平和な江戸時代がもたらしたもの③

もともと、天皇や貴族の荘園などを守る武装集団として誕生した武士は、自分たちの領地を持つようになると、領地拡大のため隣国に攻め入ったり、自国を守ったりして戦に明け暮れていたが、徳川幕府により統一され、平和な江戸時代は武士を変え、行政官として領地の経営に当たるようになった。

外国の場合、王制の役人(官僚)は、任期をつとめれば転勤し、以後責任はないが、武士は世襲であり、一生そこで生活し、生きていかなければならないので責任がつきまわり、自立した高度な地方分権・自治政治を行っていた。

百姓出身もいる武士は目の前の百姓の苦労をよく理解しており、王侯貴族と違い、ただ搾り取るのではなく、治水工事や農地開墾にも先頭に立って取り組んだり、新しい産業の育成にも力を注いだ。また私塾を作り、読み書きそろばんなども積極的に教えてきた。

武士は格式に縛られ大変な面もあったようだが、庶民は結構自由で幸せだったようだ。

武士が戦闘集団でなくなると、刀鍛冶などは需要が無くなり、やむなく民需品=包丁や鋤・鍬などを製造するようになった。今でも残る「関の刃物」等はその名残である。また、鉄砲鍛冶は銃の点火装置で今で言うライターのようなものを作ったりしていたようだ。

このような例の通り、平和な時代は、民需品の工夫にエネルギーが集まり、たとえば西洋からもたらされた「機械時計」を、農業国の日本に合うように「和時計」を作った。

機械式の西洋からの時計は現在のように昼も夜も同じ定時式だが、明け六ツ・暮れ六ツで時間が切り替わる日本では使えない。そこで重りを変えたり、時計の目盛り板を変えたり、いろんな工夫を凝らした「和時計」が全国に登場した。同じころ時計が来たであろう中国では王様や貴族の子供のおもちゃにしかならず、搾取階級の王侯貴族とその番犬の騎士群という一人を頂点とする王政と、武士社会と異なる。

ここが江戸時代という平和な武士社会のすばらしいところで、日本だけに見られることなのだ。領主のそばにいる学者や技術者を抱え組むのでなく、積極的に庶民のために使ったこと。それを各大名が競い合っていたようだ。先の「大和本草」等にもそれを見ることが出来る。

(西洋の「機械時計」は大航海時代に、星や太陽と今の正確な時刻が判らないと現在地が判らないので、定時式の正確な時計が必要だった。この辺りは上野の「国立科学博物館」の展示が面白い)

大 西

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