札幌市 小久保 和孝
「完全護憲の会」を知ったのは2015年の秋頃であったろうか。「日本国憲法が求める国の形」のパンフレットを手にした時であった。
読み終わった時、私の中に二つの大きな夢というか希望が沸き起こった。
その一つはパンフレット55頁の「日本国憲法が求める国の形」作成の過程を見たときである。新しい憲法(昭和憲法)が制定された時、当時の文部省は国民学校(小学校)憲法の時間を持つことを奨励し、「新しい憲法のはなし」を出版した。この準教科書は小学生ばかりか広く国民各層に読まれ、新しい憲法発布時の“憲法の掲げる国の形と理念”に対する熱狂的な共感と支持が更に深まり拡がっていった。
「平和主義、平和国家」、「主権在民」、「基本的人権」。この三つの言葉は日常生活の合言葉にさえなっていった。そして未だ消えない血と餓と焼土の残る中で、国民の中に「文化国家建設」への夢と希望が膨らみ拡がっていった。
この後、憲法について多くの学術書、一般図書が出版されたが、国民的話題となる憲法関係のみるべき一般人向けの図書はなかった。
1950年6月、朝鮮戦争が起こった。そして「G・H・Q」のマッカーサーが発した一連の日本政府に対する書簡によって共産党機関紙「赤旗」が発行停止され、報道関係、一般企業さらに官公庁、学校まで共産主義者とその同調者とみられる一万数千人余が「レッド・パージ」として解雇、追放された。憲法の保障した法のもとでの平等・思想・良心の自由は、占領法規の武力を背景とする超憲法的力により「新しい憲法」は事実上停止されてしまった。ここから現在に続く「逆コース」の時代が始まる。そればかりか、七万五千人の「警察予備隊」が創設され、再軍備の種が蒔かれた。
1951年、それ迄国内で「全面講和」か「単独講和」か、で国民を二分した戦後“米よこせ”デモに続く国民的大闘争は、G・H・Qの後押しを得た時の総理大臣吉田茂は、全面講和を支持した南原東京大学総長を「曲学阿世の徒」であるとまで罵倒し、国会の多数派を背景にしてアメリカ中心の「片面講和」に押し切っていく。同年9月サンフランシスコで、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3か国を除くアメリカ主導の連合国48か国と日本とにより講和条約が調印された。同時に連合国側にさえ全く秘密裏に用意された「日米安全保障条約」が、米国代表と別室で日本側は吉田首相ただ一人の調印で締結された。以降、日本には占領期間中の通称「ポツダム勅令」と呼ばれる超憲法法規は講和後表向きには撤廃されたが、その内実は「安保条約」に基づく「日米行政協定」を中心とする条約ならざる国家間約定と各種「特別法」として温存再生され、現在も続いている。そのため、我が国には「憲法体制」と「安保条約体制(行政協定)」との二つの法体系が並列して存在することになった。
以降、益々日本の現実は、あるべき憲法体制から多数派国会議員を持つ権力政党の手による各種法令により次第に乖離していく。
「集団的自衛権」の行使は「違憲」とする歴代法制局の見解を引き継いだ長官は更迭され、国会では「特定秘密保護法」に続き「共謀罪」法案が強行採決されてゆく。
「現行憲法」は占領下で占領軍に強制されたものであると主張する「改憲派諸勢力」は、公然と「憲法改正」を叫び、昭和憲法を卑しめ否定している。
憲法学会では「逆コース」以降の危機的状況に、有志の学者達が憲法についての一般国民向けの各種書籍を出版するようになっていった。その中で憲法の理念と現実との乖離を直視しつつ憲法を解説した長谷川正安著「日本の憲法」は、この種の本としてはかなり多くの人々に読まれ、1953年発刊以降改訂を進めつつ第三版まで刊行が進んだ。この岩波書店新書版は、日本の現実が次第に憲法から離れ、「安保体制」の法体系寄りになりつつあることは解説されていても、「憲法のめざす国の形」を具体的に展望する目的は持っていないかに思える。私はパンフレット「日本国憲法が求める国の形」55頁をみて最初に浮かんだのは、この長谷川正安著「日本の憲法」であった。
「日本国憲法が求める国の形」(追補・シリーズ1)このパンフレットは発刊後、会員と読者との声を反映しつつ、「憲法の求める国の形」を益々具体的に展望し、会の実践活動方針の役割を担ってゆき、版を重ねる毎にロマン豊かな刊行物になってゆくのだろうと思っていた。例えば16頁から20頁にわたるこのパンフレットの(第9条関係)“違憲自衛隊を合憲の国連軍に”の記述は、憲法前文の立場に立つ極めて壮大な展望に満ちた、国際性豊かな実戦活動方針になっている。
ただ、このパンフレットは毎年改定されるのか、2~3年おきになるかは会の発展と力量によるのかなーと想像していた。
これが一つの夢、希望であった。
「完全護憲の会」設立趣意書の最後は「当面の活動」である。そこには“我々の使命と日本国憲法の理念を広く世間に普及する。憲法に違反する政治の実態を究明し、順次発表する”と締め括られている。
二つ目の夢・希望はパンフレット76頁「完全護憲の会」設立趣意書の頁を再度読み進めるなかで、次から次へと色々の事が想起され、今後の会の活動が目に浮かんで来た。
先ず始めの「現状の認識」、「われわれの使命」そして「当面の活動」をみて、この会は新しい憲法(昭和憲法)下の“明確に政治団体”を宣言したものである。しかし「完全護憲の会」は一つの結社である。結社には多様な人々が集まってくるはずである。多様な人々が集まるのは力である。
例えば本会の性格について、政治団体であるとしても実践活動の主要な姿を思い浮かべるその内容はまた多様である。ある人は「出版機関」と捉えるであろう。一方ある人は「学術団体」「研究会」「勉強会」と考えているかも知れない。また政治団体である以上、主要な活動の性格から「啓蒙団体」と捉える人もいるだろう。また社会の屏息状態からの護憲派の「サロン」でありたいと願う人もあろうかと思う。しかし、「完全護憲の会」設立趣意書は、これらいづれか一方にも陥らない事を“自戒”しているかに思えた。
さて憲法と国家についてだが、文章になった憲法法典がなくともブリティッシュ・キングダム(大英帝国)の様に「成文憲法典」が存在するかの如く成り立っている国がある。その一方で近代国家で最も早く憲法典を持ち、結果として奴隷解放の南北戦争(シビル・ウォー)を体験し民主政治の原則とも云える「人民の、人民による、人民のための政治」を、とのリンカーンの演説を生み出した国アメリカもある。
しかし、この国はその地域に三百万乃至六百万人も居住していたとされる先住民族(ネイティブ・アメリカン)を感染症の持ち込みも加わり、二十万余まで剿滅しつつ成立していく「移民国家」であった。そして、その先住民を不毛の「居留地」に押し込め、初期の「条約」を「タテ」に外国人扱いとしている。そればかりか、憲法理念に全く反する「白色人種至上主義者」の南部地域における暴力を許し、内戦の目的となった当のその黒色人種を、国の半分では久しく全く憲法の外にしてしまっていた。
また、ソビエト社会主義共和国連邦は堂々たる成文憲法典を高々と掲げながら、全く異なった国になってしまった例もある。
1919年、第一次世界大戦でドイツ連邦共和国が成立した。そしてワイマールで開かれた国民議会で制定した自由主義的民主主義共和国建設を目標とした憲法を制定、そこには「国民主権」普通選挙の承認に加え、「生存権の保障」三権分立基調など二十世紀「民主主義憲法」の典型とされた憲法であったが、そのめざした国とは違った方向に国を進めてしまい、「ホロコースト」まで起こしたナチス政権を作ってしまった。
第二次世界大戦は、米、英、中、後にソ連も加わった「ポツダム宣言」を我が大日本帝国が受け入れて1945年8月15日に終わった。それは同時に「大日本帝国憲法(明治憲法)」の消滅を意味していた。
そこで改めて「憲法」とは一体何なのかを教科書的、一般的理解を、私自身が確認するためにと、手元の電子辞書を引いてみた。その辞書名は「カシオEX・word」である。
ブリタニカ国際大百科事典「憲法の項目」を以下少し長くなるが、この小論に敢えて次に引用する。
「憲法の話には、およそ法ないし掟の意味と国の根本秩序に関する法規範の意味と二義があり、聖徳太子の「十七条憲法」は前者の例であるが、今日は一般には後者の意味で用いられる。後者の意味での憲法はおよそ国家のある所に存在するが(実質憲法)、近代国家の登場とともにかかる法規範を一つの法典(憲法典)として制定することが一般的となり(形式憲法)、しかも、フランス人権宣言16条にうたわれているように、国民の権利を保障し、権力分立制を定める憲法のみを憲法とする観念が生まれた(近代的意味の憲法)。
(1)17世紀以降この近代的憲法原理の確立過程は政治闘争の歴史であった。憲法の制定、変革という重大な憲法現象が政治そのものである。比較的安定した憲法体制にあっても、社会諸勢力の違いや階級の対立は、重大な憲法解釈の対立とともに政治的、イデオロギー的対立を必然的に伴っている。したがって憲法は政治の基本的ルールを定めるものであるとともに、社会諸勢力の経済的、政治的、イデオロギー的闘争によって維持、発展、変革されてゆくという二重の構造を持っている。(2)憲法の改正が、通常の立法手続きでできるか否かにより、軟性憲法と硬性憲法との区別が生まれるが、今日ではほとんどが硬性憲法である。近代的意味での成文硬性憲法は、国の法規範創設の最終的源である(授権規範性)とともに、法規範創設を内容的に枠づける(制限規範性)という特性を持ち、かつ一国の法規範秩序の中で最高の形式的効力を持つ(最高法規制)。日本国憲法98条第1項は憲法の最高法規制を明記する。-中略-なお、下位規範による憲法規範の簒奪を防止し、憲法の最高法規制を確保することを、憲法の保障という。」と出ている。
以上が引用全文である。少し長くなったが、この後に憲法の変動、成文憲法、不文憲法の解説が続く。
以上の辞書的知識をベースとして現行「日本国憲法」を捉えると、それ自体が社会諸勢力との経済的、政治的、イデオロギー的闘争そのものになる。そこで「完全護憲の会」に集う人々の日本国憲法観を文章で示したのがパンフレット「日本国憲法が求める国の形」「完全護憲の会」設立趣意書の76頁「日本国の憲法の理念」に集約されているとみられる。これは単に日本国憲法の理念を示したのみでなく、「完全護憲の会」の「実践的政治団体」としての「マニフェスト」であり行動指針でもある。私の第二の夢・希望は大きく膨らんだ。
ひょっとするとこの会が未だ日本では例を見ない全く“新しい学習する政党”に発展していくのではないか?との夢・希望であった。
ドイツでは「草の根住民活動」から始まった「環境保護運動」は、政党「緑の党」を出現させた。
第二次世界大戦後、多くの国で国民的争点での闘いは全有権者の1%内外の差が多く、
トランプが選挙人当選者数で勝利となるケースもある。
1960年5月から6月に最高潮に達した「安保改定反対」の国民的大運動は、憲法の規定により改定条約は「自然成立」となる。しかし日本では今後国民の深層意識にかかわる二極大闘争は当面起こりそうもない、否、支配層がそれを避けている。
もし起きるとすれば、それは事あるごとに強化、実体化されつつある「天皇制」をめぐるものであろう。あと一つは「米軍基地撤廃闘争」が、沖縄から本土に移り全国運動になる時である。現在は国民の深層意識の中では国家権力保持派は「勝っている」との思い込みから国民的争点にはしようとはしていない。しかし、現行の天皇制が守れそうもないと判断したとき、国民的争点として打って出てくる危険性が常に存在している。しかし我が国の「代議制民主主義」は議員と有権者意識とは益々乖離を深めていきそうである。無党派層の増大がその傾向を物語っている。そこで多分、我が国では国民の意識しない間に“国の形”がいつの間にか変わってしまっている、そんな時代になっているのではないかと推断出来そうである。否、現代は刻々その進行形の時代だと。
そこで「完全護憲の会」設立趣意書「会員資格」を見ると“会員たることを秘することを求め得る”とあるのは「青年法律家協会(青法協)」の轍を踏まないとの深重さの上に、更に会員が国家権力機関である自衛隊員、治安機関の警察、行政機関の職員まで拡大されることを予想しているかである。この項は会の壮大な展望を秘めている。
次の「完全護憲の会」設立趣意書の「当面の活動」はすばらしい表現であるが、どこかにもう少し具体的指針を示すべきではなかったかと思う。例えば戦争体験の集積と継承(特に学徒出陣者の戦争体験及び空爆戦災被災者記録の発掘と継承)の様に。
次に完全護憲の会「会則」であるが、(目的)の第3条はあまりにも月並みである。ここに仮称“会員実践当面の活動の指針とかの項”を掲げるのも一つの方法かと思う。(会員)に二種類の区分が存在することが第4条に出ているが、この表現ではイメージが湧かず判りづらい様に思う。“賛助会員”の後に( )して会報等読者などとの文言を追加しては如何かと思った。
私は会員が学習活動に閉じ籠ってしまわないためにも、会則等に掲げるのではなく、次の規範と義務を負うべきだと考える。
ところで次の「完全護憲の会」設立趣意書「会計」には入会金は一千円とする、としか記されていない。この後に“費用は会員で適宜、分担する”とあるが、内容がつかめない。会と名のつく会にはすべて月又は年会費が規定され、会費納入が会員規範となっている。しかし我が会則には会費規定がない。これは会費納入以上の「内なる規範」を課しているかに思えてならない。
会の基本的運営資金は「完全護憲の会」設立趣意書「会計」に“会員で適宜分担する”とあるが、その内容は活動の中で得る、つまり会発刊のパンフレット等の普及販売等の活動によって得ることを想定しているからではなかろうか。
「完全護憲の会は個人加盟」の全く新しい「学習する政治団体」である。その実践活動は結果として政治闘争であり、有権者の獲得競争でもある。
(2021.6.2 記)
(素原稿完成 2021.3.15)
(素原稿末尾改訂 2021.3.16)