コロナの夏に憲法を考える―「主権」と「自治」

(弁護士後藤富士子)

1 「主権」というとき、その主体が誰かによって「国家主権」と「国民(人民)主権」に区分される。
 日本は、第二次世界大戦で負けるまで、他国を武力侵略して植民地化した経験はあっても、他国によって自国が植民地化されることはなかった。敗戦によっても他国の植民地になることはなかったが、沖縄問題や日米安保体制・地位協定にはっきり刻印されているように、「独立国家」は見せかけにすぎない。
 一方、「国民主権」についていえば、戦前は絶対主義的天皇制であり、「主権在民」を叫べば「国体の変革を企てる」という理由で、治安維持法により殺人的な弾圧を受けた。「主権在民」は日本国憲法によって初めてもたらされたのである。
 しかし、日本国憲法には、条文として「国民主権」を定めたものが見当たらない。前文第1段落第1文に「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と謳われている。そして、第1章は「天皇」であり、第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定められている。
 ちなみに、韓国の憲法第1条は、「大韓民国は民主共和国である」「主権は国民にあり、すべての権力は、国民から発する」と規定している(孫引きです)。
 アメリカ独立宣言は1776年、フランス革命は1789年である。それに比べると、日本国民が主権者になったのはたかだか74年の歴史である。しかも、日本国憲法がGHQに与えられた「棚からぼた餅」だったとすれば、主権者意識の脆弱性は無理もない。日本の「独立」が見せかけにすぎないのも、そのためである。すなわち、「国家」というのは存在するにしても、「国家主権」の在り様は、結局のところ、主権者である国民一人一人にかかっているというほかない。

2 「自治」という言葉も、日本国憲法第8章「地方自治」に初めて登場する。戦前は中央集権的官僚国家であったから、内務省の官僚が知事に任命されて、中央政府の統制を貫徹させていたのである。
 ところで、ここでも「自治」というとき、その主体が誰かによって「団体自治」と「住民自治」に区分される。そして、「国家主権」と「国民(人民)主権」の関係と同じように、「団体自治」の在り様は、結局のところ、「住民による自治」にかかっている。「地方自治」が「民主主義の学校」と喩えられるのもそのためである。しかし、GHQの民主化政策によって「棚からぼた餅」のように降ってわいた「地方自治」から、日本国民は、どれだけ「民主主義」を学んだのか、心もとない。

3 香港の「1国2制度」が揺れている。香港は、1997年に中国に返還されて特別行政区となり、香港基本法で「高度の自治」が規定されている。立法会(香港の議会)選挙は1998年に初めて実施され、今年9月に7回目の選挙が予定されていた。
 昨年11月の区議選で民主派は85%以上の議席を得て圧勝し、今回の立法会選挙でも「政府の妨害がなければ、民主派は過半数を取る可能性が高い」と期待されていた。さらに、今年7月11日、12日に実施された民主派の「予備選」(共倒れ防止のために候補者を絞る)では、目標とした17万人を大幅に超過した61万人が投票した。それは、ごり押しされた国家安全維持法(国安法)への市民の抗議の意思であった。一方、国安法6条は「踏み絵」条項で、選挙の候補者は署名か宣誓によって「香港基本法を擁護し、香港特別行政区に忠誠を尽くす」と示す必要があり、ここで立候補が閉ざされる可能性もあった。
 ところで、香港政府が提出する予算案や重要法案は3分の2で可決されるので、民主派が3分の1を超える多数になれば否決できる。そして、香港基本法52条では、否決後に行政長官が立法会を解散し、再選出された立法会が再度否決すれば、行政長官は辞任することになっている。そうなれば、民主派が史上初めて合法的に政権を倒すことができる。このような状況の中で、政府は、民主派の伸長を恐れて、新型コロナウイルス感染拡大防止を口実に、立法会選挙を1年延期する暴挙に出た。
 香港の事態は困難を極めているが、「自治」と「自由」について改めて考えさせられる。それは、表裏一体のものである。自由は自治なくして得られない。しかし、人々の自由がなければ、自治も成り立たないのである。

4 「民主主義」は制度である。しかし、それを支えるのは「生きている人々」である。
 自民党は「民主的に」行われた国政選挙で繰り返し多数派を占め続け、安倍晋三首相自身も3度にわたって自民党総裁選で「民主的に」選出されて総理大臣の職にある。政権が国会に提出したさまざまな法案は、共謀罪も、特定秘密保護法も、安全保障関連法案も、すべて「民主的に」国会で採択された。かように、制度としての民主主義は今日も元気に生きている。
 しかし、「民主主義の心」が死に始めた、と内田樹さんは言う。「民主主義の心」とは、国民の側の「民主主義を生き続けさせるための努力」であり、制度は生きているが、その制度を賦活させ、生かすための力は枯渇している、というのだ。ここでも、最後は「人」の問題が出てくる。換言すれば、民主主義政体は、自分の頭でものを考えることのできる成熟した市民を一定数確保できなければ、独裁制に退行するのである。
 日本国憲法に定められた、人権保障を含む「制度」は素晴らしい。しかし、主権者である国民が、これに倚りかかり消費者として振舞う限り、日本国憲法も死んでいくのではなかろうか。

【参考資料】
 第3項  しんぶん赤旗日曜版 2020年8月2日号
 第4項  週刊金曜日8/7・14合併号
      内田樹「凱風快晴ときどき曇り」『枯渇する民主主義の心』

(以上)

2020年8月19日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 後藤富士子