私と憲法

製錬所のある島
福田玲三

晴着の人を満載しただるま船は対岸の岡山県玉島に向かった。冬の陽はきらめき、海は手の切れるほど澄んでいた。

社宅の奥さんたちは、上方歌舞伎の玉島にくる今日を楽しみにしていた。テレビもラジオもない時代だ。製錬所の高い煙突から出る煙は、島の土をむき出しにし、工員たちは濡れ手拭いを鼻にあて、溶鉱炉の回りを走り回っていた。奥さんたちの出かけたあとの静かな社宅で、母はつくろいものをしていた。母は一度も芝居見物に行ったことがなかった。紅も白粉もつけず、油の代わりに水で髪を整えていた。
翌朝、夜の明けぬうちに、泣き止まぬ長女の鈴江をねんねこに背負い、母は暗い浜辺に出た。若死にした母の兄(私の伯父)の子供が、京都に出て苦労しているという。自分が家出して大阪で仕事を探しているとき、月々心遣いを送って励ましてくれた兄、そしていまは親のない子。
「親代わりに、できるだけのことをしてやろう。それが兄への恩返しだ」身を切る潮風にびんのほつれをなぶらせながら、その思いが身体を暖めるのだった。背中の子をあやしながら、海につき出た棧橋を踏んで行った。橋げたの間を流れる潮の音が、暗い海面から聞こえてくる。ひき返そうとしたとき、下駄が滑って片膝ついた母の背中のねんねこから、すっぽりと子が抜けて厳寒の空に飛んだ。間一髪、娘の着物のはしをつかんで引きよせ、しっかり抱いて、濡れた棧橋に膝をついたまま、母の動悸はしばらく収まらなかった。
海は、黒い無気味なうねりをくり返し、時に上がる飛沫は刺すようだった。わずかな風のためか、夜明けの青い星がまたたいていた。そして夜が白々と明けたころ、母はあやまちのなかった喜びに、大きな痣(あざ)のできた膝の痛みも忘れ、人の動きはじめた社宅にそっと帰ってきた。

数日後、何におびえたのか鰯の大軍が、浜辺におしよせ、世界大戦後の不況を予告するかのように、海は暗く染まった。母は社宅の奥さんたちと、砂浜で飛び跳ねる鰯を、バケツ一杯とってきた。これで何日か副食代が浮くはずだ。
その夜、親子三人の食事を取りながら、母は、きりつめておくった郵便小為替はもう着いているだろうかと、京都の暗い下宿の電燈の下で、淋しい食事をしている甥の姿を思い、ふと涙ぐんだ。「温かいうどんでも食べておくれ。郷里から都会に出ていったどれだけ多くの若者が結核に倒れて田舎に帰ってきたことだろう。お前も、しっかり気をつけておくれ」母は給仕に横を向いたときに涙をぬぐい、日曜日に、スケッチブックと4B鉛筆をもって写生に出かけることを楽しみにしている、この夫の給金を――スケッチブックには、島影に憩う舟や、空に舞う鳶、赤子を背負った子守りなど、森羅万象が画かれていた――勝手に自分の身内のために使っては、夫にも子供にも申し訳ないと、改めて心に誓うのだった。甥の暮しの足しを送るために、母は一切のわが身のおごりを慎んだ。

2016年8月23日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 福田 玲三

私と憲法 追稿

製錬所のある島
福田玲三

晴着の人を満載しただるま船は対岸の岡山県玉島に向かった。冬の陽はきらめき、海は手の切れるほど澄んでいた。

社宅の奥さんたちは、上方歌舞伎の玉島にくる今日を楽しみにしていた。テレビもラジオもない時代だ。製錬所の高い煙突から出る煙は、島の土をむき出しにし、工員たちは濡れ手拭いを鼻にあて、溶鉱炉の回りを走り回っていた。奥さんたちの出かけたあとの静かな社宅で、母はつくろいものをしていた。母は一度も芝居見物に行ったことがなかった。紅も白粉もつけず、油の代わりに水で髪を整えていた。
翌朝、夜の明けぬうちに、泣き止まぬ長女の鈴江をねんねこに背負い、母は暗い浜辺に出た。若死にした母の兄(私の伯父)の子供が、京都に出て苦労しているという。自分が家出して大阪で仕事を探しているとき、月々心遣いを送って励ましてくれた兄、そしていまは親のない子。
「親代わりに、できるだけのことをしてやろう。それが兄への恩返しだ」身を切る潮風にびんのほつれをなぶらせながら、その思いが身体を暖めるのだった。背中の子をあやしながら、海につき出た棧橋を踏んで行った。橋げたの間を流れる潮の音が、暗い海面から聞こえてくる。ひき返そうとしたとき、下駄が滑って片膝ついた母の背中のねんねこから、すっぽりと子が抜けて厳寒の空に飛んだ。間一髪、娘の着物のはしをつかんで引きよせ、しっかり抱いて、濡れた棧橋に膝をついたまま、母の動悸はしばらく収まらなかった。
海は、黒い無気味なうねりをくり返し、時に上がる飛沫は刺すようだった。わずかな風のためか、夜明けの青い星がまたたいていた。そして夜が白々と明けたころ、母はあやまちのなかった喜びに、大きな痣(あざ)のできた膝の痛みも忘れ、人の動きはじめた社宅にそっと帰ってきた。

数日後、何におびえたのか鰯の大軍が、浜辺におしよせ、世界大戦後の不況を予告するかのように、海は暗く染まった。母は社宅の奥さんたちと、砂浜で飛び跳ねる鰯を、バケツ一杯とってきた。これで何日か副食代が浮くはずだ。
その夜、親子三人の食事を取りながら、母は、きりつめておくった郵便小為替はもう着いているだろうかと、京都の暗い下宿の電燈の下で、淋しい食事をしている甥の姿を思い、ふと涙ぐんだ。「温かいうどんでも食べておくれ。郷里から都会に出ていったどれだけ多くの若者が結核に倒れて田舎に帰ってきたことだろう。お前も、しっかり気をつけておくれ」母は給仕に横を向いたときに涙をぬぐい、日曜日に、スケッチブックと4B鉛筆をもって写生に出かけることを楽しみにしている、この夫の給金を――スケッチブックには、島影に憩う舟や、空に舞う鳶、赤子を背負った子守りなど、森羅万象が画かれていた――勝手に自分の身内のために使っては、夫にも子供にも申し訳ないと、改めて心に誓うのだった。甥の暮しの足しを送るために、母は一切のわが身のおごりを慎んだ。

2016年8月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 福田 玲三

「米食い虫」的差別は違憲

「米食い虫」的差別は違憲

「沖縄戦を生きた障害者」(NHKテレビ2、8月16日)をたまたま見ると、沖縄戦中、同島の障害者は、役に立たない「米食い虫」と呼ばれ、生きるのさえ白眼視されたという。
さる7月26日未明に相模原市「津久井やまゆり園」で発生した殺傷事件にかかわる植松容疑者は、最近、「殺害した自分は救世主だ」と自負しているという(8月17日『朝日』夕刊)。
和光大の最首名誉教授によれば、「彼は被害者の家族には謝罪している。個人の倫理としては殺人を認めない。しかし、生産能力がない者は『国家の敵』や『社会の敵』であり、そうした人たちを殺すことは正義だと見なす。誰かが国家のために始末しなくてはならないと考えている。確信犯だ」(『東京新聞』7月30日)。
安倍首相は外国で起こったテロにはすぐに許されないと声明を出すが、国内で起こったテロをどう思っているのか、明らかでない。
麻生副首相は北海道の小樽市で行なった講演で、経済政策などについて語った際、「90才になって老後が心配とか、わけのわかんないこと言っている人がこないだテレビに出ていた。『オイ、いつまで生きているつもりだよ』と思いながら見ていました」などと述べた。批判を受けてすぐ取り消したが、「死んでもらいたい」という本心はそのままではないか。
石原元都知事も1999年9月、重度障害者施設を視察後、「ああいう人(入所者)ってのは人格あるのかね」と不謹慎な発言した。
障害者殺傷事件の植松容疑者は事件前、大島衆院議長にあてた手紙の中で、「安倍普三様のお耳に」「安倍普三様にご相談頂ける」ようとに二度も首相の名を挙げている。これは意味深長だ。障害者の殺傷に首相の支持を期待しているからだ。
安倍首相と菅官房長官の沖縄への対応を見ていると、甚大な犠牲を強いた「(沖縄)県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という沖縄海軍陸戦隊大田司令官の遺言に何らの考慮も払っていない。弱者に冷酷なこの首相が強化した軍隊が、国民を守るとは思えない。彼らが守るのは昔は国体、いまは特権階級だけだろう。
これらの政治家はいずれも「米食い虫」的差別を意識に秘めている。
だが、日本国憲法は第25条で、①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めねばならない」と定めており、国民の間に差別を認めず、すべての人に生きる権利を保障している。
国は違憲の軍事費をけずり、あまねく国民の基本的生活擁護に、それを充当しなければならない。

2016年8月20日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 福田 玲三

護憲派は天皇の「生前退位」問題に見解表明を

 8月3日付の当ブログで、大西さんが「天皇陛下の『生前退位』に賛同を」との意見を寄せられた。
 私はこの大西さんの提起に賛成である。大西さんも言われているように、護憲派は今回の「生前退位」問題に限らず、天皇制が直面する現実問題については積極的にかかわろうとせず、否定的傍観者として振る舞っているように思う。言わば自らを蚊帳の外に置いているかのようだ。
 その理由は、これも大西さんが言われているように、護憲派の多くが天皇制否定の立場に立っているからである。天皇制などという人間平等に反する、あってはならない制度をより良くするなどということは考えられない、ということなのであろう。
 しかし、「生前退位」問題とは憲法問題なのである。護憲を標榜する護憲派がきわめて重要な憲法問題に直面して傍観者的に振る舞っていいわけがない。そして「生前退位」問題とは「皇位継承」問題なのである。
 憲法第2条は「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」としている。その皇室典範はどうなっているか。
 皇室典範第1条は「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」となっている。あからさまな女性差別であり、憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により………差別されない」に違反しているのである。
 安倍政権はじめ右翼保守勢力にとっては、天皇を「元首」化するためにも「生前退位」など認めたくないであろうし、ましてや天皇神格化の根源となっている男系男子による継承(これ自体神話なのだが)が断ち切られ、女性天皇が誕生することなど絶対に認められないであろう。
 それゆえ、護憲派は、憲法違反の皇室典範改正に踏み込んで今回の「生前退位」問題を論じるべきであり、かつ、女性にも皇位継承権を与えるべきことを主張し展開すべきなのである。
 まさに今回の「生前退位」問題と「皇位継承」問題は、右翼保守派の弱点なのであり、彼らがいかに戦前回帰の反民主主義勢力であるかをあぶりだす好機なのである。現天皇の「生前退位」問題は国民の関心も高く、さまざまに議論が噴出するであろう。このような状況の中で、これまでのように護憲派が否定的に傍観者的に振る舞うようなことがあってはならないと思う。
 いまこそ護憲派は、「生前退位」賛成、女性にも皇位継承権を与える皇室典範改正を訴えるべき時である。

『布施杜生』の紹介

先ごろ、戦争体験を語るよう私が求められたが、抜き差しならぬところに追い込まれた戦地の体験を語るよりも、戦争の危機を警告して非情に弾圧された人たちの実情を伝える方が、適切だろうとの思いが私にある。
その悲劇の最も痛ましい例として作品「布施杜生(ふせもりお)」(『国鉄詩人』2015年秋号掲載)を紹介したい。

布施杜生(ふせもりお)

ゆき・ゆきえ

布施杜生という珍しい名前の人がいる
父は戦前からの左翼弁護士布施辰治で
トルストイ(杜翁)の非戦論と人道主義に感銘し
その一字をもらって三男につけた

杜生は一風変わった娟(けん)介な人で
ドモリでもあり
自分の名前のことで 小ブル的センチメンタリズムと
猛烈に父をけなし
京都大学の学生時代に学生結婚の問題で
父と袂(たもと)を分かった

野間宏の小説「暗い絵」に
彼をモデルにした木山省吾が書かれている
「深見進介は …… 木山省吾の横に立ったまま、木山省吾の汚い見すぼらしいよれよれの夏の学生服を着けた、薄い肉のない、何処か身体が或る箇所に不治の病気を持っているような頚筋を見つめながら、意味のない言葉を云った。少し尖った大きな耳の後に、項の毛がちぢれて垢のついているような木山省吾の頚に目をやり、彼は右ポケットの煙草を探った。」
「『信じんね、俺は。』木山省吾が強く云った。そして胸幅の狭い栄養のよくない虚弱そうな上半身を右に向け、漸く伸び出した髪の毛が羽毛の伸び始めた牝鶏の尻尾のように滑稽に見える頭を左右に振った。」
「病的な何処かに腐敗したものの感じを抱かせるにかかわらず、また何処かのんびりした所のある表情、軽快な機智などの全くない知性、言語反応の遅鈍な頭脳、極めて鈍い挙動、木山省吾はこうした外貌を持ちながら、しかし対人関係に於て極めて鋭敏な神経を持つているのである。彼自身、肉体的の欠陥を持ち、常に苦悩の連続の生活をしている故に、特に他の者の心の苦しみをじっと見抜く眼を持っている。そして彼は他人の苦しみを見抜いた時、それに対してこの上なく細心な心使いをするのである。」

杜生は京都帝国大学文学部哲学科で
田辺元教授に師事したが
やはりこの学生結婚の問題で田辺教授にも反対され
京大を退学する

それより先
京大に入学して二年目
春日庄次郎らが組織した日本共産主義者団の
活動に彼は参加し
「京大ケルン」関係者一同とともに逮捕され
京都山科未決監に収容され
一〇ヵ月後に執行猶予で出所している

出所の翌年
京大退学の元となった
団の同志松本歳枝と東京で結婚し
出版社、ついで業界新聞社に勤める

その年の大晦日
栄養不良の皺だらけの女の子が逆子で生まれ
病弱なこの乳飲み子をかかえた
窮乏のきわみの生活のなかで
杜生は詩歌、小説の創作に没頭する

長女誕生の翌年九月、治安維持法違反の嫌疑で再検挙され
その二年後の昭和一九年二月四日
京都拘置所内独房で衰死
愛児は杜生検挙の二ヵ月後に急逝

中野重治、野間宏監修の
布施杜生遺稿集『獄中詩・鼓動』が
昭和五三年、永田書房から二五〇〇円で刊行された
石田嘉幸に頼んで その古書を五一七円で手に入れた

古書には刊行の栞(しおり)がついていて
「布施杜生のこと」を
中野重治、野間宏、松本歳枝が書いている
中野も野間も杜生の人柄を丁寧に書いているが
一番衝撃的なのは松本歳枝による
杜生検挙のときの記録だ

「布施は将来に明るい展望をもっていた。(一)詩歌集。(二)長編小説。(三)論理学序説。(四)民族史の概念及び方法。これらは近い将来彼が必ずなし遂げるべきはずの、彼の労作の四つのプランであった。」
「それは昭和17年の9月中旬位だったろうか。正確な日は想い出せない。何しろ前の晩はかなり風雨が強く嵐のようだった。嵐ではなく、早い野分けが通り過ぎたのかも知れない。ドンドン、ドンドン、突然激しく玄関の戸を叩く音。
『何だろう』
二人は同時に身を起こした。カーテンを少し引いて硝子戸越しに庭の方を覗いてみたが、外は風もやんでまだ深い暁闇につつまれ静かであった。無気味な予感がスーと走る。間をおいて、ドンドンと又ひつこく繰返してくる。」
「男どもは総勢で六、七名位いた。彼等は警視庁特高課の私服刑事だった。」
「彼等は前と後に別れ、杜生を真中に挟んで、ぞろぞろと動き出した。玄関の上り間口の柱のところまできて、ガチャリと杜生に手錠がかかった。と、突然
『俺は行きたくない!俺は行けないんだあ――』
びっくりする大声で杜生は叫んだ。そして柱にしがみつき、オンオンと声を挙げて泣き出した。一瞬たじたじとなって刑事どもはお互いの顔を見合わせたが妙に白けた気分で沈黙した。
『なに大丈夫ですよ。そう四、五日で帰れますからね……』
年輩の刑事が困惑しきって、幼児をなだめるように、柱から彼を引き離そうとした。
『いやだよ!俺はいま行けないんだ!』
杜生は地だんだ踏んで癇癪玉を破裂させて、もっともっと大声を張り上げて泣き叫んだ。
『仕様がねえなあ……』
誰かが云うと、他の者も薄ら笑いを噛み殺した。やがて、きりがないと云う顔で、背後にいた男が、手荒くドーンと杜生の背中を押した。そして、罪人を引き立てるように彼を家の外へ引きずり出した。」

「いやだよ!」
杜生の叫びは いま私の身体のなかで
改憲をねらう人たちに
的をしぼって 響きわたる

<付記>
もし、戦争の実相を知りたいと願う若い読者がいるなら、私は東史郎『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺―』(青木書店、1996年刊、定価2060円)をお勧めしたい。筆者、東氏は京都府出身、昭和12年京都第16師団に入隊、南京攻略戦などに参加、昭和14年除隊。この間、行軍「日誌」を書き続け、それを帰国直後に清書したものが本書。
本書の「まえがき」は次のように始まっている。
『わしは……、機関銃で……むごいことをした』
病床から、やせた腕をしっかりとのばし、私をつかみながら、元機関銃中隊隊員の老兵は悔恨と懺悔の涙にかきくれていた。」
「その老兵は、私の手を握って離さなかった。涙がとめどなく流れ、彼の頬をいく本もの光る筋となって止まなかった。

天皇陛下の「生前退位」に賛同を

最近、天皇陛下の「生前退位」の話題が良く目につく。

右のほうから「絶対反対」の論調が聞かれるが、左からは音沙汰なしである。

このままでは「生前退位」が吹っ飛んでしまう。

護憲派としては「生前退位」に諸手を挙げて賛同すべきである。

かつて「女帝」の問題が上がったこともある。

私は「女帝大賛成」と言っていた。

護憲派の多くは「非武装中立、天皇制反対」である。

私も同じ立場だ。

だからと言って天皇制を論じないというのは誤りだ。積極的にかかわって、より良い制度にしなければならない。

天皇制の何がいけないのか。護憲派の中に「身分制度」という人が多い。

私は「天皇の神格化」と思っている。

護憲派の言うように、直ちに天皇制をなくすことは無理である。

でも、「神様」でなくすることは可能だ。まずは「万世一系=男系」を破ること。「女帝」推進である。

そして「生前退位」だ。生前退位が認められれば天皇は国家公務員の「天皇職」になる。

皇族から「定年制」の話が出たこともあるらしい。

これも、国家公務員の「職」レベルの話になる。身分制度でもなくなる。

「象徴」として居て戴いていいのでは。多くの国民も望んでいるのだから。

私達も声を上げよう。「生前退位」賛成と。

私と憲法

さる7月28日、神明いきいきプラザ(港区)で行われた長坂さん主催の憲法研究会での報告を転載させていただきます。

私と憲法

福田玲三

私は1923(大正12)年11月に瀬戸内海の水島で生まれた。この島にある古河系の銅製錬所に父が溶鉱主任として勤めていたためだ。
母は明治18年に岡山県を流れる吉井川中流の左岸、羽仁(はに)という集落に生まれ、ゆきという名前だった。7歳で小学校に入り毎期優秀な成績で4年後に卒業した。ほどなく、近くに住む叔父から、ゆくゆくはその養子の妻にするよう父が求められ、その話の進んでいるのを聞いた。大人同士の話に小娘が口を挟むことはできず、父母の元を離れて見知らぬ人に嫁ぐのが嫌で、一人悩んだ末に、夏のことだったので、吉井川に入って死のうと思い、息を詰めて水中にしゃがんだが死に切れず、その後、家出して大阪にいる叔母を訪ね、自活の道を探したが適わず、一日一食で我慢することもまれではなく、この前後から頭がおかしくなった、と母は言っていた。そのとき、すすった芋粥(いもかゆ)のおいしさが忘れられず、黄色い甘薯を浮べた白いお粥は母の終生の憧れだった。
行き詰ったときに、父(私の祖父)から帰国をうながす便りが届き、やむなく故郷に帰って悶々の日を送っているうち、友人の勧めで、看護婦を志した。1年あまり、川上3里、津山市内の植月という老先生に師事して数学など二、三の課目を学び、幸いに試験を受かって看護婦養成所に入所した。やっと育ててくれた父母に恩返しが出きると一心不乱に勉強し、明治39年に正看護婦になり、日給19銭で姫路野戦病院に勤務した。ここでは、再三職務勉励で表彰され、2年後に当局の要請をうけ内地を離れ、日露戦争後の南満州鉄道病院に月俸25円で勤めた。
母は女相撲に入ったらどうかと言われたほど大柄で力持ちだったが、器量の良くないことを自認していた。当時「男の目には糸を引け、女の目には鈴を張れ」が美男美女の通り相場だったが、頬骨が出て目のつぶれているのが母の顔だった。器量の良い看護婦が医師たちの間で好遇されるのを縁なきことと、ひたすら仕事に励み、難儀した包帯裂きが、やがてチリ紙を裂くのと同然になり、包帯で傷をまくのに、緩ければ傷口がこすれて痛み、きつければ血滞して回復が長引くので、重傷患者が運び込まれるといつでも、ゆきさん!と呼ばれるまでに重宝された。
大正2年に内地にかえり岡山県病院の外科看護婦長を日給50銭でしているとき従兄半に当たる父と結ばれることになった。大正12年11月に3男の私が生まれる2カ月前、関東大震災の煤煙は瀬戸内海のこの島まで届いたと言っていた。私が小学校に上がる前、たぶん世界大恐慌の余波を受けて水島の製錬所が閉鎖され、父母は5人の子どもを抱えて生まれ故郷に近い津山に移り、市内の東のはずれに借家を見つけたが、このときもらった退職金が3000円とか5000円とかで、以後は結局、この退職金を食い潰すだけの暮しになった。
前途を予測し、縁あってやや市中に近い田圃300坪を買って安普請の家をたて、家の回りを畑にして自給自足の態勢を整えた。母はいつも、望む学問だけはさせてやる、と豪語していた。そしてやり繰りして、5人の子供のうち男3人は専門学校と大学に、女2人は高等女学校を卒業させた。しかし、そのための節約はすさまじかった。母は着物、白粉、口紅はもちろん、髪油、クリームさえ買うことはなく、畑仕事と家事で冬は、ささくれた指に大きなひびが赤い口を開けていた。
母の唯一の娯楽は月に一度ほど活動写真を見に行くことだった。その日は、家族の夕食を早めに用意し、自分ひとりの楽しみ恥じ、隠れるようにして家をでた。入場料は3本立てで、たしか5銭くらいだった。活動館の桟敷に座ると日頃の家事の疲れでカタコトとフイルムの回る音を聞きながら母はうとうとと眠りこむ。だからいつも2回目を見る用意をして出た。母のいない家族の6人の夕食は火の消えたようにさびしかった。
冷たい北風の吹く山国の盆地で湯気のこもった理髪店で髪を刈ってもらうのは私の果たさぬ夢で、散髪はいつも家の庭で、父の切れないバリカンを使った虎刈りだった。中学生になって、運動の時間には、勤め人の子供の真っ白なランニングやパンツがうらやましく、洗い古した下着しか着たことがなかった。満州事変の始まったのが小学2年生のときで、国全体でも節約ムードで、衣類に継ぎの当たっているのは恥ではないという意識は広がっていた。
私が小学生のころ津山市にも水道が入った。これまでは家外の掘り抜き井戸で、雨が降れば黄色い水で水位が上がり、数日後に初めて水位が下がり、やっと水が澄んだ。使用料なしの井戸で済ますか、料金を払って水道を引くか、それがわが家の大問題だった。定額だった電気代にメートル制の選択が加わったのもそのころだった。悩みに悩んだ末に母はメートル制に切り替えた。切り替えた最初の検針にきた検針員はメーターを見て驚き盗電を疑った。それは8月だったが、暗くなるまで一切電気を付けず、無駄な電気はすぐに切って節電に努めた。

水島の製錬所に勤めている間、父は休日には画帳をもって海や船をスケッチしたり、俳句を作ったり、素人芝居の役者などもする趣味人だった。だが当時のこととて、父はお勤め専一、母はその勤めに障りを作らないこと一筋だった。結婚した時、母の給料は父のそれより高かったそうだが。
父の父は津山近隣の農家の出だが幕府による長州征伐に参加して下級士族になり、ご一新後は水車による精米の仕事を始め、借財を重ねて失敗し、ついには妻子を残して夜逃げし、東京に出て古物問屋をはじめ、幸いにこれが当たって、十数人の使用人をかかえるまでに成功し、妻子を東京に呼ぼうとしていた矢先、大火に会って無一物となり、その後、運は開けず、80余歳の高齢になって、妻に先立たれたあとの郷里に帰ってきた。
製錬所が廃止になって父母が郷里近くに帰った後、母は、義父が夜逃げした際、義母もいくらかの前借をしたまま村を離れ、義母がその不義理を苦にしながらこの世を去った話を、何かのついでに思いだし、代を異にする債権者に幾十年前の借金を返済して回り、義母の霊にその報告をした。
私が小学生だったある日、たまたまその日は、昼休みに走って家に帰り、昼食を食べて、また走って学校に帰ろうと思っていると、母が机に向かいなにやら書いては泣き、書いては泣いている。このまま学校に帰るには心配で堪らなかった。この頃父は一時的に、瀬戸内海の直島製錬所に単身赴任していた。その父に当てての手紙だった。思い切って私は母に聞いた。「お母ちゃん死ぬんじゃない?」。母はひしと私を抱きしめ、「お前たちのように可愛い子どもを残して、どうしてお母ちゃんが死のうにい」と涙にむせんだ。私は安心するとともに、恥ずかしくなり、母に見送られて学校に帰った。
母が苦しんだのは父が5人の子どものなかでえこひきすることだった。父は長女を可愛がり長男を疎んじる風だった。自分でも、「父親が息子よりも娘を可愛がるのは自然の摂理だ」と言っていた。それでも、その言葉ほどの差別ではなかった。だが母にはそれは認められなかった。というのは、母には器量よしの妹がいて、生みの母の愛を妹にとられた辛い経験があり、その辛さを子どもの誰にも味合せたくなかった。母はそのことで悩み抜いた。
しかし、もっと大きなことで母は悩んだわけではない。たとえば男の子が兵隊に取られることは国民の義務として疑わなかった。婦人雑誌で男の子は陛下の赤子としてやがて兵役につく身だから、寝ているとき、男の子の枕元を歩かぬようにと書かれていれば、それを真面目に実践した。日露戦争後の満州を経験している母にとっと、軍隊は男の子が一人前になるために必要な試練と思い定めていた。それでも近所の農家の小母さんとある夏、野菜を届けたついでにわが家の縁側で世間話をしていて、小母さんが7人育てた男の子を5人まで次々に戦死させ、「何で苦労して育てたんだか」と語ったとき、二人は抱き合って声をあげて泣いた。
子どもへの愛は戦争反対までには至らなかったが、他のことでは母は子どもに愛を注ぎ尽した。母は、父に教わって、晩年に詠んだ短歌で、「花よりもなおも愛でにし吾子なれば孫の可愛いさ何にたとえん」とあるが、ほんとうにわが子を花よりも愛していた。「五人の子五本の指になぞらえて母の願いは落ちなき幸ぞ」の歌もある。
何時かの初夏のことだった。訪れた乞食に、母は節約して残した何がしかのものを与え、「このあと何かのことで子どもがお世話になるかも知れません。そのときはよろしくお願いします」と頼んでいた。感謝しながら立ち去る乞食は西に向かい、その空に虹がかかっていた。
母の二人の兄は柵原鉱山の幹部をしていたが相次いでチビスなどの伝染病にかかって死んだ。二人の息子に先立たれた母の父(私の祖父)の嘆きを身近にみていた母にとって、この世で一番恐ろしいのは、仏法でいう逆縁だった。母はいつもわが子に先立たれる幻影に脅えていた。
子どもに対する父の偏愛のほかにも父と意見を異にすることが様々に母にはあった。だが戦前、明治憲法下、教育勅語のもとので、女性は「幼にしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」の三従の教えが鉄則だった。悩みに悩みながら、女には相談できる人、頼れる相手はいなかった。
冬の早朝、悩みをかかえた母は、わが家の宗派、日蓮宗のお題目を一心に唱えながら、家の前の小道を行き来し、夜が白々と空けるころ、ようやく解決の糸口を掴んで心の平穏を取り戻すが、やがて程なくまた行き詰り、母は苦しみ抜いた。母は父の親類縁者から嬶(かかあ)天下と見られるのを恐れた。三従の貞淑な嫁でありたいと願いながら、道理として納得できない、その自縄自縛のなかで母はもがき苦しんだ。それは、現憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)の起草に心血をそそいだベアテ・シロタ・ゴードンさんの眼に写っていた日本の女の姿だった。
ベアテさんの願った日本の女性の解放は、新憲法によって法制上実現した。三従の鉄鎖は粉砕され、両性の平等が成就した。日本の当事者は24条原案に激しく抵抗し、「日本の国情に合わない」を理由にした。米側の担当者が「通訳のベアテさんもこの案に賛成ですよ」と暗示すると、やっと折れたという。日本で少女時代を過ごした優れた通訳のベアテさんを日本側も尊敬していた。
今日、自民党の改憲支持者は男女をとわず、「先人を忘れるな。伝統を重んじよ」という。それが改憲派の唱える改憲理由だ。
人口の半分の性を蔑視し、女を男の従属物と考えるような社会に、人間の品位も尊厳も幸福も希望もない。私の現憲法にたいする尊敬と愛着の源泉はここにある。この憲法を作った人々にたいする忘恩の徒に私たちはなりたくない。
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