「治安維持法拘禁精神病」―― 伊藤千代子の生涯

(弁護士 後藤富士子)

1 「こころざしつつたふれし少女」
 伊藤千代子(1905~29)は、2歳で母と死別し、翌年には実父が離縁になり、養祖母に育てられたが、14年(小学3年生)に亡母の実家へ引き取られた。諏訪高女へ入学した18年、アララギ歌人土屋文明が着任し、高4のときには土屋文明の自宅でテル子夫人から英語の補習を受け、22年、生徒総代で卒業証書授与された。尋常高等小学校代用教員を経て、24年5月、仙台・尚絅女学校高等科英文予科入学、翌25年、東京女子大英語専攻部2年に編入学した。この年(大正14年)は、治安維持法公布、男子普通選挙法公布、日本労働組合評議会結成、『女工哀史』出版という情勢で、千代子は東京女子大学内の社会科学研究会結成に参加している。翌26年、学外のマルクス主義学習会に参加し、浅野晃と出会い、27年には女子学連結成に参画し、9月に浅野晃と結婚した。28年2月下旬に共産党に入党(中央事務局所属)したが、3・15弾圧で検挙され、特高の拷問を受け、起訴、市ケ谷刑務所に勾留された。29年、千代子に直接指示を出していた事務局長水野成夫や夫が獄中で転向するも、千代子は頑強に闘い、8月1日、拘禁精神病を発症し、同月17日、松澤病院へ収容され、9月24日、急性肺炎により24歳で死亡。
 この前後の情勢として、22年に日本共産党創立、26年労農党結成、27年金融恐慌、山東出兵、28年赤旗(せっき)創刊、治安維持法死刑改悪、3・15弾圧(小林多喜二『1928年3月15日』)、29年山本宣治刺殺、4・16弾圧、33年多喜二築地署で虐殺、34年野呂栄太郎品川署の拷問で病状悪化絶命。そして、35年、土屋文明が東京女子大で「伊藤千代子がこと」を講演。6首詠われたうちの3首は、
  まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに
  こころざしつつたふれし少女よ 新しき光の中におきておもはむ
  髙き世をただめざす少女らここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

2 「治安維持法拘禁精神病」の発見
 35年に松澤病院に勤務した秋元波留夫医師は、拘禁精神病という診断で入院している、治安維持法で投獄された人たちがいるのに驚愕した、という。それらの患者の病状は、激しい興奮や幻覚妄想で、分裂病(統合失調症)の急性期と殆ど区別できないものであった。これは単なる拘禁が原因ではなく、苛酷な取調べと、良心の囚人としての精神的葛藤でおこる心因反応である。その発症のメカニズムは、第一に、治安維持法によって逮捕勾留された人が拘禁中に精神障害におちいるのは、特高警察の残酷な取調べ(拷問、転向の強要など)による身体的、精神的苦痛に加えて、自分の信念と肉親の情愛との葛藤、将来の不安、その他、様々な解決困難、精神的苦悩が限界を越えること。第二に、治安維持法による拘禁精神病が一般の受刑者のそれと異なり病像が重く、多項で、分裂病に酷似するのは、原因となった精神的苦悩、精神的外傷が強烈であり、分裂病症状が強烈な精神的外傷に対する生体反応であること。この意味で、治安維持法による拘禁精神病は「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)というべきものである、という(『実践精神医学講義』第32講「治安維持法と拘禁精神病」2002年刊)。
 なお、千代子の直接の死因である急性肺炎は、当時、硫黄の湯が気分の鎮静に効果があるとして取り入れられていたことによる。千代子が収容されていた狂躁患者病棟では、日中、食事の時間を除く大部分を硫黄の湯に入れられ、夕食がすむと、湯の中から追い上げられ、裸のままで看護婦の持ち出した布団を病室に敷いて、その中にもぐりこむのである。千代子は、裸のまま監禁され、ついに肺炎を起こして死んでしまった(中本たか子『わが生は苦悩に灼かれて』1973年刊)。

3 「国家賠償要求」―「哲学の貧困」
 暴虐を極めた治安維持法に関して、現在も運動している「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」という組織がある。しかし、この「同盟」の目的・目標は、誰が考えても実現不可能である。それは、治安維持法の真の「犠牲」を克服するための要求ではなく、安直に既存の法律枠に流し込むことによって、市民的・政治的自由の確固たる実現を圧殺するからである。
 治安維持法が断罪され、その犠牲者の名誉回復がされなければ、歴史的に清算できない。それをなしうるのは、韓国の「過去事整理法」のような法律を成立させる政権である。ちなみに、文在寅大統領は、3・1独立運動100年の記念式典における演説で、「親日(日本の朝鮮半島統治に積極的に協力した人)は反省すべきで、独立運動は礼遇されなければならないという、最も単純な価値を定めることだ」「親日残滓の清算は、あまりに長く先送りされた宿題だ」と述べている(3月1日朝日夕刊)。
 翻って、日本では、人間を破壊する治安維持法が歴史的に清算されただろうか? 治安維持法など法律は「支配の道具」であったが、日本国憲法の下で、それは変わったのだろうか?
 驚くべきことに、3月2日未明の衆院本会議において、日本維新の会の足立康史議員が共産党と立憲民主党など野党の共闘を批判する文脈の中で「破防法(破壊活動防止法)の監視対象と連携する政党がまっとうな政党を標榜するのはおかしいと考えているし、そう思う国民は少なくない」と発言した。ちなみに、2016年3月22日、国会議員の質問主意書に対し、共産党を「現在においても、破防法に基づく調査対象団体である」と指摘する答弁書を閣議決定している(3月3日朝日日刊)。共産党は政党交付金を受領拒否しているが、同法では正当な受領資格を認められているにもかかわらず、破防法調査対象団体とはどういうことか。憲法が保障する政治結社の自由は侵害され、法律の解釈適用者の責任も曖昧である。「破防法に基づく調査対象団体である」としている責任(誰なのか)の究明と足立議員に謝罪させることができないのでは、現在が治安維持法と地続きにあるというほかない。

※本文は、藤田廣登『時代の証言者 伊藤千代子』(2017年改訂新版)を引用しています。

(2019.3.5)

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