“ 高等教育無償化のための改憲 ”を怪しむ

“ 高等教育無償化のための改憲 ”  を怪しむ

毎日新聞の5月4日、5月5日の記事によると、憲法改正推進派の民間団体が5月3日に東京都内で開いた集会に、安倍首相は自民党総裁としてビデオメッセージを寄せ、改憲による高等教育までの教育無償化に前向きな考えを示したそうだ。「憲法において…教育は極めて重要なテーマ」「現行憲法の下で制度化された小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、まさに戦後の発展の大きな原動力となりました」「高等教育についても全ての国民に真に開かれたものとしなければならない」「20年を、新しい憲法が施行される年にしたい」等の発言を行った模様だ。

そこで、これについて考えてみたい。
まず高等教育とは、大学の事であり、高校の事ではない。

ではもし高等教育(大学)が無償になったら、世の中は、どんな事になるのだろうか。

大学が無償なら、当然、高校も無償になるだろう。
ならば、高校も大学も義務教育にするのか。
無償化するのに義務ではない、というのであれば、これを憲法に規定する意味はない。
話はここで終わる。

だが、もし義務教育にするのであれば、これに対しても強く反対する理由がある。
無償化が財政的に難しいであろう事は言うまでもないが、以下に述べる内容は、いわゆる「ゆとり教育」体験者からの切実な異議申し立てである。

〈生徒のレベルが更に下がるだろう。
勉強する事への意識、志が低下する。
つまり勉強しなければという危機感がなくなる。
小学校(公立)から中学校( 公立)に入る時に、ヤバイと思う人はいない。
義務教育でそのまま上がれてしまうのだから。
同じ事が、中学から高校、高校から大学に入る時に起こることになる。
つまり、高校に入る時も、大学に入る時も、勉強しなければ、という強い意識は生じなくなる。〉

そんなことになったら、日本は大丈夫なのだろうか?

「ゆとり」と言われる世代の多くは、帰属する集団の中では、自らの実力を痛切に実感することなく過ごしてきた傾向にある。しかし、そんな彼らも、あるとき社会に解き放たれ、厳しい現実に向き合うことになる。
そして今まさに、「ゆとり」の子供達が大人への道を歩み出しているさなかなのである。

少子化が進んでいるとは言え、自分が理想とする大学への合格は依然として困難であるという現実。反面、規制緩和によって大学の数は増加し、定員割れを起こす大学も増加しつつあるという現実。そのような状況で、大学を卒業しても就職はなかなか困難であるという現実。
放たれた社会に突如として現れた(ように見える)競争原理に戸惑う人は少なくはない。

こうした事は、教育改革を進め、教育基本法の改正(2006年)を画策した方々の発言の中に見て取ることができる。まさに、現状は彼らの意図したものを具現化しているという事なのだろう。

大内裕和氏は著書「教育基本法改正論批判」において、斎藤貴男氏の著書「機会不平等」の中からある証言を紹介している。
これによると、かつて文部省に設置され、ゆとり教育を推進した教育課程審議会の会長を務めた三浦朱門氏は、平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならん、できぬ者はできぬままで結構、実直な精神だけ養えばよい、落ちこぼれの底上げに注いだ労力をできる者を限りなく伸ばす事に振り向ける、エリート教育とは言いにくい時代だから回りくどく “ ゆとり教育 ” と言っただけの話だ、との発言をしているし、また2006年の教育基本法改正に先立って、小渕首相が私的諮問機関として2000年3月に発足させた教育改革国民会議において座長を務めた江崎玲於奈氏は、能力の備わっていない者がいくらやってもねえ、と述べ、子供の持って生まれた能力(遺伝子情報)に見合った教育に言及している。

まさに今、彼らの思い描いた社会が着々と構築されつつあったのかと愕然とする。
現在、ゆとり教育は見直されているが、高校、大学と義務化が行われれば、これらの状況が自然、加速するであろうことは想像に難くない。

また、高等教育無償化という話には、どうも軍学共同が見え隠れする。近年、軍学共同には大量にお金が流れ、文科省に回る予算が減らされているという。この事実をどう見れば良いだろうか。
今でさえ減らされつつある予算であるのに、無償化によって更に増加した分をどうやって賄う事ができるのだろうか。
このままでは、もしかすると軍事研究関連学部が幅をきかせるようになるのかもしれないし、昔でいう陸軍学校のようなものが増加することも考えられるかもしれない。

大学の文系学部の軽視までする昨今の政府である。

だが、そのような環境が亢進した社会で、限られたエリート候補の子供達は、どうやって、どれほどの質を保っていけるのだろうか。軍事に傾注して発展し続けた国があっただろうか。その期間の、他の方面の研究の弱体化は、国力を衰微させるのではないか。

このような話は、既にエリートである人達にとっては何ら関係のない話かと言えば、そうではない。社会全体の中で起きてくる困難な事象を、エリート達も引き受けていかなくてはならなくなるのである。

平均学力を下げ、格差を拡大させるような取り組みをしてはならない。
私達の暮らす、この社会の未来のために。

2017年5月8日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : きくこ