「選択的夫婦同姓」でしょ?――「強制」から「選択」へ「原則」の転換

(弁護士 後藤富士子)

1 「夫婦同姓」の何が問題か?
 戦前の民法は、家父長的「家」制度を採用していたから、妻は、婚姻によって「夫の家に入る」とされていた。そして、家父長的「家」制度を実務的に支えたのは「戸主」という単位で編纂された戸籍制度である。
 これに対し、日本国憲法に基づき、家父長的「家」制度は廃止された。民法750条は「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」と規定し、「夫の家に入る」のではないし、「夫の氏」を称しなければならないわけでもない。さらに、戸籍制度も改正され、「戸主」は存在しなくなり、それに伴い、「夫婦親子」を超える家族の単位で編纂されることもない。「夫婦同姓」が強制されているが、それは性に中立であり、夫の姓か妻の姓かを決めるのは、法的に平等な男女当事者である。
 このように、法制度としては、家父長的「家」制度を否定断絶していることが明らかである。それにもかかわらず、婚姻届出を「入籍」といい、大多数の夫婦が任意に「夫の氏」を称している。ここにこそ「ジェンダー」問題が在る。すなわち、「社会的・文化的につくられた性差」が、法的には対等な男女の自由意思を介在させて表出するのである。ちなみに、ある世論調査によれば、「選択的夫婦別姓」に賛成するのは多数派になっているが、いざ自分が別姓を選択するかと問えば、「夫の姓を称する」のが圧倒的多数である。
 ところで、民法750条の「夫婦同姓」規定が人権問題とされるのは、その「強制」制にある。そうであれば、ジェンダー問題を克服するためにも、「夫婦同姓」という原則を、「強制」ではなく、「選択」制にすることであろう。すなわち、「夫婦別姓」を原則とし、同姓を望む夫婦に対応する「選択的夫婦同姓」制への転換である。

2 「選択的夫婦別姓」の欺瞞
 長年に亘り、「選択的夫婦別姓」制度が民法改正案として主張されてきた。しかるに、これが実現しないのは何故であろうか? 私は、常にその欺瞞に違和感を抱いてきた。単に別姓を貫きたいなら「事実婚」で容易に実現するのに、「事実婚」の不利益は嫌だという。しかし、「夫婦同姓」は「法律婚」の要件であるから、法律婚優遇主義の恩恵を享受したければ「同姓」を受忍するほかない。むしろ、法律婚優遇主義という「事実婚」差別こそが問題ではないのか。また、「事実婚」では、相続など財産的な優遇が受けられないだけでなく、子どもの親権も単独親権である。別姓を回復するために、嫡出子を出産した後にペーパー離婚したという女性は、離婚後の単独親権制に不利益を認め、法律婚としての「夫婦別姓」を要求する。
 このような議論は、まったく倒錯している。未婚であれ離婚後であれ、共同親権にすればよいのであって、なぜ「単独親権」を強制する民法819条を絶対視するのか。「選択的夫婦別姓」でネックになるのが「子の姓」であるが、これも民法790条の問題であり、親権と同様に「法律婚」の枠組みで強制されている。したがって、「姓」を個人の私事とするには、「法律婚」の枠を取り払う方向へ行かなければ実現するはずがない。「選択的夫婦別姓」論とセットになって「結婚の多様性」が言われるけれど、それは「多様な法律婚」を制度化することではない。そうではなくて、国家による一律の強制をやめて、様々な事象について個人の選択を認めていくことである。そのためには、現行法制度の原則を、「国家」から「個人」を起点としたものへ転換させることが不可欠であろう。すなわち、「夫婦同姓」の原則を、選択制にすることである。

3 「単独親権制」の廃止
 前述したように、家族生活を律する法制度においては、「国家」から「個人」を起点としたものに原則を転換させること、そのうえで、国家による一律の強制をやめて個人の選択を認めていく改正がなされるべきである。これこそが、日本国憲法24条の趣旨である。
 そうしてみると、未婚・離婚による単独親権も、父母の婚姻関係と牽連させないで、「父母の共同親権」を原則としたうえで、父母の選択により単独親権を認めれば足りる。すなわち、「単独親権制」を廃止して、共同親権を原則とし、「選択的単独親権制」へ転換するのである。ちなみに、現行法でも、婚姻中でさえ単独親権も認められるし(民法818条3項但書、837条)、子の福祉の見地から親権喪失・親権停止の制度もあるので、法制度として不都合はないと思われる。

〔2020・3・31〕

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2020年3月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 後藤富士子