「法の支配」と「在野精神」――『私が愛する世界』を読んで

(弁護士 後藤富士子)

1 米最高裁判事ソニア・ソトマイヨール
 2009年、オバマ大統領により最高裁判事に任命されたソニア・ソトマイヨールは、初のヒスパニック系で、しかも女性。2018年10月に邦訳刊行された『私が愛する世界』は、彼女が連邦地裁判事に任命されるまでの回顧録である。
 彼女は、1954年、プエルトリコ出身の両親のもとニューヨークに生まれた。幼少時より若年糖尿病を患い、8歳にして毎日自分でインスリン注射を打っていた。アルコール依存症だった父を早くに亡くし、母と弟との暮らしぶりは決して恵まれたものではなかった。自らが十分な教育を受けられなかった母は、2人の子どもの教育には熱心で必要な資金を無理してでも工面した。そのかいあって、ソニアは、76年プリンストン大学を最優等で卒業し、イエール大学法科大学院に進み、79年に卒業するとニューヨークの地区検事局に就職した。その後、民間法律事務所に勤務し、92年から98年までニューヨーク州の連邦地裁、98年から2009年まで控訴裁判所で判事を務め、最高裁判事になった。

2 検事助手ソニア
 彼女が最初に「検事助手」?からキャリアをスタートさせたのは、自らの初心を思い出したからだという。弁護士の仕事に興味をもったのはテレビドラマ『ペリー・メイスン』だったというが、そこで言う「弁護士」は、日本のそれとは意義が異なるように思われる。彼女によれば、法廷は「一つの部屋の中で正義を追求する機会」である。そして、彼女の視線は『ペリー・メイスン』のドラマにおいてさえ「判事」に向けられており、キャリアを積む中で目標が「判事」に発展していくのである。
 新米検事助手として二番目に担当した事案は、法律扶助協会の新米女性弁護士ドーンが担当する、妻に対する暴行事件。問題は量刑であり、判事が「1年の実刑」を示したとき、弁護人が青ざめただけでなく、ソニア検事助手も「何かとんでもないことをしたのではないか」と青ざめた。30歳を過ぎた被告人は、それまで一度も逮捕されたことはなく、実刑になれば失業して妻を含む家族が路頭に迷うのである。ソニアは、彼を刑務所に送ることは家族にとってマイナスであることを認め、もし弁護人が家庭内暴力に対する必要な措置プログラムを講じて、被告人が定期的にそれに参加し、妻がそれで問題ないことが保証されるのであれば、執行猶予で満足すると事前には予定していなかった意見を陳述し、判事も「それならば、そういう措置を探すように」とドーンに命じた。なお、ソニアが証人として召喚した妻は出頭しなかったが、後に、裁判の日に病院で中絶手術を受けたことを知る。
 また別の事件で、ドーンに助けを哀願された。ドーンの依頼人は、ずっと収容施設で過ごしていたが、喧嘩である男を殺して20年刑務所暮らしをした。仮釈放の際に彼が受け取った唯一の支援はバスの回数券。不器用で仕事を見つけることもできず、それが泥棒であることも知らずに、廃屋となったビルから銅管を抜き取って売り糊口をしのいでいた。仮釈放の条件は、たとえ軽いものでも1度の違反で刑務所に送られるというもの。ソニアは、ドーンが求める、試験的に手続を止めるACD(訴状却下の意思留保:一定期間起訴猶予となりその期間が経過すれば訴状は却下される)を認め、彼を就業プログラムに就けた。もし6か月間、問題がなければ告発は却下される。2年後にソニアの前に現れた彼は、仕事を見つけ管理職にまで昇格していた。恋人と結婚し、息子が1人いて、2人目が生まれるという。
 いずれの事件でも、検事としての「職務上の役割」も、当の検事の人間的良心に基づいて処理していいのだ、ということを確信させる。そして、そういう具体的な処理も、担当者個人の資質に還元されるのではなく、「当事者主義」「法曹一元」「ACD」等々すべてが司法制度の基礎の上にあることに思い至るのである。

3 法律家の共通基盤としての司法制度
 ソニアとドーンは、互いに親友になった。ドーンは、生まれながらの公共の弁護士で、下層の人々への支援は、権力に対する不信に根ざしていた。一方、ソニアは、根っからの検事で、規則の権化であった。システムが機能していないとすれば、それと闘うのではなく、修正すべきだと考える。ソニアは、司法のプロセスを信頼し、公正に行われるならば、その結果がどうであれ受け入れることができた。そして、確かに貧しい人々や少数派が犯罪の犠牲になることが多すぎることは知っていたが、この対抗関係のプロセスを階級間の衝突の別名とみることには反対だった。
 また、法曹界の内外に共通してみられる、検事と弁護士はそもそも生来の敵同士だという意見に、ソニアは反論する。両者はより大事な目的を求めて、異なる役割を果たしているにすぎない。それは、「法の支配」の実現であり、役割は相反していても、その存在は法の判断が両者に受け入れられることを前提としている。両者が自分に都合がいいような目的の上位にある、調和のとれたシステムがなければ、最終的に被告も社会も満足しないのだということを確認し、強調しているにすぎない。法律の実務には理想主義の居場所があるのであり、それがこの職業に就く動機となっている。そして、それは疑いなく、私たち法律家の何人かを判事にさせる、とソニアは言う。ちなみに、アメリカでは「ロイヤー」というのは弁護士のことであり、検事は(ソニアはニューヨーク州の)市民の代表である。
 ソニアの述懐は、アメリカの司法制度の枠組を端的に示している。そのシステムを動かしている法律家は、役割が形式的に対立する弁護人と検事という「立場」であっても、「法の支配」の実現を目的とする対等な存在である。そこには、日本の弁護士が金科玉条のように振りかざす「在野精神」は影もない。そして、判事は、理想主義的司法システムにおける「判断者」として、そういう当事者法曹の中から選ばれるのである。この、司法制度における法曹制度こそが「法曹一元」なのである。それは、「在野法曹」である弁護士が裁判官になることではない。むしろ、「在野精神」を払拭しなければ、司法の目的である「法の支配」の実現のために存在することはできないのである。

 〔2020・5・11〕

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