政教分離について
松田三郎
1. 憲法20条1項は信教の自由を保障し、3項は「国及びその機関は……いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。これが国家と宗教との分離の原則、すなわち、政教分離原則を規定したものである。さらに89条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため……これを支出し、又はその利用に供してはならない」としている。この規定は、政教分離原則を財政面から裏付けるものである。
2. 政教分離原則の規定の性格について学説の多数は、これを「制度的保障」の規定と見ている(芦部他多数)。「制度的保障」論とは、憲法の人権規定の中には直接個人の主観的権利を保障するのではなく、客観的な制度そのものを保障する規定があり、この場合、立法権はその(制度)の本質的内容を侵害しえないと説くものである。上述のように政教分離原則を「制度的保障」の規定とみるならば、憲法は、信教の自由を確保・強化するための「手段」として政教分離原則という制度そのものを保障しているということになる。
3. しかし、この見解では、信教の自由確保という「制度」の本質的内容を侵害しなければ、国家と宗教とが結びついても違憲ではないとの結論も認めることになり、信教の保障とは言い難いといわざるをえない。
政教分離原則は信教の自由確保という目的のための「手段」ではなく、信教の自由確保のための必須の「前提」と理解すべきである。
歴史的に見て、政教融合が信教の自由を否定してきたことに鑑みるならば、信教の自由確保のためには、政教分離が不可欠と考えられる(浦部)。
4. 政教分離原則を上述のように理解した場合、20条3項が禁止する「宗教的活動」をどう理解すべきか。すなわち国家と宗教との「かかわり合い」をどの程度認めるべきなのか。これについては緩やかに解する立場と厳格に解する立場とがある。確かに国家と宗教との「かかわり合い」を全面的に否定することは不可能である(例えば、文化財保護や私学助成など)。しかし、憲法は戦前(中)の国家神道の反省を踏まえて政教分離原則を定めたものであるから、厳格に解する立場が妥当である。
5. 厳格に解する立場からは、政教分離原則違反か否かは機関の行為の内心ではなく、その行為を客観的に評価して決定すべきである。
したがって、総理大臣の靖国神社参拝、正月恒例の伊勢神宮参拝等は政教分離原則に反するものであり、違憲と断ずべきものである。
6.最後に判例を掲げておく。
(1) 政教分離原則に関する代表的なものは津地鎮祭事件最高裁判決である(77年7月13日)。要旨を記述する。
「政教分離規定はいわゆる制度的保障の規定であって信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである」との前提に立ち、政教分離原則は「国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである」
(2)20条3項の宗教的活動とは、「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである」とする。
7. 上記の判例の(1)は、いわゆる「制度的保障論」を述べているものであり、前記3の批判がそのままあてはまる。判例の(2)は「目的効果規準」と講学上呼ばれているものであり、判例上は定着している。
しかし、目的効果規準はあいまいな内容を保ち、個々人の主観によって同一の行為が違憲又は合憲のどちらにも判断できる不明確なものであって違憲性審査規準と認められるものではない。
8.近時の判例は目的効果規準に立って国家と宗教のかかわり合いを、厳格に判断する傾向が見られるが、この規準と厳格な解釈とは論理必然性はなく、やはり不適当なものと言わざるを得ない。