沖縄県主催シンポジウム「日米地位協定の改定に向けて」に参加しました。

沖縄県主催シンポジウム「日米地位協定の改定に向けて」に参加しました。参加者500人(主催者数字)、パネラーの顔が確認できない程遠い広い会場が満席でした。

先ず、玉城沖縄県知事による「他国地位協定調査」の報告。
数年かけて調査したもの(資料1欧州 資料2オーストラリア・フィリッピン 資料3韓国)を、限られた時間の中で、早口で一気に熱意を込めて報告されました。この上記資料1、2、3は沖縄県ホームページの地位協定ポータルサイトからダウンロードできます。項目別に比較でき、日本がどれほど酷い状況にある明白です。
次にzoomでレオナルド・トリカリコ氏のお話。
トリカリコ氏は元イタリア空軍参謀長、現NATO第5戦術空軍司令官で、伊米地位協定交渉のイタリア側担当者だった。「条文を変えたわけではなく、国民の怒りの声をバックに、少しずつ運用の改善を実現して来た。」ことを強調されていました。
最後は、パネルディスカッション。

玉城知事以外の登壇者が若い。最年長のフリージャーナリスト布施祐仁氏でも48才。平和問題というと高齢者ばかりという現実を見ているので、ここに惹かれてこのシンポジウムを申し込んでいます。

川名晋史教授(40代半ば)は「他の学問は外国の先例がある。このテーマ日本独自の問題。孤独になる。若い研究者もいる。このように多くの人が関心を持っていることは彼らの励みなる。」と。

沖縄出身の三宅千晶弁護士(30代)は、この若さで日米合同委員会担当官僚とやり合ってきた。開示請求拒否の理由がアメリカのノーだと言われ、ノーの文書を見せろ、文書ではないメールだった、メールを見せろ、メールもなし、で黒塗りがいっぱいあったけれど開示はされたそう。日本の官僚はアメリカの意向を確認せず、忖度なのかサボりなのかアメリカがダメだと言ってるからダメなんだと門前払いして来たのかもしれない。トリカリコ氏が言ったように国民が怒りの声を上げ続けなければ何も変わらないということだろう。

このシンポジウムを企画コーディネートを担当した猿田佐世氏も40代、新外交イニシアティブ(ND)の代表です。彼女の企画、コーディネートは宣伝、参加申込み受付、申込者への前日の確認メール、当日の現場設営、運営、マスコミ取材手配、終了後のアンケート回収(配布されたアンケート用紙のQRコードでスマホで答えてくれ、「手書きを入力するのが大変なんです」とアナウンスしていた)までの一切を請負っているよう。玉城知事は当日朝の飛行機で上京したそう。

知事は「沖縄の基地は今も増えている」と。日米安保条約は全土基地方式であり、つまり、米軍の占領状態であり、日本の許可なしに何時でも、何処にでも基地にできうる。今は宿舎需要ではあるか、不動産屋に基地用地求むという広告が出ており、地主がOKならすぐに米軍基地になると。

最後に、フィリッピンがアセアン加盟国であり、アセアン諸国と連携してフィリッピンに有利な地位協定に成功しているということから、沖縄はどう考えているかという質問に対し、知事は、アメリカが沖縄の基地能力の一部を移転する計画があるグアム、ハワイ、オーストラリア、サイパン、テニアン、北マリアナ諸島と連携していきたいと。

安保も地位協定も日米関係の問題なのに、沖縄だけに頑張らせているようで心が痛みます。政府が沖縄側に立ちアメリカと交渉する覚悟がありさせすれば、辺野古の裁判も違う結果になったはず。沖縄県外の国民が声を上げてこなかったのが原因ではないかと確認させられるセミナーでした。

終了後、猿田ND代表の声と思うが、今日の500人が10人に伝えてくれれば5,000人に、5人でも2,500人に届く。よろしくと言ってました。

裏金政治腐敗を憂う――時事短歌3首

曲木 草文(まがきそうぶん)

裏金の犯罪派閥にすりかえて 解散したとて消えるわけなし

裏金は会長案件知らぬとぞ 死人に口なし裏切り五奉行

解散は禁煙並みか何度でも できるとうそぶく輩おるらし

『安倍政権の総括』について

                  高見正吾(千葉県我孫子市)

 完全護憲の会に入会させていただいた高見正吾です。よろしくお願いします。

 現在66歳なのですが――60歳直前に父が急死、以後、相続、入院・手術2回、母の介護、病気のリハビリが続き、今でも精神的な落ちこみが続き、健康に不安な毎日です。

 今年の7月半ばから8月末まで、夏バテ・精神的疲れでダウン、完全護憲の会他、郵送物まで気がまわりませんでした。

 11月は調子がよいので家の中のかたづけをしていました。郵送物の中から安倍政権の総括(完全護憲の会)を見つけ、今ごろになって読みはじめました。最近、もっともよい本であると思います。

 安倍政権は「安倍晋三と、そのお友だち」で総括するものではなく、日本の日清戦争からはじまる大陸支配にさかのぼり、長い歴史によって総括しなければわからないのではないかと思います。第2次世界大戦以前からの歴史をふりかえる必要があるのではないか?

 その中心が満州で、鉄道が重要です。そのため日本・国鉄に関係する論客が活躍することになります。

 私の母方の祖父は満州、鉄道勤務と聞いていたので、満州鉄道だと思っていたら、華中鉄道でした。駅の助役をしていました。中国の評判がよく、戦後も数年間中国に残り、鉄道指導担当だったそうです。日本にもどり、国鉄に入り、亀有の駅員だったという。下山事件の時だったかは不明です。華中鉄道は日本国内向けに蛍石(ほたるいし)を運んでいたらしい。当時、佐藤栄作が実権を持っていたのではないか?

 さて、安倍政権の本の感想なのですが、不勉強で、勉強しなければいけない部分が多いです。今のところは「通常のマスコミでは、得ることのできない重要な点をズバリと、まともに語っている」と評価できる良本になっているということです。

 しかし、安倍政権はそもそもまともではないので、まともな議論で、はたして対抗できるのか不安です。

 私は日本新党の選挙スタッフしていました。仲間と票読みをしました。調査、研究も。

 福田玲三さんの衆議院、参議院の総選挙の数字を元に分析すると――投票率50%として考えた場合、自民・公明の得票数は50%であるため、有権者の25%で与党300議席が可能であるという計算になります。

 公明は創価学会員であるため、自民は20%で衆議院280議席が可能――自民はその20%しか考えていないということになる。これが安倍晋三の選挙です。

 自民・安倍を勝利させた20%の票は、個人の財産を第一に考える人々です。個人の財産、すなわち株と金融です。安倍政権ははじめから実体経済などどうでもよく、国民などどうでもよく、資本家・投資をしている人だけを考えていました。

 そしてアジア大陸に進出して、再度満州帝国を志向する人々を応援する政策だったのではないか?当然、中国・ロシア・北朝鮮、そして日本に味方する韓国も属国にすることを考え、幸いアメリカは軍事目的のためにスポンサーになってくれる。安倍晋三のお友だちは自分の財産の拡大しか考えず、その数が有権者の20%になるため、自民党は280議席になっていたのではないか?

 自公の得票率は50%なので、半分、50%が野党にまわっている。だから野党が一つになれば、自公の議席数は野党と同じになります。しかし野党は共闘しない。そのため自公は50%で300議席ということになります。

 野党が共闘しないと議会制民主主義はなりたたないです。

 自民党・安倍政権が実体経済を無視して金融経済を重視するのも、国民などどうでもよく、資本家、投資をしている人を優先させるのも、自民党が衆議院280議席を取るため、有権者20%を抑えるためです。

 有権者の20%を確実にするために、株価をあげる。そのために外資を集めようとします。まともに安倍政権を批判しても、安倍政権が悪いものであっても、自分の財産をキープ・拡大したい有権者が20%いれば、自民党は280議席で常に勝利できます。

 これが安倍晋三を長期総理にしたてあげたシステムであると思います。

 国民が貧困になれば強い政権に対して闘うのではなく、助けてくれと従うようになる。闘う勢力に対しては、過激派・反日といって弾圧します。

 国民は反対・弾圧よりも株を買って稼ぐ方にまわり、もうかる情報を得るために従います。そして株で損をします。

 それでは、どうしたらよいのか? 一番現実的なのは選挙のシステムを変えること――野党共闘です。有権者の20%では政権をとれなくさせればいいのです。野党共闘のジャマをしているのが連合です。ゼンセンと電力総連がガンです。

 創価学会員が大量に平和と反原爆運動をやれば日本は変わります。(学会員に期待するのはそれしかない)

 戦争と原爆(核)がなかったら、アメリカ経済が崩壊します。日本の非正規社員は農業を復活させて自給自足の生活をすればよいと思います。(12月2日)

政治腐敗を憂う 時事短歌2首

曲木 草文(まがき そうぶん)

 自らの派閥の裏金棚に上げ 安倍派閣僚切って生き延び

 どう見ても総辞職だろう岸田さん 「増税メガネ」の悪あがきかな

私の日本共産党論

合田寅彦

今や共産党と名がつく政党は資本主義世界ではわが国だけであろう。貴重な政党だ。その共産党の文書にしばしば「科学的社会主義」なる言葉が散見される。「人道的社会主義」ならば、かつてスターリンによってなされた農業の集団化に抵抗するロシアの自営農民への虐殺やシベリア追放の反省の上に立った用語として納得できるが、「科学的」とはこれ如何に?だ。
仮にいま「共産党はこの地球に万有引力が存在することを認めるものである」と言ったとしよう。そこにいささかの間違いがないとしても、世の物笑いになるだけだろう。だれもがニュートンの名を知っているからだ。
万有引力のニュートン、ラジウム発見のキュリー、資本主義の本質を論じたマルクス・・・。私たちはいずれも「最初にその本質を見抜いた人」の名前を冠してその業績をたたえている。科学的態度とは、真理にたいしてはあくまで謙虚であることだ。あとからもっともらしいことを言ってもだれも評価しない。
では共産党の「科学的社会主義」はどうか。果たして共産党は「科学的」を口にできるだけの政党なのか。
最新の『共産党綱領』を読んでみるとそれがよくわかる。そこでは旧ソ連が侵したハンガリーやチェコへの軍事介入を批判している。ではそう言う当時のおのれ自身はどうだったか。ソ連を支持していたのではなかったか。当時の文献を見ればそれは明白だ。「あったこと」も「なかった」ことにするのか。
一方、60年前(!)のそのころ既に軍事侵攻したソ連の社会主義(スターリニズム)批判をしていた人は何人もいた。その人たちに対して共産党は「トロツキスト」(現行「社会主義」を貶める悪役)と蔑称して左翼陣営から排除していたのだ。「科学的」と言うのであれば、まずソ連社会主義の本質を最初に暴いた共産党が言うところの「トロツキスト」に対して、自らの不明を恥じ首(こうべ)を垂れるべきではないか。それが科学的態度というものであろう。
1962年にモスクワで開かれた国際学生連盟総会に日本代表として全学連の3名が参加した。当時、日本の全学連を除くすべての国の学連代表はそれぞれ自国の共産党に倣ってソ連の水爆実験を支持していた。
そうした中で、全学連委員長の根本仁(北海道学芸大学学生、私と60年安保闘争を一緒に闘った仲)ほか2名がモスクワの「赤の広場」で「ソ連水爆実験反対」の横断幕を掲げてデモをしたのだ。当時のソ連だ。決死の覚悟を必要としたであろう。今から振り返れば当然の快挙なのだが、これを共産党は「跳ね上がり分子」として完全に無視したのである。つまり、「党綱領」を見る限り共産党は歴史認識に疎い「科学的」からいちばん遠い存在だということだ。
党員のみなさんに問いたい。みなさんがかつて常に口にしていた「平和勢力」なるものが果たしてこの世に存在していたのかどうか。

私の住む石岡の共産党員は、党専従の頭の堅い一人を除けばだれもが誠実で心の綺麗な人ばかりだ。そのひたむきな活動には頭がさがる。私にはとうてい真似ができない。
もし私が上記の問題を彼らに突きつけたとして、この人たちはどう応えればいいのか。
党中央はまじめに地域活動をしている無数の党員のことなど考えもせず、歴史を改ざんした「正当性」を彼らに押し付けているのである。外部からの批判に対して日ごろ党中央が「答弁する言葉」は統一教会や創価学会のそれと変わるところがない。組織の体質が同じだからであろう。
今の共産党は、自党の負の部分を常に「なかったもの」とする。将来、共産党が政治の中心を担ったときに、そんな体質のまま国民を操るのであろうか。そんな政府はゴメンだ。
今の共産党にあるそうしたぬぐい難い体質が変わらない限り、党員数や「赤旗」の発行部数はこれからもどんどん少なくなっていくであろう(4月の地方統一選挙での中央委員会総括では「私たちは4年前に比較して91%の党員、87%の日刊紙読者、85%の日曜版読者でたたかった」とある)。「4年前(?!)に比較して」である。
自民党と公明党に対抗できる唯一の政党は共産党しかいないのだから、「党内で議論が自由に巻き起こる開かれた政党」(しかも万人に公開された)として有意の若者を巻き込んでほしいものである。

(注)レオン・トロツキー(1870~1940)
ロシア革命のレーニンに次ぐ理論的および実践的指導者。赤軍の創設者。「永久革命論」を主張。「一国社会主義」を主張するスターリンのために国外追放。亡命先のメキシコでスターリンの手先により暗殺。著書「裏切られた革命」。トロツキーの暗殺者は1961年に「レーニン勲章」を受ける。

(2023・9・20)

ニュースの毎号に三鷹事件の再審状況を!

                    札幌 小久保和孝

 「ミスプリント」なのか、それとも当時の我が国の国家体制を反映するごく自然なことであったのか、深慮した上での意図的なことであったのか、我が国「日本国憲法」では、国語表記としては「つじつまの合わない」所が存在する。最も目立つのは、日本国憲法典の三権分立規定の表記である。

 日本国憲法第四章は“国会”、第五章は“内閣”となっているのに、何故か第六章は“司法”である。第六章を“司法”とするなら、第四章は“立法”、第五章は“行政”でなければ日本語としては「辻褄」が合わない。第四章が“国会”、第五章が“内閣”であるなら当然第六章は“裁判所”である。

 民主主義国家において国民のコントロールに最も遠いのが「司法権」である。その上、始末が悪いのがジャーナリズムが、司法に関することは、その「裏付取材」の困難性から、ニュースソースは「当局のリーク」に頼ることが多く、益々「国民視点」から遠のき、「司法権」をコントロール出来なくなるばかりか、“権力犯罪“の「お先棒」を担がされていることである。

 「証拠」主義が原則となっているにもかかわらず「冤罪」が絶えない。そればかりか、戦後「権力犯罪」の最も有効な手段となっているのが「司法権」である。

 その最たる例が「松川事件」「三鷹事件」である。“司法権を利用した権力犯罪“は阻止出来ず、「国民運動」にならない限り“正す”ことが出来ない。それが残念ながら我が国の“現状”である。

 我が「完全護憲の会」は小さく、今の所国民運動を巻き起こす「力」もない。しかし“護憲の灯火”である事は確かである。そこで提案!

 毎号のニュースに必ず、三鷹事件の再審運動や状況を登載していこうではいか。

核汚染水の海洋投棄を憂う 2 時事短歌3首

                        曲木 草文(まがき そうぶん)

 理解とは漁協でなくて政府が判断 かくして約束守られた由(よし) 

 「処理水」と従順国民だませても 外国までもだませぬものよ

 国家とは国民だますことありと しかと心得あとで愚痴るな

2023年9月16日 | カテゴリー : ➉ その他 | 投稿者 : 曲木 草文

平野文書」は真実か?(第4回)

連載の第2回でも触れたが、平野は1993年に出版した『平和憲法の水源――昭和天皇の決断』(以下、『水源』と略す)の中で、憲法調査会の高柳賢三会長から「幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と頼まれたという話を書いている。その時、高柳は、憲法調査会が1958年、高柳を団長とする渡米調査団を派遣した際、マッカーサーとホイットニーから会見を拒否されたことを、以下のように語ったとされている。

=========<引用開始>==============

「マッカーサーもたいした男です。彼は有力な大統領候補でした。そのためには日本の軍事協力が必要だから、日本の戦争放棄はマイナスです。にもかかわらず、彼でしかやれないことをやったのですから。またそれをやらした最後の鍵は天皇だったと思う。

私はアメリカへ行ってけんもほろろの扱いを受けた。ホイットニーにさえも相手にされなかった。そのとき私は気がつきました。天皇陛下だということです。

天皇は何度も元帥を訪問されている。恐らく二人の間には不思議な友情が芽生えていた。固いつながりができていた。天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。こんな機会はまたとない。今こそ日本をして歴史的使命を果たさせる秋ではないか。天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。いくら幣原さんでも、天皇をでくの坊にするといっただいそれたことが一存でできる訳はありませんよ。だから元帥は私から逃げたのです。うっかり話が真実にふれる恐れがある。私たちはそのためだけでアメリカまで行ったのですから。そうなると天皇に及ぶことになる。天皇は政治から超越するということになったのですから、元帥はその御立場を顧慮してのことでしょう。天皇とマッカーサーはそれほどまで深い同志的結合があった。私にはそう思われた。天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」

==========<引用終わり>============

なんと、高柳は、マッカーサーが会見を拒否した理由は、マッカーサーと天皇の間の秘密、すなわち、天皇が幣原を通じて、日本に戦争放棄をやらせてほしいと提言、むしろ懇請した、という「真実」が露呈することを恐れたからだ、と話したというのである。これは事実であろうか。また、天皇とマッカーサーとの間に、「不思議な友情が芽生えていた」とか、「固いつながりができていた」というのは本当だろうか。天皇はマッカーサーの連合国最高司令官在任中に11度会見しているが、46年1月24日の幣原=マッカーサー会談の時点では、まだ1度しか会っていない。腰に手を当ててリラックスした姿勢のマッカーサーの隣で、モーニング姿で直立不動の姿勢をとる天皇の写真が撮られた1945年9月27日の第1回会見である。「不思議な友情が芽生え」たり、「固いつながりができていた」り、「深い同志的結合があった」りするはずがないのである。

実は、高柳を団長とする憲法調査会渡米調査団がマッカーサーに会えなかった真相については、高柳自身が『日本国憲法制定の過程Ⅰ 原文と翻訳』の「序にかえて」の中で次のように述べている。

=========<引用開始>==============

駐米日本大使館では渡米調査団のために、ホイットニー准将と手紙を交換していたのであるが、迎えに来た大使館員からマッカーサー元帥との会見は拒否されたとの報告を受けて吃驚したのであった。何故われわれ渡米調査団に対しマッカーサーが会見を拒否したのであるか。私は大使館とホイットニーとの往復文書を仔細に検討した結果、その理由を知りえたのである。すなわち、前述のように、日本では、改憲論者によって、マッカーサー草案を日本政府に押しつけたということが改憲論の論拠の一つとしてしきりに主張されており、またウォード博士のこれを支持するような論文が、アメリカでも発表されていた。しかし、マッカーサー草案を日本に示したのは日本政府に対する命令ではなく、勧告であって、日本政府は説得によって、この勧告に従うことになったと考えていた司令部関係者は、マッカーサー草案押しつけ論は心外なことと感じていた。そして彼等は、憲法調査会が渡米調査団を送ってきたのは、この押しつけ論を実証的に裏付けるような証拠を集めにきたものと感じていたため、会見拒否という処置に出たのであることはほぼ明白となった。そこで私はこの誤解をときほぐすために、マッカーサー元帥とホイットニー准将の2人に手紙を送り、渡米調査団は何らそういう政治的意図できたのではなく、どこまでも客観的に、学問的に歴史的事実を究明するためにきたのであることを詳細に説明した。この手紙によって、マッカーサー元帥、ホイットニー准将の誤解がとけ、マッカーサー元帥も自分に知っていることは何でもお話しようという率直な態度に変化し、この2人の重要な証人もいろいろな質問に詳細に答えてくれた。(中略)それがため渡米調査の目的も大部分達成できたのである。

==========<引用終わり>============

つまりマッカーサーとホイットニーは、日本の改憲論者によって高唱されている「押しつけ憲法」論に利用されるのを恐れて会見を拒否したのであるが、誤解が解けてからは率直な態度で質問に答えてくれた、というのが真相である。天皇との秘密が漏れるのを恐れた、などという荒唐無稽な話ではないのである。これにより、高柳の発言に関する平野の記述が全くの作り話であることは明白となったと言えよう。ちなみに高柳は1967年に亡くなっているので、平野が93年に『水源』を書いた時には「死人に口なし」と思ったのであろうが、高柳が生前に書き残していた文章により、平野の嘘が露見することになったのである。いずれにせよ、平野は平気で作り話を書く人間であることが明らかになったと言えよう。高柳が語ったことにされている「天皇をでくの坊にする」という表現も、平野自身が1964年の『世界』の論文(?)で使っている表現である。

高柳はまた、『水源』の中で、以下のように語ったことにされている。

=========<引用開始>==============

「幣原さんとマッカーサーの話し合いは3時間に及んだそうですが、通訳抜きだから正味ですよね。(中略)とにかく第3次世界大戦は絶対にやってはならない。これは物理的に明らかです。やったら人間の歴史は一巻の終わりだ。理屈もへちまもない。これほどはっきりした現実はない。このことはみんなわかっている。わかってはいるが、さてどうしたらとなると誰もわからない。

その絶望の底から第9条は生まれた。直接には天皇を残すためのギリギリの限界状況の中で生じた発想でしょうが、とにかくこうなれば誰かが自発的に戦争をやめると言い出すしかない。それが突破口です。幣原さんは天皇を救い、同時に世界を救った。マッカーサーの命令という形でなかったら、あんなことはできる訳はありませんが、それをさせたのは幣原さんです」

==========<引用終わり>============

これは「平野文書」で、幣原が語ったことと概ね一致している。高柳のセリフが嘘であることはもはや明白であるが、仮に「平野文書」の幣原の話が事実だとしたなら、幣原が話した内容を今度はわざわざ高柳の口を通して語らせる必要も理由も全く考えられない。事実とフィクションをごちゃまぜにして、貴重な事実の価値を貶める理由などどこにもないからである。しかし、「平野文書」の話がフィクションだからこそ、平野はさらに別のフィクションを事実として語ることによって、「平野文書」の信憑性を高めようとしたのだろうが、かえって藪蛇であったといえよう。もちろん読者にとっては嘘を見破る根拠がまた一つ増えただけであるが。

ともあれ、『水源』にはフィクションが山のように含まれている。否、フィクションの合い間にところどころ事実が散りばめられているというのが実態であろう。『水源』には、1945年9月27日、昭和天皇が初めてマッカーサーとの会見に向かう場面の描写があるが、天皇の乗った車は、なんと途中で、「朕は鱈腹食ってるぞ。汝臣民飢えて死ね」というプラカードを掲げた食糧デモ隊と遭遇した、というのである。つまり8か月後の46年5月19日に起きた食糧メーデーのプラカード事件に遭遇したというのだから、天皇の乗った車はタイムマシーンでもあったらしい。さらに、マッカーサーとの会見を終えた天皇は、「今日は一つ大きな山を越えた……そうした心の安らぎがあった。(……)目まぐるしく走馬燈のように移り変わる数々の追想が、天皇の胸をよぎるのであった」と書いており、小説の登場人物の心理を作者が知っているのと同じように、平野には天皇の胸中までもが手に取るように読めたらしい。

もちろん、平野が胸中を読めるのは天皇だけではない。幣原が1月24日にマッカーサーと会見する前夜、「先生は、まんじりともせず沈思黙考を続けられた」として、その「沈思黙考」の内容が延々と24頁にわたって(幣原の1人称で)語られたあと、「気がつくと、ガラス戸の外には薄明りがぼっと射し込んできた。長い冬の夜も間もなく明ける。/「少し眠っておこう」/首相は、寝床にすべり込んだ」と結ばれる。さらに、翌日の幣原=マッカーサー会見の様子も、芝居の舞台のように、両者の会話が12頁にわたって詳細に展開されている。これらが、「平野文書」でいう51年2月下旬の一日、2時間ほどの間に幣原から聞いた内容ではなく、平野の創作であることは明白だと言えよう。先にも述べたように、以上の事実は、「平野文書」自体が事実ではない、すなわち、平野の創作であることを推測させるのに十分であろう。いずれにせよ、「平野文書」を歴史の事実などと考えてはならないことはこれでほぼ論証できたのではないだろうか。

2023年8月28日 稲田恭明

 

2023年8月29日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 管理人