私と憲法 追稿

製錬所のある島
福田玲三

晴着の人を満載しただるま船は対岸の岡山県玉島に向かった。冬の陽はきらめき、海は手の切れるほど澄んでいた。

社宅の奥さんたちは、上方歌舞伎の玉島にくる今日を楽しみにしていた。テレビもラジオもない時代だ。製錬所の高い煙突から出る煙は、島の土をむき出しにし、工員たちは濡れ手拭いを鼻にあて、溶鉱炉の回りを走り回っていた。奥さんたちの出かけたあとの静かな社宅で、母はつくろいものをしていた。母は一度も芝居見物に行ったことがなかった。紅も白粉もつけず、油の代わりに水で髪を整えていた。
翌朝、夜の明けぬうちに、泣き止まぬ長女の鈴江をねんねこに背負い、母は暗い浜辺に出た。若死にした母の兄(私の伯父)の子供が、京都に出て苦労しているという。自分が家出して大阪で仕事を探しているとき、月々心遣いを送って励ましてくれた兄、そしていまは親のない子。
「親代わりに、できるだけのことをしてやろう。それが兄への恩返しだ」身を切る潮風にびんのほつれをなぶらせながら、その思いが身体を暖めるのだった。背中の子をあやしながら、海につき出た棧橋を踏んで行った。橋げたの間を流れる潮の音が、暗い海面から聞こえてくる。ひき返そうとしたとき、下駄が滑って片膝ついた母の背中のねんねこから、すっぽりと子が抜けて厳寒の空に飛んだ。間一髪、娘の着物のはしをつかんで引きよせ、しっかり抱いて、濡れた棧橋に膝をついたまま、母の動悸はしばらく収まらなかった。
海は、黒い無気味なうねりをくり返し、時に上がる飛沫は刺すようだった。わずかな風のためか、夜明けの青い星がまたたいていた。そして夜が白々と明けたころ、母はあやまちのなかった喜びに、大きな痣(あざ)のできた膝の痛みも忘れ、人の動きはじめた社宅にそっと帰ってきた。

数日後、何におびえたのか鰯の大軍が、浜辺におしよせ、世界大戦後の不況を予告するかのように、海は暗く染まった。母は社宅の奥さんたちと、砂浜で飛び跳ねる鰯を、バケツ一杯とってきた。これで何日か副食代が浮くはずだ。
その夜、親子三人の食事を取りながら、母は、きりつめておくった郵便小為替はもう着いているだろうかと、京都の暗い下宿の電燈の下で、淋しい食事をしている甥の姿を思い、ふと涙ぐんだ。「温かいうどんでも食べておくれ。郷里から都会に出ていったどれだけ多くの若者が結核に倒れて田舎に帰ってきたことだろう。お前も、しっかり気をつけておくれ」母は給仕に横を向いたときに涙をぬぐい、日曜日に、スケッチブックと4B鉛筆をもって写生に出かけることを楽しみにしている、この夫の給金を――スケッチブックには、島影に憩う舟や、空に舞う鳶、赤子を背負った子守りなど、森羅万象が画かれていた――勝手に自分の身内のために使っては、夫にも子供にも申し訳ないと、改めて心に誓うのだった。甥の暮しの足しを送るために、母は一切のわが身のおごりを慎んだ。

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2016年8月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 福田 玲三