自民党改憲草案がめざすもの

戦前「日本を取り戻す!」
国民主権から国家主権へ

草野好文

主語の逆転が示す主権の逆転

安倍自民党政権はこの国を一体どんな国にしたいのであろうか。どんな国民をつくりたいのであろうか。
自民党の「日本国憲法改正草案」は明確にこの国と国民のありようを定めている。一言でいうなら、国民主権から国家主権の国にすることであり、国民はこの国家につき従うべきというものである。
「草案」の前文の出だしはこうである。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」
これに対して、現日本国憲法前文の出だしは、次の文章である。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
見てのとおり、「草案」の主語は「日本国」であり、現憲法の主語は「国民」である。
「草案」が「国民主権」、「三権分立」の文言を残していたとしても、それはもはや本来の意味での国民主権ではなく、国家に従属した「国民主権」でしかない。そのことは「草案」全体が示しているが、とりわけ明瞭に示すのが現憲法第12条に付け加えられた、「国民の責務」の新設である。
「草案」の第12条は、「この憲法が保障する自由及び権利は……国民は、これを乱用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(傍点引用者)と言う。
さらに「草案」第13条は、「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」(傍点引用者)と述べる。(現行憲法第13条が、「全て国民は、個人として尊重される」とし、「人」一般ではなく、「個人」としていることの重要性は留意しなければならない。)
ここに言う「公益及び公の秩序」とは、現憲法13条の「公共の福祉」を置き換えたものであるが、同じ公の字を使ってはいるが、全く意味の異なるものである。「公共の福祉」とは各人の自由や権利が、他の多くの人々の自由や権利と衝突した場合にこれを調整し、より多くの人々の自由や権利を優先しつつ共存を図っていこうとするものであるのに対して、「草案」の「公益及び公の秩序」は「国益及び国家の秩序」を意味しているからである。
「公益及び公の秩序」の内実を決めるのは誰か、それは国家権力でありその一部である時の行政権力にあることは自明であろう。
こうして国民は、国家の許容する範囲で基本的人権が保障される、言い換えれば基本的人権が制約された「主権者」に降格させられるのである。国家権力によって基本的人権を制約された国民はもはや主権者とは言えないのであり、「国民主権」は名ばかりとなり「国家主権」に取って代わられるのである。
その意味で自民党改憲「草案」は近代民主主義と立憲主義とは相いれない敵対物なのであり、憲法の構造としては、天皇に主権(即ち国家に主権)のあった明治帝国憲法と同質のものと言える。「草案」第1条が天皇を日本国の「元首」と規定していることも見事に一致している。
まさに戦前「日本を取り戻す」、ということである。

際立つ基本的人権制約
自民党改憲「草案」の際立つ特色は、現憲法が国民に保障している基本的人権を敵視しこれに制限を課していることである。
それは前述した「草案」第12条、13条に明確に示されているが、第21条「表現の自由」においても、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は保障する。」としながら、その2項において「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない。」(傍点引用者)とする、1項の規定を完全に否定する恐るべきものである。
さらに、「勤労者の団結権等」の第28条において、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、保障する。」として、現行憲法第27条を踏襲していながら、その2項において「公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に規定する権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない。」として、現行憲法のもとでは憲法違反となる国家公務員法、地方公務員法及び人事院規則におけるスト権はく奪や政治活動の禁止規定を憲法において正当化するものである。
そして極めつけは、現行憲法が第10章「最高法規」として定めた第97条、98条、99条中、「草案」は第97条をまるごと削除しているのである。削除された第97条の文章を以下に示す。
「この憲法が国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
現憲法があえて「最高法規」規定の中にこの97条の文章をおいたのは、いかに基本的人権が侵すことのできない一番大切な権利であるかということを強調し、現憲法がこれをまるごと体現したものであることを宣言したものと言える。
基本的人権を国家権力の制約下に置こうとする自民党改憲「草案」は、敵意を込めてこれを全文削除したのである。
さらに、現憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」に対応した「草案」第102条は「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」とし、その2項において「国会議員、国務大臣、裁判官、その他の公務員はこの憲法を擁護する義務を負う。」とする。
ここには驚くべき逆転がある。現憲法99条がこの憲法の尊重擁護義務を課しているのは、すべて国家権力側に立つ者に対してのみなのに対して、「草案」102条は「天皇」を除外した上で、国民に対してこの憲法を尊重する義務を課しているのである。
憲法は「国家権力をしばるもの」とする立憲主義とは反対に、「草案」は憲法が「国民をしばる」ものとしているのである。まさに立憲主義とは正反対の「国家主義憲法」そのものである。国民主権と基本的人権不可侵を定めた現行「民主主義憲法」は、この「国家主義憲法」に取って代えられようとしているのである。
そしてさらなる極めつけは、「草案」に新たに設けられた第9章「緊急事態」条項である。

「緊急事態条項」の恐るべき危険性
「大規模な自然災害」に対処することを名目として、内閣に絶大な権限を与えるこの「緊急事態」条項の恐るべき危険性については、当会のリーフレット第1集「安倍政権下の違憲に対する緊急警告」において、「『ナチスの手口』、緊急事態条項の危険性」において詳しく解説している。
「大規模な自然災害」などへの緊急対応は現行法で十分対応可能であることは、東日本大震災の被害にあった地方自治体関係者や防災専門家が明確に指摘していることである。「大規模な自然災害」は国民を欺く口実である。
「草案」第98条が「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。」としていることからも、「大規模な自然災害」が口実として使われていることは明らかでする。
そして「草案」第99条は、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」とし、3項において「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示にしたがわなければならない。この場合においても、第14条、第18条、第19条、第21条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。」としている。
唯一の立法機関にして国権の最高機関である国会の議決を経ずして「法律と同等の効力を有する政令」を内閣の判断一つで制定できるとなれば、後段の「基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。」が単なる付け足しでしかないのは自明である。
まさにこの「緊急事態条項」はナチスが全権を掌握した「国家授権法」(「全権委任法」)そのものであり、民主主義と基本的人権を圧殺する独裁政治を招くものと言わなければならない。

再び戦争をする国へ、9条改憲

現日本国憲法の3大原理である「国民主権」「基本的人権不可侵」「平和主義」のいずれもが、自民党改憲草案において否定されている。とりわけ、「平和主義」の放棄と言えるのが現行憲法第9条「戦争放棄」の改変である。
「草案」ではまず、現行憲法第二章「戦争放棄」が「安全保障」の文言に変えられている。そして現行憲法第9条2項「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」をまるごと削除し、「草案」第9条2項は「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」としている。
過去の戦争が多くの場合、「自衛」と「平和」の名のもとに行われてきたこと、そして先の日本帝国が行った戦争も「自衛」の名のもとに行われた教訓を踏まえれば、「自衛権」や「自衛権の発動」については「戦争への道」へとつながっていると言わなければならない。増して「草案」は、現憲法前文にあった「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」するという文言を消し去った上、前述した9条2項をまるごと削除した上で「自衛権の発動を妨げるものではない」と言うのである。
「草案」が九条の二において「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」として、「国防軍」規定をしていることは、「自衛」を名目としていながら「自衛隊」とは異なる「軍隊」を設けるということであり、再び「政府の行為」によって「戦争の惨禍」がもたらされる可能性が強まるということである。
すでに先の安保関連法制の強行可決により、自衛権の発動としての「専守防衛」は破られ、「自衛」や「国際貢献」を名目として海外への自衛隊派遣が先行している状況にある中、「草案」の第九条の二の3項は「国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」としている。
これは「国防軍」が世界のどこにでも出てゆくという宣言であり、もはや「自衛」を名目とした「専守防衛」を投げ捨てる、ということである。
第1次安倍政権、第2次安倍政権が推し進めてきた自由と人権抑圧、戦争準備の悪法の代表例を列挙して見る。
教育基本法改悪(2006年)、盗聴法改悪(2016年)、特定秘密保護法制定(2013年)、安保関連法制定(2015年)である。そして今、戦前の治安維持法の再来とも言われる「共謀罪」制定へと突き進んでいる。国民を「見ざる、聞かざる、言わざる」という状況に追い込んでいる。
この一連の流れはすべて新たな戦争遂行の準備作業と言えるであろう。
過去の歴史の教訓を踏まえれば、いま、私たちのこの国は再び戦争をする国へと少しずつ接近していると言わなければならない。
誰も戦争なんか望まないし、まして日本国民はそんなことを望んでいないのだから戦争なんて起こりっこない、と楽観している人も多いであろう。
しかしながら、この人間の世界では、自己の既得権益を守るために適度な戦争(一旦戦争が起こったら適度で済んだためしはないが)を必要とし、望む者が現にいるのである。そしてこの者どもは、始末の悪いことに国家権力の中枢を握り動かすことができるのである。一般国民の意思など問題外なのである。
わかりやすい例が原発問題である。国民の過半数が脱原発を望み、原発の再稼働に反対しているにもかかわらず、何故に安倍政権は原発を推進し外国にまで売り込むのか。「美しい国」日本を掲げる安倍政権の所業としては理解に苦しむが、これが現実である。
自由も人権も抑圧され、戦争の惨禍に苦しめられ、女性の参政権すらなかった明治帝国憲法下のような暮らしに陥らないよう、私たち一人ひとりが自覚すべき時である。
自民党と右翼保守派改憲勢力は、来年2018年を明治150年として祝賀行事を行うとのことである。

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2017年2月18日 | カテゴリー : ①憲法 | 投稿者 : 草野