(弁護士 後藤富士子)
1 「三権分立」と司法
立憲主義の大黒柱の一つである「三権分立」は誰でも知っているだろう。国家作用を立法・司法・行政の三権に分け、それぞれを担当する者を相互に分離独立させ、相互に牽制させて人民の政治的自由を保障しようとする自由主義的な統治組織原理。ロックやモンテスキューが唱道した。
しかし、現実の「三権分立」制は、国により異なっている。たとえば、アメリカの大統領制はほぼ完全な三権の分立を認めているが、イギリスの議院内閣制はむしろ立法・行政の融合を示している。また、フランス・ドイツなどの「大陸法系」の諸国では、行政裁判制度により行政権の司法権からの独立を強調するのに対し、「英米法系」の諸国は、これを認めない。
戦前の大日本帝国憲法も一応三権の分立を認めていたが、天皇の統治権総攬の原則によって統合されていた。戦後の日本国憲法では、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所に分属させているが、議院内閣制であり、裁判所の法令審査権を認めている。また、旧憲法で認められていた行政裁判は、現行憲法では「終審として」は認めていない。議院内閣制という点で日本の三権分立制はイギリスとアメリカの中間だと言われることがあるが、そのことに何の意味もない。むしろ重要なのは、戦後の司法は、「大陸法系」の行政裁判が排除されている点で「英米法系」に転換されたこと、そして、裁判所の法令審査権を認める点で完全に「アメリカ型」になったということである。
なお、イギリスは硬性憲法をもたず、議会主権であるため、裁判所は「法令審査権」をもたない。これに対し、アメリカは、立法府との関係で「法令審査権」をもつ「司法権の優越」であり、硬性憲法についても司法審査型の違憲立法審査制度である。
ところで、日本の司法は、戦前は「ドイツ型」だったが、戦後改革で憲法上は「アメリカ型」に転換された。しかし、既存の司法の人的物的組織を踏襲しなければならないので、歪曲が起きやすい。最大の問題は、アメリカのように法律家が大勢いなかったことである。裁判官さえ必要な数を揃えられない有様で、キャリアシステム(子飼いの官僚制)のまま現在に至っている。
私が常々「何か違ってるんじゃない?」と感じるのは、この「ドイツ型」と「アメリカ型」の問題が根底にあるのだと思われる。ちなみに、「法治国家」はドイツ語の“Rechtsstaat”の和訳であり、大陸法系では「法による行政」を行政裁判制度で担保する。これに対し、「法の支配」は英語の“rule of law”の和訳であり、英米法系は、議会の制定する法に万人(たとえ国王といえども)が服するという意味で「法の支配」なのである。ところが、日本では司法制度全体を通じて「ドイツ型」と「アメリカ型」がチャンポンになっているために、「法治国家」と「法の支配」が殆ど同義のものとして使われ、差異が認識されることがない。民事訴訟制度は「ドイツ型」がそのまま踏襲され、官僚裁判官制度と相まって「当事者主義」が著しく変容されている。
2 法曹養成制度の転換 ―「ドイツ型」から「アメリカ型」へ
平成の司法改革で司法は「よくなった」のだろうか? そう考えながら、何を基準に「よくなった」か否かを判断するのだろうか?とも思う。
私自身の総括は、司法改革は頓挫し、あたかも民主党政権の失敗のような打撃を被ったと考えている。中でも法科大学院の失敗は致命的だと思う。司法試験が司法修習生採用試験である限り、法科大学院は無用である。現に法科大学院自体が半減して予備試験が繁栄し、「元の木阿弥」である。
翻って、「統一修習」制度は、国民と時代が必要とする法律家を養成する制度なのだろうか?と考えると、「ノー」と断言できる。それは「ドイツ型」の制度であり、「在朝法曹」たる官僚裁判官と検事、「在野法曹」たる弁護士を養成するものであって、「司法権の優越」を担う、資格が一元化された法律家を養成しない。しかし、日本国憲法は「司法権の優越」という「アメリカ型」の制度なのだから、それを担う法律家の養成も、それにふさわしいものでなければならない。すなわち、統一修習を廃止して、アメリカ型の法科大学院制度を追求することである。この改革は、韓国が実証している。
平成の「司法改革」に邁進した法律家は、「やってる感」に自己満足したかもしれない。これに反対した弁護士たち、とりわけ司法試験合格者数増員と法科大学院設立を敵視した者たちは、頓挫したことを喜んでいるかもしれない。そのどちらの立場でも、国民不在である。しかし、司法は国民のものである。日本国憲法の下で法曹となる者は、司法における国民主権(当事者主権)の実現に責任を負っている。法科大学院制度は、失敗のままに終わらせることはできない。その起死回生策は、「統一修習」廃止にほかならない。
(2021.5.6)