(弁護士 後藤富士子)
第22回大佛次郎論壇賞を受賞した、板橋拓己東京大学教授の『分断の克服 1989-1990 統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』に関する朝日新聞記事(12月21日)によれば、ゲンシャー外相は、旧ソ連を含む「全ヨーロッパ的平和秩序」が持論だった。統一にあたっては、東ドイツ領域にNATOを拡大させず、NATOとワルシャワ条約機構がともに軍事同盟から政治同盟へと転換し、協調的な関係を結びながら全欧安保協力会議(CSCE:現OSCE=欧州安保協力機構)へ収められて解消する、そんな「和解型」の構想を描いていた。
そこで、ゲンシャー外相の構想が実現していれば、ロシアのウクライナ侵攻は防げたか?と問われ、板橋教授は「構想が完全に実現する可能性は低かっただろう」としながらも、「実現していれば侵攻はなかっただろう」という。つまり、「外交による平和」といっても、その外交自体が、目先の実現可能性は低い「構想」を実現することにほかならない。そして、このような外交なしに憲法9条を護ることもできないように思われる。
ところで、「戦争の放棄」を憲法で誓約した日本国民にとって、他国から侵略される事態は未曽有の「人災」である。「人災」である所以は、他国から侵略されないようにする外交に失敗した結果にほかならないからである。そうであれば、「攻められたらどうする?」という問いに対する答えは、「人災である侵略に備える」ことに尽きるのではないか。
まず、侵略されないように国際的に大きな構想をもち、その実現に努める外交の確立と推進は大前提であるが、現在の日本には「影も形もない」。それゆえ、「現に攻められたら」という問いに対する対策が必要である。それは、「人災」に対する対策と考えれば、現象的には自然災害対策の応用ではなかろうか。
すなわち、全国民が避難できるシェルターのような施設(地下壕?)を各地に建設し、3か月程度そこで過ごせるように食料など日常生活必需品を備蓄するのである。これを具体化しようとすると、食料でもエネルギーでも地域分散循環型にしなければならないことがわかる。また、このシェルターの中は、原始共同体のようにならざるを得ない。これは、自然災害対策でも同じであり、「敵基地反撃」だの「防衛予算の倍増」などという戯言よりもはるかに現実的であろう。一方、「人災」を招いた責任者である政権担当者、官僚、財界人等は避難せずに自衛隊とともに「専守防衛」により国民を守る義務がある。
翻ってみれば、政治の役割は、国民の「いのち」と「くらし」を守ることに尽きる。他国から侵略された場合でも、その原則に変更はないはずだ。そして、「平和」とは、フィンランドの国防相(男性)が2か月の育休を取得するというように、人々が平穏な日常生活を送れることではなかろうか。
(2022年12月27日)