(弁護士 後藤富士子)
1 「夫婦別姓」は「男女平等」とは別の原理
中国や韓国は、戦前から「夫婦別姓」である。結婚によって同姓を選択できない。それは、家父長制(父系家族)と儒教思想が合体した産物であった。妻は実父の姓を名乗り、結婚しても、夫の父系家族の中に入れない。「婚姻家族」の一員とされないで、どこまでいっても「父の家系の娘」なのである。
同じ文化圏にある日本で、なぜ「夫婦同姓」になったのか、不思議である。日本では、江戸時代まで苗字をもつ階級は一部に限られ、農民や商人など大部分の人は主に下の名前だけで通していた。明治になって戸籍制度と連動して苗字の公称が必要となり、「苗字+名前」という新しい呼び方が確立された。そして、夫婦の姓については、武士や公家の特権階級の慣行にならい、「妻は原則として所生の苗字を名乗る」とされ(1876年太政官指令)、夫婦別姓が採用された。しかし、2年後の民法草案で「妻は夫の姓を名乗る」とされ、1898年に明治民法が成立して「夫婦同姓」原則がつくられた。別姓から同姓へ転換した理由として、日本では血統よりも「夫婦一体の生活実態」が強く意識されたためと説明されている。
ところで、西洋でも家父長制の時代はあったが、儒教ではなくカトリックの影響で、「夫婦同姓」になったのではないかと推測している。カトリックでは「離婚の自由」は認められず、「父の娘」という地位よりも、「夫の妻」という婚姻が優先的価値をもったからではないか。実際、法律上、妻は夫の所有物のように扱われている。そう考えると、明治民法の「夫婦同姓」は、まさに「文明開化」(脱亜入欧)の一端だったのではなかろうか。
こうしてみると、「夫婦別姓」は「男女平等」と無関係であることが分かる。ちなみに、「夫婦別姓」が「男女平等」原則から作り直されたのは、中国の1950年婚姻法が最初である。
2 「選択的夫婦別姓」という設計
現行の「夫婦同姓」強制制度について、「婚姻の自由を侵害する」とか、「別姓を選択できないことが問題だ」「別姓も選べる法制度を」という立法政策に基づき、「選択的夫婦別姓」制度が1996年に法制審議会で示されて4半世紀が経過している。それでも未だ法改正に至らないのは、なぜか?
私は、現行の「夫婦同姓」強制制度の何が問題なのかについて、立案者に見当違いがあるのではないかと思っている。突き詰めて考えれば、婚姻によって自己の姓を喪失することの「痛み」こそが、個人の尊厳を脅かすという問題なのではないか。
そう考えると、婚姻によって自己の姓を失わないことを原則とし、夫婦同姓を望む者に選択肢を与える「選択的夫婦同姓」制度こそが、立法政策としてあるべき姿といえる。
3 離婚後の「単独親権」強制と比較して
民法819条は、離婚によって父母どちらかの単独親権制を規定している。婚姻中は父母の共同親権であるから、離婚によって父母のどちらかが親権を喪失するのである。親権喪失事由もない親でありながら、離婚によって親権を喪失することの「痛み」は、想像に難くない。
しかるに、「選択的夫婦別姓」論者は、「単独親権」制を歓迎したり、容認している。
この事実に照らしても、「選択的夫婦別姓」という制度が、「自己の姓を喪失することの痛み」とは別の次元―たとえば「不便」「事実婚の不利益」等々-で作られていることが分かる。実際、「自己の姓を喪失することの痛み」と「親が親権を喪失することの痛み」を比較すれば、前者の方がはるかに軽い。だから、少数でも別姓が選択できればいいのであろう。
私は、法制度の改革にあたって重要なのは、現行制度の何が問題なのかを正確に把握することが基本だと考えている。だから、現行の「単独親権」強制についても、「共同親権制の導入」とは言わない。離婚によって親権を喪失する「単独親権制廃止」である。同じように、婚姻によって姓を変更する必要のない「夫婦別姓」を基本とした、「選択的夫婦同姓」への改正である。
参考文献:ちくま新書『夫婦別姓―家族と多様性の各国事情』第6章斎藤淳子執筆
(2022年4月11日)