「検察官調書」(検察官捜査)は必要か?

(弁護士 後藤富士子)

1 私の「被疑者取調」修習
私は、この20年程、刑事事件をやっていないが、ダイナミックなアメリカの司法に比べて日本の司法は、なぜかくも「澱んだ」というか「乾涸びた」というか、要するに「つまらない」のかと考えて、40年以上前の経験を思い出している。
私は、1979年に東京地検で検察修習をした。自分としては、それがスタンダードと疑わなかったし、指導担当の検事からも文句を言われなかったから、特段の問題意識をもたなかったが、今振り返ると、弁護士になってからの被疑者接見と殆ど同じ取調をしていたことに気が付いた。まず「どうしてこの場にいるのか?」を聞くが、これは弁護人の接見でも同じである。つまり、「警察官調書の確認」ではなく、被疑者とオリジナルに面接聴取する。そして、最後に「勾留の執行状況に不便がないか?」を必ず聞いていた。これも、弁護人の役割である。
たとえば、最初の質問で、別件で取調検事(新米の女性で、庁舎の3階にいた)から被害者に謝罪に行くように言われ、謝罪に行く途中に本件を起こして私の面前に居ることが判明した。それで、私が調書を作成して指導検事に伝えたところ、3階にいる当該検事が早速降りてきて、「私に責任がある」というようなことを言う。本件を引き取られては被疑者に不利益になるので、そうならないようにした(「関係ないでしょ」と言ったような気がする)。少し言語障害がある男性(「美容院」と「病院」の区別が解り難いなど)だった。最初に指導検事が修習生(私)の取調に同意を求めた際、「嫌だ」と言ったが、面食らった指導検事が押し切ったのである。彼は、私が3階の女性検事と年恰好が同じだったから拒否したのだ、ということが理解できた。
また、最後の質問では、代用監獄(警察留置場)でトイレが和式のため、膝が曲がらない被疑者は「便秘になって苦しい」という。それも調書に取ったうえ、指導検事に「拘置所に移してあげてください」と申し入れた。
こうして思い起こしてみると、検察官の取調は、なくてもいいのではないかと思ったりする。むしろ、「自白の強要」や「証拠の改ざん」を検事がするなんて、「なくてもいい」どころではなく、「ない方がいい」と言える。

2 「袴田事件」「三鷹事件」における「検察官調書」の犯罪的威力
「袴田事件」の1審判決(死刑)は、多数の警察官調書の任意性を否定し、ただ1通の検察官調書の任意性を認めたもので、それだけでも上訴で有罪判決が覆ってしかるべきものだったと聞く。
また、1949年7月の「三鷹事件」(無人電車暴走転覆、6人が即死、20人が重軽傷)では、同年8月1日に竹内景助さん他6名が逮捕され、同日、武蔵野警察署で岡光警部が取調、翌日から岡光警部と田中検事の取調、同月6日からは連日平山検事の取調があり、同月16日に平山・田中検事、17日に田中・平山・磯山・屋代検事の共同取調、18日に平山検事の取調があり、20日に府中刑務所に移監され、それ以降、同年9月5日まで平山検事の取調、翌6日以降は神崎検事の取調である。
なお、同年8月23日付の起訴状では、竹内被告が他の7名の国労組合員と共謀したとされているが、竹内被告以外の7名には明白なアリバイがあったため、50年8月の1審判決は、共同謀議・共同正犯は「空中楼閣」と決めつけ、7名を無罪、竹内被告の単独犯行と断定して無期懲役とした。51年3月の2審で死刑判決、55年6月、最高裁は8対7で上告棄却、死刑確定。56年2月、本人再審申立て、66年10月に審理が進む兆しが見えたが、67年1月、脳腫瘍のため45歳で獄死した。2011年11月、遺族が再審請求(第2次)、2019年7月、再審請求棄却、翌月異議申立、東京高裁第5刑事部に係属中である(当会シリーズ冊子10『三鷹事件・巨大な謀略の闇』参照)。
このように、今なお再審事件として「生きている」死刑判決の証拠とされたのは、任意性が疑われる「検察官調書」にほかならない。こんな無駄な不正義が司法を席巻していてよいはずがない。
翻って、アメリカで弁護人の立会いが認められるのは、警察官による取調であり、そもそも検察官は取調をしない、公判中心主義である(と認識している)。私が検察修習の公判立会い検事の下で修習した放火事件では、火元が特定できなかったので、その旨具申して、補充捜査をしている。こういう活動の方が、よほど生産的で、ロイヤーに相応しい意味あるものだと思う。
そこで、「検察官調書」は必要ですか?と問いたい。

(2021.8.23)

2021年8月24日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子