完全護憲の会ニュースNo.45 2017年9月10日

        <例会参加の方は本ニュ―スをご持参ください>
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  目次  第44回例会・勉強会の報告            P.1
      第41回運営・編集委員会の報告(略)       P.2
  別紙 1 政治現況報告                 P.3
  別紙 2 事務局報告                  P.3
  別紙 3「アピール 今、あらためて米国の
       原爆投下の責任を問う」他           P.4
      今、ふたたびアメリカの原爆投下の戦争責任を問う P.5
 <再掲> 緊急警告022号 「自衛隊明記は口実…」     P.13

       第44回例会・勉強会の報告

 8月20日(日)、港区・三田いきいきプラザ集会室で開催、参加者13名、会員56名。
 司会を大西運営委員が担当し、まず「政治現況報告」(別紙1)が代読されたのち、「事務局報告」が行われた。これらの報告をめぐる意見交換に先立ち、司会者が「今回は初参加者が多いので、完全護憲の会の紹介をしたらどうか」と提案し、事務局が次のように紹介した。
 「本会は2013年の年末に準備会を開き、14年1月に第1回例会を開き、以後毎月1回例会を開催し、ニュース(月報)を発行。本会設立の理由は、2013年の年末に誕生した第2次安倍政権が憲法改悪を公言したこと、現憲法がひろく国民に理解される前に解体される恐れがあったためだ。日本国憲法は、戦争放棄を定めた9条や生存の権利を保証した25条など、個々の条項がつまみ食い的に使われたが、この憲法の精髄である国民主権や基本的人権は十分に理解されぬまま、改廃される危険が迫っている。その危機感から、文字通り完全護憲を提唱したが、第1章天皇の諸条項は、第14条に定める法の下における平等に矛盾しているとの批判がある。だが、われわれが1章の改憲を主張すれば、現情勢下では極右の全面的改悪企図に便乗されるだけである。天皇の地位は『国民の総意に基づく』ものであるので、私たちは総意の熟するのを待つことにしている。入会金は1000円で、いまのところ会費は集めず、これまで発行した冊子の収入などで運営している。年末には道徳の教科化と教育問題についての冊子発行を準備している。会員は現在56名」
 ついで討議に移り、「天皇制はこのままでよい。戦跡慰霊や遺骨収集を行ってほしい。現憲法は悲惨な戦争体験から生まれている。この体験が継承されていない。学校教育に期待してもダメ。いまの先生に平和教育を期待するのは、ストーカー行為をやめさせろと警官に期待するのと同じだ」「友人が学び舎の歴史教科書に執筆している。良い本だが進学校以外ではあまり使われていない。実教出版の教科書は日の丸・君が代の強制を扱っているとして、東京都で禁止されている。主権者教育はあまりされていないが、そういうなかで努力している教員もいる。見限らず、応援してほしい」「区の教育委員会審議に立ち会ったが、学び舎の教科書が一番良かった。加害責任を十分取り上げている」「私の経験ではよい教師は教科書は使わず、人間対人間で教育している」「しかし若い教師は教科書を使う。神奈川県では育鵬社の教科書を使っている。恐ろしい状況だ」「私の父は戦場のことは一切話さなかった。伝承と云っても限りがある」「みんなの目指す頂上は同じで、登り口が違うだけだ。和気あいあいで話し合おう」……。

 ついで定刻になり、勉強会に移った。「米国の原爆投下の責任を問う会」の設立趣旨について、同会の共同代表・水澤寿郎氏から「アピール 今、あらためて米国の原爆投下の責任を問う」と「今、ふたたびアメリカの原爆投下の戦争責任を問う」の2文書(別紙3)の説明があった。
 これに対しては「責任を問うとは、だれに問うのか」など若干の質疑につづいて、原爆投下と、ポツダム宣言の発表、ソ連の進攻開始との関連、米国世論の動向、核兵器禁止条約の採択などについて熱心な討議があった。

当面の日程について
 1)第45回例会・勉強会    9月24日(日)13:30~ 三田いきいきプラザ
 2)第42回運営・編集委員会  9月27日(水)14:00~ 港区立勤労福祉会館
 3)第46回例会・勉強会   10月22日(日)13:30~ 三田いきいきプラザ
 4)第43回運営・編集委員会 10月25日(水)14:00~ 三田いきいきプラザ

<別紙 1>    政治現況報告      2017年8月27日

              岡部太郎(東京新聞元政治部長)

 加計学園問題や籠池問題、そして防衛省の公電隠蔽問題で揺れ続け、ダウン寸前だった安倍首相が、何とか8月3日の内閣改造までたどりついた。まさにゴングに救われたと云うところだろう。最後はよれよれだった前内閣の反省から、麻生財務副総理、菅官房長官そして党の高村副総裁、二階幹事長の骨格だけは残しながら、問題の文部科学相には林芳正、防衛相には小野寺五典、法相には上川陽子(いずれも岸田派)の経験者を当て、ほかにも茂木敏充(経済再生)加藤勝信(厚生労働)と要所に経験者を置いた。そして一本釣りで野田聖子(総務相)河野太郎(外相)とうるさ型を配置して堅実、守り主体の安倍第三次改造内閣を発足させた。そして最初から外相として首相を助けて来た岸田文雄氏が本人の希望もあって党の政調会長に岸田派の優遇と合せて、ポスト安倍の一番手につけた。ただ手堅さといっても副大臣新人五人、野田、河野の造反も不安だ。
 また文部科学相にと首相が懇願した伊吹元衆院議長は就任を固辞するなど、安倍一強体制はかなり変化していると見られる。そのへんは首相自身もわかっているようで、組閣後の初会見でも「国民に十分説明してゆく」と述べ、また改憲についても「秋の提出など、スケジュールには、こだわらない」と軌道修正。党側も高村副総裁が「憲法は党に任せ、政府は経済に全力を」と注文。岸田政調会長も「とにかく改憲論議は国民に丁寧に話すこと」と慎重な構えをみせた。また公明党の山口委員長も「憲法改正は政府の仕事ではない」とバッサリ。少なくとも、ゆけゆけではなくなりそうだ。
 一方、野党の民進党も都議選の敗戦の責任をとって蓮舫委員長が突然辞任した。8月20日公示、9月1日党員投票で委員長選出を行う。前原元外相と枝野元官房長官の一騎打ちだ。
 共産党との選挙野党共闘を狙う枝野氏と野合反対。都民ファーストとの共闘で政界再編狙いの前原氏どちらが勝っても党の完全一本化は難しく、秋から来年衆院解散までの政局は、民進党を中心に離合集散が繰り広げられる可能性がある。
 他方、次の選挙の台風の目となりそうな小池都知事の都民ファーストの会だが、小池氏がいち早く、都知事専任を打ち出し、国政レベルの活動は同志の若狭勝衆院議員に一任した。若狭氏は8月7日、記者会見で全国組織の政治団体、日本ファーストの会を設立、同会が運営する政治塾「輝照塾」を9月に開講、希望者を募集するほか、年内に国政新党を目指すことを明らかにした。同会は小池都知事と連動、9月16日に開講、塾生から今後の国政選挙の候補者を選ぶと云う、全く都民ファーストと同じ手口。民進党を離党した細野豪志元環境相とも新党について意見交換した。民進党を離れた長島昭久氏や渡辺喜美、松沢成文の両参院議員のほか、民進党や自民党から多くの議員が参加することも考えられ、目が離せない。
 もう一つのアキレス腱、南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報隠蔽(ぺい)問題は、7月28日に防衛省が特別防衛観察の結果を発表した。しかし、その焦点である陸自の隠蔽を稲田大臣が知っていたかどうかについては陸自が今年の二月に会議で稲田氏に報告した“可能性”はあるが、稲田氏が「報告された認識はない」と否定し、事実認定には至らなかった。データ不公表は黒江事務次官が2月16日の会議で岡部陸上幕僚長に指示。保管しているのは隊員の個人的データで、情報公開の対象となる行政文書には当たらないとした。
 結局、稲田大臣の責任には踏み込まなかったが、稲田氏は混乱の責任をとって、同日防衛相を辞任。黒江・岡部両氏も辞任した。
 安倍首相は稲田氏をポスト安倍の有力馬に育てようと、失言やミスの続いた稲田氏を最後までかばい続けたが、最後には自ら辞任する以外に道がなかった。当然これらは首相の任命責任が問われる事項である。

<別紙 2>    第44回例会 事務局報告

               福田玲三(事務局)2017.8.27

1)例会・勉強会の案内掲載

① 『東京新聞』8月16日朝刊「カルチャーインフォメーション」
② 『週刊金曜日』1148号(8月18日付け)「きんようびのはらっぱで」  
③ 「レイバーネット」イベントカレンダー(告知サイト labornetjp.org/EventItem)

2)勉強会の講師

勉強会:「『米国の原爆投下の責任を問う会』設立趣旨について」の講師について、同会の共同代表・水澤寿郎氏に依頼、快諾。

3)集会の案内

① 第8回平和学習会――報告・花岡蔚氏
 「2020年までに自衛隊を廃止する―コスタリカとアメリカの実情に触れながら」
  9月9日(土)13:30~16:30
  東京ボランティア市民活動センター 会議室 (JR飯田橋駅隣・セントラルプラザ)
② 第22回「7・1閣議決定」違憲訴訟勉強・相談会
  9月22日(金) 13:30~16:30 神明いきいきプラザ(JR浜松町駅徒歩5分) 
  参加費:200円
③ 『週刊金曜日』東京南部読者会
  9月22日(金)18:30~20:30 大田区生活センター 会議室(JR蒲田駅徒歩5分)
④ 「米国の原爆投下の責任を問う会」第1回拡大呼びかけ人会議
  9月23日(土)14:00~17:00 基督友会東京月会3451-7002 港区三田4-8-19
  資料代1000円 連絡先:090-1769-6565 水澤

<別紙 3> アピール 今、あらためて米国の原爆投下の責任を問う
 
 米国は1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原爆を投下し、計34人余の民間人、軍人、外国人(15か国、4万人)、連合国軍捕虜を殺害した。この無差別大量虐殺は人道上決して許されるべきものではなく、明白な国際法違反である。だが、米国政府は一貫して原爆投下を正当化してきた。原爆を投下したのは、日本がポツダム宣言受託を拒否して降伏しなかったからであり、原爆投下が日本の降伏を早めたというのがその主な理由である。
 原爆を投下せず米軍が日本本土上陸作戦を決行したならば、米兵100万人の犠牲が予測され、従って原爆投下は多数の米兵(と日本人)の命を救い、戦争を終結させて平和をもたらしたという。米国政府は原爆投下以来70年余にわたりそう喧伝しつづけ、多くの米国国民もそう信じてきた。私たちはこの「原爆正当化論」を到底容認することはできず、改めて米国の無差別大量虐殺の責任を問うものである。
 ルーズベルト米国大統領が原爆開発予算6000ドルを議会で通過させた(1941・12・6)のは、真珠湾攻撃の2日前であった。また、原爆投下は日本を目標とすることは、「ハイドパーク覚書」(1944・9・18)でルーズベルトとチャーチルの間で秘密裡に決められていた。このように原爆は開発当初から日本に投下することが目途とされていたのであり、ナチス・ドイツが降伏したから投下目標をドイツから日本に変えたものではなかった。
 さらに、原爆投下指令はポツダム宣言(1945・7・26)の一日前に出されている。そもそもポツダム宣言は日本に対する正式な文書ではなく、回答期限もないものであり、さらに当初宣言草案にあった降伏条件の「国体護持」を日本の降伏を引き延ばすためにあえて宣言から外している。それは日本が降伏する以前に原爆を投下したいという思惑があったからであった。
 日本の降伏は8月9日のソ連参戦が決定的な要因であった。原爆の開発には20億ドルという莫大な予算をかけた米国政府は、その物理的破壊力と人体にたいする放射線などの「効果」を確認するために原爆を投下することに追い込まれた。それは原爆の威力を全世界に誇示することによって、戦後ソ連に対し絶対的優位性を示そうにする戦略でもあった。原爆投下は又、ルメイ指揮下の日本の諸都市への無差別空爆の延長線上でなされたことも見落としてはならない。
 日本本土上陸作戦になれば100万人の犠牲が出るというのも虚偽の数字である。マッカーサー他各軍指導者は犠牲者は最大で6万6千人(戦死者はその4分の1)と推定していた。トルーマン大統領は犠牲者数を次々と増やしていき、最後の「100万人」が独り歩きしはじめた。そう言わなければ正当化できないほど原爆投下の被害は悲惨だった。
 原爆投下に対する戦争責任が問われてこなかった原因の一つに、日本のアジアに対する侵略戦争のなかで行なった野蛮で非人道的な戦争犯罪がある。日本軍による上海や重慶爆撃も長期間行われた。日本の良心的市民には、日本が加害国だったから、米国による日本の諸都市への空爆も広島・長崎への原爆投下を批判できないと考えがちであった。だが、原爆投下の被害国国民として米国政府を告発してこなかったことが、戦後、米国の南太平洋上の核実験の継続を許し、「核抑止論」の名の下に各国が核兵器を開発することを誘発した。原水爆禁止、核廃絶の運動が粘り強くなされてきたにもかかわらず、今なお新たな核開発が止まる兆しはない。広島・長崎への原爆投下を告発してこなかった私たちの反省を含め、今、改めて米国の原爆投下を戦争犯罪として告発する必要がある時点にきているのではないだろうか。
 それと併行して、日本の侵略戦争によりアジアで犯した数々の残虐な戦争犯罪を直視し、戦争責任の所在を明らかにし、日本政府に謝罪と補償を求める運動をいっそう強化する必要があることはいうまでもない。
 オバマ米国大統領は広島演説を「死が空から降ってきた」という文言で始めた。誰が死を空から降らせたかを隠すこの言葉は、欺瞞的である。私たちは速やかな核廃絶を願うものとして、今、原点に立ち戻って米国政府の広島・長崎への原爆投下の責任を問うものである。
   2017年1月10日
           米国の原爆投下の責任を問う会

      
   今、ふたたびアメリカの原爆投下の戦争責任を問う
                                          
1.原爆投下の正当化論のままでよいのか?

 アメリカは1945年8月6日に広島にウラン原爆を投下し、年内に14万人、5年以内に合計20万人を殺した。
 さらに3日後の8月9日に長崎にプルトニウム原爆を投下し、年内に9万人、5年以内に合計14万人を殺した。両都市で合計34万人を殺したのである。
 この無差別大量虐殺は国際法違反(ハーグの陸戦条約参照)であり、アメリカの原爆投下責任は厳しく問われなければならない。

オバマ大統領の広島訪問
 アメリカ政府は過去70年間広島・長崎への原爆投下を一度も公式に謝罪したことがなく、反対に、原爆投下「正当化論」を主張してきた。 ブッシュ・シニア大統領は1991年、「原爆投下は何百万もの米国民の命を救った」と述べたし、クリントン大統領は1995年、「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」と述べている。
 プラハ宣言(2009年4月)で「核兵器なき世界」を提唱しノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領も、原爆投下を公式に謝罪したことはない。
 オバマ大統領の広島訪問に先立って来日したペリー元米国防長官は、2016年4月16日NHKのインタビューに応えて「(オバマの広島訪問は)すばらしい決断だ。世界に核兵器の危険性と二度と使われてはならないということを呼びかける又とない機会で、そのための具体的行動を提起することを望む」と述べた一方で、「原爆の犠牲がなければ本土決戦で何百万人の命が失なわれていただろう。原爆投下について謝罪する必要はない」と述べている。(2016年5月17日のNHKのニュースでは流れたが、19時のニュースでは後半の「謝罪する必要はない」の部分はカットされていた。)
5月27日のオバマ大統領の広島訪問の際の17分間の演説は、冒頭「空から死が降って、世界は変わった」death fell from the sky and the world was changed)ではじまったが、原爆投下がアメリカによるものであることは触れず、従って投下の責任にも触れず、謝罪の一言もなかった。
 核兵器廃絶を訴えたが、具体的政策は何も提案されていない。それどころかオバマ政権の下で進んだことは、核兵器の近代化に多額の予算をつぎこんだことである。また、オバマ大統領は広島に来る直前に岩国の米軍基地で日米同盟を賛美する演説を米兵に向けて行い、その足で広島に来て「平和」を訴えたのである。
 平岡敬・元広島市長は次のように述べている。「いまでも多くの人があのスピーチをそのまま受け止めて、『すごい演説だ』『素晴らしい』ともてはやして、『オバマ賛美』が続いています。アメリカ国内にある『原爆投下は正しかった』という声を振り切って、広島に来たこと自体は評価するという声もあります。/しかし、彼は何のために広島に来たのかということを思うと、私は結局、オバマ大統領は任期中に大した実績があげられなかったから最後の自分のレガシー(遺産)づくりに広島を利用したのではないかと思っています。/これは日本政府との共謀です。安倍政権もおそらく強烈に願ったでしょうね」(平岡敬「被爆者はアメリカの原爆投下で殺された―オバマ大統領の広島訪問/謝罪なく、口先だけの『核廃絶』に強烈な違和感」『日本の進路』2016年8月号、NO.288、17頁)。 
 オバマ大統領のスピーチのあと安倍首相も「日米同盟は世界に希望を生み出す同盟」といい、最近12月には真珠湾攻撃の慰霊に行くと発表したのである。ハワイ真珠湾訪問も日本のジャーナリズは賛美している。それならば安倍首相は何故日本が植民地支配した東アジアの国々を訪問しないのかという非難の声が起こるのは当然であろう。
 とまれ、米国政府が広島・長崎への原爆投下に謝罪しないのは、その背景に多数の米国民が依然として「原爆投下正当化論」に立っていることがあるといってよい。
 
「原爆正当化論」とは
 「原爆正当化論」とは、(1)原爆投下が戦争終結を早め(「早期日本降伏説」)、その結果(2)戦闘継続による人的被害(特にアメリカ軍人の)を減少させた「人道的行為」である、と主張するもの(「人命救済説」)である。その正当化論の出発点はトルーマン声明にある。
 アメリカでは正当化論批判はオリバー・ストーンやピーター・カズニックなど少数が主張しているにすぎない。ストーン(映画監督)とカズニックは2013年夏に来日し、8月8日、広島でシンポジウム「アメリカ史から見た原爆投下の真実」で報告した。ストーンは、「アメリカでは原爆投下が成功だと語られているが、それは神話に過ぎない。一般的なアメリカの高校生は、原爆投下が戦争を終らせた、と教えられている。1945年に起きた本当のことを教えられていない。戦争を終らせたのは原爆ではない。」と発言し、カズニックは、「アメリカは[日本が]降伏寸前だということを知っていた。アメリカはソ連への威嚇として原爆を投下したのだ」と指摘した。だが、このような見解を持つアメリカ人は依然として少数なのである。
 人命救済説についていえば、日本の本土上陸作戦により100万人以上の犠牲者がでるというのも虚偽の主張である。米軍犠牲者はマーシャル、キング、リーヒ、マッカーサー各元帥が推定した数字は上限6万人、細かくは31、000人から66、500人の間と見積もられ、そのうち戦死者は上の数字の4分の1とされている。トルーマンは戦闘犠牲者を25万人から100万人まで増やしていき、最後の100万人説が一人歩きしてきたのである。
 アメリカ人の意識も、最近(2015・4)のビュー・リサーチ・センター(米民間調査機関)によれば、原爆投下を正当とする者は56%、不当とする者は35%である。1945年のギャラップでは、85%が原爆投下を正当としていたので、正当とする者の比率は低下してきているが、投下70年を経てなお正当化論が過半数を占めている。
 このことが重要なのは、原爆投下正当化論が、核抑止論と表裏一体であるからである。このようなアメリカ世論のなかで、オバマ大統領も謝罪外交であると批判されることを恐れて、謝罪などできなかったのである。

日本がアメリカの原爆投下責任を問うてこなかった理由 
 日本は敗戦後今日に至るまで、原爆の被害を調査しその悲惨な被爆の実態を日本の国内外に示してきた。そして、そうすることの重要性はますます大きくなっているのは間違いないが、他方で、原爆投下という無差別大量虐殺を実施した戦争犯罪としてアメリカ政府を告発することがほとんどなされなかった。
 原爆碑の「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」に象徴されるように、主語は不明、批判対象も不明にしたまま、ひたすら「祈る」ことを推奨してきたのである。その祈りの原型の一つは長崎浦上天主堂の永井隆にある。
 これは原爆を製造した国家も、投下するに至った経緯も、投下したあとの対処も捨象し、言い換えれば歴史性を捨象することによって事実上アメリカ政府の責任を問わない方法が取られてきたということである。それは抽象的に反戦、平和を唱える・祈るという態度であるといってもよい。
 原爆投下したアメリカを厳しく告発してこなかったことが、戦後、アメリカの南太平洋上の核実験の継続を許し、さらに原発の日本への導入を容易にしたとするならば、2011年のフクシマ3・11以後5年余経った現時点において、遡って「原爆正当化論」を批判的に検討し、アメリカの戦争犯罪として告発することが、70年余過ぎて遅きに失した感があるとはいえ、必要不可欠なのではないだろうか。
 その際、原爆を抽象的に「平和の敵」として捉えるのではなく、原爆の歴史を具体的に辿ることによって初めて、アメリカの原爆投下の責任を問うことができると考える。
 原爆投下にたいする戦争責任が問われてこなかった原因の一つに、日本はアジアに対して侵略戦争を実行し野蛮で非人間的は殺戮を行なった加害国であったから、被害国として原爆投下を批判することなぞできないという心情が日本人のなかにあったことは否定できない。
 良心的日本の知識人の中でも、日本がアジア諸国に侵略し、細菌兵器や化学兵器を使用した加害国であるから、アメリカの原爆投下を被害国として批判する資格はないとする考えである。
 例えば、『戦争責任と核廃絶』(三一書房、1998年)の著者若松繁俊でさえ、『原子科学者評論』1982年2月号の論文「戦争犯罪の背景」で、「私自身、原爆被曝の体験をもつが、多くの被爆者が看過してきた重要な問題がある。原爆被害がどんなに悲惨であろうとも、日本の戦争責任をきびしく自己批判したあとでなければ、原爆の被害を世界に訴えるべきではない。原爆による死は日本帝国主義ファシストによる死と同じである」(180頁)と指摘している。
 ここには原爆投下をそれ自体切り離してアメリカの責任を問う視点はみられないが、私たちはそのような見解をとらない。
 私たちは原爆投下の責任を追及するさい、その前にではなく、それと同時併行して日本が侵略戦争によりアジアの人びとを残虐な方法で殺傷した事実を直視し、日本の戦争責任を確認し、日本政府に事実認定・謝罪と補償をもとめる被害者を支援し、そのための活動を引き続き推進しなければならないと考える。
 具体的には、重慶爆撃に見られる大量無差別爆撃、三光作戦などの焦土作戦による民間人虐殺、南京虐殺、731部隊による人体実験と生物兵器(細菌兵器)の使用、化学兵器(毒ガス兵器)の使用による大量虐殺、毒ガス遺棄、朝鮮人・中国人などの強制連行・強制労働、朝鮮・中国・その他のアジアの女性の「慰安婦」への強制、捕虜虐待などである。それと同時に併行してアメリカの原爆投下の責任を問い、その謝罪を求めなければならないと考えるものである。その歴史的根拠を以下で示したい。

2.マンハッタン計画と三発の原爆

原爆の製造
 ナチス・ドイツが原爆開発をしていることに危惧の念を抱いた理論物理学者たちはアメリカに亡命し、ドイツよりも早く原爆を製造することをめざした。「アインシュタイン=シラード」書簡が、ルーズベルト大統領に提出され、「ウラン諮問委員会」が設置された。
 核分裂と原爆製造については、1939年1月、理論物理学会でイタリア人エンリコ・フェルミが報告し、核分裂の仮説はウラン235の分裂により証明された。フェルミはアメリカへ亡命し原子炉をつくる。 ニールス・ボアもデンマークのコペンハーゲンで同様な核分裂の実験をしていたが、アメリカに亡命。
 ルーズベルト大統領が原爆開発の6000ドルの予算を議会通過させた(41・12・6)のは、真珠湾攻撃の直前。この予算により原爆製造が始動。その後マンハッタン計画には20億ドルが支払われ、20万人を雇用し、学者だけで2000人以上になるという大規模なものとなった。
 「マンハッタン・プロジェクト」と名づけたのは、総司令官になるレスリー・リチャード・グローブスである。1945年3月には3個の原爆を製造し、5月には兵器として完成した。1945年7月16日早朝午前5時29分、人類最初の核実験「トリニティー」がニューメキシコ州の砂漠で実行された。
 実験はオッペンハイマー(ロスアラモス研究所所長)の指揮のもと、グローブスの直属の部下であるトーマス・ファーレル准将(マンハッタン計画副責任者)が現地の責任者であった。
 ファーレルは爆心地から10キロ離れたコントロール・タワーからみていて、「効果は、まさに前代未聞。印象的で美しい。恐ろしいほどである。誰がこのような大規模な爆発を考えることができたであろうか。閃光のすさまじさは筆舌に尽くしがたい」と記している。
 製造された原爆は3個であるが、残り2個はトリニティー実験から21日後の8月6日に広島に、さらに3日後の8月9日に長崎に投下された。
 広島に投下されたリトル・ボーイは、ウラン型原爆であり、構造は砲身型で簡単であるが、濃縮ウラン製造が困難なため量産は困難である。
 長崎に投下されたファットマンは、プルトニウム型原爆であり、原子炉運転がプルトニウムを量産するため、量産が可能であるが、構造は爆縮型で複雑である。起爆装置が作動するか実験が必要であり、1945年7月16日のトリニティー実験はこのプルトニウム型原爆の実験だった。
 広島の原爆投下は実験なしで投下したもの。原爆投下の二発目を3日後に長崎に投下したのは、量産可能な原爆をアメリカが所有することを世界に向けて(特にソ連に向けて)誇示すことにあった。

原爆投下の目標は当初から日本だった
 日本への原爆投下を目標とすることは、ルーズベルトとチャーチルの間で1944年9月の「ハイドパーク覚書」で決まった。
 アメリカが原爆をドイツには落とさず、日本に落とすことを企図していたことには黄色人種にたいする人種差別が根底にあったとみてよい。
 ナチス・ドイツの原爆実験をおそれた物理学者たちがアメリカに亡命し原爆開発に取り組んだが、白人であるドイツ人には落とすことは当初から考えていなかった。アメリカ大統領や軍幹部は、ドイツへではなく日本への投下を当初から意図していたのである。それ故、原爆投下の問題は欧米のアジア人にたいする人種差別の問題としても捉えなければならない。
 ルーズベルト大統領は、1945年4月12日に死去。トルーマンが新大統領になる。真珠湾攻撃の復讐に燃えて、ルーズベルトは、「犬の飼い主が悪ければ、犬も罰しなければならない。日本の指導者の残虐で不法な行為の責任を、日本国民が受けるのは当たり前だ」と言った。
 広島への原爆投下18時間後に発表された「トルーマン声明」も真珠湾攻撃にたいする報復として原爆投下を正当化しているが、その下地はルーズベルトにより敷かれていたといえよう。
 1945年4月12日、突然副大統領から大統領になったトルーマン(1884年生まれ)は、政治力もなく、歴史観も世界観も持たない”small man”であった。ルーズベルトは歴代、自分に反抗することを恐れて副大統領には力量のない者を選んできたからである。
 トルーマンは「マンハッタン計画」も知らされていなかった。4月25日になって、スティムソンとグローブスが 原爆計画についてトルーマン新大統領に初めてその計画を説明した。以後、”small man”と言うコンプレックスを克服するために「何か大きなことをする」(トルーマンの日記)ことに向って突き進んでいった。 

ポツダム宣言
 早期降伏説も人命救済説も、歴史事実とは違っている。アメリカは原爆投下の以前から、日本が降伏を求めていたことを知っていたからである。日本がソ連に対してアメリカとの和平交渉の仲介を何度も打診していたことを、アメリカ陸軍省は日本外務省の暗号電報を傍受して掴んでいた(「マジック報告」)。
 事実、1944年8月11日の「マジック報告」で、「重光外相は、ロシアに和平交渉の仲介をする意思があるかどうかを確かめるように佐藤大使(在モスクワ)に指示している」ことをつかんでいた。打診の内容は、日本降伏のために「国体護持」、即ち戦後も天皇制を存続させることを認めるか否かにあった。この打診をアメリカは無視することになる。
 1944年7月9日サイパンで日本軍が全滅、東条内閣が7月18日総辞職して以降、米軍はサイパンの基地からB-29による本土空襲が可能となった。
 東京大空襲は1945年3月10日未明、米軍は334機のB29を投入し焼夷弾33万発を投下した。死者・行方不明者は10万人を超えた。東京以外にも名古屋、大阪、京都、神戸など主要都市への空爆がなされ、66都市で死者約40万、負傷者約百万人を生み出した。日本の敗戦は時間の問題になっていた。
 原爆以外での方法による戦争終結の可能性について、1945年6月29日の米統合参謀本部史料によると、「日本政府は完全に破壊される前に・・・・・直ぐにも条件付き降伏を申し出る可能性がある」と記されている。
 また、アイク、マッカーサー、リーヒ各元帥も日本の軍事的敗北は時間の問題と見ていたことが戦後に公表された記録や回顧録に明らかにされている。
 リーヒ元帥は回顧録のなかで「軍事的に見て完全にうちのめされた日本に地上軍を投入して侵攻する理由は全くないと考えていた」と述べている。
 ポツダム会談は、ナチスドイツの降伏後の1945年7月17日から8月2日までソ連占領地のベルリン郊外のポツダムで開かれた。
 米からトルーマン大統領、英からチャーチル首相、ソ連からスターリンが参加し、戦後占領をめぐって会談した。ポツダム会談開始の翌日、トリニティ実験が成功したとの報がトルーマンに届いた。チャーチルもトルーマンの態度が変わったのに気づいたほどだった。
 自信を深めたトルーマンは、「ソ連側に反論を許さぬきっぱりとした態度で対応するようになった。」(チャーチル) トルーマンの妻宛の手紙(7月20日)には、「昨日は厳しい会談になった。わたしは憤然と立ち上がって、この線で妥協しろといい、イギリスもソ連もその線で妥協した。」(ロナルド・タカキ、152頁)とある。
 原爆投下命令書は1945年7月25日、ポツダム宣言を発する1日前に、トーマス・ハンディ陸軍参謀総長代理が署名し、当時ポツダムにいたマーシャル将軍と陸軍参謀長官スティムソンに電話で伝えられ、カール・スパーツ将軍(マリアナ諸島駐屯の陸軍戦略航空司令官)に宛てて送られた。   
 そこにはトルーマン大統領の署名はない。そのため、8月10日広島の被害状況の報告を受けたトルーマンは、8月10日の閣議で大統領の許可なしに原爆の使用を停止することを決定させている。
 ポツダム宣言は7月26日に発表された。その宣言草案には国体護持が含まれていたが、宣言には「降伏条件の明確化」に国体護持は含めていない。米代表団がポツダムに出発する直前(7月2日)、スティムソン陸軍長官からトルーマン大統領宛に「対日宣言案」が提出され、その第12項に「現在の皇統の下での立憲君主制も含む」とあったが、実際のポツダム宣言ではそれを削除して、トルーマン大統領が発表したのである。
 それは日本が降伏する前に原爆を投下する必要があったからである。
 ポツダム宣言にはスターリンの署名がない。ソ連は日本と交戦状態にないとの理由で、トルーマンがスターリンを排除したのであった。チャーチルはイギリスの総選挙で予想に反して敗北し、ポツダム会談の途中でイギリスに戻らざるを得なかった。ポツダム宣言の署名者の蒋介石はポツダムには来ておらず、署名はトルーマンが代筆した。
 つまり、宣言の署名者にはスターリンの名はなく、トルーマン、チャーチル、蒋介石が記されているが、トルーマン以外の2人はトルーマンによる代筆なのである。それ故、トルーマン一人の意思が示された文書であり、「降伏条件の明確化」に国体護持を含めなかったのである。
 そのためポツダム宣言は、つぎのような問題点をもつことになった。
 1)ポツダム宣言は「対日本」が主題ではなく、戦後処理が主たる議題であった。ポツダム会議に参加した国と署名した国とが異なる。ソ連が署名していないことが、日本に日米の和平交渉に可能性があるかのごとき幻想を抱かせた。
 2)ポツダム宣言は日本に対する正式な文書ではなく、日本には短波放送で伝えられた。回答期限もない宣伝・広告の類であった。日本の鈴木貫太郎首相はこれを「黙殺」(ignore)したとみなされた。
 3)鈴木首相の発言前に原爆投下命令は出ていた。宣言は7月26日、命令書は7月25日付け。
   命令書によれば、日本時間で鈴木首相の「無視」発言の2日前に原爆投下は決定していたことになる。
 4)トルーマンは鈴木首相を日本の代表とは認識しておらず(彼らと複数形で表現している)、鈴木首相の発言により投下の決定を変える気はなかったと思われる。
   このポツダム宣言の約3週間後の8月6日に広島へ、9日に長崎の原爆が落とされたのであった。
   「ポツダム宣言」を受諾する意向を示した8月14・15日も大阪、岩国、奥山、伊勢崎、桐生、熊谷、小田原などが空爆されている。

広島・長崎への原爆投下
 広島・長崎が原爆投下の候補地として上がるのは、1945年4月27日の第1回目標選定委員会であり、その委員会(トーマス・ファーレルは委員)でグローブズ委員長は、広島・長崎の他に東京湾と、川崎、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、呉、下関、山口、八幡、小倉、熊本、福岡、佐世保の計17都市を選定した。
 第2回委員会(5月10~11日)では、京都AA、広島AA、横浜A、小倉A、新潟Bの5箇所に絞られた。うち最有力候補地AAには、広島と心理的効果を目指すため京都が選ばれた。
 これらの5都市は通常の空襲から除外されたのは、原爆の効果を的確に測定するためであった。
 第3回暫定委員会(5月31日)では、横浜は占領政策に使うので除外され、京都もスティムソンの反対で除外された。彼は京都に投下すると、日本人の心情からして米国の占領政策が難しくなると主張し、トルーマンが賛同した。それに代わって長崎が加わった。
 7月25日までに広島、小倉、新潟、長崎が候補地に決まった。広島は第1候補であり、天候の条件が整った8月6日に投下され、2発目の第1目標は小倉だったが、8月9日当日小倉の空は視界不良だったため、長崎に変更された。3発目のプルトニウム型原爆は8月19日までに東京に投下される予定であった。
 長崎への原爆投下の翌8月10日に、「『天皇統治の大権を変更する』要求が含まれていないという了解の下に受諾する」との意向を伝えた日本に対し、アメリカは「バーンズ回答」で暗黙の了解を与え、8月14日、日本は降伏を伝えたのである。
 以上のことから、アメリカは原爆投下によって日本の降伏を早めたのではなく、日本の要求(国体護持)を受けいれるのを原爆投下まで引き伸ばしたことが明らかであろう。原爆投下する前に、日本が降伏しては、壮大な人体実験をする機会を失うからである。
 日本の降伏の決定打になる「ソ連の対日参戦」(8月9日午前0時)の以前に広島に、そしてその日に長崎に投下し、戦後の対ソ連に対して圧倒的な力を誇示することができたのである。

3.アメリカの原爆投下後の隠蔽工作ー放射線の影響を否定

日本の原爆調査とアメリカへの調査報告の提供
 1945年8月6日に広島に原爆が投下されると、直ちに日本軍と行政機関が大学・研究所の科学者の協力を得て広島に入った。
 第1の目的は、投下爆弾が原爆であるか否かを確定することであった。爆弾投下直後、ホワイトハウスはトルーマン大統領の「原子爆弾に関する声明」を公表し、原爆投下は真珠湾攻撃の復讐であると明言し、日本にポツダム宣言受諾を求めた。
 広島へは多くの調査団が入るが、大本営調査団は、参謀本部第二部長の有末精三を団長にして参謀本部から他に三名、陸軍省軍事課新妻清一以下三名、陸軍航空本部技術部片桐少佐、陸軍軍医学校から島田軍医中佐、それに理化学研究所の仁科芳雄という30人ほどの構成になった。
 仁科芳雄は陸軍から指示により原爆開発「二号」を一九四一年から行なっており、海軍は京都大学の荒勝文策にF研究を依頼していた。有末を団長とする陸軍大本営の調査団は、8月7日午後2時ごろ所沢基地に集合したが、「折から硫黄島を飛び立った敵機B29の爆撃機隊の一団がわが本州中部に向けて北上飛行中との情報が入った。仁科博士以下全員難を避けて」一日延期し8日に出発することになったが、有末精三と山田副官の2名は広島に向かって飛び立ち、午後5時半広島上空に着いた。
 広島到着後、有末は数人の軍指導者と会い宇品の船舶司令部に行き、翌8月8日の朝には総軍司令部の広島庁舎に行き、岡崎清三郎参謀長、真田譲一郎参謀副長、井本熊雄作戦主任参謀を見舞い、畑俊六元帥にも会っている。仁科や新妻らはその日の夕方6時半に広島に着いている。
 仁科らは8月7日離陸したがエンジン不調で所沢に引き返し、翌日8日に所沢を飛び立ち広島に着いたと言われてきたのは、1日広島行きが遅れたことからそれだけ原爆かどうかの確認が遅れたので、責任を取らされないように誰も明確にしてこなかったからだろう(この点は資料紹介「核とミサイルに関する新妻清一関連資料」(1)『戦争責任研究』87号、2016年冬季号を参照されたい)。
 広島に到着すると、仁科など6名は宇品の船舶司令部に向かった。広島の惨状から仁科が原子爆弾に違いないと確信し、夕刻そこから大本営に電報で第1報を送った。
 電報の内容は、一、特殊爆弾である。 二、熱傷に備える必要。三、詳細は仁科の今後の調査を待て、というものだった。そして、内閣書記官長・迫水久恒に、電話で「残念ながら原子爆弾に間違いない」と「涙を流して報告」した。迫水から報告を聞いた鈴木首相は翌朝閣議を開くことを迫水に指示した。
 8月9日朝、新妻は仁科などと共に高射砲隊本部を訪れ、加藤から爆発地点の方向と高度の情報を聞いた。その後仁科、片桐、新妻などは爆心地付近の調査を行い、爆心地が「細工町19番地」で高度が約580メートルであると結論し、また、中心から東西南北に500メートルおきに土などのサンプルを集めた。
 新妻は爆心地近くの写真やで未現像のフィルムを現像し灰色に感光していることを確認した。日赤病院のレントゲンフィルムが感光していたことが放射線の検出の決定的証拠になった。
 8月10日大本営調査団の陸海軍合同特殊爆弾研究会議が比治山町の陸軍兵器補給廠で開かれ「本爆弾ノ主体は・・・・原子爆弾ナリト認ム」とした。司会をした新妻がその報告書をまとめている。
 荒勝は前夜広島に来ていた。団長の有末は9日午前零時、ソ連軍がソ満国境を超えて南下した(ソ連参戦)ため、急遽東京に戻ったので,この合同会議には出席していない。広島平和記念館が所蔵する新妻ファイルに含まれる新妻メモには鉛筆で「人間ニタイスル損害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト、コレニ関連スル発表モ避ケルコト 中央ヨリ調査隊を派遣ノコト」と書かれている。新妻は原爆の被害を発表しないように強調している。ここでいわれている中央より調査隊ヲ派遣とは大本営の第2次調査団のことであり、8月14日広島に到着し、17日まで広島市内各所で放射能を測定した。この報告書は英訳される際、意図的に数ヶ所誤訳し、原爆の被害をできるだけ小さく見せようとしている。
 新妻は被害状況について次のような記録を残している。
「新妻メモ―損傷状況昭和二〇・八」によれば、「一一日迄、収容患者数 約一五〇〇〇不収容患者数推定 約七五〇〇〇、計約九万 
一一日迄 収容屍体数(埋没又は消失)約一万、計約二万、合計一一万」とある。
 極めて正確な数字を掴んでいたことがわかる。それを一般に知らせることを避けるよう指示したのである。
 8月13日には新妻は東京に戻り、2日後の8月15日敗戦の日には、陸軍省軍事課の名前で「特殊研究処理要領」をまとめ、原爆の被害の隠蔽に続いて陸軍の特殊研究を隠蔽するよう指示をだした。その指示の内容は「一 方針 敵に証拠ヲ得ラルル事ヲ不利とする特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰滅スル如ク至急措置ス」とし、ふ号登戸関係(風船爆弾)、七三一部隊、一〇〇部隊など陸軍の秘密研究の隠蔽も図ったのである。
 原爆による被害の惨状は、9月3日に原爆逓信病院を訪れたウィリアム・バーチェット記者により打電され、『デイリー・エクスプレス』(1945年9月5日)に報道された。
 その記事の見出しは「原爆病(The Atomic Plague)とあり、「広島では、最初の原子爆弾が都市を破壊し世界を驚ろかせた30日後も、人々は、かの惨禍によって怪我をうけていない人々であっても、『原爆病』としか言いようのない未知の理由によって、未だに不可解かつ悲惨にも亡くなり続けている。」と残留放射線の恐ろしい影響についても記した。
 原爆の惨状が世界に知られ始めたその日(9月5日)マッカーサーは海外特派員に取材禁止命令をだし、広島に立ち入ることを禁じ、報道することも禁じた。この取材禁止令は45年12月まで続いた。
 
アメリカの広島調査報告
 アメリカは日本進駐と同時に「マンハッタン管区調査団」を来日させ、原爆の被害の調査を開始した。同調査団はトマス・ファーレル(マンハッタン計画の副指揮者)を指揮官とし、フォード・ウオレン(マンハッタン計画の医学部長)以下約30名で構成されていた。
 マンハッタン計画には当初から原爆投下後の「効果」の測定が含まれていたと見るべきだろう。彼らは8月31日に来日し、調査を準備した。ファーレルは9月6日、広島に現地調査に入る前に、東京帝国ホテルで記者会見し、「広島・長崎で原爆症で死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在、原爆症で苦しんでいるものは皆無である」と声明した。
 同調査団が広島入りする2日前に、現地に行かずにこのような声明をだしたのは、アメリカが原爆の人的被害、とくに残存放射能による被害を過少にみせようとする戦後アメリカ政府が一貫して採った方針の開始を意味していた。
 この9月6日のファーレルの記者会見には、W.バーチェットが参加していた。それは9月3日に広島逓信病院で被爆者の患者の付添い人から、「アメリカは原爆を造ったのだから、原爆症の治療法はわかっているはずだ。アメリカから医師を派遣してもらわないことには、治療法がないのではないか」といわれ、バーチェットは東京に帰ってその旨GHQに訴え、記者会見にも参加していたのである。
 もちろんアメリカも原爆症の治療方法をもっていたわけではない。バーチェットは目撃した広島の惨状とファーレルの声明が余りにかけ離れていたので、そのことを問うたのに対し、ファーレルは次のように答えた。「残存放射能の危険を取り除くために、相当の高度で爆発させたため、広島には原子放射能が存在しえない。若し今現に亡くなっている人がいるとすれば、それは残留放射能によるものではなく、原爆投下時に受けた被害以外にはありえない。」 
 その後もアメリカは原爆投下後の残留放射能を否定するのである。
 この「ファーレル声明」(8月31日)は、日本政府が横浜に駐留していた米占領軍に自主的に提出した『原爆被害報告書』に依拠していた。その『報告書』の結論のひとつは、「爆心地の周辺には人体に被害を及ぼす程度の放射能は存在していない」というものだった。
 報告書には、陸軍軍医学校の軍医らによる被爆者の解剖結果が含まれていた。戦後日本のアメリカ追従の一例である。
 9月8日ファーレル以下13名の第1班は、厚木飛行場から米軍機6機で広島に向った。ファーレルの第2班は9月9日長崎に入ったが、ファーレル自身は9日に東京にもどり、12日に再度記者会見をおこなった。
 今回は、原爆の爆風・熱戦による破壊が予想以上のものであったことは認めざるを得なかったが、それと対照的に放射線の効果は限定的であったと発表した。ここでも一貫して、原爆の爆風・熱戦による被害は認めるが、放射能による被害は否定したのである。
 これはマンハッタン計画の医学部門責任者スタッフォード・ヴォレン(マンハッタン工兵管区調査団の団長として広島・長崎を調査)が、戦後放射線医学の権威として広島の残留放射能の存在を否定し、ファーレルに伝達したことによる。
 ヴォレンはマンハッタン計画のなかで兵器としての放射線の有効性を最も主張していた科学者だったのが、戦後は正反対の見解を述べているのである。
 アメリカは広島・長崎の原爆被害が日本国内外に漏れることを恐れて、1945年9月19日にGHQはプレスコードを指令し、言論・報道・出版などを規制したが、同年11月30日の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」(10月24日発足)の第1回報告会の席上、GHQ経済科学部の担当官は、日本人による原爆災害研究はGHQの許可を要すること、またその結果の公表を禁止する旨通告している。
 1945年9月14日には学術研究会議(会長林春雄)は「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設置することを決定した。これは文部省科学教育局、学術研究会議、理研の仁科芳雄が検討してきた結果であった。
 アメリカと日本側の打ち合わせ会議は9月22日東京帝国大学医学部で開かれ、「日本に於ける原子爆弾の影響に関する日米合同調査団」が設立された。
 この「合同調査団」は日本側の命名であって、アメリカの正式な名称は「日本における原子爆弾の効果を調査するための軍合同委員会(The Armed Forces Joint Commission)」であり、アメリカの国益のための調査であった。
 事実それはオターソンが全権代表者であり、彼の指揮下のGHQ軍医団、ファーレル指揮下のマンハッタン管区調査団、都築正男東大教授指揮下の日本人研究者からなっていた。
 都築正男を初めとする原爆調査をおこなった日本人科学者は、戦争中の自身の行動から戦犯免責されることを願ってアメリカに積極的に協力し、調査報告は大部分がアメリカに提供されることになった。
 翌年にはABCCが組織され、原爆の「効果」を示すデータをアメリカが取得した。「原爆乙女」は治療と称して渡米するが、治療は行われず、原爆の影響のデータを取得されるだけであった。
 原爆投下は大規模な人体実験であったから、アメリカは投下後そのデータを組織的に収集したのであり、それでも不十分であったから、広島・長崎への原爆投下後1年を経ないうちに、日本への原爆投下と同じ米軍スタッフが南太平洋で核実験(クロス・ロード作戦)をやり、被爆した島民からデータをとるのである。
 その数年後、ビキニ環礁での水爆実験が第五福龍丸事件を起こすが、現在では福竜丸以外にも数百隻の日本漁船が被爆していることが分かっている。
 久保山氏死去をきっかけに原水爆反対運動が起こり、それを恐れた米国は、原子力の平和利用なるものを喧伝し、正力や中曽根や物理学者たちにより、原子力発電がはじまったことは周知のことであろう。
 2011年3月11日の福島の第1原発の爆発のときも、直ちに米艦を福島沖に派遣し、無人機を飛ばして放射線の拡大と人体への影響などを調査した。その艦隊の米兵が帰国後米国で被曝の補償を求めて裁判を起こしている。

 以上のべたように、アメリカの広島・長崎の原爆投下による無差別大量虐殺の責任は、いかなる理由を示そうが、免れるわけにはいかない。
 その戦争責任を問わなかったことが、アメリカが原水爆の実験を続行することを許し、「核抑止論」の名の下に各国が核兵器を開発することを誘発した。
 そしてアメリカの原爆投下の責任を問うことは、現実の世界の核状況に無知だからであると冷笑し、核兵器の速やかな廃絶なぞは夢物語だと冷笑する者には、人っ子ひとりいないすべてが破壊された放射能に包み込まれた地球の光景を想像はできないのだ。

 そんな政治学が経済学が歴史学に何の意味があるのだろうか。

 「核兵器は人類の罪だ」というほど欺瞞的な言葉はない。誰が落とした原爆かが問題なのである。「死が空から降ってきた」というほど欺瞞的な言葉はない。誰が空から死を降らせたかが問題なのである。
    2017年1月10日

<再掲> 緊急警告022号

 自衛隊明記は口実、9条全面改悪の突破口とするもの

 5月3日の憲法記念日、安倍首相は日本会議が主導する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の改憲集会にビデオメッセージを寄せ、憲法9条に関して「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む、という考え方、これは国民的な議論に値する」「夏季のオリンピック・パラリンピックが開催される2020年を……新しい憲法が施行される年にしたい」とのべ、具体的改憲項目として、憲法9条改憲に踏み込んだ提起を行った。(憲法尊重擁護義務を負う首相がこのような改憲提起を行うこと自体の違憲性については緊急警告021号で指摘。安倍首相と安倍自民党総裁は不離一体であり、改憲提起に関する限り使い分けはできない。)
 これは9条3項に自衛隊を明記する加憲論として論じられているが、一部報道によれば、自民党は安倍首相の提起を受けて9条現行条文を維持したまま、新たに「9条の2」の別条を設け、ここに自衛隊を明記する方向で検討に入ったとのことである。
 「9条3項」加憲にせよ、「9条の2」加憲にせよ、具体的に案文が示されたわけではないので案文に沿った検討はできないが、いきなり本丸の9条改憲に手を付けてくることはないだろうとの大方の予想に反しての、安倍首相ならではの極めて危険な「クセダマ」である。案文が示されてからでは遅いので、その危険性について警告を発しておかなければならない。
 安倍首相はビデオメッセージで「例えば憲法9条です。今日、災害救助を含め命懸けで、24時間365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が今なお存在しています。『自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任です。私は、少なくとも私たちの世代のうちに、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置付け、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきであると考えます。」と述べた。
 このメッセージは、自衛隊に対する国民の信頼が「9割を超えている」という現状を踏まえた、自衛隊を合憲と考えている多くの国民(9条護憲派も含めた)の心に届く言葉である。
 これまでのところ、安倍首相の自衛隊明記改憲についての世論は「9条をいじるべきではない」とする国民の根強い反対もあって、「朝日」が賛成41%、反対44%、「毎日」賛成28%、反対31%、32%(わからない)、と賛否拮抗しているが、「読売」賛成53%、反対35%、「時事通信」賛成52%、反対35%と過半数が自衛隊明記賛成となっている。
 しかしこのままでは、具体的に改憲文案が提示され、大々的なキャンペーンが行われるならば、国民投票において賛成多数となる可能性は大きいと見ておかなければならない。
 それゆえ、この自衛隊明記の安倍9条加憲に賛成する国民の選択は極めて危険な間違った選択になるということを訴えたい。
 その理由の第一は、安倍9条加憲「自衛隊明記」は単なる口実であり、憲法9条全面改悪の突破口に過ぎないからである。自民党改憲草案に明記されているように、現行9条2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これをみとめない。」を全文削除し、自衛隊を軍隊としての「国防軍」(「草案」第九条の二)とするための突破口なのである。自衛隊を大切に思う国民の自衛隊明記の選択が、自衛隊とは異なる「国防軍」という軍隊を選択することになるのである。
 第二は、これはこれまでの自衛隊(集団的自衛権行使を容認した安保法制成立以前の)を合憲と考える大多数の国民の見解に立っての立論であるが、現行憲法第9条に明記されようとしている自衛隊は、安倍内閣によって集団的自衛権容認の7・1閣議決定がなされ、安保法制強行成立によって集団的自衛権行使を付与された自衛隊なのであり、「専守防衛」の「戦力」ではない自衛隊であることによってかろうじて維持されてきた合憲の自衛隊が、あらためて憲法違反の自衛隊となってしまったのである。このあらためて憲法違反となってしまった自衛隊を9条3項として(あるいは九条の二として)書き加えることなど不可能なことである。
 何故ならそれは、「専守防衛」を破り集団的自衛権行使によって他国の戦争にまで参加する自衛隊は、明白に現行9条1項(戦争の放棄)、2項(戦力及び交戦権の否認)と対立し、相反するからである。
 第三は、しかし論理の矛盾など意に介さない安倍政権はこれを強引に遂行するであろう。その時、現行憲法9条1項、2項は完全に無効化され、憲法に明記された集団的自衛権行使の「自衛隊」が独り歩きを開始することになる。
 独り歩きを開始した「自衛隊」は、「集団的自衛権」行使の戦争参加により限りなく軍隊としての性格を強め、軍隊としての扱いを要求してくる。結果は第二、第三の9条改憲をもたらし、自民党改憲草案がめざす「国防軍」に行き着く。
 第四は、「集団的自衛権」行使容認の安保法制が成立させられ、南スーダンに派遣された自衛隊に「駆けつけ警護」が付与されたことなどによってその兆候が現れはじめたのであるが、ひとたび「集団的自衛権」行使の戦争参加が行われるならば、「自衛隊」に応募する青年は激減する可能性がある。その結果もたらされるのは「徴兵制」である。
 第五は、「自衛隊」が「集団的自衛権」行使によって他国の戦争にまで参加するということは、国内が戦争体制下となるということなのであり、その結果、国民の基本的人権がさらに制約され、自由と民主主義が失われるということである。
 すでに安倍政権下で教育基本法改悪、盗聴法改悪、特定秘密保護法制定、安保関連法制定、「共謀罪」制定と、国民の基本的人権を制約する悪法が次々と成立させられてきたが、すべてはこの戦争体制構築のためと言わなければならない。そして今また、「大規模な自然災害」への対処を口実とした「緊急事態条項」(自民党改憲草案第98条、99条)の制定が着手されようとしている。これはナチスが全権を掌握した「全権委任法」と同質のもので、国民の自由と民主主義を圧殺し、政権の独裁を招くものである。

 自民党は安倍首相の9条自衛隊明記の提起を受けて6月6日、「憲法改正推進本部」会議を開き、年内をめどに(後に秋の臨時国会までと前倒しされた)党としての改憲案を取りまとめることを確認するとともに、具体的な改憲項目として、①9条に自衛隊の根拠規定を追加、②大規模災害時に国会議員の任期を延長する緊急事態条項の創設、③幼児教育から高等教育までの無償化、④参院選挙区の「合区」解消の4項目をかかげた。ここにはしっかりと最も恐ろしい「緊急事態条項」の創設が取り上げられているのであり、9条加憲に目を奪われて見過ごしてはならないものである。

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