(弁護士 後藤富士子)
1 現在焦眉の急となっている「安倍9条改憲」案は、憲法9条1項2項には手を触れず、「9条の2」として次のような条文を加えるという。その1項は「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置を執ることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。」とし、第2項は「自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」である。すなわち、自衛隊は「自衛の措置をとるための実力組織」であって、9条2項が保持しないとしている「戦力」ではないから、「自衛隊を憲法に明記するだけで何も変わらない」と説明される。
これに対して、9条、とくに2項の制約が自衛隊に及ばなくなり、9条2項が死文化する、という批判がされる。法律論としては、そのとおりであるが、もっと重大な問題がある。9条は、日本国憲法第2章「戦争の放棄」に定められているのに対し、「安倍9条改憲」案は、第2章のタイトルを「安全保障」と書き換える。「戦争の永久放棄」から「安全保障」へタイトルが変わることは、「何も変わらない」どころではなく、「重大な変質」を思わざるを得ない。
2 ドイツの神学者であるディートリヒ・ボンヘッファー牧師は、1934年にデンマークのファーネで行った「教会と世界の諸民族」という講演の中で、「平和」と「安全」は違う、「安全」の道を通って「平和」に至る道は存在しない、と述べている。その1節を引用すると、
「いかにして平和は成るのか。政治的な条約の体系によってか。いろいろな国に国際資本を投資することによってか。すなわち、大銀行や金の力によってか。あるいは、平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってであるか。違う。これらすべてのことによっては平和は来ない。その理由の一つは、これらすべてを通して、平和と安全とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って〈平和〉に至る道は存在しない。なぜなら、平和は敢えてなされねばならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、〔相手に対する〕不信感を持っているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争をひきおこすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。平和とは、全く神の戒めにすべてをゆだねて、安全を求めないということであり、自分を中心とした考え方によって諸民族の運命を左右しようとは思わないことである。武器をもってする戦いには、勝利はない。神と共なる戦いのみが、勝利を収める。それが十字架への道に導くところでもなお、勝利はそこにある。」
3 ボンヘッファーは、いち早くナチ政権の悪魔性を見抜き、ユダヤ人迫害のもつ犯罪性を訴え、ナチに対する抵抗運動に加わった。ナチ政権発足直後の1933年4月に行った「ユダヤ人問題に対する教会」という講演では、国家に対して教会がとるべき態度についての三重の可能性を論じている。
「第一に、国家に対して、その行動が合法的に国家にふさわしい性格を持っているかどうかという問い、すなわち国家にその国家としての責任を目ざめさせる問いを向ける。第二に、教会は、国家の行動の犠牲者への奉仕をなす。教会は、すべての共同体秩序の犠牲者に対して、たといその共同体がキリスト教会の言葉に耳を傾けないとしても、無制限の義務を負っている。」としたうえで、「第三の可能性」として「車の犠牲になった人々を介抱するだけでなく、その車そのものを阻止することにある。そのような行動は、直接的な教会の政治的行動であろうし、そのような行動は、教会が、法と秩序を建てる機能をもはや国家が果たしていないと見る時に、すなわち法と秩序の過小あるいは過剰の事態が出現していると見る時にのみできることであり、また求められることである。この両者の場合に教会は、国家の存在が、したがってまたその固有の実存が、おびやかされているのを見る。」という。
この「第三の可能性」とは、車が暴走して路上の人をバタバタなぎ倒しながら走っているとした場合、その場に居合わせたキリスト者がすべきことは何かを突き詰めている。「暴走する車が来ますよ。危ないから、気をつけなさい」と警告することか。車にはねられて怪我をした人を介抱することか。確かにそれらは大事だけれども、本当にしなければならないのは、「その車そのものを阻止することにある」、つまり暴走している車の前に立ちはだかって車を止め、運転手をひきずりおろすことなのではないか。
ボンヘッファーは、最終的にはヒトラーの暗殺計画に連なったということで逮捕され、終戦直前に絞首刑になった。「第三の可能性」を論じた講演当時、やがて自分がヒトラー暗殺計画に参加するようになるとは思っていなかっただろうと推測されているが、この「第三の可能性」は、究極の状況における倫理的な判断があることを示唆している。
4 ナチ政権との闘いは、それこそ生きるか死ぬかのような熾烈で過酷なものであったが、「ドイツ告白教会闘争運動」の理論的リーダーであったカール・バルトの思想の中には、「最後から一歩手前の真剣さ」があるといわれている。「大きな希望」を信じているがゆえに、私たちには全く絶望してしまうような状況というのは、この地上においてはありえない、どんなに状況は厳しくても、なおそこに希望がある。だからこそ目覚めて、ユーモアをもって、一歩手前の真剣さで、希望をもって生き続ける、闘い続ける、と20世紀最大の神学者は言い続けたのである。
引用文献:朝岡勝『剣を鋤に、槍を鎌に―キリスト者として憲法を考える』(いのちのことば社)
〔2019.5.18〕