行政府の越権

「国会解散は首相の専権事項」の空語が常識化されて久しく、それによって、この夏の衆参同日選挙との噂が飛び交わない日はなく、これでは「国会は、国権の最高の機関」(憲法第41条)との条規は空文に等しい。一行政府の長の胸先三寸によって国会が揺すられ、脅かされるようなことは、まともには考えられなく、このままでは、第二次大戦の悲惨な経験から生まれた条文「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」(憲法前文)との強い警戒感は、藻屑になろう。

憲法の解釈について様々な学説はあるにせよ、「国会は、国権の最高の機関」の大綱を忘れて何の意味があろう。さらに「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令(判例)……は、その効力を有しない。」(第98条)と定められているのに。

行政府の越権をいつまで黙視するのか。「専権」に対しては誰も卑屈で、無気力で、冷淡で、従順であってはならない。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(第12条)と、明示されているのだから。憲法からの逸脱を重ねる安倍首相の専横を前に、国会議員、マスコミ当事者の自覚と奮起を促したい。

憲法13条~~憲法基礎講座②~~

103条から成る憲法の条文の中で、あなたが最も重要だと考える条文は第何条でしょうか。もちろんこれに対する答えは人それぞれだろうし、憲法学者でも人によって答えは違うだろう。例えば、愛敬浩二氏は、公務員の憲法尊重擁護義務を定めた第99条を最も好きな条文として挙げている(『改憲問題』ちくま新書)。しかし、おそらく第13条を挙げる憲法学者が最も多いのではないだろうか。私の敬愛する憲法学者・樋口陽一氏はその代表と言っていいだろう。

第13条とは次のような条文である。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

樋口氏は次のように述べている。

<戦後、日本国憲法を手にした日本社会にとって、日本国憲法の何がいちばん肝心なのか。それをあえて条文の形で言うと、憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という、この短い一句に尽きています(『個人と国家――今なぜ立憲主義か』集英社新書)。>

しかし、なぜこの短い一文がそれほど重要な意味を持っているのかを理解するためには、最低限の憲法史・政治思想史の知識が必要であろう。近代国民国家を生み出した市民革命は、それ以前の身分制秩序を打ち壊すことで「個人」を析出し、この解放された自由かつ平等な個人が、一方では人権の享有主体になるとともに、他方では、その人権を保障するため、憲法を制定して国家を樹立し、その憲法によって国家権力を縛ることにしたのである。したがって、個人の権利=人権と国民国家と(憲法によって国家権力を縛るという)近代立憲主義は同時に成立した三位一体なのである(ただし、権力を制約するというより広い意味の立憲主義は中世以前にも存在した)。そのことを、樋口氏は次のように述べている。

<これは権力が勝手なことをしてはいけないという、中世以来の広い意味での立憲主義が、近代になって凝縮した到達点です。個人の生き方、可能性を自由に発揮できるような社会の基本構造、これを土台としてつくってくれるはずのものが、憲法の持つべき意味だということです(前掲書)。>

そして、このような「個人の尊重」、すなわち個人主義に立脚する第13条の意味について、憲法学者の佐藤幸治氏は次のように論じている。

<本条前段の「すべて国民は、個人として尊重される」とは、通常、「いわゆる個人主義原理・個人主義的国家原理の宣言である」(佐藤・註釈101頁)とか、「個人主義の原理を表明したもの」で、憲法24条2項の「個人の尊厳」と同じ意味に解していい(宮沢・コメ197頁)とか、「個人人格の尊厳を法価値の中心に据えている」もので、「個人主義の哲学」に立脚するものである(小林・(上)312頁)とか、いわれる。

それでは、そこにいう「個人主義」とは、いかなる意味のものとして捉えられているのか。代表的理解によれば、それは、「人間社会における価値の根元が個人にあるとし、なににもまさって個人を尊重しようとする原理」であり、「一方において、他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義に反対し、他方において、『全体』のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義を否定し、すべての人間を自主的な人格として平等に尊重しようとする」(宮沢・コメ197頁)ものであるとされる(樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注釈 日本国憲法 上巻』青林書院新社)。>

さて、このような憲法の核心的重要性を持つ第13条の持つ意義について、安倍首相は例によって、何もご存じないらしい。3月2日の参院予算委で、民主党の大塚耕平氏が自民党の改憲草案を取り上げ、現行憲法が「すべて国民は、個人として尊重される」としている第13条を、自民党改憲草案では「全て国民は、人として尊重される」と、「個人」を「人」に書き換えているのはどういう意味かと質問したのに対し、首相は、「さしたる意味はないという風に承知している」と答えたのである。

とんでもない発言である。個人を究極の価値の担い手とすることは、上で述べたように、立憲主義の核心的原理である。その立憲主義の核心を放棄しようとするのが自民党の改憲草案なのである。しかも自民党改憲草案は24条に、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という全く新たな条文を挿入しており、あたかも「家族」が「個人」以上に尊重されるべきであり、国家による社会保障の責務よりも家族による相互扶助義務が優先されるかのような規定になっている。これは戦前の家父長制度復活への布石と見なせよう。

私はこのニュースを4日付の朝日新聞の「天声人語」で知ったのだが、東京新聞の国会論戦抄録にはこの発言は掲載されていない。ネットで検索しても、この天声人語かそれを引用した記事くらいしか見当たらないので、マスコミ各社の政治部記者たちは、このニュースの重大性に気付かなかったのかもしれないが、そうだとすると、実に嘆かわしいことである。

しかし、人権を保障する現憲法を守り抜くためには、こうした改憲策動の狙いと本質を見極め、戦前社会の復活を企てる政府・自民党の企みを決して許してはならない。

 

「表現の自由の優越的地位」とは何か~~憲法基礎講座①~~

<前置き>

安倍首相は2月15日、衆院予算委員会で、「表現の自由の優越的地位」の根拠を山尾志桜里議員(民主)から質問されて、全く答えられず、逆切れした挙句、憲法に対する無知を改めて暴露してしまいました。本来、憲法に基づいて政治を行わなければならない首相が、憲法改定を先頭に立って扇動していること自体、許されない憲法違反行為ですが(緊急警告009号参照)、そのような言動も憲法に対する無知に基づくものでしょう。有名なフランス人権宣言(1789年)はその前文で、「人権に対する無知・忘却または軽視が、万人の不幸と政府の腐敗の唯一の原因である」と宣言していますが、まさしく憲法と人権に対する無知・忘却・軽視が現政権の腐敗と国民の不幸を招いています。

そうであれば、私たち国民一人ひとりがもっと憲法をよく学び、安倍政権の憲法無視の政治を糾していかなければならないでしょう。そこで、随時このブログで「憲法基礎講座」と題して、憲法に関する基礎知識をまとめてみます。

第1回は、上記の「表現の自由の優越的地位」についてです。最低限の知識を得るためには■まで、もう少し詳しい知識を得るためには■■まで、さらに詳しい知識を得たい人は最後までお読み下さい。

 

<本文>

自由権は一般に精神的自由、経済的自由、人身の自由に分けられるが、このうち、精神的自由と経済的自由については、「表現の自由を典型とする精神的自由は経済的自由にくらべて優越的地位を占め、それを制限する立法の合憲性審査には、経済的自由の制約立法に一般に妥当する合理性の基準よりも厳格な審査基準が用いられるべきである」(長谷部2004:123-124頁)という二重の基準論が学説において広い支持を得ていると言われている。しかし一体なぜ、精神的自由は経済的自由よりも「優越的地位」を占めると言われるのであろうか。これには大別して、手続的・機能的理論と実体的価値論、および両者の併用論が考えられる。手続的・機能的理論とは、経済的自由の規制立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を是正することが可能であり適当でもあるから、裁判所は立法府の裁量を広く認めることが望ましいのに対して、精神的自由の制限または政治的に脆弱なマイノリティの権利侵害をもたらすような立法の場合は、それによって民主政過程そのものが傷つけられることになるから、政治過程による適切な是正を期待しがたく、それゆえ裁判所は厳格な基準に基づいて司法審査をすべきである、と説くものである(芦部1995:218)(1)。一方、実体的価値論とは、精神的自由は個人の人格的発展や自己実現にとって特別に重要な価値を持つものであり、精神的自由を保障することで得られる「思想の自由市場」は人々が(暫定的)真理や(暫定的)合意に接近するうえで不可欠なものであるので、特に優越的に保障さるべき地位を持つ、と主張する(奥平1993:160-163)。■

アメリカの判例から発展したこの理論は、日本においては、人権と「公共の福祉」をめぐる議論の中で、日本国憲法が個別の人権規定の中では、経済的自由を定めた22条と29条の中にのみ「公共の福祉」による制約を認めていることから、「公共の福祉」には、自由権の公平な保障のための最小限度の制約を根拠づける「自由国家的公共の福祉」と、社会権を保障するために必要な限度で経済的自由の制約を根拠づける「社会国家的公共の福祉」とが存在する、という、宮沢俊義によって展開された内在的制約説とも結びつきながら、広く受け入れられることになった(宮沢1971:218-239:芦部1995 :195-199;佐藤1997:403-405)(2)。日本の判例においては、二重の基準の基本理念自体はしばしば言及されているが、実際の適用場面においては、精神的自由を経済的自由よりも厳格な審査によって手厚く保護するという、この理論が本来的な意義を有する場面において適用されたケースは一度もなく、経済的自由に対する制約を広く認めるという文脈においてしばしば適用されてきた。■■

例えば、1972年の小売市場判決(最大判昭47.11.22刑集26巻9号586頁)において最高裁は、「憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なって、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定、かつ、許容するところ」であると述べて、二重の基準論に類似の考え方を示すとともに、「社会経済の分野においては、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、……どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない」ため、「裁判所は、立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲として、その効力を否定することができるものと解するのが相当である」(明白性の原則)として、通常、違憲判決の考えられないほど広範な立法裁量論を採用した。最高裁はさらに、1975年の薬事法距離制限違憲判決(最大判昭50.4.30民集29巻4号572頁)において、営業の自由に対する規制を、「社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のため」の規制と、「社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合」に分け、前者の積極目的規制の場合には司法審査においては緩やかな基準である合理性の基準が適用されるが、後者の消極目的規制の場合には中間審査の基準である厳格な合理性の基準が適用されるという二段階の審査基準を採用すべきことを明らかにし、薬事法の定める距離制限は国民の健康と安全を守ると言う消極目的規制であるから、その合憲性の審査は、「よりゆるやかな制限……によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要する」と述べて、狭い立法裁量論を採用し、不良医薬品の供給防止という立法目的を支えるだけの事実(立法事実)があるかどうかを調べた結果、右「目的のために必要かつ合理的な規制を定めたものということができないから、(薬事法の距離制限規定は)憲法22条1項に違反し、無効である」と判示した。この薬事法判決から小売市場判決を振り返れば、小売市場の許可規制は積極目的規制であるから明白性の原則と合理性の基準という緩やかな基準で合憲判決になったと考えられる。ところが最高裁はその後、共有森林につき持分価額2分の1以下の共有者に分割請求権(民法256条1項)を否定している森林法186条の憲法29条2項との適合性が争われた1987年の森林法共有林分割制限規定違憲判決(最大判昭62.4.22民集41巻3号408頁)においては、森林の細分化を防止して森林経営の安定化を図るという立法目的との関係で、規制の必要性と合理性が認められないから違憲、と判断した。しかし、森林経営の安定化を図るという目的による規制は積極目的規制であるから、薬事法判決で示された二段階審査基準によれば、立法府の裁量が広く認められ、合憲とされたはずであるが、最高裁は財産権の制約立法については積極目的規制と消極目的規制という二分論を採用せず、厳格な合理性の基準で審査した(樋口1992:238)。しかし、森林経営の安定化を図るという規制目的が積極目的であるとするならば、この判決の結論か、あるいはそもそも二段階審査基準のいずれか(もしくは双方)が誤っているということになる。また、公衆浴場法による距離制限(適正配置規制)に関する初期の判例では、最高裁は、その目的を浴場の乱立によって生じ得る浴場の衛生設備の低下など国民健康・衛生上の弊害防止(すなわち消極目的)と捉えながら、合憲とした(最大判1955.1.26刑集9巻1号89頁)。これは薬事法判決以前の判例であったが、二段階審査制の論理を当てはめれば、違憲となるはずのものであった。ところが、薬事法判決以後に現れた同種の事件において、最高裁は、公衆浴場法の規制目的を、今度は浴場業社の転廃業の防止と安定経営の確保という積極目的と捉え、合憲判決を下した(最判1989.3.7判タ694号84頁)。このことは、規制の目的を積極目的と消極目的とに二分する根拠の困難さや曖昧さ、ないしは恣意性を示していよう。

要するに、日本の最高裁は、精神的自由の規制立法の合憲性審査においてはリップサービスはともかく、実際には二重の基準論を採用しておらず、経済的自由の規制立法においてはしばしば二重の基準論に言及するだけでなく、積極目的規制と消極目的規制という立法目的によって審査基準を分けるという独自の二段階審査基準を採用したが、この基準も一貫して適用されているとは言い難い。このような判例の動向に対して、二重の基準論を支持する学説から厳しい批判が出されることは当然予想されるところである(芦部1990:110-122;芦部1995:243-245)。

 

【注】

(1) 表現の自由は他の自由よりも価値が高いからではなく、「他の自由よりもとりわけ不当な制限を受けやすい自由であり、だから、それに対する制限の合憲性は厳格に判断されなければならない」と主張する学説(浦部2008:148)も、この手続的・機能的理論に属すると言えよう。

(2) ただし今日では、宮沢の言う「社会国家的公共の福祉」は内在的制約というより政策的制約と捉えるべきだとの学説も根強い(例えば、芦部1995 :197;佐藤1997:404-405)。

 

【引用・参考文献】

・芦部信喜(1990)『憲法判例を読む』岩波書店

・芦部信喜(1995)『憲法学Ⅱ人権総論』有斐閣

・奥平康弘(1993)『憲法Ⅲ』有斐閣

・佐藤幸治(1997)『憲法〔第三版〕』青林書院

・長谷部恭男(2004)『憲法 第3版』新世社

・樋口陽一(1992)『憲法』創文社

・宮沢俊義(1971)『憲法Ⅱ(新版)』有斐閣