッハの唯物論」を学ぶ中で彼独自の「資本制社会における人間疎外(労働疎外)」を深く認識し(「経済学哲学手稿」)、かの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ11」で「かつて哲学者は歴史をさまざま解釈してきたが、肝心なことは変革することである」(おぼろげな私の記憶)と言いきったのだ。

さて、志位氏の講演を聞いた民青諸君はそこから何を会得したのであろうか。自分たちの日頃の活動(共産主義社会実現に向けての)に自信なり可能性なりを感じ取れたとしたら、それは志位氏のどこのどのような言辞がそれにあたるのだろうか。彼の講演が「おとぎ話」でないとの認識に立つのであれば、だが。

19世紀中葉のヨーロッパ(イギリス)は10歳程度の子供が平気で12時間もの労働をさせられていた社会であった。マルクスはエンゲルスの力や当時の『児童労働調査委員会報告・証言』を借り受け、そのあたりのことを「資本論」(第一巻)で克明に記述している。「資本制社会の崩壊」がまさしく人間解放の実現そのものであったのだ。だからこそ労働者の国際的団結が必要であった。マルクスの第一インターナショナル、レーニンの第二インターナショナル、ルクセンブルグの第三インターナショナル、トロツキーの第四インターナショナルはそのような社会革命のイメージを、労働疎外に身を置く労働者の国際的連帯に描いたのだ。

現実には、日本ばかりか世界中の労働運動が壊滅的状況にある。ではそれに代わる市民運動はどうか。すでにべ平連のような市民運動もなければ、残念なことに「日米安保破棄!」の一大国民運動もない。日米軍事同盟批判を口にする政党は「共産党」と弱小「社会党」と「れいわ」しかない。

では志位氏は、「おとぎ話」としてではなく、どのような社会認識に立って望ましい「共産主義社会での自由」を現実社会と結び付けて民青諸君に語ろうとしているのか。私にはそれがまったく見えない!

「共産主義社会の自由」があたかもコロナウイルスのように個人の価値観とは関係なく資本制社会に蔓延するものであれば、そのウイルスを肯定的に扱えばすむことだが、そんな都合の良いことはあり得ない。そうであれば、仮に共産主義が実現したとして、「志位氏の語る自由」はそれまでに身に刷り込まれた庶民の「個人所有の価値観」とどこでどう折り合いをつけるというのか。かつてのロシアのように強権により弾圧するのであれば別だが。資本制社会が崩壊すれば必然的に解決するものではなかろう。文学者であらずとも、人間がそんな単純な存在でないことくらい志位氏であれば分かろうものを。講演の中でその部分を志位氏は全く触れていない。来るべき「共産主義社会」にあって「政治権力」は存在するのかどうか。旧来の彼ら個人所有者に対し(当然抵抗はあろう)、かつてのロシア革命の自営農民弾圧のようなことをしないとの前提にたてば、でのことだが。

私なりに共産主義社会実現のイメージを考えてみたい。かつてのように、革命的労働者による政権奪取はありえない。なにしろ労働組合がないのだから。力による実現は不可能だという認識の上に立って。

考えられることは、貧困家庭を抱え込んだ「大まかな生活協同体」(財産の共有にまでいけばなお良い)がそれこそ全国津々浦々に誕生し、よい結果を生んでいることが大多数の国民の目にしかと認識されたときであろう。共産党員であればこそ、自分たちの間だけでもそれに似た生活共同体があっていいと思うが、どこにもない。かの「ヤマギシ会」の生みの親・山岸巳代蔵にその考え(ヤマギシズム)があったらしいが。

志位氏は現実に共産党という革新政党の指導者であるにもかかわらず、彼の言辞からそうした「共産・共有」のイメージがどこにも感じられない。かつてのフランス革命の合言葉「自由・平等・友愛」の「友愛」がここで言う「共有」にあたる。その「共有」の観念抜きに「共産主義的自由」があたかもそれ自体独り歩きするなどとは、「幻想」に過ぎないではないか。つまり、志位氏の講演が「おとぎ話」であるということだ。

以下がもう一つの志位氏批判の核心だ。あるべき共産主義社会の「自由」を語る前に、その「共産」を頭に冠する日本共産党という政治組織に果たして「人間の思考の自由」はあるのか。

結党以来100余年の日本共産党がこれまでにどれだけの数の党員を「反党分子」として除名してきたか。「権力の回し者」が仮にその中にしたとしても・・・。

未来社会を築こうとしてきた党であってみれば、その未知の社会へのイメージが多様であることはむしろ「財産」であろうに、文学者をはじめ多くの思想家を異分子として排除してきたのではなかったか。己の組織に多様な思考の自由がなく、どうして「党がイメージする未来の人間社会」に「自由がある」と語ることができるのか。近 しい共産党員が数名いる。みなさん「善人の塊」のような人たちばかりだ。ただし党の任務に縛り付けられている見るからに可哀そうな「市会議員の
某」一人を除けばだが。傍観していて滑稽である。とはいえ、その地域共産党員皆さんの口にする言葉はすべて「コピーされたもの」との印象を抱くものばかりだ。「共産主義社会での人間の自由」を語る前に、「おのが党の言論の自由がどれほど狭められているか」をこそ党員各位は自覚すべきであろう。

親の自然権としての「子育て」

(弁護士 後藤富士子)

1 「ペアレンティング」という概念
 アメリカでは、そもそも日本の民法で定められている「親権」に相当する語はなく、いわば財産管理権を除く「監護権」=「custody」が法律用語となっている。したがって、日本で「共同親権」というのは、「joint-custody」と英訳されるのが一般的である。
 これに対し、社会学や教育学の文献あるいは大衆向けの書物では、「parentig」という語が使われている。この意味は、「子育て」「育児」「親業」である(ランダムハウス英和辞典参照)。
 ちなみに、『離婚後の共同子育て』(エリザベス・セイアー&ジェフリー・ツィンマーマン著・青木聡訳)の原題は「The Co-Parentig Survival Guide」である。また、『離婚と子ども』の著者である棚瀬一代教授(当時)も「ペアレンティング」という語を用いているし、離婚後の「共同子育て」に関し「パラレル・ペアレンティング」=「並行的親業」を提唱していた。
 ところで、「ペアレンティング」という概念は、専ら「親の作為」を意味しているところ、それは法律上の「権利」といえるのだろうか。日本の民法で定められている「親権」「監護権」が親の権利であることに鑑みれば、「ペアレンティング」が親の権利であることに疑いをはさむ余地はないと思われる。
 むしろ、「パラレル・ペアレンティング」が「共同子育て」の一形態とされることに照らせば、民法が定める「親権」「監護権」の内実が空洞化しているように思われてならない。その根本原因は、「子育て」という現実的・実際的な内実と乖離して、離婚により片親から親権を剥奪する単独親権制にある。さらに、それを埋め合わせるために、親権者とならなかった親が、「子育て」からは程遠い「面会交流」を家事事件手続により追求しても、結果は虚しい。

2 「親権」と「後見」の根本的差異
 近代法の親子関係の中核は、親が子を哺育・監護・教育する職分であり、民法はこれを「親権」として規定する。親と子は、血縁的関係者の中でも最も緊密なものであるから、両者の関係は親権に尽きない。習俗的・倫理的にそうであるだけでなく、法律の上にも現れる(例えば相続)。しかし、広い意味での親子の法律的関係のうちで、親権すなわち親の子を哺育・監護・教育する職分を中核として特別の取扱をすることが、近代法の特色である。
 ここで「職分」とされるのは、他人を排斥して子を哺育・監護・教育する任に当たりうる意味では権利であるにしても、その内容は、子の福祉をはかることであって、親の利益をはかることではなく、またその適当な行使は子および社会に対する義務だとされることである。この点で国家の監督が問題になるし、その意味では「親権」と呼ぶことがすでに不適当と考えられている。
 また、その「職分」の内容を包括的なものとせず、場合によっては分離しうるものとすることも考えられている。それは、親権の内容を包括的な単一のものとするときは、おのずから親権者の支配的色彩が強くなることを恐れ、内容を具体的な権利の集合とみようとするのである。しかし、子の健全な育成をはかるという職分の内容を具体的に列挙することは不可能である。
 そして、このような近代法の特色を前提とし、「親権」と「後見」の区別を認めず、すべて後見として、父母があるときは父母が後見人となるイギリスの制度が検討される。実際、日本でもこのような制度を採用すべしという主張があった(中川善之助)。これに対し、我妻栄は、「自然の愛情を基礎とし、それによってある程度の保障のある親権と、そうしたもののない後見とにおいて、その内容の区別(国家の監督の強弱)を認める必要がないかどうかが検討されなければならない。」としたうえで、「私はまだ差別の抹消に踏み切る確信をもてない。」と吐露している(有斐閣:法律学全集23『親族法』:平成6年8月30日初版第42刷発行/317頁)。
 このように、「親権」と「後見」の根本的差異は、親子であることによって生まれる「自然の愛情」を基礎とできるか否かにかかっている。このことは、親の「子育て」が、人為的な法制度よりも前に、原初的に形成されるものであることを認めている点で、「自然権」と呼ぶのに相応しいと思われる。

3 親の「子育て」と憲法
 ドイツ基本法6条2項は、「子の養育および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行に対しては、国家共同社会がこれを監視する。」と定めている。そして、1982年11月3日、連邦憲法裁判所は、離婚後の親の単独配慮(1979年、「親権」は「親の配慮」に改正)を定めたドイツ民法(BGB)1671条4項1文は、前記基本法に抵触するゆえ無効であるとする違憲判決を下している(日弁連法務研究財団『子どもの福祉と共同親権』所収/鈴木博人「ドイツⅠ」143頁参照)。このように、ドイツでは、子の養育および教育が「両親の自然の権利」と憲法で明記されている。
 一方、前項で検討したように、日本においても、親の「子育て」は「自然権」と考えられる。そして、「自然権」は基本的人権であるから、憲法に根拠があるはずである。
 まず、婚姻中の父母の共同親権を定めた民法818条3項は、日本国憲法24条に基づくものである。同条2項は、婚姻や離婚等家族に関する事項について、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」としている。そして、1項では、特に婚姻に限って「夫婦が同等の権利を有することを基本」とする旨を定めている。そうすると、婚姻中は父母の共同親権であることは、同条1項2項で重複して保障しているにすぎず、離婚後は単独親権を絶対的に強制する法律は、同条2項に抵触すると言わなければならない。
 しかるに、そのような議論-絶対的単独親権制違憲論-が日本の司法界で低調なのは、親の「子育て」についての権利性が理解・認識されていないからである。結局、戦後の民法改正レベルでは、「男女平等」という点で「家父長」制が否定されただけで、「個人の尊厳」という理念が顧みられず、「家」制度の廃止は不発に終わったのであろう。だから、民法の家族法全面改正から77年経過しようとも、「法律婚優遇」という国家権力による権威主義的政策によって「家」制度は生き延びている。

(2024年9月25日)

2024年9月25日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子

Q&A 志位和夫『共産主義と自由』を読む  

合田寅彦(2024・9・6)

新聞広告を目にして講演録である上記の書を買い求めた。読み進めている途中、なぜだか北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の浮世絵が頭に浮かんでいた。どちらも、身分社会の厳しい言わば自由にほど遠いと思われがちな江戸時代にあって、平和な庶民の姿を描いている。そこに権力者の姿はどこにもない!そんなイメージが頭をかすめながら同時にマルクスの『資本論』を基に語る志位氏の「おとぎ話」に聞き入る民青諸君の素直な顔を活字の向こうに思い浮かべていた。九十を目前にしたさび付いた頭脳の私に良い刺激を与えてくれた本書に感謝しないわけにはいかない
若き日のマルクスは「ヘーゲルの弁証法」と「フォイエルバッハの唯物論」を学ぶ中で彼独自の「資本制社会における人間疎外(労働疎外)」を深く認識し(「経済学哲学手稿」)、かの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ11」で「かつて哲学者は歴史をさまざま解釈してきたが、肝心なことは変革することである」(おぼろげな私の記憶)と言いきったのだ。

さて、志位氏の講演を聞いた民青諸君はそこから何を会得したのであろうか。自分たちの日頃の活動(共産主義社会実現に向けての)に自信なり可能性なりを感じ取れたとしたら、それは志位氏のどこのどのような言辞がそれにあたるのだろうか。彼の講演が「おとぎ話」でないとの認識に立つのであれば、だが。
19世紀中葉のヨーロッパ(イギリス)は10歳程度の子供が平気で12時間もの労働をさせられていた社会であった。マルクスはエンゲルスの力や当時の『児童労働調査委員会報告・証言』を借り受け、そのあたりのことを「資本論」(第一巻)で克明に記述している。「資本制社会の崩壊」がまさしく人間解放の実現そのものであったのだ。だからこそ労働者の国際的団結が必要であった。マルクスの第一インターナショナル、レーニンの第二インターナショナル、ルクセンブルグの第三インターナショナル、トロツキーの第四インターナショナルはそのような社会革命のイメージを、労働疎外に身を置く労働者の国際的連帯に描いたのだ。
現実には、日本ばかりか世界中の労働運動が壊滅的状況にある。ではそれに代わる市民運動はどうか。すでにべ平連のような市民運動もなければ、残念なことに「日米安保破棄!」の一大国民運動もない。日米軍事同盟批判を口にする政党は「共産党」と弱小「社会党」と「れいわ」しかない。

では志位氏は、「おとぎ話」としてではなく、どのような社会認識に立って望ましい「共産主義社会での自由」を現実社会と結び付けて民青諸君に語ろうとしているのか。私にはそれがまったく見えない!
「共産主義社会の自由」があたかもコロナウイルスのように個人の価値観とは関係なく資本制社会に蔓延するものであれば、そのウイルスを肯定的に扱えばすむことだが、そんな都合の良いことはあり得ない。そうであれば、仮に共産主義が実現したとして、「志位氏の語る自由」はそれまでに身に刷り込まれた庶民の「個人所有の価値観」とどこでどう折り合いをつけるというのか。かつてのロシアのように強権により弾圧するのであれば別だが。資本制社会が崩壊すれば必然的に解決するものではなかろう。文学者であらずとも、人間がそんな単純な存在でないことくらい志位氏であれば分かろうものを。講演の中でその部分を志位氏は全く触れていない。来るべき「共産主義社会」にあって「政治権力」は存在するのかどうか。旧来の彼ら個人所有者に対し(当然抵抗はあろう)、かつてのロシア革命の自営農民弾圧のようなことをしないとの前提にたてば、でのことだが。

私なりに共産主義社会実現のイメージを考えてみたい。かつてのように、革命的労働者による政権奪取はありえない。なにしろ労働組合がないのだから。力による実現は不可能だという認識の上に立って。
考えられることは、貧困家庭を抱え込んだ「大まかな生活協同体」(財産の共有にまでいけばなお良い)がそれこそ全国津々浦々に誕生し、よい結果を生んでいることが大多数の国民の目にしかと認識されたときであろう。共産党員であればこそ、自分たちの間だけでもそれに似た生活共同体があっていいと思うが、どこにもない。かの「ヤマギシ会」の生みの親・山岸巳代蔵にその考え(ヤマギシズム)があったらしいが。
志位氏は現実に共産党という革新政党の指導者であるにもかかわらず、彼の言辞からそうした「共産・共有」のイメージがどこにも感じられない。かつてのフランス革命の合言葉「自由・平等・友愛」の「友愛」がここで言う「共有」にあたる。その「共有」の観念抜きに「共産主義的自由」があたかもそれ自体独り歩きするなどとは、「幻想」に過ぎないではないか。つまり、志位氏の講演が「おとぎ話」であるということだ。
以下がもう一つの志位氏批判の核心だ。あるべき共産主義社会の「自由」を語る前に、その「共産」を頭に冠する日本共産党という政治組織に果たして「人間の思考の自由」はあるのか。
結党以来100余年の日本共産党がこれまでにどれだけの数の党員を「反党分子」として除名してきたか。「権力の回し者」が仮にその中にしたとしても・・・。
未来社会を築こうとしてきた党であってみれば、その未知の社会へのイメージが多様であることはむしろ「財産」であろうに、文学者をはじめ多くの思想家を異分子として排除してきたのではなかったか。己の組織に多様な思考の自由がなく、どうして「党がイメージする未来の人間社会」に「自由がある」と語ることができるのか。近くは松竹某氏の除名があったではないか。笑止千万と言うに等しい。
私の地域にごく親しい共産党員が数名いる。みなさん「善人の塊」のような人たちばかりだ。ただし党の任務に縛り付けられている見るからに可哀そうな「市会議員の某」一人を除けばだが。傍観していて滑稽である。とはいえ、その地域共産党員皆さんの口にする言葉はすべて「コピーされたもの」との印象を抱くものばかりだ。「共産主義社会での人間の自由」を語る前に、「おのが党の言論の自由がどれほど狭められているか」をこそ党員各位は自覚すべきであろう。

Fazıl Say ~ Nâzım Oratoryosu Live「ナーズムオラトリオ」ライブ動画のご紹介

原爆で紙切れのように燃やされ灰になった7才の少女。10年経っても7才のまま。。。とあるから1955年にナーズム氏が書いた詩に(1963年に亡命先ロシアで死亡)、今のトルコ政府の依頼で、今人気のトルコ出身のピアニストであり作曲家のサイ氏が曲を書き、自らピアノを弾く。1時間半の大曲オラトリオには神の登場はなく、平和を願う人間の祈り、魂の叫びで原爆を投下したアメリカを糾弾するオラトリオらしいオラトリオになって、現代人の心を揺さぶる。演奏終了後の数千人の聴衆の拍手、歓声に唯一の被爆国日本もしっかりせねばと叱咤された。

ファジール・サイさんの演奏はYouTubeにたくさんアップされていますが、この曲はトルコ語(アルファベットだけで大丈夫です)で検索しないと見つかりません。

この動画には、YouTubeの自動翻訳で日本語字幕を表示させられますが、詩のコンピューター翻訳はダメですね。

古いものですが、ナームズ・ヒクメット氏の詩集はAmazonで手に入ります。

戦闘機輸出を憂う――時事短歌2首

曲木草文

戦闘機輸出その先幾万の 死屍累々われは関せず

戦闘機輸出したとてわが国の 平和主義変わらぬとうそぶく

防衛庁ホームページより
次期戦闘機のイメージ
(防衛庁ホームページより)

自衛隊による靖国神社集団参拝の危うさ

柳澤 修

 今年1月9日、陸上自衛隊の小林弘樹・陸上幕僚副長(陸将)が東京・九段の靖国神社を陸自幹部らと集団で参拝したことが分かった。その後昨年5月17日に、海上自衛隊の練習艦隊司令官・今野泰樹海将補はじめ、一般幹部候補生課程を修了した初級幹部ら165人が集団参拝したことも判明した。

1974年の事務次官通達では「神祠(しんし)、仏堂、その他宗教上の礼拝所に対して部隊参拝すること」などを「厳に慎むべきである」としている。

しかし、防衛省は陸自の集団参拝について調査結果を発表し、「おのおのの自由意思に基づき私人として行った私的参拝」と認定。上記の次官通達に違反しないとした。同じく海自の集団参拝について酒井良海・海上幕僚長は、「研修の合間に個人が自由意思のもとで私的に参拝した」とし、「問題視することもなく、調査する方針もない」と会見で述べた。

 結果的に、陸自幹部が公用車を使って参拝したことが問題視され、参拝した幹部3人が訓戒の処分を受けたが、集団参拝自体は事務次官通達違反とはしていないのだ。

 最も強力な暴力装置としての自衛隊幹部の思考に恐ろしさを禁じ得ない。事務次官通達以前に、日本国憲法20条を何ら理解していないことに恐ろしさを感じる。

憲法20条

  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政 治上の権力を行使してはならない。

 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

防衛省や制服組幕僚幹部は、「私人」を強調するが、上意下達が最も徹底された組織である自衛隊にあって、上からの命令や計画は至上であり、自由意思が許される範囲は極めて少ない。現にいずれの集団参拝も厳密な計画があったのだ。それにも関わらず、正々堂々と「私人」だの「自由意思」だのと都合のいい言葉を持ち出して、参拝を正当化するのはもってのほかである。

こうした防衛省・自衛隊の傲慢さは、安倍政権以降の、集団的自衛権の容認や敵基地攻撃能力の保有など、憲法無視の政治が大いに影響を与えている。アメリカ一辺倒の外交・軍事政策により台湾有事などを盛んに煽り、「新しい戦前」に対処するには、軍国主義の精神的支柱として国民を戦争に動員する役割を果たした靖国神社がもってこいの存在なのだ。

 また、靖国神社と自衛隊の緊密な関係は、4月1日から第14代宮司に元海将であった大塚海夫氏が就任することからも証明された。

前記したように、自衛隊は現在の日本で最も強力な暴力装置である。「文民統制が徹底されているから心配ない」と考えるのは、もしかしたら甘い考えかもしれない。制服組の幹部がこうした憲法認識しか持っていない組織には、大いなる危険が存在するのではないか。

こんな考えが杞憂であってくれればそれに越したことはないのだが。

(2024年3月21日)

2024年3月21日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : o-yanagisawa

「共同親権」は日本国憲法とともに

                        (弁護士 後藤富士子)

1 「共同親権」は、日本国憲法とともにやって来た
 憲法24条の家族観は、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」を基本理念としている。そのため、昭和22年の民法改正で家族法が抜本的に見直されている(「第4編親族」全部改正)。「共同親権」制もその一つである。戦前は「単独親権」制であり、第一次的に「家ニ在ル父」、第二次的に「家ニ在ル母」が親権者とされていた。つまり「家父長」制である。
 しかし、戦後の民法改正では、「男女平等」という点で「家父長」制が否定されたにしても、「個人の尊厳」という点で「家」制度の廃止は不徹底であった。というより、「個人の尊厳」という理念は顧みられなかったのかもしれない。「夫婦同姓の強制」や未婚・離婚の「単独親権」強制は、その典型と思われる。その根底にあるのは「法律婚の優遇」であり、それによって「家」制度が温存されたように見える。

2 「婚姻関係」と「親子関係」の峻別
 現行民法で、「共同親権」は「父母の婚姻中」に限定されている。離婚後は、父母どちらかの「単独親権」とされている。憲法で父母は夫婦として「同等の権利を有する」とされているのに、離婚後は「単独親権」になるのは何故なのか?「夫婦」でなくなるからなのか?父母が合意できるならいいけれど、「親権者でなくなる」「親権を喪失する」ことをどちらも受容できない場合、「単独親権」を強制する法律は、憲法の平等原則にすら反するのではないか?
 考えてみると、同じ人物が「夫婦」か「父母」かで異なる扱いを受けるなんて、まるでトリックである。これは、「婚姻関係」と「親子関係」が法律上峻別されているせいであろう。
 ちなみに、民法では、婚姻法(第4編第2章)の中に親子関係を直接律する規定はなく、「離婚後の子の監護に関する事項の定め等」(766条)の1箇条があるのみである。一方、第4編第4章「親権」には、「子の監護に関する事項」についての規定がない。「親権」の概念が「子の監護・教育」とされているうえ(820条)、「監護権」だけを喪失・停止させることはできないとされている(834条、834条の2、835条参照)。
 それでは、離婚前の別居段階ではどうなるのか? 法律上は夫婦の共同親権である。しかるに、「親権」の枢要部分である「監護」について民法に規定がないため、766条が準用ないし類推適用されている。その内容は、「監護者指定」「面会交流その他の交流」「養育費」「その他の子の監護について必要な事項」と広範囲である。しかし、同条は、離婚後の単独親権を前提としているから、どこまでいっても矛盾を免れない。しかも、同条4項では「監護の範囲外では、父母の権利義務に変更を生じない」とされている。
 そうすると、離婚後について「親権と監護権の分属」は法律上の根拠があるのに対し、離婚前の「単独監護者指定」は脱法というほかない。また、妻が子どもを連れ去って夫の親権行使を妨げていることも、違法(821条居所指定、820条監護教育)というほかない。
 このような矛盾・違法を克服するには、父母の離婚によって親子関係が変動しない、つまり、離婚後も共同親権にすれば足りる。換言すると、離婚後の単独親権制は、法律上峻別された「婚姻関係」と「親子関係」を結合するものであった。だから、ドイツの民法改正では、この「結合」を外したのである。

3 「女性差別撤廃条約」と「子どもの権利条約」
 昭和60年に発効した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」16条1項(d)は、「子に関する事項についての親(婚姻をしているかいなかを問わない。)としての同一の権利及び責任」を確保することを求めている。この規定からすれば、未婚・離婚の「単独親権」制は撤廃されるべきはずである。
 また、平成6年に発効した「児童の権利に関する条約」18条は「父母の共同責任」として「児童の養育及び発達について父母が共同の責任を有するという原則についての認識を確保するために最善の努力を払う」ことを締約国に求めている。ここでも、「父母」の婚姻関係は問われない。ちなみに、ドイツの民法改正は、「子どもの権利条約」の批准に伴うものであった。
 日本は、いずれの条約も批准して発効しているのに、未婚・離婚を含む「父母の共同親権」を原則とする法改正はされなかった。去る3月8日、漸く、離婚後の「共同親権」を認める民法改正案が閣議決定され、国会で審議されるところへ漕ぎ着けた。日本国憲法施行から77年、「女性差別撤廃条約」発効から39年、「子どもの権利条約」発効から30年である。

4 「単独親権」制は、「DV防止法」「児童虐待防止法」の代替措置ではない
 離婚後も父母双方が親権をもつ「共同親権」の民法改正について、DVや児童虐待の被害者や支援者が懸念を表明している。離婚前のDVや虐待の「立証が困難」であり、法改正は「被害者を守る制度を先に確立し、確実に運用されてからだ」という。
 しかしながら、「DV防止法」や「児童虐待防止法」は、被害者を守るための法律ではないのか。また、婚姻中でさえ、親権喪失・停止の審判ができる。それらを活用せずに、離婚後の単独親権制にすべてを代替させるが如き議論こそ、日本国憲法や「女性差別撤廃条約」「子どもの権利条約」を無視してきた元凶ではないか。それは、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」という理念に希望をもたない人の思想である。でも、私は、熱烈に希望をもっている。

(2024年3月18日)

2024年3月18日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子

若き米兵の焼身自殺を悼む――時事短歌3首

曲木 草文

ジェノサイド加担できぬと焼身す 若き米兵アーロン・ブッシュネル

ジェノサイド老いたるバイデン加担せり 若き米兵わが身焼き死す

君の名を記憶しましょう人の世の 続く限りにアーロン・ブッシュネル