「押しつけ憲法論」の深層(3)憲法改正機会を握りつぶした日本政府

3.憲法改正機会を握りつぶした日本政府

このように、極東委員会(FEC)による干渉を嫌うマッカーサーと、天皇制の存続と自らの生き残りを図る日本の保守派政治家たちの利害の一致によって、日本人民自身の手による憲法制定のための十分な審議の時間的余裕を与えられないまま、日本国憲法が性急に制定された経過を見た。しかし、日本国民が憲法を自主的に再検討する機会がこれで完全になくなったわけではなかった。実は衆議院が憲法改正案を可決成立させた(10月7日)直後の1946年10月17日、FECは「憲法施行の1年後2年以内の期間」に、新憲法が「果たして日本国民の自由な意思の表明であるかどうかを決定するため、同憲法にたいする国民世論を確かめる目的をもって国民投票ないしその他の適当な措置を講ずること」を決定し、GHQに伝達したのである。

これに対してマッカーサーは、翌47年1月3日付の吉田首相宛ての書簡において、この決定を伝え、「もし日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう」と述べている。

しかしFECのこの決定を国民に公表することにはマッカーサーが難色を示したため、国民が新聞報道を通じてこれを知るのはようやく3月30日のことであった。しかし当時、日本国内では憲法普及会という官民一体の組織が国民に対する新憲法の啓蒙活動を本格化させていた時期だったため、この報道は一般的にはむしろ奇異な印象をもって受け止められたという(高見勝利「憲法改正」『法学教室』2013年6月号)。

しかし、FECの決定に対して積極的に反応し、憲法改正意見を取りまとめたグループが2つあった。丸山眞男・鵜飼信成・戒能通孝・辻清明・川島武宜らによって組織された公法研究会と、田中二郎・平野龍一・兼子一らによって組織された東大憲法研究会である。前者は1949年3月、憲法前文から第3章「国民の権利」に至る改正意見を取りまとめ、同年4月号の『法律時報』にその内容を公表した。後者は、憲法各章の改正点に関する意見を個人名で執筆し、「憲法改正の諸問題」という表題をつけて同年の『法学協会雑誌』(67巻1号)に公表している。公法研究会案は、前文および本文中の「国民」という言葉を「人民」という言葉に置き換えることにより、民主主義の原則を深化・発展させること、天皇制は廃止して共和制とするのが理想であるが、さしあたり実現可能な改正案としては、天皇制を承認したうえで、「象徴」という「神秘的要素」を持つ言葉を「儀章」に置き換えることなどを提案した。東大憲法研究会案においても、概ね日本国憲法の民主主義原理を深化させる方向での改正意見が提案された(高見前掲論文参照)。

これに対して、政府や国会側の動きは鈍かった。FECが憲法再検討の期間に指定した施行後1年を経た1948年6月20日、政府(芦田内閣)はようやく衆議院議長に「憲法改正の要否を審査してもらいたい」との申し入れを行い、それを受けて国会事務当局や法務庁は再検討を要する条項の見直しに入るが、国会の動きは極めて消極的で、結局、研究会の設置にも至らなかった。また、こうした憲法改正問題を伝える新聞が掲載する「社説」や「識者の談話」も極めて消極的なものであった。それは、「憲法の持っている客観的な原理、基本的な原理と考えられるものはもう不動のものであって、かりに憲法改正問題がまた起こったとしても、それは問題にならないだろう」という佐藤功の言葉に代表されるような気分が支配的であったからである。なお、この時期の憲法改正問題では天皇退位問題が大きな比重を占めていた(古関彰一『日本国憲法の誕生』366-368頁)。

FECは1949年1月13日、マッカーサーに対して、憲法再検討に役立つ情報と意見の提供を求めたが、これに対してマッカーサーは同月27日、「日本人は、憲法の再検討をするためには、もっと長い時間の経過した後でなければならないとの意見を固持して、この際、真面目に改正を考慮することに強い反対を示した」との回答を送っている

FECの定めた施行2年の期限が近付いた同年4月28日、吉田首相は衆議院外交委員会において、「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません」と答弁し、憲法改正問題を葬り去ったのである。この一連の史実を記した後、古関氏は前掲書の中で次のように述べている。

それにしても「押しつけ憲法」論が、なぜこれほどまでに戦後半世紀以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。与えられていたのである。その機会を自ら逃しておきながら、「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張されつづけてきたのである。とにかく最近の憲法「改正」史や現代史の研究書をみても、この点に全く触れていないのであるから無理からぬ事情があったにせよ、これは糺しておかなければならない。(前掲書375頁)

私は、当時の吉田内閣がFECの求めた憲法改正機会を見送ったこと自体は、それほど非難するつもりはない。当時の大方の国民意識に照らして、憲法改正の必要性が感じられていなかったのは事実であろう。だが、占領下においても、憲法を国民的に再検討する機会は与えられていた、それどころかむしろ求められてさえいたにも関わらず、それを政府の責任においてあえて封印した以上、「憲法は占領下で作られたから押し付けられたものだ」という主張が、いかに歴史的事実を無視した一面的なものであるか、ということはどんなに強調してもしすぎることはないであろう。

 

<参考文献>

小熊英二(2002)『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社

国立国会図書館「日本国憲法の誕生」(http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

古関彰一(2009)『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫

高見勝利(2013)「憲法改正」『法学教室』2013年6月号

豊下楢彦(2008)『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫

樋口陽一(1992)『憲法』創文社

吉田裕(1992)『昭和天皇の終戦史』岩波新書

 

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2016年2月28日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 加東遊民