私と憲法

さる7月28日、神明いきいきプラザ(港区)で行われた長坂さん主催の憲法研究会での報告を転載させていただきます。

私と憲法

福田玲三

私は1923(大正12)年11月に瀬戸内海の水島で生まれた。この島にある古河系の銅製錬所に父が溶鉱主任として勤めていたためだ。
母は明治18年に岡山県を流れる吉井川中流の左岸、羽仁(はに)という集落に生まれ、ゆきという名前だった。7歳で小学校に入り毎期優秀な成績で4年後に卒業した。ほどなく、近くに住む叔父から、ゆくゆくはその養子の妻にするよう父が求められ、その話の進んでいるのを聞いた。大人同士の話に小娘が口を挟むことはできず、父母の元を離れて見知らぬ人に嫁ぐのが嫌で、一人悩んだ末に、夏のことだったので、吉井川に入って死のうと思い、息を詰めて水中にしゃがんだが死に切れず、その後、家出して大阪にいる叔母を訪ね、自活の道を探したが適わず、一日一食で我慢することもまれではなく、この前後から頭がおかしくなった、と母は言っていた。そのとき、すすった芋粥(いもかゆ)のおいしさが忘れられず、黄色い甘薯を浮べた白いお粥は母の終生の憧れだった。
行き詰ったときに、父(私の祖父)から帰国をうながす便りが届き、やむなく故郷に帰って悶々の日を送っているうち、友人の勧めで、看護婦を志した。1年あまり、川上3里、津山市内の植月という老先生に師事して数学など二、三の課目を学び、幸いに試験を受かって看護婦養成所に入所した。やっと育ててくれた父母に恩返しが出きると一心不乱に勉強し、明治39年に正看護婦になり、日給19銭で姫路野戦病院に勤務した。ここでは、再三職務勉励で表彰され、2年後に当局の要請をうけ内地を離れ、日露戦争後の南満州鉄道病院に月俸25円で勤めた。
母は女相撲に入ったらどうかと言われたほど大柄で力持ちだったが、器量の良くないことを自認していた。当時「男の目には糸を引け、女の目には鈴を張れ」が美男美女の通り相場だったが、頬骨が出て目のつぶれているのが母の顔だった。器量の良い看護婦が医師たちの間で好遇されるのを縁なきことと、ひたすら仕事に励み、難儀した包帯裂きが、やがてチリ紙を裂くのと同然になり、包帯で傷をまくのに、緩ければ傷口がこすれて痛み、きつければ血滞して回復が長引くので、重傷患者が運び込まれるといつでも、ゆきさん!と呼ばれるまでに重宝された。
大正2年に内地にかえり岡山県病院の外科看護婦長を日給50銭でしているとき従兄半に当たる父と結ばれることになった。大正12年11月に3男の私が生まれる2カ月前、関東大震災の煤煙は瀬戸内海のこの島まで届いたと言っていた。私が小学校に上がる前、たぶん世界大恐慌の余波を受けて水島の製錬所が閉鎖され、父母は5人の子どもを抱えて生まれ故郷に近い津山に移り、市内の東のはずれに借家を見つけたが、このときもらった退職金が3000円とか5000円とかで、以後は結局、この退職金を食い潰すだけの暮しになった。
前途を予測し、縁あってやや市中に近い田圃300坪を買って安普請の家をたて、家の回りを畑にして自給自足の態勢を整えた。母はいつも、望む学問だけはさせてやる、と豪語していた。そしてやり繰りして、5人の子供のうち男3人は専門学校と大学に、女2人は高等女学校を卒業させた。しかし、そのための節約はすさまじかった。母は着物、白粉、口紅はもちろん、髪油、クリームさえ買うことはなく、畑仕事と家事で冬は、ささくれた指に大きなひびが赤い口を開けていた。
母の唯一の娯楽は月に一度ほど活動写真を見に行くことだった。その日は、家族の夕食を早めに用意し、自分ひとりの楽しみ恥じ、隠れるようにして家をでた。入場料は3本立てで、たしか5銭くらいだった。活動館の桟敷に座ると日頃の家事の疲れでカタコトとフイルムの回る音を聞きながら母はうとうとと眠りこむ。だからいつも2回目を見る用意をして出た。母のいない家族の6人の夕食は火の消えたようにさびしかった。
冷たい北風の吹く山国の盆地で湯気のこもった理髪店で髪を刈ってもらうのは私の果たさぬ夢で、散髪はいつも家の庭で、父の切れないバリカンを使った虎刈りだった。中学生になって、運動の時間には、勤め人の子供の真っ白なランニングやパンツがうらやましく、洗い古した下着しか着たことがなかった。満州事変の始まったのが小学2年生のときで、国全体でも節約ムードで、衣類に継ぎの当たっているのは恥ではないという意識は広がっていた。
私が小学生のころ津山市にも水道が入った。これまでは家外の掘り抜き井戸で、雨が降れば黄色い水で水位が上がり、数日後に初めて水位が下がり、やっと水が澄んだ。使用料なしの井戸で済ますか、料金を払って水道を引くか、それがわが家の大問題だった。定額だった電気代にメートル制の選択が加わったのもそのころだった。悩みに悩んだ末に母はメートル制に切り替えた。切り替えた最初の検針にきた検針員はメーターを見て驚き盗電を疑った。それは8月だったが、暗くなるまで一切電気を付けず、無駄な電気はすぐに切って節電に努めた。

水島の製錬所に勤めている間、父は休日には画帳をもって海や船をスケッチしたり、俳句を作ったり、素人芝居の役者などもする趣味人だった。だが当時のこととて、父はお勤め専一、母はその勤めに障りを作らないこと一筋だった。結婚した時、母の給料は父のそれより高かったそうだが。
父の父は津山近隣の農家の出だが幕府による長州征伐に参加して下級士族になり、ご一新後は水車による精米の仕事を始め、借財を重ねて失敗し、ついには妻子を残して夜逃げし、東京に出て古物問屋をはじめ、幸いにこれが当たって、十数人の使用人をかかえるまでに成功し、妻子を東京に呼ぼうとしていた矢先、大火に会って無一物となり、その後、運は開けず、80余歳の高齢になって、妻に先立たれたあとの郷里に帰ってきた。
製錬所が廃止になって父母が郷里近くに帰った後、母は、義父が夜逃げした際、義母もいくらかの前借をしたまま村を離れ、義母がその不義理を苦にしながらこの世を去った話を、何かのついでに思いだし、代を異にする債権者に幾十年前の借金を返済して回り、義母の霊にその報告をした。
私が小学生だったある日、たまたまその日は、昼休みに走って家に帰り、昼食を食べて、また走って学校に帰ろうと思っていると、母が机に向かいなにやら書いては泣き、書いては泣いている。このまま学校に帰るには心配で堪らなかった。この頃父は一時的に、瀬戸内海の直島製錬所に単身赴任していた。その父に当てての手紙だった。思い切って私は母に聞いた。「お母ちゃん死ぬんじゃない?」。母はひしと私を抱きしめ、「お前たちのように可愛い子どもを残して、どうしてお母ちゃんが死のうにい」と涙にむせんだ。私は安心するとともに、恥ずかしくなり、母に見送られて学校に帰った。
母が苦しんだのは父が5人の子どものなかでえこひきすることだった。父は長女を可愛がり長男を疎んじる風だった。自分でも、「父親が息子よりも娘を可愛がるのは自然の摂理だ」と言っていた。それでも、その言葉ほどの差別ではなかった。だが母にはそれは認められなかった。というのは、母には器量よしの妹がいて、生みの母の愛を妹にとられた辛い経験があり、その辛さを子どもの誰にも味合せたくなかった。母はそのことで悩み抜いた。
しかし、もっと大きなことで母は悩んだわけではない。たとえば男の子が兵隊に取られることは国民の義務として疑わなかった。婦人雑誌で男の子は陛下の赤子としてやがて兵役につく身だから、寝ているとき、男の子の枕元を歩かぬようにと書かれていれば、それを真面目に実践した。日露戦争後の満州を経験している母にとっと、軍隊は男の子が一人前になるために必要な試練と思い定めていた。それでも近所の農家の小母さんとある夏、野菜を届けたついでにわが家の縁側で世間話をしていて、小母さんが7人育てた男の子を5人まで次々に戦死させ、「何で苦労して育てたんだか」と語ったとき、二人は抱き合って声をあげて泣いた。
子どもへの愛は戦争反対までには至らなかったが、他のことでは母は子どもに愛を注ぎ尽した。母は、父に教わって、晩年に詠んだ短歌で、「花よりもなおも愛でにし吾子なれば孫の可愛いさ何にたとえん」とあるが、ほんとうにわが子を花よりも愛していた。「五人の子五本の指になぞらえて母の願いは落ちなき幸ぞ」の歌もある。
何時かの初夏のことだった。訪れた乞食に、母は節約して残した何がしかのものを与え、「このあと何かのことで子どもがお世話になるかも知れません。そのときはよろしくお願いします」と頼んでいた。感謝しながら立ち去る乞食は西に向かい、その空に虹がかかっていた。
母の二人の兄は柵原鉱山の幹部をしていたが相次いでチビスなどの伝染病にかかって死んだ。二人の息子に先立たれた母の父(私の祖父)の嘆きを身近にみていた母にとって、この世で一番恐ろしいのは、仏法でいう逆縁だった。母はいつもわが子に先立たれる幻影に脅えていた。
子どもに対する父の偏愛のほかにも父と意見を異にすることが様々に母にはあった。だが戦前、明治憲法下、教育勅語のもとので、女性は「幼にしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」の三従の教えが鉄則だった。悩みに悩みながら、女には相談できる人、頼れる相手はいなかった。
冬の早朝、悩みをかかえた母は、わが家の宗派、日蓮宗のお題目を一心に唱えながら、家の前の小道を行き来し、夜が白々と空けるころ、ようやく解決の糸口を掴んで心の平穏を取り戻すが、やがて程なくまた行き詰り、母は苦しみ抜いた。母は父の親類縁者から嬶(かかあ)天下と見られるのを恐れた。三従の貞淑な嫁でありたいと願いながら、道理として納得できない、その自縄自縛のなかで母はもがき苦しんだ。それは、現憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)の起草に心血をそそいだベアテ・シロタ・ゴードンさんの眼に写っていた日本の女の姿だった。
ベアテさんの願った日本の女性の解放は、新憲法によって法制上実現した。三従の鉄鎖は粉砕され、両性の平等が成就した。日本の当事者は24条原案に激しく抵抗し、「日本の国情に合わない」を理由にした。米側の担当者が「通訳のベアテさんもこの案に賛成ですよ」と暗示すると、やっと折れたという。日本で少女時代を過ごした優れた通訳のベアテさんを日本側も尊敬していた。
今日、自民党の改憲支持者は男女をとわず、「先人を忘れるな。伝統を重んじよ」という。それが改憲派の唱える改憲理由だ。
人口の半分の性を蔑視し、女を男の従属物と考えるような社会に、人間の品位も尊厳も幸福も希望もない。私の現憲法にたいする尊敬と愛着の源泉はここにある。この憲法を作った人々にたいする忘恩の徒に私たちはなりたくない。
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私と憲法」への1件のフィードバック

  1.  素晴らしい文章です。現憲法への想いが伝わって来ます。そして何より、福田さんのお母様への想いと、それと重なって、あの時代を生きた女性たちの置かれた状況への怒りと同情が伝わって来ます。
     女性を主権者として、人間としての権利を保障したものこそ現憲法なのですから。
     参院選、都知事選で自民党候補や小池氏を支持したすべての女性たちに読んでもらいたいです。
     ただ、これで終わるのは惜しい気がします。「私と憲法」②、③、④…と続くといいですね。

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