草野 好文(完全護憲の会会員)
(かながわ憲法フォーラム会員)
ウクライナ・ロシア戦争の展開に勢いづく改憲勢力
ロシアのウクライナ軍事侵攻とその後のウクライナ・ロシア戦争の展開が、日本の改憲をめぐる政治情勢に重大な影響をもたらしている。
改憲・軍事力増強派は、この事態を自らの主張の正しさを立証するものとして勢いづいている。安倍晋三元首相などは「核共有」という核武装論まで唱え、政権党である自民党は「敵基地攻撃」態勢の構築や防衛費(軍事費)予算をGDPの2%超とすべきなどと主張し、憲法9条が世界の現実といかにかけ離れた空論であるかを喧伝している。
連日報道されるウクライナの惨状を見せられた国民の多くは、一気にこうした流れに吸引されてしまうのではないか、と恐れる。
ロシアのような大国が小国ウクライナに侵略するという事態が現に起こっていること、このロシアの侵略に対してウクライナは、「国民総動員令」を発令し軍事力をもって対抗、簡単に陥落するであろうと予測された首都キエフを防衛し、ロシア軍を一時的にせよ首都包囲から後退させたこと、東部でこそ劣勢を余儀なくさせられてはいるが、侵攻を受けてから50日余も持ちこたえ戦線を膠着状態にまで持ち込んでいることなど、現時点ではまさに軍事力での対抗こそがウクライナ国家を防衛し、国民の犠牲を最小限に止めうる正しい選択であったかを証明しているかのようである。
こうした現状を踏まえれば、改憲・軍事力増強派が勢いづくのも当然と言えば当然と言える。
問題なのは、憲法9条の下に自衛隊が存在するという矛盾を抱えつつも、9条だけは変えることなく保持したいと「願望」してきた国民の多くが、こうした状況に吸引され9条改憲の流れが一気に加速してしまうことである。
あらためて憲法9条が問われている
こうした危機的状況に対して、9条擁護を掲げる護憲勢力は、適切な対応ができていないのではないかと危惧する。
目下の護憲派の主張は、ロシアのウクライナへの侵略を糾弾し、即時の停戦を訴えることにとどまっており、あらためて憲法9条が問われている、という自覚が乏しいように思われる。侵略を糾弾し、反戦を訴え、即時の停戦を訴えることは正しい。不可欠のことである。
だが、その後のウクライナ・ロシア戦争の展開は、憲法9条がいままで通り正しいと言いうるのかどうかが改めて問われているのである。9条が問われているということは、即、9条護憲を掲げてきた護憲派の私たち自身が問われているということである。しかしながら、私には9条護憲派に自らが問われている、というその自覚と危機感が感じられない。
社民党の福島瑞穂党首は「9条は無力だと言う人がいるが、全く違う、9条があるから権力者が戦争をやりたくてもできない。たくさんの犠牲者の上に憲法9条を勝ち取った。9条の意味がいまこそ大事にされるべき時だ」(「社会新報」3月9日)と言う。
日本共産党の志位和夫委員長は「憲法9条をウクライナ問題と関係させて論ずるならば、仮にプーチン氏のようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにするための条項が、憲法9条なのです。」(ツイッター発言 2月24日)と発信。(これに対して安倍元首相は「空想の世界」、日本維新の会松井代表は「9条で他国から侵略されないと仰っていたのでは」と突っ込みを入れた。)
志位委員長はその後、「他国から攻められたらどうするのか、9条で国が守れるのか」との猛烈な批判を意識して「急迫不正の主権侵害が起こった場合には、自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と主権を守り抜くのが党の立場だ」(読売新聞 4月7日)と発言。これにはまたしても「ご都合主義」「違憲の自衛隊を使うのか」「自衛隊に失礼だ」などとの批判がなされた。
志位氏の一連の発言は、ウクライナ問題に直面して、「9条が問われている」ということを意識しての発言であり、その限りでまったくの的外れな発言というわけではない。7月参院選を目前に、9条を維持しつつ自衛隊は必要な存在と考える多数の国民(広い意味での9条護憲派と言える)に対する訴えとしては一定の意味を有するものであり、理解できないわけではない。
しかしながら、この一連の発言が多くの国民に納得できるものなのかどうか、と言えば、とてもそうとは言えないであろう。さらにそれ以上に問題なのは、後段の憲法9条の解釈に関わる「自衛隊活用」論である。これはこれまでの護憲派の9条解釈の共通認識であろうか。間違いなく否である。
確かに共産党は、日本が主権国家として「自衛権」を持つことを否定してはいない。それゆえ、現憲法制定時、野坂参三衆院議員が自衛戦争肯定論の立場から、戦争放棄の9条に反対したことは知られているが、その後の共産党は、9条擁護・自衛隊違憲論の立場から、9条が自衛権も放棄したものとして護憲論を唱えてきたのではなかったのであろうか。この観点からすると、今回の志位氏の自衛隊活用発言は、2000年11月の共産党第22回大会決定に基づいたものとのことだが、9条解釈論として疑義を禁じ得ない。
9条護憲論の硬直と揺らぎ
社民党福島党首の「9条は無力だと言う人がいるが、全く違う」という発言にしても、志位氏の前段の「仮にプーチン氏のようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにするための条項が、憲法9条なのです」という発信にしても、日本がウクライナのように侵略されたらどうするのか、という多くの国民の不安に答えていないばかりか、ロシアの軍事侵攻という事態を目の前にしてなお、これまで通りの硬直した9条の意義を強調するにとどまっている。これはおそらく、「九条の会」始め全国各地で活動する護憲団体やこれらの運動に参加する人々に共通する傾向なのではないだろうか。「ますます9条の意義が高まった」と。
他方、今回の志位氏の「自衛隊活用」発言のように、国民の不安に答えようとして踏み込んだ途端、これまでの9条護憲論とは異なる9条解釈論となってしまう。自衛隊合憲論と紙一重であり、大いなる揺らぎと言わなければならない。
こんにち、現在進行形で展開するウクライナ・ロシア戦争は、これまでの9条護憲派の護憲論の再検討・再構築の必要性を突き付けている、と私は思う。
9条の戦争放棄は正しい、それゆえ9条を守る、9条改憲に反対するという最終結論が変わらないとしても、その結論に至る過程を現実の世界情勢に即して検討し、再構築しなければ、多くの国民に支持される9条護憲論にはなり得ない。
戦争放棄を定めた憲法9条を変えるべきではない、維持すべきだ、とする広い意味での9条護憲派は、憲法全般への改憲論が国民の多数を占めるようになった今でも、国民の約6割を占める多数派なのである。(朝日新聞 2021年5月3日)
この6割を占める国民多数派の内、自衛隊を合憲とし、自衛隊を必要な存在として認める人々の割合は定かではないが、もしかしたら6割の半数を超えるのかも知れない。この推論が正しいとすると、自衛隊を憲法違反ととらえ、その上で9条改憲に反対する9条護憲派は国民全体の約3割の存在、ということになる。
国民の約3割とはいかにも少数ではあるが、この核となる9条護憲派の周りには、ふたたび政府の行為によって戦争が行われることがないよう、9条を変えるべきでない、維持したいと願っている人々が大勢いて、合わせれば国民の過半数を超えるのである。心強い存在である。
問題はこの核となる9条護憲派が、これらの人々に納得できる、説得力のある9条護憲論を呈示できるかどうかにかかっているのである。
しかし、先に見たように社民党福島党首の発言にしても共産党志位委員長の発言にしても、現時点ではおよそ説得力のある9条護憲論にはなっていない。むしろ不信を招く結果となっている。
とは言え、多数の国民に納得できる、説得力のある9条護憲論を呈示するのは容易なことではない。なぜなら、憲法9条の「戦争放棄」は、あまりにも世界の現実とかけ離れた人類の理想を掲げているからである。それゆえ、改憲論者からは9条は「空論」「理想論」と足蹴にされる。
しかしながら、この崇高な人類の理想を掲げた9条が、歴史の一時期、アメリカ占領軍によって与えられた憲法とは言え、日本国民の圧倒的多数が歓迎し支持したという現実があったのである。
軍国主義下、自由を抑圧され、戦場にかり出され、殺し殺され、都市は焼かれ、飢え、最後には広島・長崎への原爆投下によって非戦闘員の一般市民が大量虐殺(ジェノサイド)されるという筆舌に尽くしがたい惨禍を体験した日本人が、もう戦争はこりごりだ、二度と戦争をしてはならない、という実体験に基づく心底からの思いによって、憲法9条を支持し歓迎したのである。この「原体験」に照らせば、9条は単なる理想でも空論でもない、まさに現実の表現なのである。
それゆえ、後生の私たちには、この悲惨な痛苦の「原体験」を現実に生かし切る義務があり、世界の現実とかけ離れた9条の理想を一歩でも二歩でも現実化させる道を切り開かなければならない。そして世界の現実をよくよく見れば、その可能性は存在する、と私には思われる。
9条が問われている焦点は何か
憲法9条の条文を改めて確認しておこう。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
見られる通り、9条は徹頭徹尾、外国を攻めたり侵略したりしない、との宣言である。そのためには一切の武力、陸海空軍その他の戦力を保持しない、国の交戦権もこれを認めない、と言うのである。日本語を素直に読む限り、そして9条制定当時の吉田茂内閣の答弁や国会の議論を踏まえるなら*1、自衛のための軍事力の保持も自衛のための戦争も許されないのである。
自衛隊合憲論は、2項の「前項の目的を達するため」との文言を拠り所に、9条は自衛権を放棄していない、したがって自衛のための「最小限」の軍備保持や自衛のための戦争は合憲である、という理屈である。(この自衛のための「最小限」の軍備保持が、今や「敵基
地攻撃」能力の保持にまで行き着いているが、いかに軍事力というものがひとたび保持さ
*1 https://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/dai4/siryou.pdf
衆議院-本会議(昭和21年(1946年)6月26日)(旧憲法下)
○吉田茂内閣総理大臣
「自衛権ニ付テノ御尋ネデアリマス、戦争抛棄ニ関スル本案ノ規定ハ、直接ニハ自衛権ヲ否定ハシテ居リマセヌガ、第九条第二項ニ於テ一切ノ軍備ト国ノ交戦権ヲ認メナイ結果、自衛権ノ発動トシテノ戦争モ、又交戦権モ抛棄シタモノデアリマス、従来近年ノ戦争ハ多ク自衛権ノ名ニ於テ戦ハレタノデアリマス、満洲事変然リ、大東亜戦争亦然リデアリマス、今日我ガ国ニ対スル疑惑ハ、日本ハ好戦国デアル、何時再軍備ヲナシテ復讐戦ヲシテ世界ノ平和ヲ脅カサナイトモ分ラナイト云フコトガ、日本ニ対スル大ナル疑惑デアリ、又誤解デアリマス、先ヅ此ノ誤解ヲ正スコトガ今日我々トシテナスベキ第一ノコトデアルト思フノデアリマス、又此ノ疑惑ハ誤解デアルトハ申シナガラ、全然根底ノナイ疑惑トモ言ハレナイ節ガ、既往ノ歴史ヲ考ヘテ見マスルト、多々アルノデアリマス、故ニ我ガ国ニ於テハ如何ナル名義ヲ以テシテモ交戦権ハ先ヅ第一自ラ進ンデ抛棄スル、抛棄スルコトニ依ツテ全世界ノ平和ノ確立ノ基礎ヲ成ス、全世界ノ平和愛好国ノ先頭ニ立ツテ、世界ノ平和確立ニ貢献スル決意ヲ先ヅ此ノ憲法ニ於テ表明シタイト思フノデアリマス(拍手)之ニ依ツテ我ガ国ニ対スル正当ナル諒解ヲ進ムベキモノデアルト考ヘルノデアリマス、平和国際団体ガ確立セラレタル場合ニ、若シ侵略戦争ヲ始ムル者、侵略ノ意思ヲ以テ日本ヲ侵ス者ガアレバ、是ハ平和ニ対スル冒犯者デアリマス、全世界ノ敵デアルト言フベキデアリマス、世界ノ平和愛好国ハ相倚リ相携ヘテ此ノ冒犯者、此ノ敵ヲ克服スベキモノデアルノデアリマス(拍手)ココニ平和ニ対スル国際的義務ガ平和愛好国若シクハ国際団体ノ間ニ自然生ズルモノト考ヘマス(拍手)」
れれば、際限なく膨張するものであるか、ということを如実に示している。)
自衛隊合憲論への批判は語り尽くされているし、ここでの主題ではないので先に進もう。
先に見たように、憲法9条は徹頭徹尾、外国を攻めたり侵略したりしない、との宣言である。そのためには一切の武力、陸海空軍その他の戦力を保持しない、国の交戦権もこれを認めない、と言うのである。さらに、2項の「国の交戦権はこれをみとめない」とする規定によって、間接的にではあるが、たとえ攻められても武力をもって交戦しない、したがって「自衛」の名による自衛戦争も否定するというものである。そしてこれがこれまでの9条護憲派の9条解釈護憲論である。
あらためて憲法9条の規定に向き合ってみて、これがいかに大変な覚悟を日本国民に強いるものであるかを思い知る。この規定が先の大戦による日本国民の痛苦の体験と実感によって支持されてきたとは言え、その後の世界の現実や今回のウクライナ・ロシア戦争の惨状を見れば、いかにこれが世界の現実から乖離したものであるかということは明らかである。
憲法9条は、「外国に対して攻めない、侵略しない」と明言してはいるが、「侵略された場合」についての対応は明確ではない。間接的に自衛戦争を否定しているだけである。それにもかかわらず護憲派は、「攻められたら、侵略されたらどうするのか」という問いに対してまともに答えようとせず、どうしたわけか「軍備を持たない平和憲法を持つ国を攻めてくる国はない」と主張してきたのである。(日本維新の会・松井代表の志位共産党委員長のツイッター発言に対する「9条で他国から侵略されないと仰っていたのでは」との揶揄は、残念ながら的をついている。)
9条護憲派の「攻めてくる国はない」という「言い訳」は、自衛のための軍備も自衛戦争も否定する9条に、過去の悲惨な体験に基づいて、頭や理性では正しいとの信念は持ちつつも、確たる自信が持てない、多くの国民に理解してもらえないであろうことの裏返しの表現ではなかったろうか。
いま現在、護憲派の多数とまでは言えないが、万一、侵略された場合の対応として唱えられているのは、「武力による反撃はしない」、「白旗を掲げ降服する」、「非暴力不服従抵抗闘争で対抗する」というものである。おそらくこの結論は、冷静な理性的な結論として、国民の命の犠牲を最小限にとどめる選択としては最良の選択と言えるだろう。
「国破れて山河あり」の故事どおり、例え「国家」が破れてなくなっても、民が生きながらえ、山河があれば何とかなる。国はいずれ再建できるからである。とりわけ、現下のウクライナ・ロシア戦争が引き金になって、核戦争による人類絶滅の危機が迫っているこんにちでは、あながち空論とは言えぬ現実的な選択ではある。
しかしながら、しかしながらである。事は人間の理性と生存本能とのせめぎ合いである。、侵略され、肉親・同胞が無惨にも虐殺されている現実を目前にして、人は理性的な判断ができるであろうか。侵略を受け容れ降服したとして、かつてナチスがユダヤ人をガス室に送り込み大量虐殺したように、中国に侵略した日本軍が各地で民間人を含めて大量殺戮したように、そうした最悪の事態が起きないとは言い切れないのが戦争の現実である。となれば、むざむざと殺されてなるものかと、武器を持って立ち上がることを押しとどめることはできないであろう。
憲法9条の「戦争放棄」は、敗戦直後の日本人の実感を体現したものではあったが、残念ながら人間理性の表現なのである。理性ではこれが正しいし、人命が失われるのを最小限にとどめうる最良の選択だということが理解できたとしても、現に侵略戦争が起こされ、各国が軍備を増強しているという現実を前にしては、この道を選択できない、というのが現代世界に生きる人々の水準なのであり、現実である。
こうした現実を真正面から受け止め考えたとき、9条護憲派の護憲論は、いかにしたら説得力ある護憲論として再構築できるであろうか。実に難しい問題である。これまで護憲派は、この極めて難しい難問を難しいと受け止めず、頭で理解して分かり切ったこととして「平和憲法を守れ」、「9条は宝」と言い続けきたのではないだろうか。そしてその結果が、こんにちの護憲派の衰退を招いたのだと言ったら言い過ぎであろうか。
ウクライナ・ロシア戦争が提起した重要論点
結論を急ぐ前に、今回のウクライナ・ロシア戦争が提起した重要論点について簡単に触れてみたい。
細かいが重要な論点として、①ウクライナが核を放棄しなかったならば、ロシアに侵略されることはなかった、②ウクライナがNATOに加盟していればロシアの侵略はなかった、③集団的自衛権を行使する軍事同盟への参加は正しい。したがって日米同盟を強固にする集団的自衛権容認の「安保法制」は正しい、④ウクライナが首都キエフを守り抜けたのは、軍備増強を怠らず、ロシアの侵略に対してウクライナの人々が命の危険を顧みず、武力で戦ったからである、等々があげられる。
これらはいずれも重要な論点で、直ちに日本国内の政治に跳ね返ってくる問題点である。改憲派はここぞとばかりにこうした問題を取り上げ、世論の誘導を図っている。しかしここでこの問題を個々に論じていると先に進めないので、どうしても確認しておきたい問題に絞って言及したい。
それは現代世界において、どうして絶え間なく侵略戦争が起きるのか、その原因はどこにあるのか、という問題である。これは今回のロシアに限ったことではなく、民主主義を掲げるアメリカのイラクやアフガンへの侵略戦争も含めてのことである。
私は、現代における侵略戦争の原因は大きく二つあると考える。一つは今回のロシアの侵略のように、ロシア国内において民主主義が機能しないプーチン独裁権力の存在である。もう一つはアメリカに象徴される民主主義国における「軍産複合体」*2の存在である。そしてこの「軍産複合体」はアメリカでの存在が典型的だが、常備軍を備える国々にはいずれもこの「軍産複合体」の小型版が存在する。独裁国家もその例外ではない。
第二次世界大戦後の現代世界において、独裁権力が外国に向けて侵略戦争を開始するのは、自らの権益を拡大する野望に基づくというよりは、国内における自らの独裁政権基盤を揺るがしかねないという危機感がその動機となっているのではないか、と思われる。要するに、独裁権力を追い詰めすぎたときには、独裁権力は民意を考慮することなく容易に暴発する、ということである。
これに対して、アメリカのような民主主義国が何故に侵略戦争を起こし得るのか。前述したように、「軍産複合体」の存在がその理由である。この「軍産複合体」にについては、軍人出身の大統領であったアイゼンハワー氏が1961年の退任挨拶*3でその存在に言及し、これが肥大化し国の政策を歪める危険性に警鐘を鳴らしたことで注目されるようになったのだが、氏の危惧した通り、その後のアメリカはベトナム侵略戦争を始め数々の侵略戦争に手を染めてきたのである。世界最大の侵略国と言っても過言ではない。
これはアメリカの国民が特別に好戦的なのかと言えば、そうではあるまい。どこの国の人々であれ、戦争を自ら求めるなどということはない。平和を望んでいるはずである。
しかしながら、恒常的な平和を望まず戦争を求め必要とする集団がアメリカ政治を「民主的」に支配している。それが「軍産複合体」である。アイゼンハワー大統領が危惧し指摘した当時の「軍産複合体」は、戦争の度に肥大化し、今や「軍・産・金融・政・学・メデア」が結合した巨大な利権集団を形成、アメリカ政治を背後から動かす力を持っている。この新「軍産複合体」がメデアを動かし国民を扇動して「正義」の戦争を引き起こすのである。イラク戦争がその典型である。
今回のウクライナ・ロシア戦争にしても、武力侵攻したロシアに一番の責任があることは紛れもないが、この戦争の原因をつくったもう一つの要因がアメリカ(「軍産複合体」)を中心としたNATOの意図的な「東方拡大」にあったことはこれもまた紛れもない事実である。じりじりと包囲されたプーチン独裁政権がこれに危機感をもって暴発したのである。
今やアメリカは、ゼレンスキー・ウクライナ政権に大量の武器弾薬を送り込み、ウクライナはアメリカの代理戦争の様相である。この結果、アメリカの軍事産業は莫大な利益を上げているという。
かくして現代の侵略戦争は二つの要因によって引き起こされる。一つは独裁政権の存在であり、もう一つは「軍産複合体」の存在である。
この結論は重要である。何故なら、現在日本が置かれた状況に直結するからである。
*2 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
軍産複合体(ぐんさんふくごうたい、Military-industrial complex, MIC)とは、軍需産業を中心とした私
企業と軍隊、および政府機関が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合体を指す概念である。
この概念は特にアメリカ合衆国に言及する際に用いられ、1961年1月、ドワイト・D・アイゼンハワー大
統領が退任演説[1] において、軍産複合体の存在を指摘し、それが国家・社会に過剰な影響力を行使する可
能性、議会・政府の政治的・経済的・軍事的な決定に影響を与える可能性を告発したことにより、一般的
に認識されるようになった。アメリカでの軍産複合体は、軍需産業と国防総省、議会が形成する経済的・
軍事的・政治的な連合体である。
*3 http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Eisenhowers_Farewell_Address_to_the_Nation_Jan
uary_17_1961.htm
アイゼンハワーの離任(退任)演説(豊島耕一訳)
現在の日本は、安倍政権が強行した集団的自衛権行使を容認した「安保法制」のもと、アメリカ軍と一体となって周辺の専制独裁国家である中国・北朝鮮を仮想敵国として対峙しているからである。そしてさらに、今回の事態によってロシアもこの対象国に加わった。このままでは日本全土がアメリカの代理戦争基地になりかねないのである。
憲法9条をいかす道
ウクライナ・ロシア戦争が提起する重要論点を踏まえて、改めて憲法9条護憲論の検討に入る。
これまで見てきたように、憲法9条の「戦争放棄」は、筆舌に尽くしがたい悲惨な戦争を体験した敗戦直後の日本人にとっては、空論でも理想論でもなく、まさに実感を伴った現実的なものであった。しかし、時間の経過とともに、世代交代とともにこの実感は薄れて行った。見回してみれば、憲法9条が掲げた「戦争放棄」は、それが人類の理想ではあっても、あまりにも世界の現実から乖離したものであった。
この時間の経過には、同時併行して東西冷戦の進行とアメリカの対日政策の転換があり、警察予備隊が創設され、これが保安隊となり、そして自衛隊が創設されて今日に至る事態が伴う経過でもあった。戦争放棄の憲法9条を持ちながら、実質的には軍隊である自衛隊が日本社会に定着し受け容れられて行ったのである。時間をかけた既成事実の積み重ねの威力である。
こうした時間の経過と既成事実が積み重ねられる中で、9条護憲派は、戦争体験世代の「原体験」による厭戦(えんせん)・反戦思想を拠り所に再軍備に反対し、裁判にも訴え、自衛隊が憲法違反であることを訴えて懸命に闘ってきた。そしてその闘いは、戦後の一定時期まで多くの国民の共感を得て有効であった。しかしながら前述したように、こうした戦争体験世代の「原体験」にのみ依拠した闘いは、時間の経過とともに、世代の交代とともに衰退していかざるを得なかった。
護憲派の9条護憲論は、こうして時間をかけて積み上げられた日本社会の現実と戦後世界の現実に有効に対応できず、こんにちを迎えているのだと思う。このままではどう考えても、先人が体験した悲惨な「原体験」によって支えられた憲法9条の崇高な理想は、死滅させられてしまうであろう。
9条護憲派は、こうして9条が死滅させられてしまう前に、この9条の「戦争放棄」の理想を未来に向かって現実化し得る道筋を、何としても探り出さなければならない。そのためには、現在の日本国民の多くが、憲法9条を維持しつつ、かつ、「自衛隊は必要だ」、「自衛のための必要最小限の軍備は必要だ」とする声に正面から向き合い、この声を生かしつつ、いかにしたらこれを9条の理想と両立させることができるか、その方途を探り出す必要があるのである。
世界の現実から乖離した理想ではあっても、その実現の可能性の道筋を具体的に指し示すことができれば、たとえそれが時間のかかる未来像であっても、単なる理想ではなくなるのではないか。
世界がどうあるべきかを含めて考える
これまで9条護憲派は、憲法9条をいかにして日本国内において実現すべきか、ということに視野を狭めてきたのではないだろうか。
もちろん、こうした物言いには反論があるであろう。「9条を世界遺産に」や「9条にノーベル平和賞を」などの貴重な運動があり、これを世界に広めようと努力してきた人々もいるからである。しかし、こうした運動も9条が改変され、死滅させさせられてしまえば成り立たなくなるのである。
私はいま、前述した日本国民の「自衛隊必要論」と9条の「戦争放棄」条項を両立させ得る可能性ある道筋として、私自身も参加し関わっている「完全護憲の会」の出発点となった最初の冊子『日本国憲法が求める国の形』(2015年3月刊)において、憲法9条と自衛隊に関する提起がなされていることに改めて注目している。
その内容は、「違憲の自衛隊を合憲の国連軍に」とのタイトルの下に、「自衛隊の大半を国内外災害救助隊に移行させるとともに、将来的には重火器を備えた中核部隊としての自衛隊は、国連軍として国連の指揮下に置くべきと考える。ここに主として日本を防衛する国連軍駐留部隊としての部隊が誕生すれば、憲法上の問題はなくなる。」とし、併せてこの国連軍の運用が公正に行われるための「国連改革」の必要性も提起している。
この提起に関しては、草案の時点から私も関わってきたのであるが、「自衛隊を国連軍に」というこの提起には、当初、私自身も懐疑的であった。しかし、議論を重ねていく内に、その趣旨を理解し、賛同した経緯があったのである。
だが、この9条に対する小手先の「違憲回避策」とも取れる自衛隊「国連軍化」の提起は、聞こえてくる声としてはあまり評判のいいものではなかった。多くは無反応であったが、多分、取り上げて議論するまでもない、との受け止めではなかったろうか。
私が当初懐疑的であったように、9条護憲を掲げる人々にとってこの提起が受け入れがたいのは、二つの理由があると思われる。
一つは、9条が現実から乖離した「理想論」だと言われているのに、その上また実現不可能とも思える自衛隊の「国連軍化」など、論外であるということ。
二つには、9条の理念や解釈に関わる重要問題である。
9条護憲派の多くの人は、9条の理念・精神は、一切の暴力・武力を否定する「絶対平和主義」ととらえているのではないかと思う。それ故、たとえ9条の違憲性を回避できたとしても、世界中の国々から軍隊をなくそうというのが9条の精神なのに、「国連軍」などという軍事力を肯定するなど間違っている、ということなのだと思う。
この二つ目の、憲法9条を「絶対平和主義」ととらえ、一切の暴力・軍事力を拒否するというこの考え方は、9条解釈としてあり得るし、とても崇高な大切な考え方ではあると思う。
しかしながら、現憲法制定過程における国会の9条論議を踏まえれば、9条は決して一切の暴力・軍事力を拒否する「絶対平和主義」を前提として制定されたものではなかった。
前述してきたように、これまで私は、「憲法9条は、『外国に対して攻めない、侵略しない』と明言してはいるが、『侵略された場合』についての対応は明確ではない。間接的に自衛戦争を否定しているだけである」としてきた。
ところが、現憲法制定過程の9条に関する国会における議論では、「侵略された場合」や侵略される可能性に対して、一切の軍事力を持たない、交戦権も認めない、とする9条によって無防備となった日本の安全保障はどうなるのか、ということは少なくとも議論され検討されていたのである。
それは現憲法制定時の吉田茂首相の国会答弁によっても示されている。
吉田首相は軍備を一切放棄した後の日本の安全保障はどうなるのか、との野党議員の疑問に、「交戦権抛棄に関する草案の条項の期する所は、国際平和団体の樹立にあるのであります。国際平和団体の樹立によって、凡ゆる侵略を目的とする戦争を防止しようとするのであります」(第90帝国議会衆議院帝国憲法改正案特別委員会。1946年6月26日)と答弁している。
ここに言うところの「平和団体」とは、第二次世界大戦後に国際平和をめざすものとして設立された「国連」(国際連合 United Nations )を指しているのであるが、国連自体はすでに1945年10月に設立されているので、より明確には、国連憲章第7章の「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」に唱われた、いわゆる「国連軍」(憲章には「国連軍」という明確な呼称はない)を意味していると解される。そしてこの憲章第7章は各条項において、国際的な侵略行為に対しては「国連軍」による軍事的な制裁を課すことを宣言しているのである。
前述の吉田首相の答弁は、9条の「戦争放棄」の結果によって生ずる日本の安全保障は、この国連とそのもとに組織される「国連軍」によって維持される、と表明しているのである。となると、9条は決して一切の暴力・武力否定の「絶対平和主義」ではないのである。
先に私は憲法9条の「戦争放棄」は外国を絶対に攻めたりしない、という宣言ではあるが、「攻められた場合」への言及は明確ではない、と述べてきたが、実はこれに対する明確な言及が憲法前文に記されているのである。
憲法前文と9条は一体のものと言われている。その憲法前文第2項は、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」(傍点引用者)と宣言している。
ここに言うところの「公正と信義」に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した、という文言が、前述の国連憲章第7章の「国連軍」による軍事的な「制裁」を含むものであることは、先の吉田首相の答弁や国会の議論から明らかである。
改憲派は、この前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」の文章を単なる美辞麗句ととらえて、いかに「お人よし」の、「お花畑」の、世界の現実を無視した空論であるかと非難するが、9条の成立過程と国連憲章を踏まえれば、まったく的外れな非難と言えよう。
しかし、前文2項に対するこうした理解は、必ずしも改憲派だけのものではない。護憲派は文字通りこの2項の文言を人類の崇高な理想ととらえ、即ち、9条含め「絶対平和主義」の宣言と理解し、9条制定後の日本の安全保障を、「平和団体」として設立された「国連」とそのもとにおける「国連軍」に託したものとはとらえてこなかったのだと思う。
仮に9条護憲派が、前文の「宣言」と9条の「戦争放棄」を「絶対平和主義」として受け止めず、日本の安全保障を「国連」と「国連軍」に託したのだという理解をしていたなら、9条護憲論はこれまでの主張とはかなり違ったものになっていたのではないだろうか。
世界は紛争を抑止する「公的」な警察力・軍事力を必要としている
人類同士が殺し合う第2次世界大戦の悲惨な経験から、戦勝国が主導して作り上げた組織とはいえ、「国連」は「平和団体」と称される国際組織として創設されたのである。そしてその平和を維持するための軍事的な組織として「国連軍」が想定されていた。
しかし、この「国連軍」は、国連憲章にその創設が唱われていたにもかかわらず、折からの東西冷戦の激化によって、実現には至らなかった。その後に登場する「国連軍」は、アメリカ主導の「多国籍軍」でしかない。
世界中の全ての国々が常備軍としての軍隊を持たなければ、人類同士が殺し合う戦争は起こり得ない。故にこれが人類の理想であることは間違いない。だが、現状では、この理想に行き着くまでに、人類はまだまだ殺し合いを続けていくに違いない。そしてそれは、核戦争の時代を迎えたこんにち、人類絶滅の危機をはらんでいるのである。現在進行形のウクライナ・ロシア戦争がその端緒になるかも知れないのだ。
「自衛隊を国連の指揮下に」はその一歩
この人類絶滅の危機を回避するためには、世界中の国々が軍隊を廃止し、核保有国が核を全廃するしかない。間に合うかどうかはあるが、なんとしてもその方途を探り出さなければならないと思う。
その可能性の唯一の途は、世界を統治する「公的」な警察力・軍事力の創設と形成が不可欠なのではないか、と私は思う。
こんなことを言っても、「世界連邦」もその政府も産み出されてもいないのに、またもやの「空論」と言われそうだが、すでに国連の常設機関ではないが「国連警察」も「国連平和維持軍」も存在し、活動を展開している。すでにその端緒は切り開かれているのである。
世界を見渡せば、今回のウクライナ・ロシア戦争のように核保有大国が絡んだ第3次世界大戦に発展しかねない紛争から、小国同士や一国内における民族・部族間戦争、宗教戦争が絶え間なく頻発している。
こうした世界の現状を前にして、「絶対平和主義」の立場から、各国は武器を捨てよ、軍隊を解散せよ、と言ったところでこの現実は変えられないし、その展望は見えてこない。その可能性を見出そうとするならば、人類世界が各国を統治する国際機関を産み出し、「公的」な警察力・軍事力を創出し強化していく以外、方法はないと思う。その結果として各国常備軍の全廃が可能となる。これは空論ではなく、人類が互いに争いあって絶滅することを避けるために、人間社会が長い歴史を刻んで歩んできた道であり、未来も必然的に歩んでゆく道だからである。
何故そう言いうるのか、わかりやすい例えとして、身近な日本史の戦国時代から徳川幕藩体制が成立した、その結果の例を引いてみよう。
戦国時代、「日本」は200とも300とも言われる国々が分立し、独自の軍隊を組織して相争っていた。まさに戦乱の日々であった。この戦国時代を終わらせたのが織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康であった。こうして成立した徳川幕藩体制は、全国におよそ200ヵ国、各藩はそれぞれ国を名乗り独自の軍隊を維持してはいたが、徳川幕府は各藩の私的な戦争を禁止、その最終指揮権は徳川幕府の指揮下に置かれた。その結果、「日本国」は260年余の戦争のない社会をつくり上げたのである。
この人類世界を「公的」に統治する機関の創設が、平和的・民主的過程を経て形成されるのか、強大な専制国家や巨大な「軍産複合体国家」によって統合され形成されるのかは定かではない。過去の人類の歴史を見ると、残念ながら強大な専制国家によって統合される可能性も排除できないが、できうる限り平和的・民主的な方法で成し遂げなければならない。それもこれも人類絶滅の核戦争を回避することができればの話ではあるが。
抑止力強化の「恐怖の均衡」は必ず破れる
さて、前述したように、世界の現実とその未来の歩むべき方向を見定めた上で、改めて日本の置かれた現実と、現日本国憲法と自衛隊という実質的な軍隊との関係について考えたい。
改憲派は、9条改憲によって自衛隊を名実ともに強力な軍隊(核武装も含め)につくりかえ、巨大な「軍産複合体」国家のアメリカ軍と一体となって仮想敵国である中国・北朝鮮、ロシアと対峙し、軍事力を最大限強めることによって戦争を抑止すると主張する。
これは偶発的な衝突も含めて、何らかのきっかけで抑止力が破れた場合のことを考えると、原発を51基も抱える日本列島が、核も含めたミサイル攻撃の集中的な受け皿となるという危険極まりない選択である。しかし、国民の多くが9条改憲に賛成し、米軍と一体となった自衛隊の際限のない軍事力強化を求めるとするならば、それはこの危険極まりない道を国民自身が選択するということである。
軍備増強の抑止力によって戦争を起こさせないようにすると言うが、仮想敵国とされる相手国側からすれば、それは攻撃力の増強でしかない。対抗するために相手国もさらなる軍備増強に走る。まさに際限なき抑止力強化の軍拡競争であり、こうして形成された恐怖の均衡は、必ずいずれかの時点で破れる。
増して双方に戦争は絶対にしたくないし自らはしない、という強力な意志とそれを支える強固な社会的制約があるならまだしも、ウクライナ・ロシア戦争によって明らかになったのは、追い込まれた専制国家の独裁政権は、自らの存立基盤が揺らぎかねないとの危機感によって先制的に戦争を始めてしまうということである。同時に追い込んだ側のNATOとこれを主導するアメリカの「軍産複合体」の側には、平和時に積み上がった武器弾薬の使い道とさらなる軍需を求めて、人類世界が破滅しない範囲での戦争を必要とする動機が常に働いているのである。
この二つの動機が存在する限り、そしてこの二つの動機が各国の政治を主導している限り、恐怖の均衡は必ず破られる。そして開始された戦争は、「軍産複合体」が望み想定しているであろう程よいところで終息するとは限らない。世界が破滅する大戦の危険性をはらんでいるのである。
問題は日本の選択にある
日本はいま、巨大な「軍産複合体」が主導する国家の米軍と一体となって、専制国家・独裁国家の中国、北朝鮮、ロシアを仮想敵国として対峙している。この現状は、絶望的とも言える恐ろしいものである。一刻も早く緊張緩和に向けて舵を切らなければ、取り返しのつかない結果をもたらすであろう。
それにもかかわらず、日本の改憲派・軍備増強派の対応は、「核共有」だ「敵基地攻撃」能力の保有だなどと、無人島の岩島・尖閣諸島の領有をめぐって戦争も辞さない構えである。そのための戦争体制構築に向けて、民主主義憲法・平和憲法である現憲法を全面的に「改正」し、9条を変え、国権の最高機関としての国会の機能を停止させ、内閣独裁を招く「緊急事態条項」も取り入れて国民を総動員しようというのである。自衛隊という名の軍隊が創設されて68年、日本にもアメリカほどではないが「軍産複合体」が確実に形成され、これが日本政治を主導している結果である。
そして多くの国民がこの道を選択しようとしているのである。この間の選挙の結果がそれを示している。
自衛隊を合憲とし、かつ、自衛隊は必要だとする国民が圧倒的に多数となった今でも、同時に、国民の約6割が、戦争放棄を定めた憲法9条を変えるべきではない、維持すべきだ、と考えているのである。
一見、なんともちぐはぐな矛盾した国民の選択ではあるが、ここには憲法9条が育んできた不戦の誓いと先の戦争の教訓が、息づいているのである。この声を大切にしないでいいはずはない。
先に私は、次のような問題提起をした。
「現在の日本国民の多くが、憲法9条を維持しつつ、かつ、『自衛隊は必要だ』、『自衛のための必要最小限の軍備は必要だ』とする声に正面から向き合い、この声を生かしつつ、いかにしたらこれを9条の理想と両立させることができるか、その方途を探り出す必要がある」と。
その上でこの相矛盾する二つを両立させうる方途として、「完全護憲の会」が発足の時点で提唱した「違憲の自衛隊を合憲の国連軍に」の提起に改めて注目したいと述べた。そして改めて憲法制定時の9条に関する国会論議や吉田茂首相の答弁、国連憲章と照らし合わせて考えると、憲法9条は一切の武力・戦力・交戦権のみならず、自衛権までをも放棄したものではあるが、これによって無防備となった日本の安全保障は、「平和団体」として設立された「国連」と「国連軍」に託されたものであることが判明したのである。
そうであるなら、自衛隊の「国連軍」化は、9条と「自衛隊は必要」と考える国民の声を両立させることの出来る唯一の方途であることは確かである。
これは現状において直ちに実現できるか否かの問題ではなく、論理的に成立可能か否かの問題なのである。
しかしながら、これも前述したように、この「国連軍」化の提起は、9条護憲派の多くの人々には極めて評判の良くないものであったし、ほとんど話にならない、として無視される結果であった。
9条を守りたいと思いつつも、外国から「攻められたらどうする」という国民の不安の声に応えられる唯一の解決策とも言えるのに、護憲派の人々のこの拒絶姿勢は一体何が原因なのかということについても触れた。
それは現状では実現不可能、ということでもあるが、一番の理由は、9条護憲派の9条理解が一切の暴力・武力を拒否する「絶対平和主義」にあるからではないか、というものである。
9条護憲派の多くの人は、9条の理念・精神は、一切の暴力・武力を否定する「絶対平和主義」なのであり、それ故、たとえ9条の違憲性を回避できたとしても、世界中の国々から軍隊をなくそうというのが9条の精神なのに、「国連軍」などという軍事力を肯定するなど間違っている、ということなのだと思う。
9条「絶対平和主義」理解の弊害
しかしながら、9条護憲論の9条「絶対平和主義」理解こそがつまずきの原因なのではないか、と私は思う。
それは9条制定過程の歴史的経緯からしても事実と異なるし、「一切の暴力・武力」を否定して生きられるのは、特別の境地に到達した人格にしかなし得ないことだからである。これがいかに崇高で理想的な生き方であったとしても、これを多くの普通の国民に強いることなど、それこそ不可能なことである。
ただし、戦争に至らないための外交努力も含めたあらゆる努力をしてもなお、戦争が開始された場合に、こんにちの戦争が核兵器による人類絶滅の危機をはらんでいることを考慮するならば、そして人命が失われることを最小限にとどめようとするならば、武力をもっては戦わない、軍事力で抗戦しないとして、その結果として降服するという選択はあり得る。増して日本は原発を51基も抱えた小さな島国、逃げ場はない。列島壊滅を回避することこそが優先されるからである。
これはあたかも「絶対平和主義」に基づく選択のようであるが、そうではなく、あくまでも現代の戦争の特別な状況を考慮しての、理性的な政策的な最良の判断としての選択である。
9条護憲論の9条「絶対平和主義」理解こそがつまずきの原因なのではないか、と前述した。その理由は、護憲派の9条護憲論が、この「絶対平和主義」の理念に基づいてなされるために、政府の行為によって再び戦争の惨禍を招かぬよう、9条は維持したいが自衛のための最小限の自衛力は必要だ、故に自衛隊は必要だと考える大多数の国民にとっては、とても納得できるものではなかったのだと思う。
「攻められたらどうする」という問いに対しても、「9条を持つ国に攻めて来る国はない」という説明にとどまっていたり、「9条は宝」、「今こそ9条が希望」などとの理念を叫ぶことに力点が置かれてきたのではなかったろうか。その上、自衛隊が「憲法違反」であることをもって自衛隊や自衛隊員そのものを敵視するかのような風潮までつくりだしてしまったのである。そしてそれ故に、「専守防衛」の中身に肉薄して問題を論じることも、結果として軽視されてきたのではないだろうか、と思う。
9条護憲論の再検討・再構築を
こうして、9条護憲派の主張はあらゆる局面において、少しずつ大切な問題のピントをはずし続け、現状から遊離したものになってきたのではないだろうか。
それゆえ私は、ロシア・ウクライナ戦争が世界に突き付けた衝撃のこの局面の中で、これを機に、改めて9条護憲論の再検討と再構築を図るべきと考える。9条改変は目前に迫っているし、最早手遅れの感はあるが、中国侵略開始からアジア太平洋戦争へと突き進み、甚大な加害と被害の犠牲の上に、世界にも希有な体験によって手にした現憲法、とりわけ不戦の誓いとしての9条を、このまま死滅させるわけにはいかない。後世を生きる私たちにはその責務がある。
そのためにも、9条護憲論の再検討・再構築にあたっては、現憲法の前文や9条が決して一切の暴力と武力を否定した「絶対平和主義」ではない、という認識を基礎としなければならないと私は思う。
そしてさらに、違憲の自衛隊を合憲の自衛隊とする唯一の解決策があり、この解決策こそが将来において各国の常備軍を解消することを可能とする途である、という提起を検討の対象とすべきである。
これまでの議論では、自衛隊が憲法違反の存在であることを解決するためには、改憲派が主張するように9条改憲によって合憲とするか、護憲派の主張のように自衛隊を解散・解消するしか方法はない(自衛隊を災害救助隊に改組するとしても、自衛隊全部を災害救助隊にすることを多くの国民は認めないであろうし、これもある意味自衛隊解消論の一つと言える)。しかしこの結論は、9条護憲派にとっては、いまや圧倒的多数の国民が自衛隊は必要な存在だ、としている現状に対して、自衛隊の解散・解消を言い続けることになり、ますます護憲派の孤立と衰退を招くことになるであろう。
9条護憲派が、自衛隊違憲=解散・解消の呪縛を解き放つことができれば、自衛隊を文字通り「専守防衛」に徹した存在にするために集中することができ、9条を変えることなく「専守防衛」の自衛隊を維持したいと考える多くの国民との共同が可能となる。
いま、世界と日本を取り巻く情勢は、自衛隊の解散・解消を言いつのる時ではない。将来の世界各国の常備軍の解消を見据えつつ、改憲派や軍備増強派がつくり出す、取り返しのつかない破滅を防ぐために、自衛隊を必要と考える多数の国民と共同して立ち向かうべき時である。そのためにも、9条護憲論の再検討・再構築が求められている、と私は思う。
(2022年4月)