違憲の今市事件判決

違憲の今市事件判決

2005年の栃木県今市市(現日光市)小1女児殺人罪に問われた無職勝又拓哉被告(33歳)の裁判で、4月8日、宇都宮地裁は、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。

この裁判では、直接証拠はなく、取り調べの録音・録画が7時間以上にわたって法廷で再生された。松原里美裁判長の認定のほとんどは、別件の商標法違反での逮捕から約5カ月間拘束し、その「代用監獄」でとった自白調書を前提にしている。有罪にした根拠は、法廷で再生した録音・録画での心証だ。裁判官と裁判員が物証がないことを認めた上で、想像、推測で判示したのは憲法38条に違反している。

第38条①何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

②強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。

③何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

弁護人の一木明弁護士らは閉廷後、記者団に対し「自白で判決を書くのは危険だと言われているのに、自白を重視した判決を書かれたことが一番納得できない」と批判した。また、「「録画のないところで圧倒的な権力関係を利用して被告人を自白に追い込んだ。取り調べが全面的に録画されていればこのような判決にはならなかった」と語った。

弁護団(国選)によると、被告は控訴する意向を示している。

この3項目すべてに、この無期懲役判決は驚くほど違反している。

 

2016年5月16日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 福田 玲三

菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書、2016)

安倍政権は、単にイデオロギー的に右であるとか、強権的であるとかいうだけではなく、戦後史において極めて特異な、異形の政権である、ということは、すでに多くの人が気づいているだろう。憲法解釈も衆院解散(選挙)も税金も年金も内閣法制局や日銀やNHK経営委員の人事も、すべて自分の私利私欲のために私物化し、他人の批判には絶対に耳を貸さず、気に食わない意見は封殺し、自分の言いたいことだけを言い、平気でうそをつく。ここまで幼稚で横暴な首相は日本の歴史上前代未聞であろう。

しかし、なぜ、これほど異常な政権が誕生したのか、しかも第1次政権も含めると4年半も続いているのか。これは私にも長い間謎であった。日本社会全体が右傾化したからだ、という人もいるが、本書の著者、菅野完はそれを否定する。そうではなく、一部の人々の長期にわたる粘り強い努力の“成果”なのだ、というのである。「一部の人々」とは誰か? それを多くの人々に対するインタビューと膨大な文献の読み込みによって解き明かしたのが本書である。

本書の元になったのは、扶桑社の「ハーバー・ビジネス・オンライン」で2015年2月から1年にわたって連載された「シリーズ『草の根保守の蠢動』」である。私がこのシリーズに気が付いたのは今年の2月頃だから、連載も最終盤にさしかかる頃であったが、過去記事をすべて読み返し、その取材力・分析力に感嘆した。本書も発売前からアマゾンで予約注文し、発売(5月1日)と同時に入手してすぐに読んだのだが、この間仕事等で忙しく、感想を書くのが遅くなった。

安倍政権の閣僚の多くが日本会議国会議員懇談会のメンバーである、といったニュースは、東京新聞や朝日新聞なども時折取り上げてはいたが、その実態に関する報道は極めて表層的なものにとどまっていた。ところが、日本会議の関連団体ばかりでなく、その源流にまでさかのぼって検証したのが本書の画期的なところである。

日本会議そのものは、日本最大の右翼団体とはいっても、神道系、仏教系、キリスト教系、新派神道系など種々雑多な宗教団体の寄り合い所帯であるが、事務局を取り仕切っているのが日本青年協議会/日本協議会であり、その会長である椛島有三が同時に日本会議の事務総長なのである。

この椛島有三は今から半世紀前の1966年、長崎大学で起こった「学園正常化」運動で、「長崎大学学生協議会」を結成し、左翼学生から自治会を奪い返すことに成功し、一躍、民族派学生のヒーローとなり、この経験を全国の大学に広げるため、1969年、「全国学生自治連絡協議会(全国学協)」を結成した。この頃、大分大学で学生協議会を率いていたのが若き日の衛藤晟一・現首相補佐官である。なお、椛島ら全国学協の中心メンバーは生長の家の学生信徒たちであった。1970年、全国学協のOB組織として日本青年協議会が結成されるが、その後、路線対立から日本青年協議会が全国学協から除名されると、74年、日本青年協議会は自前の学生組織として「反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)」を結成した。「反憲法」とは、現行憲法を呪詛し続けた生長の家の創始者・谷口雅春の愛弟子を自称する彼らが「現憲法を徹底的に否定する」ために掲げたスローガンである。

日本会議の前身のひとつである「日本を守る会」は1974年に結成され、元号法制定運動に取り組んでいたが、事務局を取り仕切っていた村上正邦(後に「参院の法王」と呼ばれる存在となる)が、日本青年協議会の椛島有三に目をつけ、77年、同協議会が日本を守る会の事務局に入ると、椛島の戦略により、元号法制化のための「草の根運動」を展開し、各地の自治体で元号法制化決議を上げさせ、わずか2年間で元号法制化を実現した。

一方、日本会議のもうひとつの前身である「日本を守る国民会議」は、「元号法制化実現国民会議」を衣替えして1981年に誕生している(初代会長・石田和外・元最高裁長官)。

80年代に入り、谷口雅春・生長の家初代総裁が引退し、生長の家が政治活動から撤退すると、生長の家の元幹部の一人だった伊藤哲夫は84年、「日本政策研究センター」を立ち上げている。現在、安倍晋三の筆頭ブレーンとも、「安倍内閣の生みの親」とも言われる伊藤哲夫に安倍を引き合わせたのが衛藤晟一だと言われている。2004年8月15日、「チャンネル桜」の開局記念番組に当時自民党幹事長だった安倍晋三と伊藤哲夫が出演して対談しているが、そのタイトルは「改憲への精神が日本の活力源」というものだった。当時の安倍は、当選回数も少なく大臣経験もない「若造」議員にすぎなかったが、小選挙区制の下で公認権を独占していた小泉純一郎が「総幹分離」(総裁と幹事長を別派閥から選ぶこと)という自民党の長年の慣習を無視して幹事長に大抜擢したのであった。そのため、権力基盤も頭も脆弱な安倍は、「一群の人々」がその周囲に群がり、つけ込むのにうってつけだったのではないかと筆者は分析している。

伊藤率いる日本政策研究センターは昨年(2015年)8月2日、「第4回『明日への選択』首都圏セミナー」と題するセミナーを開催したが、その中で、「憲法改正のポイント」として、「1.緊急事態条項の追加」「2.家族保護条項の追加」「3.自衛隊の国軍化」の3点を挙げているが、これが現在の自民党の改憲戦略と軌を一にしている。なお、このセミナーで、質疑応答になった際、ある質問への回答で、日本政策研究センターは「もちろん、最終的な目標は明治憲法復元にある」と答えている。ここでも安倍政権の最終目標と一致しているように見える。

時間は前後するが、2001年には日本会議のフロント団体として「「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会」(通称・民間憲法臨調)が設立され、「憲法フォーラム」と題するパネルディスカッションを全国各地で展開しているが、現在、その副代表は、西修・駒沢大名誉教授、代表委員は長尾一紘・中大名誉教授、事務局長は百地章・日大教授である。この3人、昨年6月4日、衆院憲法審査会で3人の憲法学者が安保法制を「憲法違反」と明言し、安保法案「廃案」を求める憲法学者が200名を超えたという情勢を受けて、同月10日、衆院特別委員会で辻元清美議員から「合憲だという憲法学者の名前を挙げて下さい」と迫られた菅義偉官房長官が名前を挙げた3名の「学者」である。3名がそろいもそろって日本会議のフロント団体の役員という特殊な集団メンバーなのであるが、こういうところにしか人材供給源がない、というのが安倍政権の実態なのである。百地章にいたっては、1969年、全国学協のフロントサークル「全日本学生文化会議」結成大会実行委員長を務め、2002年には「生長の家原理主義」グループである「谷口雅春先生を学ぶ会」の機関紙「谷口雅春先生を学ぶ」の創刊号編集人を務めるなど、憲法学界では有名ではないが、その筋では“筋金入り”の人物なのであろう。

日本会議は2013年11月13日、全国代表者大会を開き、全国の地方議会で「憲法改正の早期実現を求める意見書」採択を促す運動方針を決定し、次々と成功させている。これはまさに、椛島有三率いる日本青年協議会が元号法制化運動で採用し、成功した方法である。さらに14年10月1日には、憲法改正のための別働団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の設立総会を開いているが、この事務局長も椛島有三である。つまり、椛島有三は日本協議会/日本青年協議会の会長であり、事務総長として日本会議を取り仕切り、事務局長として「美しい日本の憲法をつくる国民の会」も切り盛りしているのである。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は昨年11月、「今こそ憲法改正を!武道館一万人大会」を開催したが、その際、共同代表である櫻井よしこは改憲の具体的項目として「緊急事態条項」と「家族条項」の追加を挙げた。

「国民の会」が集めた改憲署名はすでに700万筆に達したとのことである。

生田暉雄『最高裁に「安保法」違憲判決を出させる方法』(三五館、2016年)

会員のKさんに頂いたので、一気読みしたが、大変面白かった。

本書は、日本の裁判所はなぜ、ほとんど違憲判決を出さないのか、特に行政訴訟や政府・行政が当事者となる訴訟においては、絶望的なまでに違憲判決が出づらく、仮に奇跡的に地裁で違憲判決が出たとしても、最高裁では100%棄却されるのはなぜなのか、その仕組みを、自らの体験に基づき、説得的に描き出している。

著者の生田氏は1970年から92年まで22年間裁判官を務めた後、弁護士に転身した人で、裁判官時代には、本書で痛烈に告発しているような、最高裁を頂点とする裁判所の根深い歪みには気づいておらず、弁護士になって、その歪みに気づいたという。

私はこれまで、渡辺洋三・江藤价泰・小田中聰樹『日本の裁判』(岩波書店)、井上薫『狂った裁判官』(幻冬舎新書)、新藤宗幸『司法官僚』(岩波書店)、秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』(岩波新書)といった本を読んでいたので、最高裁事務総局による人事権を通じた裁判官統制の仕組み(その結果として生まれる、出世のために“上”=最高裁事務総局=の意向ばかり気にする「ヒラメ裁判官」の存在)や判検交流の問題点など、現在の日本の司法を取り巻く問題点については、大まかなことは知っていたつもりだが、合議制の裁判においては、生田氏のように、自分の出世のことなど気にしない例外的な裁判官でさえ、同僚(先輩あるいは後輩)の将来を閉ざしてしまうことを恐れる気持ちから、自分の良心に反する判決を出してしまうという人間臭い話を聞き、なるほどなぁと考えさせられてしまった。

また、著者が手掛けたエクソンモービルを相手取った訴訟では、勝訴を確信した審理の終盤、あと1回で結審というときに、突然裁判官全員を替えられて敗訴した、という話にも、「最高裁はそこまでやるのか」とうならされた。これは、日米関係に重大な影響をもたらすことを恐れた最高裁が、何としても原告を敗訴させなければならないと決心して仕組んだ人事である(と著者は推測するが、もちろんこの推測は正しいだろう)。交替した裁判官には、原告敗訴の判決を出せなどと最高裁事務総局が指示する必要はない。このような不自然な交替があれば、交替した裁判官は、それまでの裁判記録を読んだうえで、当然その背後にある最高裁事務総局の意図を忖度し、おのずと自らに与えられた使命を理解し、その通りの判決を出す、というわけである。

このように最高裁事務総局が裁判官に圧倒的な影響力を及ぼし得るのは、裁判官の報酬と人事について、フリーハンドの裁量権が認められているからなのだ。最高裁に対して従順で協力的な裁判官は順調に出世できるが、違憲判決を出したり、再審決定をしたり、最高裁判例と異なる判決を出すなど、最高裁に「盾突いた」と見なされた裁判官は、報酬ランクにおいて3号(場合によっては4号)以上には上がらず、地方の地裁・簡裁・家裁などを「ドサ回り」させられることになる。最近では、高浜原発3・4号機の再稼働差止判決を出した福井地裁の樋口英明裁判長は、「大方の予想通り」名古屋家裁に左遷された。砂川事件の一審判決で駐留米軍を違憲と断じた東京地裁の伊達秋雄裁判長が、辞表を用意して法廷に上がったのは有名な話だが、2008年、自衛隊のイラク派遣違憲訴訟で、(傍論ながら)違憲判決を出した名古屋高裁の青山邦夫裁判長は、判決公判の直前に依願退職している。さらに、住基ネット訴訟で、原告勝訴の違憲判決を書いた大阪高裁の竹中省吾裁判長は、なんと判決の3日後に自宅で首を吊った状態で発見されたという。遺書はなく、首を吊った状態も不自然だったが、警察は自殺と断定した。この国では裁判官が違憲判決を書くのは命がけなのである。

しかし、著者の生田氏が本書で最も訴えたいことは、このような絶望的な裁判所の実態を知ったうえでなお、主権者である市民が主権を行使する手段として、積極的に裁判を利用すべきだということである。それこそが憲法12条にいう「国民の不断の努力によって」人権を保持するための最も有効な手段であり、そのためには、「あきらめないこと」「真実を知る努力をすること」「行動を起こすこと」が最も重要である、と生田氏は言う。本書のタイトルは、安保法をひっくり返す裏ワザを伝授するといったことではなく(そのようなものがあるはずもない)、一人一人の市民が主権者意識を持ち、おかしいことにはおかしいと声を上げ、自らの権利を守るためには裁判に訴えることを辞さない――そうした意識を持ち続けることが、長い目で見た時、裁判所を真に「憲法と人権の砦」に変えるための近道なのである、と説いているのである。